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加藤諦三氏の著書には、「きずな喪失症候群」と呼ばれる人たちが描かれています。

また、加藤諦三氏の著書には、「燃え尽き症候群」と呼ばれる人たちも描かれています。

そして、加藤諦三氏によると、両類型の関係性は「きずな喪失症候群」の人たちが愛情と承認を欲求し、「燃え尽き症候群」の人たちにしがみつく(執着する)という構図にあるようです。

加藤諦三氏によると、「きずな喪失症候群」の人たちが愛情と承認を欲求するのは、愛情飢餓感が強いためとされています。

また、「きずな喪失症候群」が欲求する愛情や承認のレベルは、母子密着の癒合関係のような全人格的な包摂にまで達するものとされています。

おそらく、このような無謀な欲求を受け入れられるのは、身内であるか、あるいは訓練を受けた専門家だけになるのではないでしょうか。

結局、周りにいる素人たちは、「きずな喪失症候群」に右往左往させられて、疲れ切ってしまうということになるのではないでしょうか。

ただし、「きずな喪失症候群」の特徴の一途さ(執拗さ)が、特殊な才能として受け止められることもあるようです。

例えば、ジョンレノンや尾崎豊などのような、きらめくような才能がそうではないでしょうか。

しかしながら、ほとんどの「きずな喪失症候群」の人たちは、このように認識される才能は持ち合わせてはいません。

従って、「きずな喪失症候群」の思い込みの激しさや節度を欠いた言動などは、無根拠な幼児的万能感として社会から排除されることになってしまうわけです。

例えば、一時マスコミを騒がせた沢尻エリカさんの言動などがそれにあたるのではないでしょうか。

また、「きずな喪失症候群」の人たちが社会に対して要求する報酬(昇進や昇格など)も、自らの社会貢献に対する妥当で客観的な自己評価にはなっていないということです。

どちらかといえば、自らの心の暗闇(トラウマ)を埋め合わせるために欲求する、無根拠で空洞化した自己評価ということになるのではないでしょうか。

ところで、「きずな喪失症候群」がしがみつく対象は「燃え尽き症候群」と呼ばれる人たちです。

もちろん、「燃え尽き症候群」と呼ばれる人たちは、もともと燃え尽きていたわけではありません。

「きずな喪失症候群」の人たちと関係性を持ってしまったため、燃え尽きてしまった(疲れ果ててしまった)ということになります。

では、「燃え尽き症候群」と呼ばれる人たちが、燃え尽きないための方策はあるのでしょうか。

同語反復になってしまいますが、、燃え尽きないための唯一の方策は、おそらく「きずな喪失症候群」の人たちに近づかないということになると思われます。

つまり、関わらないということですね。

ここまで読まれた方なら、もうお気づきかもしれません。

加藤諦三氏は、愛情飢餓感の強い人たちを「きずな喪失症候群」と呼んでいますが、おそらく、加藤諦三氏は、ボーダーライン(境界型人格障害)の人たちを想定しているものと思われます。

そして、一方で「きずな喪失症候群」の人たちがしがみつく対象を「燃え尽き症候群」と呼んでいますが、おそらく、加藤諦三氏は、神経症と呼ばれる人たちを想定しているものと思われます。

ここで留意すべきことは、加藤諦三氏が「燃え尽き症候群」と呼んでいる人たちは、神経症と診断された人たちだけのことを指しているのではないということです。

つまり、(不安)神経症のチェック項目の多くが日本人の典型的な性格と重なるように、(不安)神経症的な症状は、日本人の性格の中にもともと組み込まれた典型的な反応や傾向ということになっているからです。

日本人であれば、少なからず神経症的傾向があるということかもしれません。

ところで、社会学的には、個人は近代自我によって生成されるものとされています。

つまり、自律した個人とは、他者との関係性(距離感)の中から生成されてくるということになります。

ご存知のように、日本人は欧米人に比べると自我が脆弱とされてきました。

これは、日本人が自他の境界があいまいな文化の中から生成されるためであり、自他の区分が明確な文化の中から生成される欧米人とは他者との関係性(距離感)が正反対になっていることが原因になります。

つまり、日本人は自他の間が明確である(距離感がある)と不安や孤独を感じる傾向にありますが、欧米人は自他の区分が不明確である(距離感があいまい)と不安や不自由さを感じる傾向にあるようです。

一般論として、欧米人は自他の区分を明確にすることにより、孤独と孤立に強い近代自我を獲得することができたと考えられます。

そして、このことには一神教であるキリスト教が大きく関与していることを見逃してはならないと思われます。

ところで、最近では欧米人だけではなく、中国人についてもその自我の強さが指摘されるようになりました。

養老孟司氏によれば、中国という国は、アメリカ合衆国の数百年後の姿であるという分析をなされています。

つまり、中国という国は、アメリカ合衆国以上に個人主義の進んだ、ある意味個人主義のなれの果て(利己主義)の国ということになるのかもしれません。

実際に、中国人と話しをした経験のある方なら、少なからずその自己主張の強さ(厚かましさ)に驚愕するのではないでしょうか。

しかしながら、このような利己主義ともいえる自己主張の強さ(厚かましさ)も、養老孟司氏の分析に従えば、中国の悠久の歴史と爛熟した文化がもたらさした個人主義のなれの果てになるということです。

閑話休題。
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「きずな喪失症候群」とは、愛情飢餓感が強く母子密着の癒合関係を欲求する(執着する)人たちのことを指す言葉です。

これゆえ、「きずな喪失症候群」の人たちは、先に記述した中国人の事例と同様に、その欲求を通すために厚かましい自己主張を繰り返すことが指摘されています。

ただし、「きずな喪失症候群」の自己主張(厚かましさ)は、欧米人や中国人の自己主張のような、自他の区分を明確にした強固な近代自我をベースとした個人主義に由来するものではないということです。

むしろ、個人主義とは正反対の方向にある、母子密着のような癒合関係(同化)を欲求する自己主張ということになり、孤独や孤立に極めて弱い脆弱な自我を持った人たちでもあるということです。

個人主義の自己主張であれば自己完結的に収束していくことになりますが、欠如感の充足を外部に依存する「きずな喪失症候群」の自己主張は、収束することなく際限なく続いていくことになります。

この収束することなく際限なく続く自己主張(欲求)が「きずな喪失症候群」の一番の特徴でもあり、だからこそこれに関わった人たちは疲れ切ってしまうことになるわけです。

先ほど、一般論として日本人の自我が脆弱であるということを指摘しました。

つまり、日本人は他者から同化されやすい脆弱な自我を持ってしまったということであり、このことは誰もが「燃え尽き症候群」になる可能性を持っているということにもなります。

そして、日本人の持つこのパーソナリティが、「燃え尽き症候群」のみならず、「きずな喪失症候群」の原因にもなっていると推測するならば、日本人のボーダーラインと神経症は同根の関係にあるといえるのかもしれません。

日本は、母系社会といわれています。

日本人は、少なからず母子密着の癒合関係を志向しているところがあるといえるのかもしれません。

従って、日本人のパーソナリティからすれば、母子密着(マザコン)の度合いの違いが、結果的に「燃え尽き症候群」と「きずな喪失症候群」」に分岐点するということであるのかもしれません。

仮説ですが、幼少時に母子分離ができた人、つまり愛情と承認、その結果としての冒険を経験することができた人は、過度に母子密着関係を欲望しなくなり、やがて他者との関係性(距離感)も適正に維持できるようになると言えるのかもしれません。

逆に、これも仮説ですが、幼少時に母子分離ができないまま、つまり愛情と承認、その結果としての冒険を経験することができなかった人は、大人になってからも母子密着関係を欲望することになり、その結果母性的な全人格的包摂という癒合関係を他者に対し欲求することになってしまうのかもしれません。

従って、日本人である自分のパーソナリティが「燃え尽き症候群」予備軍でしかないと自覚できたのなら、脆弱な自我では背負うことができない荷物とは、きっぱりと距離を採る覚悟を決めることが肝要と思われます。

