中沢新一×内田樹×釈徹宗トークセッション(1)

平成22年9月25日(土)午後4時~6時、相愛学園本町学舎(大阪市中央区)において、中沢新一氏(多摩美術大学芸術学科教授)、内田樹氏(神戸女学院文学部総合文化学科教授)、釈徹宗氏(相愛大学人文学部教授)によるトークセッションが行われました。

テーマは「人文科学の挑戦」ということであり、前半では、人文学再考という観点から人文科学の現在とこれからの位置づけについての討論がなされました。

また、後半では、これからの日本人のあり方からというテーマから始まり、大阪人や大阪という都市の特殊性にこそ日本人が生き残る鍵があるのではないかという討論がなされました。

このトークセッションの内容は、10月17日朝日新聞日曜版に掲載される予定ですが、ここでは知の巨人であるパネラーの先生方のトークを、一足先にご紹介させていただくことにします。

ただ、当日司会から録音ができないことの注意があったため、以下の内容はあくまでも聞き取ったメモをもとにして、当日のトークセッションを再現したものになっております。

従って、聞き漏らしや聞き違い、不理解も多々あると思われますが、とりあえずは知の巨人たちのトークセッションの雰囲気だけでも味わっていただければ幸いと思います。

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<トークセッション>

【釈徹宗】 
人文科学とは何なのでしょうか。

【中沢新一】 
人文科学とは搦め手であり、このことにより人文科学は自身の延命を図ろうとしているのではないでしょうか。

【釈徹宗】 
本来、人文科学とはつなげる学問であり、ヒューマニティが要となってつなぐということになっていると思うのですが。

【中沢新一】 
大学の歴史は、神学部、そして自然科学、人文科学から始まることとなりますが、現在は、学問をつなげるものが法律や技術となってしまっているようです。

従って、人間(ヒューマニティ)とは何か、をベースにおいて考えるということが求められているように思われます。

結局、すべての営みをつないでいるのは人間ということになるのですから。

【釈徹宗】  
人文科学は、人間をベースにする学問であっていいということですね。

【中沢新一】 
しかしながら、今大学に求められているのは、人間をベースにするようなものではなくなりつつあるということです。

従って、この時期にあえて人文科学を前面に出すというやり方は、ドンキホーテともいえるのかもしれない。(笑)

【内田樹】 
私は、ミッション系の大学で教えていますが、ここ数十年間、大学は世俗化し、建学の精神である宗教色を薄めることに終始してきたように思われます。

つまり、建学の精神である宗教を前面に出せば、それ以外の者を排除することになります。

また、教育理論がはっきりすると、これもまた排除になってしまいます。

現在1200の大学がありますが、個々の大学は、唯一無二性を掲げて開学をしてきたはずです。

ただし、それを守ることと、現在のマーケットが要請していることとは、矛盾することになっているということ。

結局マーケットの要請を受け入れれば、どの大学も同じような大学にしかならない。

その結果として、スケールメリットによって、小さな大学は淘汰されてしまうことになるということです。

そもそも教育とは、教えたいことがあるから始まるものではないでしょうか。

大学という組織そのものの存続の問題は、その次になるはずです。

従って、学生からは選ばれないというリスクを引き受けてでも、教えたいことを大切にするということが重要になると想うのですが。

【中沢新一】 
多摩美術大学で教えていますが、多摩美術大学にはナルシシズムの学生と教授が多いので困ることがあります。(笑)

今の人文科学が虚学ではなく、生命を呼び込むためには、アート、芸術が必要と考えています。

芸術人類学という分野では、芸術やアートが経済やその他いろいろなものとつながっていくことになると思います。

【釈徹宗】  
人文科学は、つなげるよろこびであると思っています。

ものを考える手順やスタイルを習得することは、いろいろな面に汎用することができます。

そして、つながることの喜びを味合うためには、専門性とそれ以外のことを同時に行うことが必要ということであり、それらがやがてつながってくると思います。

大学というある時期に、ものとものをつなげるトレーニングが必要ではないでしょうか。

【内田樹】 
ネアンデルタールの脳の機能は、1対1対応であったらしいのですが、ホモサピエンスになると脳の容量を増やすことができなくなったために、同型性を見出し、組み合わせで対応するようになったらしい。

つまり、同型性を発見しつなげて考えるということで、今まで経験したことにない状況でも、なぜか正解が分かるようになってくるようになります。

初めての問題でも答えが分かるようになるのは、縦(1対1対応)ではなく、横(多対多対応)につながっていくということですね。

クロマニヨンである現在人は、このような考え方をしているようです。

また、本当に頭のいい人とは、思いがけないところに、同型性を見出すことが出来るような人ではないでしょうか。

小学校の教諭に課題図書として、マルクス「共産党宣言」、マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、レビィー・ストロース「悲しき熱帯」、福沢諭吉「福翁自伝」などの10冊を選定したことがあります。

