日本と沖縄(22)
2010年 10月 15日
そして、このことは、「支配」と「被支配」という両義的な関係性を抱え込んだ主体(個人)の問題として考えれば、国民国家と同様に、人のアイデンティティの形成過程でも見られる問題といえるのではないでしょうか。
つまり、「支配」と「被支配」の両義的な関係性は、国家間や民族間という集団同士の関係性だけにとどまらず、私たちの身近で発生している「いじめ」問題においては、「個人」と「集団」という関係性の中で、しかも「支配」と「被支配」の立場を入れ替えながら繰り返されている現象ということができます。
このように被害を主張する側が、一方においては加害者として行動する両義的な関係性の問題は、個人や国家国家のアイデンティティが希薄化し、脆弱化した結果に生じた問題として説明できるのかもしれません。
つまり、「被支配」の側として不安や脅威にさらされ続けたフラストレーションの抑圧と、「支配者」の側として他者に犠牲を強いるようなサディスチィックな行動との関係性は、自己のアイデンティティの危機に対する自己防衛のひとつとして見ることができるのではないかということです。
要するに「支配」と「被支配」の両義的な関係性は、精神分析でいう自己の「防衛機制」が働いた結果の行動として説明できるということです。
「有色の帝国」とは、自分自身の被害的立場を絶対化してしまったことによって、他者に対する加害行為さえも絶対的に正当化できるほど自足してしまっている主体を指すということができそうです。
このような「防衛機制」という心理状態にある主体が、自分自身の置かれている立場を懐疑的に振り返ることや自分の心理面や感情面を観察して自己コントロールすることは大変困難なことであるということです。
では、私たちはこのような「信念対立」がもたらす「有色の帝国」の主体による報復の連鎖という問題に対してどのように臨んでいけばいいのでしょうか。
私たちは被害者であり加害者でもありうる立場、つまり「支配」と「被支配」の両義的な立場にある自分自身を相対化し(自分自身の立場を絶対化しない)、なおかつ「支配」の側へと向かわないように自己コントロールできる「自己意識」を持つということが必要になるのではないでしょうか。
「自己意識」の存在は、無意識の領域を意識化させることになり、また自己のフレームワーク(世界観)をずらすという役割を果たすことになります。
つまり、「自己意識」を持つということは、「支配」でも「被支配」でもない「第三者」の立場からの視点を持つということであり、客観的に自他を観察することができる視点を持つということになるといえそうです。
私たちは、このような自他を客観視できる「第三者」の視点を持つことによって、はじめて報復の連鎖という悪の循環を断ち切ることができるのではないでしょうか。
自他を客観視できる視点(自己意識)こそが、「信念対立」という問題を乗り越えていくための重要な鍵になると考えるのですが、さて皆様はいかがお考えになるでしょうか。
<参考文献>
・単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜 小熊英二 新曜社
・「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで
小熊英二 新曜社
・もっと知りたい!本当の沖縄 (岩波ブックレット) 前泊博盛 岩波ブックレット
アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
↓
にほんブログ村