日本には古くから、安分以養福(分をわきまえていれば、禍は遠のき、幸せを養生する)という言葉があります。

日本の社会では、古来より身の丈を知った振る舞い(地道であること)こそが幸を引き寄せる最良の方法とされきたところがあり、これを反対から見れば、身の丈を知った振る舞いこそが降りかかる火の粉を避けて通るための最良の方法であったということになるのではないでしょうか。

自分が「燃え尽き症候群」予備軍であると自覚できたのなら、決して「きずな喪失症候群」には近づかない、関わらないことを覚悟することです。

身内でもなく、専門家(精神科医)でもないのなら、このような選択も当然社会的に容認されることであると思われます。

繰り返しになりますが、「きずな喪失症候群」の人たちが求める愛情や承認の欲求には際限がありません。

底なしです。

底なしの愛情や承認の欲求に関わるということは、餓えた野良犬に丹精込めて焼いたビスケットの欠片を一枚だけ与えるようなものです。

焼け石に水でしかありません。

また、精神科医ラカンには、「欲望は欲望に欲望する」という有名な言葉があります。

つまり、自己コントロールができない(ブレーキがきかない)状態のクライアントの欲望(アクセル)を開放すれば、クライアントの欲望は実体を離れて幻想化され、欲望(幻想)は際限なく肥大化していくということのようです。

「きずな喪失症候群」の人たちが求める愛情や承認の欲求には際限がないということでした。

このことからすると、「きずな喪失症候群」の人たちの欲望は、まさに実体を離れ幻想化された欲望ということになり、これは際限なく肥大化していく欲望(幻想)ということになります。

あくまで自分は自我の脆弱な日本人であると自覚し、決して底なしの欲望には近づかないと覚悟することが、「きずな喪失症候群」に対する最も適切なアプローチといえるのかもしれません。

先ほど、中国人は自己主張が強い(厚かましい)ということを記述しました。

そして、これは悠久の歴史と文化に培われた個人主義に由来するものであるということも記述しました。

一見すると、中国人の自己主張((厚かましさ)は、「きずな喪失症候群」の熱く一途な自己主張(厚かましさ)と類似しているところがあるため、同じものように受け止められることがあるようです。

このため、日本文化圏では排除されてしまう言動や行動の厚かましさも、中国文化圏では受容されることがあるように思われます。

実際に、「きずな喪失症候群」の人たちが、排除されていると感じる(孤立感を抱く)日本文化圏よりも、むしろ受容されていると感じる機会が多い中国文化圏の方に親近感を抱くこともやむを得ないのかもしれません。

このことからすると、「きずな喪失症候群」という人たちの存在、つまりボーダーライン(境界型人格障害)という疾病そのものが、環境や文化に依拠した概念(分類)になるということかもしれません。

例えば、日本でボーダーライン(境界型人格障害)と診断された人であっても、欧米文化圏や中国文化圏の精神科に受診すれば、ボーダーライン(境界型人格障害)とは診断さされず、至極適正な範囲にあると診断されると聞きます。

ただ、先にも述べたとおり、個人主義とボーダーライン(境界型人格障害)では、自己主張の強さ(厚かましさ)に類似性が見られるものの、その自己主張の強さ(厚かましさ)の根拠になる精神構造(自我の構造)のあり方は全く正反対になっているということです。

つまり、個人主義では自我が過度に硬固なため合理性があるとなれば自己完結型の強い自己主張(正義)を繰り返すことになりますが、ボーダーラインでは自我が脆弱過ぎるためその欠如感を埋め合わす目的で際限のない自己主張(自己満足)を繰り返すことになるわけです。

おそらく、今後とも日本人の精神構造(自我の構造)が急激に変化するとは考えられず、その結果としての日本人のパーソナリティも大きく変わるということは、おそらくないと思われます。

逆に、資本主義の徹底化や新自由主義の方向性は個人の欲望の開放をその原資としているため、社会的には「きずな喪失症候群」、つまりボーダーラインが生まれやすい環境になっていくことが予想されます。

おそらく、日本社会全体に占めるボーダーラインの割合は、ますます増加していく傾向にあるのではないでしょうか。

元来、日本の文化や共同性(コミュニティ)のあり方は、日本人の脆弱な自我を基盤として形成されてきたものであり、つまりは微妙なバランス感覚の上に構築された不安定な社会構造を反映したものになっているということです。

従って、社会全体に占める「きずな喪失症候群」の割合が今後増加していくことになれば、今ある日本の文化や共同性(コミュニティ))の基盤そのものが、根底から崩れ去ってしますこともあるのかもしれません。

先に、日本には、古くから「安分以養福」という言葉があるということを説明しました。

そして、このような日本の文化や共同性(コミュニティ)の中に組み込まれた先人の叡智を徹底させることが、「きずな喪失症候群」に対する有力な戦略になるのではないでしょうか。

つまり、分をわきまえた、身の丈を知った節度のある振る舞いこそが、伝統的な日本人の採るべき態度であり、このことが自分の身を守るための手段であったわけです。

日本人が、それぞれの分(役割)をわきまえた適切な行動を徹底させることができれば、日本の文化や共同性(コミュニティ)の基盤の崩壊を防ぐ(先送り)することもできるかもしれず、また日本人の精神構造の微妙なバランスを今後とも維持し続けることが可能になるかもしれません。

従って、専門的な訓練や経験を積んだ者以外は決して関わらない、それ以外の者は自分の無能さ、非力さ(脆弱な自我を持った日本人であること)を謙虚に受け止めることが、「きずな喪失症候群」の欲求を肥大化させない唯一の方法になるのではないでしょうか。

つまるところは、糧(欲望)を与えない、そのためには不必要な関わりは持たない、距離をとるということが、「きずな喪失症候群」に対する唯一効果的なアプローチになるということです。

最後になりました。

では、糧(欲望)を与えない、近づかない、関わらないことを続けたならば、果たして「きずな喪失症候群」の人たちはどのようになっていくのでしょうか。

私は、やがて、消えてなくなると予測しています。

むろん、長期間にわたるストイックな環境に耐えて、欲望の自己コントロールができるようになればの話しですが・・・。

(おわり)
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# by kokokara-message | 2013-11-30 22:06 | 我流心理学 | Trackback | Comments(0)

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「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」って聴いたことがあるでしょうか。

「Honolulu City Lights」とは、オアフ島在住のケオラ・ビーマーが作詞作曲したハワイアン・トラデショナルの名曲で、クリスマスの季節になると、ハワイのコヒーハウスやショッピングセンターなどでよく耳にする曲です。

スローなテンポでゆったりとしたこの名曲は、日本では杉山清貴がカバーしており、ミニアルバム「Honolulu City Lights」が1997年にリリースされています。

はじめて「Honolulu City Lights」を聴いたとき、おそらく山側か、あるいは海側から見たホノルルの街の夜景を歌った曲ではないかと勝手に思っていました。

また、クリスチャン・リース・ラッセンの「ワイキキロマンス」という版画を知っている人であれば、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」という言葉の響きから、ワイキキのサンセットの光景を思い浮かべることになったとしても、決して不思議なことではないと思われます。

しかしながら、実際の「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」はラッセンの版画のようにロマンチックなものではなく、むしろにぎやかな催しといえそうです。

「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」とは、ハワイ州オアフ島ホノルル市庁舎周辺で12月初めから約1ヶ月点灯されるクリスマスイルミネーションのことをさします。

点灯式にはパレードも行われる模様で、11月末のサンクスギビングデーが終った後、クリスマスまでの約1ヶ月の間、ホノルルの街を「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」が装飾するということになります。

今回「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」を訪れたのは、2001年以来2回目のことです。

そもそも、ハワイのクリスマスは、家族だけで、自宅で迎えるという習慣があるために、自宅にはクリスマスツリーとプレゼントだけがひっそりと飾りつけられるという、実に質素で厳かな催しとされています。

一方、ホノルルの街を歩いていると、多くのコンドミニアムのラナイからは、煌びやかに飾られたイルミネーションが輝く光景に出くわすということになります。

そして、ホノルル市庁舎周辺で飾り付けられた「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」は、これと同じようにホノルルの街を装飾するクリスマスイルミネーションの光景として位置づけられることになります。
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# by kokokara-message | 2013-11-30 08:36 | ホノルル・シティ・ライツ | Trackback | Comments(0)

