第2章 古瀬の水泥古墳(2)

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次に、西尾邸から50メートルほど南側にはなれたところにある水泥南古墳は、6世紀後半に築造されたとされる、直径25メートルの円墳とみられています。

こちらは、今も巨勢の道沿いに面しているため、水泥南古墳の様子は外側から自由に見学することができます。

どうしても、羨道内に入りたいという場合は、水泥北古墳と同様に管理者である西尾氏から直接許可をいただく必要があります。

石室は全長約15メートル、玄室の長さ4.6メートル、同幅約2.4メートル、同高さ約2.6メートルで、水泥北古墳に比べると玄室の規模は小さくなっています。

水泥南古墳も、その被葬者の弔いが現在も行われている模様で、玄室の手前にある羨道には花が供えられていました。

そして、この水泥南古墳の被葬者が蘇我入鹿という伝承が残っています。

水泥南古墳で特筆すべきことは、石室内の玄室とその手前にある羨道に、それぞれ1基ずつの家形石棺が置かれていることです。
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上の写真では少し見づらいのですが、羨道にある手前の石棺の奥に、玄室の石棺がうっすらとライトに浮かんでいます。

手前の羨道の家形石棺は竜山石(兵庫県加古川流域で産出する凝灰岩)のものを使用しているようです。

そして、ここで注目されることは、羨道にある手前の石棺蓋の正面にあたる縄掛け突起に刻まれている蓮華文(ハスの花をかたどった模様)です。

古墳文化の家形石棺に仏教文化を表現する蓮華文が刻まれるという実例は、他には見当たらないということです。

小口部の縄掛け突起の蓮華文は、古墳文化と仏教文化の結合の一例として著名なものとされています。
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上の写真で確認できる蓮華文は、仏教寺院の軒瓦の文様として使用されることが一般的といえそうです。

水泥南古墳は、その出土遺物から6世紀後半に築造されたと推定されていますが、一般に氏族と仏教文化との関係性が顕著になるのは蘇我氏の飛鳥寺(6世紀末)以降のこととされています。

従って、仏教文化の影響を受けた家形石棺の出現時期は、6世紀末の飛鳥寺創建からさらに下った時期のものと考えるのが自然であり、おそらく家形石棺は水泥南古墳の築造とは全く別な意図の下に建造されたと考えるのが自然ではないでしょうか。

また、家形石棺の側面にあたる縄掛け突起は削られて小さくされた痕跡が残っています。

これは、石棺を石室内に追葬するための搬入する際、羨道側の壁に縄掛け突起が当たったために削ってしまったものと考えられています。

このことからすると、玄室にある奥の石棺が水泥南古墳のもともとの被葬者ということになり、羨道にある石棺はその大きさが規格に合っていないことからも想像できるように、あとから無理やりに追葬されたものとして考えのが自然ではないでしょうか。

以上が、水泥古墳の双墳についての考古学的見地からの説明となります。

再度確認しておくと、伝承によると、北側にある規模の大きい水泥北古墳が蘇我蝦夷の墳墓とされており、南の規模のやや小さい方(水泥南古墳)が蘇我入鹿の墳墓とされてきたということです。

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by kokokara-message | 2010-08-10 20:43 | 我流古代史(蘇我氏編)