茶の湯と倒錯文化(17)

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(おわりに)
「茶の湯と倒錯文化」をご一読いただき、ありがとうございました。

現在の都市における社会経済状況は、経済格差や労働問題、またそれらを取り囲むように宗教やイデオロギーなどが点在する、多様な価値のコンプレックス状態にあるということができます。

都市に暮らす人々が、このようなコンプレックス状態から逃れて暮らすということは、もはやできないことになってしまったといえるのかもしれません。

コンプレックスとは、いうまでもなく複合的心理(葛藤)のことです。

人は生活していれば、必ずいくつかの世間(価値)に加わるということになります。

特に都市部では、世間(価値)が幾層にも重なり合ったコンプレックス状態が一般的であり、各々の世間(価値)の間では矛盾とそれに基づく対立が日常的に発生しているということになります。

コンプレックス(葛藤)状態は、生活しているだけでストレスフルな環境といえます。

そして、コンプレックス状態を整理整頓できるような外部基準は今ではどこにも見当たらず、それぞれの個人が自分で基準をルール化し、コンプレックス状態を調整するしかないということになっているようです。

もちろん、個人の外部である公共空間には、法律というルールが存在します。

ただ、法律自体が相対化の対象になってしまえば、最終的に法律に従うかどうかを決定するのも、個人の基準(自己ルール化)ということになってしまいます。

つまり、法律が数あるルールのひとつとしての意味しか持たないのであれば、それに従うのかどうかも個人の自由ということになるわけです。

もちろん、法律は個人を拘束するだけのものではなく、個人の生命や権利を守ってくれるものでもあります。

従って、法律が相対的なものでしかないということになれば、個人の生命や権利が他者から収奪されるような事態に対しても、法律はこれらを保護することができないということになってしまいます。

つまり、非合法な法律以外の世間のルールが個人を裁くという事態が発生したとしても、意義を申し立てできるのは同じレベルにある別の(世間の)ルールだけということになります。

いわゆる上位の審級が存在しない、弱肉強食の自然状態が出現したということです。

そして、このような弱肉強食の自然状態が価値相対主義によってもたらされたことを考えると、論理的にはこの自然状態に絶対的なものは存在し得ないということにもなります。

従って、法律ではなく、相対的強者のルールを上位にする生き方とは、相対的強者の恣意性に準拠する生き方でしかなく、相対的強者からの恣意的な命令にも従うしかないということになります。

一般論になりますが、法律の適用される公共空間を守るということが、結局自分の生命や権利を守るということであり、このことが徐々に社会のコンプレックス状態を整理整頓することにつながっていくのではないでしょうか。

もはや、外部には多様な価値を調整できるようなルールは存在しないということでした。

また、法律も価値相対主義の立場からは絶対的なものとはいえないということになります。

そして、都市部の多種多様に重層する世間(価値)を生きるということは、特定の世間(価値)のルールに従っているだけでは、全体のバランスを欠くことにもなってしまいます。

以上からすると、都市のコンプレックス状態を生き抜くためには、外部には依存せず個々人が基準を決めるという自己ルール化が求められるということになりそうです。

そして、この場合の個人の自己ルール化は、普遍性、倫理性に基づいたルール化であらねはならないということにもなります。

何に従い、何に従わないかを自ら決定することが自己ルール化です。

また、普遍性とは、特殊性でないところにあるものを指すことになりそうです。

自分の特殊性は、自分自身を相対化することによってはじめて気づくことになります。

つまり、自分の特殊性が理解できれば、普遍性とは自ずとその外部にあるものということになるのではないでしょうか。(普遍性そのものは確定しませんが、自分の中にないことだけは判明します)

また、倫理性とは、非倫理性であるものを除外したものということになるのではないでしょうか。

自分の非倫理性は、立場可換性から自分自身で慎重に判断するしかないと思われます。

つまり、自分の非倫理性が理解できれば、倫理性とは、自分が許容できないことは他者に強いることはしない、という実にシンプルなものになるはずです。

そして、普遍性、倫理性に基づいた自己ルール化が決定できれば、多種多様な価値が錯綜するコンプレックス状態を、バランスを維持しながら、適切に判断したり、適切な距離をとったりと、コンプレックス状態の整理整頓を試みることができるようになるのではないでしょうか。

自己ルール化は自分自身が決めることですが、それは普遍的であらねばならず、また倫理的であらねばならないということでした。

従って、現実には、自分がいったん決めた基準であっても、状況の変化に応じて常に修正を加えていくことが必要となります。

つまり、いつも普遍性や倫理性につながっていることが求められるということです。

このためには、自分を常に客観視できるということ、そして生きることができていない部分も含めた全体像を一望俯瞰できるような視点を持っておく必要があります。

全体性の回復とは、生きてこれなかった部分を生き直すということになります。

おそらく、全体性の回復は、日常のコンプレックスでバラバラになった心と体を癒してくれることになるのではないでしょうか。

人は人類全体のために生きているのではなく、あくまで自分自身のために生きているのがほんとうです。

しかしながら、自分だけのことであるにも関わらず、どこかで普遍的なもの(人類全体)につながっていると実感できるような瞬間があるとすれば、それは全体性の回復(心と体の癒し)といえるのかもしれません。

このあたりは、少し神秘主義となってきますが、河合隼雄氏がその著書の中でもふれられていることでありますので、ぜひ機会をみて考察を加えてみたいと考えています。

またまた、本編とは全く関係のない追記になってしまいました。

最後までご一読いただきありがとうございました。

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by kokokara-message | 2010-07-31 18:54 | 我流日本史(茶の湯編)