前回紹介しました合計218段の長い階段を登りきると、コンクリートの壁で囲まれた天井の低いトーチカの部屋の中に出ることになります。

トーチカから外に出るには掃射窓を利用するのですが、掃射窓は狭く腰をかがめないと外に出ることができません。

また、出入り口はいつも観光客で込み合っているので、譲り合いの精神が必要になります。

「お先のどうぞ」というだけのことですが、このような謙譲の精神が万国共通のモラルになっていることを改めて知ることになるのではないでしょうか。

外に出てトーチカに沿いにぐるっと回ると、下の写真のような最後の階段が見えてきます。

この階段を登れば、最終目標地点のダイヤモンドヘッドの頂上の展望台です。(尾根伝いに登って来ていることが写真を見るとよく分かりますね。)
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アメリカ合衆国は、1898年独立国家であったハワイ共和国を併合しました。

そして、併合されたハワイは、その後アメリカ合衆国の太平洋上の軍事拠点として大きく変貌を遂げていくことになります。

1910年にはフォート・ルーガーと呼ばれるこのトーチカが、ホノルルの防衛拠点としてダイヤモンドヘッドの頂上につくられました。

それ以後、ダイヤモンドヘッドはアメリカ軍の管轄下に置かれています。
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また、このあたりから東側方向を眺めると、ダイヤモンドヘッドクレーターの外輪山の形やその大きさをまざまざと実感することができます。

ダイヤモンドヘッドの火口の直径は1キロ程あるようですが、標高はもっとも高いところでも232メートルしかなく、たいへん平板な形をした休火山ということになります。

また、19世紀にイギリスの水夫がこの山へ登ったとき火口付近にある方解石がきらきらと輝いているのをダイヤモンドと勘違いしたのが、ダイヤモンドヘッドの山の名の由来になったということのようです。

かってはハワイ語でレアヒ(マグロの頭)と呼ばれていたこの山は、魚群を探すのにとても適していた場所であったようですが、現在はホノルルを眼下に置く軍事拠点のひとつであり、またハワイ在住のロコや観光客がレクレーションに利用する施設として広く親しまれているといえそうです。

そして、ダイヤモンドヘッドの外輪山の向こうに見えているのは、ココヘッドとココクレーター(上の写真)で、ダイヤモンドヘッドと同じように15万年程前に噴火した休火山です。
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頂上の展望台からのホノルル方面の眺めはたいへん素晴らしいものがあります。

まさに、イメージ通りのハワイがそのままそこにあるような既視感を覚えることになります。

ハワイを訪れる人の期待を決して裏切ることのない、至極の瞬間といえるのかもしれません。

夕刻のワイキキの向こうの海に沈む真っ赤なサンセットは、とてもロマンチックで感動的な光景といえるかもしません。

しかしながら、朝の陽の光を受けてきらきらと輝くワイキキの真っ白な街並みは、エメラルドグリーンの海、コバルトブルーの空、緑の公園などの鮮やか色彩に溶け込んで、まるでマチスの絵画を鑑賞しているようなポップな気分にさせてくれます。

また、この場所から朝の明るい陽射しのワイキキを一望俯瞰していると、ハワイの風土が過去から現在へ、そして未来へと確実に変化していることを実感することができます。

おそらく、ワイキキの街並みはこれからも変わり続けるのではないでしょうか。

また、ハワイの滞在中に誰もが悩むことのひとつは、高カロリーの食品を多量に摂取してしまって体重が増加してしまうことではないでしょうか。

楽園ハワイの唯一の難点といえるかもしれません。

ダイヤモンドヘッド・トレイルは、登山口から頂上まで1時間弱の初心者向きのコースといえます。

食べ過ぎで過剰なカロリーを蓄積してしまった人には、ちょうどいいトレーニングコースになりそうです。

リピーターだけではなく、はじめてのハワイの方でも、安心安全に訪れることができるダイヤモンドヘッド・トレイルをぜひお勧めしたいと思います。

《おわり》
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# by kokokara-message | 2013-10-25 22:00 | ダイヤモンドヘッド・トレイル | Trackback | Comments(0)

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2020年東京オリンピックの開催が決定しました。

前回の東京オリンピックは1964年ですので、実に56年ぶりの開催となります。

1964年の東京オリンピックでは都内のインフラ整備が一気に進み、東京が世界的な大都市へと発展を遂げる契機となりました。

当時の日本は高度経済成長期の真っただ中にあり、人とお金が地方都市から東京へと集中する、いわゆる日本の再構築が行われていた時代でもあります。

地方からの人やお金で東京の経済が繁栄する一方、東京で収税された税金が地方交付税や公共事業という形で地方へと再分配されて行く、今思えば実に社会民主的な国家経営がなされていた時代でもあったわけです。

少し話しは変わりますが、トリクルダウンという経済理論はご存知でしょうか。

大木からしたたりおちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分として成長していくという、大木と草花の相互依存関係をあらわした経済理論(仮説)です。

上方落語に大阪船場を舞台とした「百年目」という落語があります。

この「百年目」の中では、先のトリクルダウンの経済理論が大阪船場の旦那と番頭の関係として、また番頭と丁稚の関係として描かれています。

そして、落語「百年目」の落ちは、人(労働者)と商売(経済)が元気であるためには、適度なトリクルダウン(露おろし)が必要とのことです。

ただ厳しいだけでは、人も経済も活性化しない、適度な遊び(余裕)が必要ということなのでしょう。

また、大阪船場では、過剰に利益を得ることが卑怯な商法とされ、節度ある利益の享受や社会貢献が持続的な利益の源泉になると信じられていたようです。

「損して得とる」ということなのでしょうか。

さらに、大阪船場では、日常的に華しょくや浪費を不徳とする世俗内禁欲の習慣があったとされています。

これは、御堂に囲まれた大阪船場の町ならではの宗教的バックボーン(世俗内禁欲)が、資本主義の精神として体現された一例と言えるものかもしれません。

まさに、資本主義の精神がプロテスタンティズムの倫理(世俗内禁欲)に由来すると、マックス・ウェバーが指摘していることと相似的関係にあると言えそうです。

このように資本主義の精神が何らかの形で宗教的バックボーンを起源とするものなら、一部の勝ち残った者だけを正義とするような新自由主義的な考え方は、本来の資本主義の精神からすると異端と言うことになるはずです。

しかしながら、いつの頃からか、資本主義の精神は自己利益だけを追求する競争原理として理解されることになり、その結果経済活動からは他者への寛容性のみならず自分自身への配慮も欠いた、自己処罰的な態度が採られるようになってしまいました。

大変残念なことです。

ただし、自己利益の追求は、その効率の速度が上がれば上がるほど、利益を得たはずの自分自身の足場は盤石とはならず、それとは真逆に自分で自分の足場を崩してしまうことにもなってしまいます。

とても不思議なことのように思われますが、経験的にはそのようになっています。

この現象を一般化すれば、資本主義の合理性や効率性はその純度を上げれば上げるほど、つまり資本主義システムを徹底すればするほど、資本主義システムそのものが不安定になる真逆な関係にあると言うことになりそうです。

資本主義の安定には、適度にその純度を押し下げる、賃金の硬直性や雇用の非弾力性といったものが必要となるのかもしれません。

このことを表した経済理論(仮説)としては、岩井克人氏が提唱されている学説「不均衡動学」がそれに当たるのではないでしょうか。

少し話しがそれてしまいました。

今一度、東京オリンピックに話を戻すことにします。

ドラッカーに「選択と集中」と言う経済のタームがあるのはご存知のことと思われます。

1964年の東京オリンピックまでは、東京と大阪が日本を代表する二大都市と言われていました。

しかしながら、1964年の東京オリンピックを契機に東京と大阪の相対的格差はどんどんと広がっていきます。

おそらく、日本の国土の広さと当時の経済規模からすると、日本経済を多極化するのではなく、一極集中することによる効率化の方が当時の国家戦略としてはふさわしく、「選択と集中」というビジネスの論理から言っても当然の帰結であったのかもしれません。

