考えるって何?(4)

a0126310_21452565.jpg
考えるということは、創造的な行為であるとともに、不安をもたらす原因にもなるということです。

つまり、考える(差異がある)からこそ創造することになるのですが、一方考える(差異がある)からこそ、その隔絶に不安を感じざるを得ないことにもなります。

創造性と不安は隣り合わせに並んだ関係ということができるのかもしれません。

このため、何を考えて、何を考えなのかという、経験則に基づいたスキルが必要となってきます。

今考えるべきこととそうではないことが区別できれば、たとえ一時的に不安を感じたとしても、やがてその不安は創造性に反転することになるのではないでしょうか。

また、考えることは、思い出すことにも似ているといわれることがあります。

つまり、考えるとは、先にも指摘したとおり、無から有を生み出すような芸当ではなく、過去の思い出の引き出しからそっと取り出すような作業ということになります。

より具体的な事例では、人の言動とは無秩序、無法則に行われているものではなく、自分なりの一定の秩序や法則に基づいて行われていることが一般的といえます。

つまり、人の言動は、自分の過去のデータベースから参照できるパターンや法則を見出して、眼前の現象と照らし合わせながら、行っているということになります。

最初に紹介したケースでは、通勤の途上に野球のボールが転がってくるという組み合わせは、確かに異例といえるのかもしれません。

しかしながら、実体験のみならず、映像などのイメージから、同様な現象(風景)がインプットされていたら、このようなケースも意外なことではなくなってしまうのかもしれません。

つまり、この程度の意外性なら、過去の経験や記憶から、日常のものとして処理することができてしまうということです。

では、同じ現象(風景)でも、同じことが繰り返し何度も起こるとなると、さてどうなるでしょうか。

最初に紹介したケースなら、通勤途上の同じ場所、同じ時間に、一度ならず二度、三度と野球のボールが転がってくるということでした。

つまり、日常の何気ない現象(風景)ではあっても、同じことが何度も繰り返されるとなれば、その意味は違ってくることになるのではないでしょうか。

先ほどは、同じことの繰り返しが、日常(ルーティーン)であると説明をしました。

しかしながら、ここでは同じことが繰り返されることが、日常から非日常への反転となるわけです。

つまり、非日常の本質といえる意外性は、外部世界から突然到来するような不可思議なものではなく、むしろ、なんでもない日常の中に潜んでいる不可知を発見する不安や喜びということではないでしょうか。

そして、考えるとは、あくまでも日常で自分が経験した過去の記憶から参照例(同型性)を取り出す作業ということであり、せいぜいその参照例(同型性)のつながりを組み変えることでしかないのかもしれません。

考えるとは、日常(当たり前)を疑ってかかることといわれることがありますが、当たり前の日常の中から、意外性のある非日常が発見されることになるわけです。

従って、考えるとは、未知の外部世界へとダイビングするような飛躍ではないということです。

考えるとは、眼前の現象に既知のパターンや原則を適用していくだけのことであり、創造性(あるいは不安)とは、日常の中にあっていまだ顕在化していない同型性(構造や法則)を探索するということになるのではないでしょうか。

創造性が、記憶の中に埋もれている同型性(構造や法則)を意識化させることであるのなら、これは気付きと呼べるものであり、まさに自分のアーカイブから取り出す(思い出す)作業に他ならないといえるのではないでしょうか。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村
[PR]
by kokokara-message | 2010-10-16 21:56 | 我流方法序説