巣鴨・とげぬき地蔵と塩大福(2)
2010年 07月 06日
御本尊は、「とげぬき地蔵」として知られる延命地蔵菩薩です。
この延命地蔵菩薩は、秘仏とされています。
曹洞宗について私は不案内なのですが、地蔵信仰ということであれば、私の信ずるところの「自己コントロール」にも通じるものがあると思われます。
地蔵信仰とは、おそらく心理学でいうところの「自己意識の修得」がその目的となっているのではないでしょうか。
仏教における人間心理のとらえ方と近代西洋社会における深層心理学の類似性については、従来から指摘されてきたところでもあります。
深層心理学とは、近代西洋社会においてフロイトやユングらによって試みられた精神分析に基づく構造主義的な心の仮説のことです。
深層心理学でいうところの心の仮説については、唯識思想などの学問として東洋世界の仏教の仏典の中で、千数百年以上前からすでに知られていたところでもあります。
「自己意識」というと何か難しく聞こえるかもしれませんが、簡単に言うと自己コントロールをするための客観的な覚めた視点ということになると思われます。
「自己意識」とは、あくまでも自己をコントロールすることが目的であって、直接相手(他者)をコントロールしようとするものではありません。
自己と自分はまぎらわしいのですが、もちろん自分自身のことではありません。
自己とは、自分と他者の間に構築するものということになります。
自分と社会の関係性(親和性)から成立する「自己実現」が、イメージに近いといえるのかもしれません。
当たり前のことですが、他者とは、物理的にも、心理的にも、自分以外の不可侵な存在であって、原則コントロールすることは不可能な領域にあるものということになります。
従って、コントロールできる対象は他者ではなく自分自身ということになります。
また、自他の関係性からすると、自分と他者は明確に区分できるものとは限らないということです。
つまり、自分と他者はそれぞれが影響をし合って、お互いが変化していく関係にあるということです。
従って、「自己意識」とは、自他が変化していくことによって更新される関係性を一望俯瞰するような視点ということになります。
要するに、「自己意識」は、時間軸からすると、万物流転や諸行無常などをじっと見つめていることになり、また空間軸からすると、布置(コンステレーション)という自他の関係性を読んでいることになります。
そして、「自己意識」から捕捉されている自分は、不可逆的に変化していく自分ではあっても、コントロール不能な他者としてではなく、あくまでもコントロールが可能な自分という位置づけに置かれています。
つまり、自分自身がコントロール可能な対象ということになれば、自分自身を特定の目的に向かって主体的に変化させていくことも可能になってくるわけです。
もちろん、環境(与件)からの影響は受けることになりますが、ある程度自分が主体的に変化していくことになれば、自他の関係性(つまり、自己のことですね)も次第に更新なされていくということになるはずです。
これが、自己コントロールの意味と目的といえるのではないでしょうか。
そして、地蔵信仰の意味は、このような自己コントロールを経由することによって、自分の周りだけではなく、遠く離れた人や環境にも影響を及ぼすような営為(菩薩道)をなすことにあるのではないでしょうか。
江戸六地蔵は旧街道の江戸の出入り口にあったものです。
これは江戸六地蔵であって、とげぬき地蔵ではありません。お間違いなく、念のため。
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