そして、今回決まった2020年の東京オリンピックでも、おそらく同じ「選択と集中」の論理が繰り返されることになると思われます。

1964年当時の日本は、人口と経済の規模が拡大する高度経済成長の真っただ中にあって、日本の価値(人やお金)が拡大していく時代にありました。

しかしながら、現在の日本はそれとは正反対の方向にあります。

つまり、日本の人口が確実に減少し、国内消費が低迷するという、日本の価値(人やお金)が縮小していく時代にあるということです。

「選択と集中」の論理からすると、価値が拡大する時代にあってさえも東京と大阪が並列できなかったように、経済規模が縮小する時代にあってはなおのこと、東京への一極集中が当然の帰結になってしまうのではないでしょうか。

そして、現在のネガティブな日本経済の状況からすると、今後日本人と日本経済が元気を取り戻していくためには、先にお話ししたトリクルダウン(露おろし)の経済理論を国家的規模の経済政策で実践していく必要があるということです。

つまり、これからは「選択と集中」の結実である東京という巨木(おそらく東京の中でも23区の中心区域限定の「選択と集中」が行われるのではないでしょうか。)に頼っていくことになるかもしれません。

いわゆる、「日本のシンガポール化」ですね。

そして、この23区の中の中心区域で「日本のシンガポール化」が求められるのは、そもそもトリクルダウン(露おろし)の経済理論は、「選択と集中」の帰結から導かれる帰納的説明(仮説)でしかないからです。

要するに、トリクルダウンを実践するには、まず大木を育てることが必要ということになり、その大木を基盤として裾野の草花に露おろしをする、いわゆる先富論が「日本のシンガポール化」ということです。

では、「選択と集中」の帰結からトリクルダウン(露おろし)の経済政策を実践するとして、いったいどのように具体化して行けばいいのでしょうか。

1964年の東京オリンピックでは、首都東京と地方都市との格差化(差異化)を進展させながらも、一方では地方交付税等により全国の都市財政の平準化が図られることになりました。

2020年の東京オリンピックにおいても、1964年の当時と同様に、東京と地方との経済格差が今以上に広がる一方で、東京に集中することになる価値(人とお金)は、今まで以上に日本全体を元気にさせるための原資として活用されなければならないということです。

具体的には、個人の所得税や相続税の累進性の強化や社会保障の応能負担の強化、そして今まで以上に国全体の平準化を図るために必要な所得の再分配機能を強化することが求められるのではないでしょうか。(追記 その先にはピケティ教授が提唱されている世界連携累進課税が想定されることになると思います。)

そして、「選択と集中」の結実を原資とする所得の再分配機能、つまりトリクルダウン(露おろし)の実践こそが急速に縮小していく国内の消費経済(内需)の低迷を回避させ、少しでも長く現状の経済規模を維持させることになるのではないかと言うことです。

2020年の東京オリンピックは、もはや経済成長が期待できなくなった日本という国を、トリクルダウンによって内需中心の「定常化社会」のスキームへとソフトランディングさせる、最後のチャンスになるのではないかと勝手に思っているのですが、少しネガティブ過ぎるでしょうか。

最後に、ひとつだけ。

この半世紀で、日本人のマインドは、確実に自律する方向から依存的傾向へと変質してしまったように思われます。

依存的な未成熟社会にあっては、おそらく資本主義の論理(とその背後にある寛容性)や所得の再分配機能(とその背後にある自律性)が十全にその機能を果たせなくなってしまう惧れがあると思われます。

従って、未成熟なままの社会では、誰もがフラストレーションを抱えながらも出口が見えない、いわゆる「終わりなき日常」を生きるしかないという筆者のリアリティは、勝手な思い過ごしであればいいのですが、さていかがでしょうか。

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さて、本日は、夏の終わりに、おいしいかき氷をご紹介します。

ビフテキのスエヒロ(御堂筋(東側)平野町)の南隣にあるサワダ珈琲が今回ご紹介する「大人のかき氷」を提供する店です。
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通常店で出しているコーヒをそのまま凍らせて、かき氷にしたものが「大人のかき氷」です。

トッピングに練乳とシロップがかかっています。
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こちらのトッピングはバニラアイスですが、シロップがあらかじめかかっていないため、甘さの調整ができます。

味のついたかき氷という点では、台湾かき氷のコーヒー版のようなものと言えるのかもしれません。
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値段がとてもお手ごろで、後味が良くさっぱりとした、サワダ珈琲の「大人のかき氷」を夏の終わりにご賞味されるのはいかがでしょうか。
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# by kokokara-message | 2013-09-08 11:16 | おいしいかき氷 | Trackback | Comments(0)

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マカプウ・トレイルの帰路は、登って来た道をそのまま、だらだらと下って行くだけです。

上の写真は、帰路の途中にあったペレの椅子と呼ばれるヘイアウ(信仰施設)です。

ペレの椅子(真ん中の出っ張り)は、戻る方向とは反対の海岸線にあったことから、今回は遠くからの写真撮影だけとしました。

マカプウ・トレイルは、ご覧のように見晴らしが良いなだらかな坂道が、岬に広がった裾野を縫うように続いています。
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マカプウ・トレイルの出発点になったシーライフパークまで戻ると、トイレ休憩(奥の売店付近にあります)をとってから、再びザ・バスに乗車することになります。

シーライフパークからは、23番「WAIKIKI/ALAMOANA」行きのザ・バスに乗って帰る方法と57番「HONOLULU/ALAMOANA」行きのザ・バスに乗って帰る二つの方法があります。

23番「WAIKIKI/ALAMOANA」行きのザ・バスは、時計回りの方向で、ここまで来た道をそのままハワイカイを経由して、アラモアナショッピングセンターまで戻ることになります。

また、57番「HONOLULU/ALAMOANA」行きのザ・バスでは、時計とは逆回りの方向に、ワイマナロ、カイルアなどのローカルタウンを経由して、アラモアナショッピングセンターまで戻ることになります。

時計とは逆回りの57番の方が、時計回りの23番より少しだけ遠回りになるようです。

時間にすれば10分ほどですが、アラモアナショッピングセンター到着が遅くなってしまいます。

ただ、57番の路線では、手が届くほど近い距離にある細長いビーチを右側に見ながら、海岸通をバスが延々と走ることになります。

そして、ビーチが途絶えると、元横綱の曙太郎の出身地でもあるワイマナロの街やその先の高級住宅地区であるカイルアの街が車窓から眺めることができます。

なかでも、シーライフパークを出発しカイルアに着くまでの間は、乗降する客のすべてが地元の住人(ローカル)といってもいいくらい、土着的な路線といえます。

そして、その真ん中あたりに位置するワイマナロの街は、ローカルでもポリネシアン系の住民が多く住んでいるように聞いています。

確かに、乗降するローカルの表情やしぐさ、服装などからは多様で異質な印象を受けることも多く、あきらかにホノルル周辺で見かけるローカルのそれとは違っているように思われます。

ワイキキの楽園イメージもひとつのハワイには違いはありませんが、それとはずいぶん異なったもうひとつのハワイが、ほんの1時間程バスに乗れば出会うことができるということです。

ハワイの光と陰を知るということでは、たいへん興味深い経験になるといえるのかもしれません。

ただ、ワイマナロは観光地ではありません。

従って、観光客としては、せいぜいバスの車窓から、ローカルの暮らしぶりなどをフィールドワークさせていただくというのが、節度あるビジターの振る舞いといえるのではないでしょうか。

何事においても、観光客としての節度ある振る舞いが、安全で安心な旅を保障してくれることと思います。

最後の方は、少し本題からそれてしまいましたが、以上をもって、マカプウ・トレイルの紹介を終了とさせていただきます。

マカプウ・トレイルは、旅行ガイドでも紹介はされていますが、このブログの体験談もぜひ参考としていただき、安全安心なトレッキングとオアフ島バスの旅をお楽しみください。

ご一読ありがとうございました。マハロ。
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# by kokokara-message | 2013-08-26 21:18 | マカプウ・トレイル | Trackback | Comments(0)

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《前回からのつづき》
帰路については、当り前のことですが、先ほど降車したカイルアショッピングセンター(メーシーズ前)の停留所の筋向かいにあたる停留所から57番バスに乗ることになります。

