第3章 今来の並墓

斉明天皇陵ではないかと話題になっている、発掘調査前の牽牛子塚(けんごしづか)古墳です。
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第3章 今来の並墓

次に、二つの水泥古墳の被葬者が、それぞれ蘇我蝦夷と蘇我入鹿とする根拠は、日本書紀の記述にあるということでした。

日本書紀の文献記述から、その根拠についてもう少し詳しく見ていくことにします。

日本書紀の皇極天皇元年是歳(642年)の条になりますが、より原文に近い感覚で読んでいただくため、小学館日本古典文学全集日本書紀第三巻より、古語訳を引用することにします。

是(こ)の歳(とし)に、蘇我大臣蝦夷(そがのおおみえみし)、己(おの)が祖廟(おやのまつりや)を葛城(かづらき)の高宮(たかみや)に立てて、八らの舞(やつらのまひ)をし、
〔中略〕
又(また)、尽(ことごとく)に国挙(あめのした)の民(おほみたから)、併(あはせ)て百八十部曲(ももやそのかきべ)を發(おこ)して、預(あらかじ)双並墓(ならびのはか)を今来(いまき)に造り、

一(ひと)つは大陵(おほみささぎ)と日ひ大臣(おおおみ)の墓とし、

一(ひと)つは小陵(をみささぎ)と日ひ入鹿臣(いるかのおみ)の墓とす。

死(みまか)りて後(のち)に、人を労らしむること勿れと望みしなり。

更に悉くに上宮の乳部の民を聚(あつ)めて、塋兆所(はかどころ)に役使う(つか)う。

是(ここ)に、上宮大郎姫王(うえのみやのいやつめのひめみこ)、発憤(むつか)りて歎(なげ)きて曰(いは)く、

「蘇我臣(そがのおみ)、国政(くにのまつるごと)を専擅(ほしきまま)にして、多(さは)に無礼(ゐやな)き行(わざ)す。

天(あめ)に二日(ふつかのひ)無く、国政(くにのまちうりごと)に二王(ふたつのきみ)無し。何(なに)の由(ゆえ)にか意(こころ)の任(まにま)に悉に封(よき)せる民を役(つか)はむ」といふ。

茲(これ)より恨(うらみ)を結(むす)びて、遂(つい)に倶(とも)に亡(ほろぼ)されぬ。是年(ことし)、太歳壬寅(たいさいじんいん)にあり。


つまり、皇極元年(642)蘇我蝦夷は、何か期するところでもあるかのように、葛城の高宮に先祖の廟を新設して、中国の王家の舞である八併舞(やつらのまい)を奉納したということです。

また、蘇我蝦夷は、国中の民、併せて百八十の部曲(かきべ)を徴発して、生存中に双墓を今来に造り、ひとつは大陵といって大臣(蘇我蝦夷)の墓として、もう一つは小陵といって、入鹿臣の墓とした、ということです。

このように、日本書記の皇極天皇元年是歳(642年)の条の記述によると、はっきりと蘇我蝦夷が自分自身とその実子である蘇我入鹿のために陵墓を今来の地に造っていたということが分かります。

また、同条の後半では、蘇我蝦夷が墓の造営のために、上宮王家の皇子の出産養育担当までを動員して墓の労役にあたらせていたことから、上宮王家の姫王から、国に二人の王はいないとして、蝦夷の専横に対しての強い批難がなされることになります。

そして、最後の二行は、そもそも日本書紀が暦年形式の記述を原則としていることからすると、少し異例な印象を受けることにもなりますが、要するに2年後に蘇我蝦夷と入鹿が乙巳の変で滅亡することが、ここで予言されているということになります。

おそらく、これは日本書紀の編者が、大化の改新(乙巳の変)で滅亡する蘇我本宗家と、蘇我蝦夷による双墓の造営という専横との因果関係を、強調したいがためにあえて記述することになった一文といえるのではないでしょうか。

いや、むしろ、大化の改新(乙巳の変)を合理化するために、あえて設けておく必要性があった一文といえるのではないのでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-09-11 21:14 | 我流古代史(蘇我氏編)