想い出がいっぱい(2)
2010年 08月 07日
終わりを 思いもしないね
手に届く宇宙は 限りなく澄んで
君を包んでいた
H2Oの「想い出がいっぱい」(作詞 阿木耀子)より抜粋
自分の子ども頃を振り返って思うのですが、子どもは自分の時間と自分の空間が無限に続いていると信じていたのではないでしょうか。
もちろん、漠然とした感覚でしかないのですが、有限か無限かということであれば、おそらく時間と空間の無限性を信じていたように思われます。
また、親や友達との関係性についても、どこかで永遠に続くものと信じていたのではないでしょうか。
おそらく、子どもにとっての自分の時間と自分の空間、そして自分の関係性が無限に続くということは、自分の可能性が無限に広がっていることと同じ意味で信じることができたのかもしれません。
そして、このような無限を信じている子どもの実際の世界はというと、いまだ短いものでしかなく、また狭いものでしかないということになります。
つまり、無限を信じている子どもが、いまだ限定された短く、狭い世界しか経験していないということは、子どもの観念と子どもの現実とは正反対の矛盾した関係にあるということになります。
もちろん、子どもはこのような矛盾を抱えていることには気づいていません。
子どもがこの矛盾に気づくためには、この後永い時間をかけて、広く多様な空間を経験しなければならないことになります。
では、人が永い時間をかけて、広く多様な空間を経験することで、どのような感覚や感情がもたらされることになるのでしょうか。
おそらく、人は自分の時間と自分の空間の有限性に気づくことになると思われます。
そして、自分の時間と自分の空間の有限性を知るということは、自分の「死」を意識するということでもあります。
人は観念の「死」ではなく、自分自身の「死」を意識することによって、はじめて自分の時間と自分の空間の有限性に気づくことになると思われます。
つまり、虚しくも避けがたい「死」という存在に、向き合わなければならないということです。
また、確実に迫り来る、逃れがたい「死」のリアリティは、人を驚愕させるだけではなく、絶望の淵に追いやることになってしまうのかもしれません。
しかしながら、人はこのような驚愕と絶望を経験することで、はじめて自分の時間と自分の空間の有限性に気づくことになると思われます。
また、時間と空間の有限性がもたらす焦燥感(あせり)は、眼前の現実に唯一無二性を見出させることになるのかもしれません。
唯一無二性とは、同じ現象とは二度と出会うことができないという、考えてみれば当たり前の現実を再認識するだけのことです。
唯一無二であるからこそ、それを失なう喪失感が強くなり、大切にしたいと思う気持ちが、執着や焦燥(あせり)となり、一時的には人の生産性を向上させることになるかもしれません。
しかしながら、消え行く定めは逃れがたく無常感となって、やがて人に有限性(できることしかできない)をもたらすことになります。
古語でいうところの「いとかなし」という表現がこれに近い感覚であるのかもしれません。
このような諸行無常(万物流転)の感覚を習得し、やがて子どもは、大人と呼ばれるようになっていくのではないでしょうか。
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