利用する57番バスには、「HONOLULU/ALAMOANA」と「DOWNTOWN/BISHOP ST」の表示のものがあります。

57番の「HONOLULU/ALAMOANA」行きは、アラモアナショッピングセンターに直接戻ることができますが、後者では、ダウンタウンで乗り継ぎするということになります。

乗り継ぎは降車したダウンタウンのバス停留所で、そのまま「ALAMOANA CTR」行きの表示のバスに乗り換えるだけです。

しかしながら、乗り継ぎがややこしいというのなら、カイルアショッピングセンター(メーシーズ前)から直帰できる57番「HONOLULU/ALAMOANA」行きのバスの利用をお勧めします。

以上、ラニカイ・トレイルとウインド・ワード(東海岸)への小さなザ・バスの旅をご紹介させていただきました。
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最後になりましたが、カイルアやラニカイは、オアフ島の中でも歴史ある高級住宅地区として造成されてきた経過があるようです。

住人は、おもに本土からの白人(現役をリタイヤしたビジネスマンや軍人など)が多いと聴きます。

大きな敷地に、大きな邸宅、そして芝生の庭には椰子の木が植えられてるという光景は、まさにアメリカンドリームを彷彿させるものがあります。

ワイキキにあるクヒオビーチやピンクパレスやなどの高級ホテルなどは、私たちが知っているイメージ通りのハワイ(オアフ島)であり、私たちを裏切ることのない風景といえそうです。

しかしながら、カイルアやラニカイに流れているゆったりとした時間は、ワイキキとは明らかに相違したものであり、もうひとつのオアフ島の時間の流れということができそうです。

おそらく、カイルアやラニカイのゆったりとした時間の流れや風景の移ろいは、ワイキキのビジネスや賑わいや喧騒と引き換えに得ることができた閑静な異空間といえるのかもしれません。

そして、ワイキキもラニカイも、人が計画をしたということであれば、ある意味街全体がテーマパークということになり、ともに異次元空間の放つ魅力をうまく引き出しているようにも思われます。

従って、ハワイ島のようなダイナミックな自然はありませんが、人と自然が上手に調和した街という印象を受けることになります。

先にも記述したとおり、仕事と生活の場は別にあって、これが光と影の関係にあるとすれば、ワイキキとラニカイの両方を知ることが、オアフ島のほんとうの魅力をとりこぼすことなく体験することになるのかもしれません。

オアフ島の素晴らしいイメージを大切にしながらも、ローカルの生活空間に一歩足を踏み入れるのには、カイルアやラニカイは、まさにうってつけの場所といえそうです。

ラニカイ・トレイルは、一部の旅行ガイドブックでも紹介はされているようですが、登山口の所在など実際に行ってみないと分からないところが多いというのは難点といえます。

ぜひこのブログを参考にしていただき、安全で安心なオアフ島の旅の思い出に、ラニカイ・トレイルを加えていただきますことを願っております。

ご一読ありがとうございました。

マハロ。
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# by kokokara-message | 2013-07-12 21:39 | ラニカイ・トレイル | Trackback | Comments(2)

じめじめした梅雨の合間、ひと足早い夏色気分になって、おいしいかき氷を食べてみるのはいかがでしょうか。

今回は、6月にオープンしたばかりのあべのハルカス近鉄本店の地下1階にある京・茶房TSURUの宇治しぐれをご紹介します。
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京・茶房TSURUは、京菓匠鶴屋吉信が設けた茶房で、あべのハルカス近鉄本店地下1階の和菓子売り場にあります。

店内はご覧のように細長くなっていますが、意外と広くて座席は22席あるそうです。
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席に着くと、ほんとうに味わい深い甘い宇治茶が運ばれてきました。

ほっと一息です。
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店員さんによると、抹茶パフェとクリームあんみつが人気とのことでした。
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私は、当初の目的どおり、値段は少々高めですが、おいしいかき氷「宇治しぐれ」(1050円)を注文しました。
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全体としてはこぶりな印象です。
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宇治茶シロップと練乳との甘さ加減はとても良い感じがします。
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大粒の丹波大納言、もちもちの白玉、バニラアイスがトッピングされています。

実際に食べてみると、見た目以上のボリューム感が味わえるのではないでしょうか。
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たっぷりのかき氷が食べたい人には少し物足りないかもしれませんが、買い物途中に一服するのにはちょうど良いボリュームかもしれませんね。

品質の高さとこだわりが感じられる、老舗ならではの京・茶房TSURUの宇治しぐれを、この夏にご賞味されるのはいかがでしょうか。
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# by kokokara-message | 2013-06-29 09:36 | おいしいかき氷 | Trackback | Comments(0)

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おそらく、経済活動(労働)の意味とは、市場主義が手段であって目的ではないように、お金とはあくまでも交換手段であって、その蓄積が目的にはならないということです。

つまり、お金は可能性(時間)を蓄積することにはなりますが、そのお金によって、どのような物語を実現するかということ(自己実現)が、経済活動(労働)の持つ本当の意味ではないでしょうか。

そして、経済活動(労働)を通じた自己実現は、むろん自己完結ができるようなものではなく、市場や社会という関係性の中で構築されるものということになります。

従って、労働価値説や象徴的価値が含有する物語性(幻想性)を理解して欲しいのであれば、その物語性(幻想性)の持つ客観的な位置づけや裏づけについても、同時に説明する必要があるといえます。

つまり、物語性(幻想性)を共有する共同性を大切にしたいのなら、自分たちの絶対性を主張するだけではなく、その外部にある他者や他の共同性の存在に配慮しながら、市場や社会における客観的な立場をきちんと説明する必要があるということです。

自分を大切にしたいのなら、他者を大切にすることが求められます。

自分を守りたいのであれば、まずは他者を守ることが必要となります。

つまり、自分だけの価値観を一方的に押し付けるような同化主義ではなく、お互いの価値観を尊重し合い、上手に棲み分けるということが必要になってくるのではないでしょうか。

もちろん、市場や社会の公共空間には、規範(ルール)が存在することになります。

公共空間とは、共同性よりもさらに上位にある規範(ルール)が適用される場所です。

このため、公共空間の規範(ルール)を破れば、公共空間から退場を強いられることにもなってしまいます。

ただ、公共空間の持つ規範性(ルール化)は、多元的な共同性を抑圧するだけのものではなく、むしろ多元的価値を調整する場として機能しているということです。

このため、公共空間は、共同性を超えて自己実現を果たすことができる場所でもあるということです。

そして、共同性と公共性の関係性は、おそらく特殊性と一般性という関係性に置き換ることができるのではないでしょうか。

つまり、一般性である公共性とは、特殊性である共同性の枠を超えた視点からの多元的価値を調整する規範性(ルール化)ということになります。

このような公共性を伴った公共空間は、絵に描いた餅として仮定しておくだけのものではなく、多元化した日本社会の価値調整の場として、早急な実現が求められているということです。

また、オリジナル・パンケーキ・ハウスでも紹介したように、ハワイは100年以上前から多文化共生社会にあったということができます。

ハワイ社会では、公共性(一般性)についての試行錯誤が繰り返された結果、やっと現在のような公共空間(上位のルール)が出現することになったといえるのではないでしょうか。

世界が多元化しつつある中、公共性を伴った公共空間の確保は、世界のコンプレックス状態をバランスよく乗り切るための、必須の前提となってくるのではないでしょうか。

最後に、公共空間に適用される規範性(ルール)には、法律という外部からのルール(制度)と、倫理性という内面からのルール(自己制御)のふたつがあると思われます。

法律は、制度内ルールの手続きによりやがて改変されていくことになりますが、倫理性とは期間や地域限定で実現されるものではなく、むしろ普遍性を持った汎用ルールとして内面化されることが目指されるところでもあります。

一般論としての倫理性は、自分の夢(立場)を守りたいのであれば、人の夢(立場)を排除することなく、むしろ尊重するという態度が、結果として自分の夢(立場)を生き延びさせることになるという、人間関係の方法論といえるのかもしれません。

