日本と沖縄(16)

アラワイ・ヨットハーバーの黄昏です。
a0126310_21562944.jpg

a0126310_21562121.jpg
イエ組織という集団観からは、まずイエという集団があって、そこからの疎外現象として「個人」が析出されるということになります。

また、イエとしての集団の本流は、つねに中心のない「みんな」ということであり、個人的意見はあくまでも傍流とされます。

また、多くのイデオローグ(理論的指導者)たちがそうであるように、論理的に語ろうとする者は、誰もが皆傍流とされることになるとされています。

そして、これらの現象はイエだけに限定されることではなく、日本の世間全般においてみられる現象といえそうです。

従って、日本の家族とは、イエの集団観からいうと自己でも他者でもない「みんな」ということになり、同時に家長、兄、弟という自然な上下秩序が存在する制度ということになります。

このような状態は、支配される側を自己と同じものとして平等に遇するものではありません。

兄は、常に上下秩序の上ということになります。

また、他者として明確に区別するでもない状態に固定されることになります。

家族は、「みんな」ということでもあります。

つまり、日本の家族とは、自己でも他者でもないものとして相手を認識しつつ、同時に自然な上下の秩序に押し込める制度ということができます。

日本の人類学、言語学、歴史学によって主張される「混合民族論」は、沖縄や台湾や朝鮮などの被支配民族を日本民族と「同祖」とするものでした。

また、「混合民族論」は、沖縄や台湾や朝鮮などを日本民族と同種同文の「兄弟」とし、そして天皇を「家長」して、日本民族を「兄」とする「家族国家論」の中に取り込む役割を果たすことにもなりました。

そして、養子の「弟」とされた被支配民族は、同化を強要されるものの、「兄」を抜くことは出来ず、権力支配を顕在化させずに自然な秩序に押し込めるという仕組みであったといえます。

アテンションをいただきありがとうございます。ポチィと応援お願いします。
  ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へ
にほんブログ村
[PR]
by kokokara-message | 2010-09-06 21:58 | 我流近代史(日本と沖縄)