まずは、選んでみてから、その中にどのような同型性があるのかを自分で見出すことになるのではないかと思います。

また、求められている人とは、頭がいい人ではなく、橋本治氏のような頭が丈夫な人ではないでしょうか。

頭が丈夫な人とは、普通の人では入らないようなことが入り、その中で二つのものをつなげてしまうような人のことではないでしょうか。

【釈徹宗】  
子どもに求めることは、頭がいいことではなく、頭が丈夫であることですね。

決まったもの、既存のものを購入しただけでは、頭は丈夫にはならない。

頭を丈夫にするには、手の内を明かさないで、自ら気づくことの喜びを与えることが必要ではないでしょうかね。

禅僧が出す典座(てんぞ)料理では、太い箸と低い食台で食べるうちに、自然と美しい作法が身につくようになるようです。

【中沢新一】 
その太い箸は、イニシェーション(通過儀礼)から始まったのでしょう。

イニシェーションとは、いじめの知恵のことであり、育てるためにいじめる知恵ともいえそうです。

仏教には、人を育てるための古い知恵が形を変えながら今も取り入れられています。

仏教は、もともと生活の中にあった日常的なものを経典の中に取り入れています。

これが、仏教の素晴らしいところです。

仏教はある意味、人文科学(ヒューマ二ティ)が一番モデルとするところではないでしょうか。

しかしながら、今では仏教学者は文献学者となってしまっているところがあり、仏教知らずの仏教学者という面もあるようです。

仏教との対比からすると、キリスト教では中世に魔女狩りが行われたことがあります。

魔女とは、人類の知恵(薬草の知恵など)を継承してきた人のことであって、キリスト教では生活の中にあったこのような人類の知恵を抹消しようとしたことになります。

【釈徹宗】  
仏教でも、禅の公案は、あえてダブルバインドをかけているようなところがありますね。

つまり、決まった答えがないということ。

多様性を認めるということは、結局自己決定をするしかないということになります。

しかしながら、自己決定をするということは大変辛いことでもあります。

【中沢新一】 
自分が大学のときには哲学をする人が多かった。

そして、儒教などの東洋哲学は、今のヨーロッパの学問体系とは全く違うものであることを知りました。

それは、先生の教える仕方が、全く違っていて、多様であったということから。

このため、ヨーロッパの教育は一面でしかないことが分かりました。

チベットでは、お経を反復し、リズムをとり、体をつかうという修行を行います。

そして、「心」を学ぶことになるのですが、そうすれば人生は平らに生きられるようになるといわれています。

また、チベットでは本は読まなくていいとされていましたが、これはギリシア学問体系とは全く違うものといえそうです。

人文科学(ヒューマニティ)では、「心」という普遍性から考えることをしないといけないと思います。

異種領域をつなげてしまうのは、比喩の力(カトレアのような女性など)であり、それは人間の力そのものでもあります。

チベットでは「心」はどこから来るのか、と問われたことがありましたが、うまく答えにはならなかった。

【内田樹】 
体を介して学ぶということは、時間をかけて学ぶということと同じであると思います。

時間を与えるということが重要なのでしょう。

時間モデルとは、母性モデルであり、「ちょっとまってね」ということになります。

これに対して、無時間モデルは、父性モデルであり、時間をかけることはしない。

つまり、即断即決のビジネスのターム(用語)ということになります。

人の成熟には長い時間を要することになります。

また、時間がたてば、文脈が変わり、意味が分かってくるということもあります。

ダブルバインド状態のような精神症状は、時間をかけるしかないといえそうです。

たとえば、死んだり、老衰したり、成熟したりするということもあるのですから。

タイム イズ タイム(時間は時間)であって、決してタイム イズ マネー(時間はお金)ではないということですね。

【釈徹宗】
確かに、時間をかければ人は変わるものですね。

大学の4年間が学びの場になるということですね。

仏教文化と音楽が同時に設置されている唯一の(相愛)大学では、仏教音楽も学ぶことが出来ます。

【中沢新一】 
仏教と量子力学は大変似ているところがあると思います。

物理の法則はひつつの原因にひとつの結果が対応する因果関係ですが、量子力学では原因も結果もひとつではないと考えるからです。

それらを並べたもの(多対多対応)をマトリックスと呼びますが、マトリックスとはサンスクリット語で、マトリー(子宮、慈悲)が語源となった言葉です。

従って、ある原因が変化すれば、結果も含めたマトリックス全体が変わってしまうことにもなります。

また、量子力学ではダブルバインド状態が発生することもあるのですが、量子力学をやっている学者はこのことが分かっていないような気がします。

(多対多対応という)マトリックスは、自然科学と人文科学をつなげることになるものといえるのではないでしょうか。

そして、それをつなげるのが、やはり人間の頭ということになるということですね。

【釈徹宗】  
異物は排除するのではなく、いろいろと抱え込むことも必要であると思います。

他者や異文化は確かに痛みを伴うものですが、いかに引き受けるか、そのスタイルが問題となるのではないでしょうか。

【中沢新一】 
マートリー(子宮)は、異物への抗体反応を解除していくということになります。

そして、異物とともに自分を変化させていくというのが「母」ということになりますね。

異物を攻撃しないで、取り入れていくということになりますね。

【釈徹宗】  
学問は自分を棚上げにすることが出来ますが、仏教は自分を棚上げにすることが出来ないものです。

不機嫌にすることで、場を支配しようとする人がいますが、そのような人は自分を棚上げにしてしまっているのではないでしょうか。

ところで、中沢先生も、内田先生もいつも機嫌がいいですね。
(前半の終了)

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by kokokara-message | 2010-09-26 17:50 | 中沢新一×内田樹×釈徹宗・鼎談