つまり、自分の命や財産を確保したいのなら他者の命や財産も確保する、また自分が容認できないような振り舞いは決して他者には強制しないということ。

かような「立場可換性」こそが、自分自身の倫理性を担保する最低基準(底辺)になるのではないでしょうか。

最後の最後に自分自身を支えてくれる倫理の自己ルール化(カントなら定言命題になるのでしょうか)が「立場可換性」であると考えているのですが、さて皆様はいかがでしょうか。
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【追記】
「オリジナル・パンケーキ・ハウスのワッフル」をご一読いただきまして、ありがとうございました。

昨年末にハワイを訪れてから、はやくも7ヶ月が経過してしまいました。

今年の夏はおとなしくしているつもりですが、年末頃には、またぜひハワイを訪れて、リフレッシュしたいと思います。

私の論考は、「オリジナル・パンケーキ・ハウスのワッフル」に関わらず、そのタイトルと内容が直接関係しないということがよくあるように思われます。

これは、私がタイトルを切り口として、その時々に考えていること、つまり自分の中の未整理なグレーゾーンを整理するために記事を書いているからです。

自分が何を考えているのかを一番知りたいのは、私自身ということになるようです。

このため、ブログの記事が完成するまでには、何度かの推敲を経由することから、1週間近くかかることもあります。

従って、最初にアップした内容と、数日後に完成した内容では、論理構成だけではなく、結論までも大きく変わってしまうこともあるように思われます。(あしからず)

このように原稿用紙感覚でブログを活用するのは、珍しいことなのかもしれません。

ただし、人の一生はせいぜい80年、この短い人生の間にも人の考えはどんどん変わっていきます。

このような人間の営為の未確定性こそが、人間の本質といえるのかもしれません。

ユダヤの経典のタルムードは、2000年前から書き始められたものが、現在も書き加えられていて、今後も完成を見ることがないといわれているようです。

人やものごとが万物流転していくことは、ごく自然なことといえます。

むしろ、同じである続けることや絶対的である続けることは、暫定的にはありえますが、恒久的には無理であるように思われます。

有限実行も大切ですが、より柔軟に対応できることが、人や社会の選択の幅を広げていくことになるのではないでしょうか。

自分の卑小さやその有限性に少しでも配慮があれば、他者との話が通じないという切実な問題にも、ほんの少しの謙虚さでもって、コミュニケーションを再起動させることができるのかもしれません。

この論考では、労働価値説や象徴的価値の幻想性について考察をしてきましたが、その物語性や幻想性を否定するつもりではありません。

いかなる物語性や幻想性も公共空間の中で認知されていれば、ひとまずは自由な存在ではないでしょうか。

ただ、ひとつだけ確かなことは、その物語性や幻想性を知らない人にとっては、せっかくの英雄や英傑もただの人でしかなく、また大切な財宝や伝統もただのガラクタにしか過ぎないという事実も、リアリティ(現実)ということになります。

茂木健一郎氏の話しによると、東京大学は日本人の誰もが認める日本最高の学術機関ということですが、アメリカのアカデミーにおいてはその存在はあまり知られておらず、その評価も低いものでしかないという厳しい現実があるということです。

評価とは関係性から構築されるものであり、その関係性が変われば評価も当然変わっていくことになります。

評価が実体を反映していないことは、珍しいことではありません。

昨今の投機的要素の強い株式市場などは、まさにそのような現象といえるそうです。

このことからすると、評価は幻想(物語)でしかないということにもなってしまいます。

また、幻想(物語)そのものも、単独ではなく、共同的なものとして成立しているといます。

同じ文脈にない人に対し、「自分の幻想性」を説いて回るという行為は、「自分の妄想性」を声高に主張しているだけのことにもなるため、これはとてもかっこの悪い(ある意味病的な)行為として周りには映ってしまうようにも思うのですが、さて皆様はいかがお考えでしょうか。(幻想は共同的なものであるので、自分の幻想性は形容矛盾といえそうですね)

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# by kokokara-message | 2013-06-13 22:13 | オリジナル・パンケーキ・ハウス | Trackback | Comments(0)

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例年よりも早く梅雨の季節となりました。

どんよりしたこの時期に、ひと足早いカラッとした真夏の計画を立ててみるのもいいかもしれません。

今回は、ハワイには行かなくても、ハワイアン気分でハワイアンテイストを堪能できるWill's kitchen(ウィルズキッチン)のマカデミアンナッツパンケーキをご紹介します。
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店内は、ご覧のようにハワイアンテイストで一杯です。

BGMには、今では懐かしくなった「HAPA」のトラディショナルハワイアンミュージックが流れていました。
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マカデミアンナッツソースのパンケーキと言えば、ハワイカイルアにあるブーツ&キモズが有名ですね。

まずは、ハワイアンパンケーキの王道とも言えるマカデミアンナッツソースのかかった、ハウピアマカデミアンナッツミルクケーキパンケーキ(1050円)を注文しました。
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パンケーキは2枚ですが、たっぷりのマカデミアンナッツソースとマカデミアンナッツがかかっています。
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ブーツ&キモズはいまだ訪れたことがないのですが、こちら(ウィルズキッチン)のマカデミアンナッツソースパンケーキも本格的なもので、十分にハワイアンテイストが堪能出来ると思われます。
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次に、トリプルベリークリームパンケーキです。
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パンケーキは2枚ですが、ブルベリーソースとイチゴ、そしてたっぷりの生クリームがトッピングされています。
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Will's kitchen(ウィルズキッチン)の一番目の特徴は、1枚150円でパンケーキの追加できること。

お腹がすいている時などは、ちょうどいいかもしれませんね。

また、どのパンケーキメニューでも300円でソフトドリンクが付けられます。

そして、、二番目の特徴は、トッピングがあるため少し分かりにくいのですが、パンケーキの生地にはバターミルクが入っていて、もちもちとした感触とともに濃厚なバターミルクの味を楽しむことができるということです。

このため、プレーンのパンケーキを賞味したくなり、下記のテイクアウト用のパンケーキミックス(840円)を購入しました。
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この夏ハワイには行けなくとも、大阪のど真ん中の「Will's kitchen(ウィルズキッチン)淀屋橋店」でマカデミアンナッツパンケーキを食せば、つかの間ながらも楽園ハワイの気分に浸ることができるのではないかと期待していますが、さていかがでしょうか。
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場所:大阪市中央区平野町3-4-9
営業時間:11:30~16:00 17:00~23:00
休日:なし
電話:06-6229-0200

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# by kokokara-message | 2013-06-02 10:21 | おいしいパンケーキ | Trackback | Comments(1)

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京都造形芸術大学芸術学教授の寺脇研さんと言えば、いわゆる「ゆとり教育」を推進した人物で、誤解、曲解も含めて、右と左からの批判の対象にされた元文部省のキャリア官僚です。

寺脇研さんの現状認識によれば、日本はもはや近代の徹底(資本主義や民主主義の徹底)だけでは生産もやがては消費もなりゆかなくなる、いわゆるポスト産業資本主義(ポストモダン)の時代に入ったということのようです。

そして、ポスト産業資本主義(ポストモダン)の時代は、明治以降日本が登りつめてきた「坂の上の雲」を目指す右肩上がりの時代とは全く異なった考え方や生き方が支配する時代でもあります。

また、寺脇研さんによれば、近代における教育の最大の目的は、産業資本主義を担うことのできる廉価で均一な多くの生産者を育成することにあったということです。

つまり、いまだ貧しく、多くの人口の糊しろを抱えた後発の日本が、廉価で均一な生産者をより多く育成することにより、近代の産業資本主義における右肩上がりの経済成長を可能にしたということです。

日本の華々しい高度経済成長の裏には、このような日本の相対的貧困があったということになります。

ただ、現在のグローバル化する世界経済を見回すと、もはや日本の国内には後背人口の糊しろは残されておらず、既存の産業資本主義を支える廉価で均一な労働力は外部(国外)の生産拠点に求めるしかありません。

国外に生産拠点を求めれば、当然日本の産業資本主義の空洞化を招くことになります。

おそらく、日本の産業資本主義の空洞化は不可逆的なものであり、多少の揺り戻しはあったとしても、今後ともこの趨勢は変わらないのではないでしょうか。

従って、日本の教育制度も、これまでの既定の教育システムを徹底させていく(近代の徹底)だけでは、ポスト産業資本主義(ポストモダン)の時代に対応できる人材を育成できるとは限りません。

