輝きながら...(8)
2010年 08月 02日
そして、グレーゾーンのどこに帰結するかは、あらかじめ決まった答えがあるわけではなく、結局自分で決めるしかないということになります。
また、自分で決めることにしたとしても、その位置は暫定的なものでしかなく、社会的文脈とそのバランスから一度定めた軸足をずらすということも必要になってきます。
つまり、社会的文脈とのバランスを維持するためには、それまでの経験や勘というものに頼りながら、軸足の位置を探るということも必要になってくるということです。
確かに経験や勘がもたらす直観は、曖昧なものということのなるのかもしれません。
しかしながら、このような曖昧さに依拠しながらも、結果としてバランスが取れているとしたら、それはどこかで普遍性とつながった視点(直観)といえるのかもしれません。
そして、このような普遍性につながった視点(直観)が自己意識、と呼ばれるものではないでしょうか。
自己意識とは、時間性と空間性を伴ったものであり、自分自身を一望俯瞰する客観的な視点ということになります。
あらゆる社会現象はグレーゾーンのいずれかに位置するということでした。
このような社会現象の持つ曖昧さを嘆いているだけではなく、時代の要請として曖昧さを引き受けながら、自分自身の足場をどこに築くのかを決定しなければならないということです。
自分の足場を築くということは、自分がいかに生き延びるかということでもあり、その選んだ場所によっては、自分を取り巻く環境は大きく変わってくることになります。
おそらく、現実の中では、自分の足場を作っては壊わし、壊わしては作るという作業を繰り返しながら、やがて足場を固めていくことになると思われます。
そして、自分自身を支えることができるという直観があったとすれば、そのような支点(視点)が自己意識と呼ばれるものであるのかもしれません。
自己意識とは、唯一自分の生き方の普遍性や倫理性を支えてくれることになる、メタレベルからの(一望俯瞰する)視点ということになるのかもしれません。
本編のはじめでは、現在の日本人には、もはや輝きながら大人(成熟)へのドアを開けるというリアリティのなさは許容できなくなってしまっており、厳しい社会経済情勢の中での一日も早い成熟が求められるという考察を行いました。
さらに、現在の日本人には、もはや輝くような明日が待っていないと分かっていても、なお一歩ずつ自分の未来へと踏み出していく淡々とした日常性の積み重ね(宮台真司氏によれば、終わりなき日常になるのでしょうか)が重要となってくるということでした。
大人になる(成熟する)には、自己コントロールできる自己意識の確保が目標とされることになります。
ただ、このような不透明で幻想的な現代社会に困惑をしながらも、なお自分自身を俯瞰できる視座の確保を目指して、淡々と日常を積み重ねることができる行動様式が、そもそも成熟の領域にある心性ということになるのではないのでしょうか。
おそらく、自己意識(普遍性)の確保へのプログラムは、大人の流儀でもある自己コントロール(前頭葉による感情と欲望の制御)をその方法論に組み込むことで成立している指南書ではないかと思われます。
つまり、自己意識(普遍性)の確保へのプロセスがそもそも大人であることを条件とし、従って成熟とは大人である者にだけ許される、円環関係の特権的プログラムということになるのではないかと考えていますが、さていかがでしょうか。
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