そして、このことに危機感を抱いた旧文部省が採用した政策が「ゆとり教育」であり、既定の集団中心の教育から個別中心の学習へと軸足を移していくというものでした。

一部では「ゆとり教育」がゆとりそのものを目的とした政策であるかのように報じられています。

しかしながら、「ゆとり教育」は集団教育から個別学習に軸足を移すための手段(環境整備)であって、ゆとりそのものが目的ではなかったと言うことです。
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ところで、一般には、日本の教育は、学校での集団教育を指すとされているようです。

学校教育は既定のカリキュラムの履修を目的とするものですが、個別学習はむしろその既定の枠外にある教養や知識にアプローチしていくことを目的としています。

つまり、学習は教育カリキュラムの基礎学力をベースにしながらも、その既定の枠組を壊し、その枠外へと広がっていく志向性を持ったものということになります。

そして、この広がりには原則際限がないため、その途上で予測もできない危険に出くわすことがあります。

このようなリスクの存在が、「学習が知の冒険」と呼ばれる由縁であるのかもしれません。

ところで、学習は個別な営為と思われていますが、個別ではあっても孤独な営為ではありません。

むしろ、それとは正反対に「師」と伴に積み上げていく、二人三脚の地道な営為ではないでしょうか。

ここで言う「師」とは、自分の欠如感や欠足感を満たしてくれる経験豊かな先達(せんだつ)のことです。

そして、自分の欠如感や欠足感を満たしてくれる「師」は、自分の小さな枠組を壊してくれる人であり、さらに自分の外部にある芳醇な世界へと安全に導いてくれる人でもあります。

例えば、子供にとっての知識と経験が豊かな大人が「師」のイメージに当たるのではないでしょうか。

むろん、子供以外の人でも、自らの欠如感に気づき、その充足を目指す人であるのなら、やがて「師」とめぐり会うことはできます。

そして、めぐり会った「師」と対話を繰り返すことにより、飛躍的に自らの学習効果を向上させることができるわけです。

初めのうちは個別な学習であっても、やがては個人の領域を超えて、自らが所属する社会の領域にまで達することも珍しくはありません。

つまり、個人の瑣末を突き詰めていけば、やがては社会全体の総括にまで至るという、ミクロとマクロの逆転現象が起こるわけです。

ところで、「師」が弟子の欠如感を満たし、弟子に外部があることを気づかせる存在であることは先に述べました。

さらに、「師」には重要と思われるもうひとつの特徴があります。

それは、「師」は実在しなくとも、「師」を「師」として仰ぐ弟子がいれば、弟子の学習効果は自ずと向上していくというものです。

つまり、「師」とは直接会わなくとも、また直接指南を受けなくとも、弟子が「師」から学びたいという欲求(欠如感、飢餓感)さえ持っていれば、弟子は「師」の実在とは関係なく、自らで学習を開始しそして成長していくことになります。

例えば、弟子が困った時など、「師」であればどのように対処するであろうか、どのように考えるであろうかと考えを巡らせることが、弟子が自ら考えて答えを出すということであり、この思考のサイクルを起動させるのが「師」の存在(実在ではありません。)ということになります。

「師」は存在すればよく、実在は学習の絶対条件ではないということです。

むしろ、「師」が不在であることが「師」との対話を促進させることもあり、また弟子の思索を深化させることもあるということです。

以上のことから、教育と学習を比較すれば、教育とは「師」から伝授された知識や情報のアーカイブの部分のことを指し、学習はそのアーカイブを参照しながら、「師」の洞察までも想像し、「師」が実際には語っていない言葉の意味までも理解してしまう荒唐無稽な脳の働きということになります。

このような脳の働きは、理想化され、幻想化された「師」との対話を通じてしか得られず、自分自身が自分自身を俯瞰する視点、つまりは自分自身を括弧に入れて、理想化された「師」とシンクロした(理想の「師」と同化した)視点を確保することが、学習の究極の目的と言えるのではないでしょうか。

もはや既存の思考のフレームワークだけでは対応のできない、ポスト産業資本主義(ポストモダン)の時代をクールかつ創造的に生き抜くためには、このような醒めた客観的な視点(自己意識)を確保することが、なによりも重要になってくると思うのですが、さていかがでしょうか。

(閑話休題)
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日本社会は、大人がとても少ない社会であると言われることがあります。

おそらく、これは成熟した大人がとても生きにくい未成熟な社会ということを意味しているのかもしれません。

ここで言う成熟した大人とは、自分の立ち位置や役割が分かっている人という意味でご理解ください。

村上春樹さんの著書「ノルウェイの森」に出てくる紳士の定義「やりたいことをやるのではなく、やらねばならないことをやる」が、意味として近いのかもしれません。

そして、日本の社会は、父権的な「師」よりも、庇護してくれる母系的な「師」が慕われる傾向にあるとも言われています。

河合隼雄さんの著書「母系社会日本の病理」では、成人になれない日本人(永遠の少年)の精神病理が扱われています。

いずれにせよ、日本が母系的な社会であって、成熟した大人が生きにくい社会であるのなら、日本の社会には未成熟な若者に意味を与え(分節し)、成熟(自律)を促す父権的な意味合いの「師」は存在しづらくなってしまいます。

寺脇研さんの言われるとおり、日本を取り巻く世界経済のグローバル化の進展からすると、日本は近代(モダン)の徹底である集団教育を中心とする制度から早々に脱却し、個別学習を中心とした新たな教育制度への転換が喫緊の問題ではないでしょうか。

しかしながら、いくら集団教育から個別学習への転換の必要性を提唱したとしても、日本の社会に「師」が存在しない(いたとしても存在しづらい)となれば、結局は子供は学習(冒険)を体験することができず、空虚でゆとりだけの教育が残されることにもなってしまいます。

このため、日本の社会で「師」を得たいと欲すれば、希少な存在である「師」をどこからか見つけ出してくるしかありません。

そして、「師」に対する需給の関係からすると、希少な存在の「師」の需要は当然高くなくなるため、「師」を得るためのコストも高くなってしまうことになります。

つまり、「師」が存在しない未成熟な日本の社会では、子供が学習(冒険)体験をするにもコストがかさむということになり、そのコストが負担できなければ、子供は学習を経験することさえできなくなってしまうわけです。

ただし、「師」の不在と経済格差(貧富)の問題は現代の日本社会にだけ見られる特殊な現象ではないようです。

むしろ、日本の社会が古来から引き継いできた社会構造に組み込まれたものではないでしょうか。

では、日本が先祖がえりして、従来の詰め込み一辺倒の教育に戻ってしまえばどうなるのでしょうか。

一見機会均等の教育平等社会を標榜するように見える詰め込み一辺倒の教育でも、先に既述したようにグローバル化が進展していくと、現状がそうであるように、日本だけが経済における比較優位を維持できる保障はどこにもないということです。

むしろ、世界経済のグローバル化(資本と労働力の流動化)が進展して行くと、世界の賃金水準の平準化(フラット化)が進むこととなり、必然的に日本の賃金水準も平準化され、下方修正されてしまうことになるのではないでしょうか。

つまり、教育平等社会を標榜する詰め込み一辺倒の教育だけでは、日本経済の優位性が維持できないばかりか、現行の賃金水準さえ維持できなくなってしまう可能性もあるということです。

旧文部省から「ゆとり教育」が提唱された背景には、このような世界経済のグローバル化とそれに伴う日本社会のパラダムシフト(世界観の変化)という難問が横たわっていたということになります。

しかしながら、それらの議論は十分になされないまま、「ゆとり教育」が経済格差を是認し、教育格差を助長するものと単純に理解されてしまい、誤解、曲解の中、いわゆる「ゆとり教育」は右からも左からも批判される対象となってしまったということではないでしょうか。

最後に、もう一度学習を促進させる「師」について述べて、少々長い論考を終えることにします。

私事で恐縮ですが、私には「師」と呼ぶことのできる人が存在します。

ただし、私が勝手にその方を「師」と思っているだけで、先方はこちらを弟子とは思っていないかもしれません。

しかしながら、「師」はあくまで幻想(面影)である以上、私が「師」と思うことには論理矛盾はないと考えています。

とりあえず、自分に「師」が存在するということが大切なことであって、とても幸せなことであると思っていますす。

そして、先にも述べたとおり、学習のサイクルはいったん駆動を始めると、もはや「師」の実在はそれほど重要なことではなくなり、やがて「師」は幻想(面影)へと変わっていくことになります。

従って、昔「師」が実際に話された言葉でも、新たに自分だけの意味が付与されることとなり、自分の新たな記憶として生まれ変わることも多いように思われます。

「師」が不在でも、「師」を「師」として仰ぎ見る自らの立ち位置さえ見失わなければ、「師の面影」との対話は継続されることとなり、やがて「師」の視点を内面化することにより、自らが自らを俯瞰できる客観的な視点(自己意識)を確保できることになるということです。

おそらく、原初のキリスト教などに見られるように、「不在の師」と残された弟子との対話が繰り返されることで、やがて教義が体系化されていくという過程をたどったのではないでしょうか。

ありありと語りかけることのできる「師」が存在さえすれば、勇気をもって「知の冒険」(自分の頭で考える)を試みることもできるというわけです。

そして、今以上に流動化しグローバル化することが予測される世界経済にあっても、あくまでも日本という国に機軸を置き、その社会的文脈(関係性)から自ずと決まってくる自分の立ち位置とその役割をきちんと果たすこと(結局は今までどおりですね。こそが、「神」なき、「師」不在の日本のポストモダン社会に勇気をもってダイビングをすること(「知の冒険」ですね。)ではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。

(おわり)

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# by kokokara-message | 2013-05-06 12:28 | 我流日本論 | Trackback | Comments(0)

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ゴールデンウィークはいかがお過ごしでしょうか。

今回は、今年3月にオープンしたばかりの、毎日行列ができる人気のパンケーキハウス「j.s. pancake cafe 天王寺ミオ店」をご紹介します。

j.s. pancake cafe 」 は首都圏を中心に展開する人気のパンケーキハウスであり、天王寺ミオ店が関西初出店となります。
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ゴールデンウィーク期間中ということもあり、開店早々天王寺ミオ店に到着できるよう家を出たのですが、到着した午前10時半過ぎにはすでに満席でした。

約30分程待った後、通された席は、運よく窓際の四人掛け席。

ご覧のように向かい側には、あべのハルカスが見えています。
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「j.s. pancake cafe」のパンケーキには、スイーツ系のものと食事系のものがありますが、スイーツ系のパンケーキを注文することにしました。
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まずは、ストロベリーパンケーキセット(1300円)です。
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もちもちのふっくらパンケーキ(3枚)の上には、バニラアイスクリームとたっぷりの生クリーム、そしてスライスされたイチゴがトッピングされ、その上にはイチゴソースがかかっています。
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そして、ラージサイズのカップにはたっぷりの量のコーヒーが注がれています。

ビターな味のコーヒは、スイーツ系パンケーキととても相性が良いと言えるのではないでしょうか。

バニラアイスクリームとたっぷりの生クリーム、そして3枚のふっくらパンケーキを食べれば、十分満足できると思われます。

次は、ストロベリーバナナフレンチパンケーキセット(1400円)です。
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こちらのパンケーキは、普通のパンケーキに卵と牛乳を染み込ませ、フレンチトースト風に焼き上げたものです。
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手の込んだパンケーキと言う印象は持ったものの、バナナ以外のトッピングは、先のストロベリーパンケーキのものと同じであって、デコレーションの仕方が違うだけです。

トッピングを中心に楽しむのなら、どちらのメニューでも良いという印象を持ちました。
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上記のメニューは、2013年5月6日(月)までの期間限定メニューらしく、お気に入るようであれば、ぜひこのゴールデンウィーク期間中にご賞味されますことをお勧めいたします。

本格的でレベルの高いパンケーキハウス「j.s. pancake cafe 天王寺ミオ店」でストロベリーパンケーキを食するのはいかがでしょうか。
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住所:大阪府大阪市天王寺区悲田院町10-39 天王寺ミオプラザ館 2F
電話番号:06-6773-3016
営業時間:10:00~21:00 (LO20:30)
定休日不定休
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# by kokokara-message | 2013-04-29 22:08 | おいしいパンケーキ | Trackback | Comments(0)

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新年度が始まって、三週間が経過しました。

新年度のあわただしさの中で、誰もがこの時期疲れが溜まっていることと思われます。

ゴールデンウィークまであと少しです。

適当にスルーしながら、少しペースダウンして、あと一週間頑張りましょう。

ところで、職員研修などでは、コミュニケーションの重要性について講義を受けることが多いと思われます。

では、コミュニケーションとは、一体何なのでしょうか。

おそらく、コミュニケーションとは、概念の交換に尽きるのではないかと思われます。

では、概念の交換とは、一体どういうことなのでしょうか。

おそらく、概念の交換とは、もともと多様で差異のある具体や抽象をカテゴリー化(分類化)し、違うはずのものを同じであると思い込む(勘違いする)錯覚のことではないでしょうか。

つまり、コミュニケーションとは、それぞれが多様で差異のある具体(柴犬など)や抽象(私の自由など)を想起しながらも、同じものとしてカテゴリー化された言葉(イヌや自由などの言葉)を使用することで、一致していないはずの意味を一致していると思い込む、錯覚のことではないかと言うことです。

むろん、誰もがこのような意味の不一致に気づき、錯覚に違和感を覚えるわけではありません。

ただ、コミュニケーションの原理を突き詰めれば、一見会話が成立しているかのように見えても、その内実は不一致を一致と思い込む極めてリスクの高い臆断(おくだん)が繰り返されているということになります。

つまり、人間はこのようなお互いの不一致、つまり関係性の決定不可能性(決まった答えが得られない世界)を生きなければならない宿命にあるということになるのかもしれません。

かような諦念からか、人間は加齢とともに寡黙になっていく傾向があると言われています。

おそらく、これは人間の成熟の度合いとコミュニケーションの不具合の割合が反比例する関係にあるということではないでしょうか。

つまり、人間は加齢とともに、他者との間に横たわる「話が通じない」という隔絶に気づいていくことになります。

そして、この隔絶は、人間の根源でもある孤独を経由し、やがてもうひとつの避けがたい隔絶である「自分の死」を意識化させることになります。

人間の成熟の度合いとは、このような日常のすぐそばに潜む「他者」や「孤独」や「自らの死」という非日常(デスコミュニケーション)と、いかに適切な関係が維持できるかということにかかっているのかもしれません。

かような死生観を持つ日本人が美徳としたコミュニケーションの方法は、饒舌よりも寡黙でした。

武士の一言です。

これは、他者との不具合(隔絶)を蓄積する「饒舌」よりも、他者との不具合(隔絶)を遠ざける「寡黙」の方が、コミュニケーションの方法としては、より成熟し洗練されたものとみなす文化があったということではないでしょうか。

従って、長く連れ添った老夫婦がそうであるように、「成熟した人間関係には会話は必要としない」とする逆説的なコミュニケーションこそが、人間関係の根底に横たわる隔絶(デスコミュニケーション)を超越できる究極のコミュニケーションの方法になるのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。

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# by kokokara-message | 2013-04-20 23:24 | 我流コミュニケーション論 | Trackback | Comments(0)

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では、今回は、那覇市にある「富士家ぜんざい」をご紹介します。

富士家ぜんざいを提供する富士家泊本店は、那覇市の中心部、国道58号線にある泊交差点を山側(海とは反対側)に折れた住宅地の中にあります。

同店には、比較的大きな駐車場が用意されているため、レンタカーで乗り付けても安心です。
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店の玄関を入ると、さらに奥へと続くおしゃれなアプローチがあります。
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店内は最近改装されたのかとても新しく、フロアーは数十名が一度に利用できるくらい広々としています。
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また、同じ那覇市中心部にあるアイスぜんざいの千日がそうであったように、こちらの店でも食事メニューが用意されています。

定食とスイーツの同居は、沖縄の食堂では一般的なことであるようです。
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こちらがぜんざいのメニューになります。
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富士家のぜんざいには、いろいろ聞いたところでは三つの特徴があると思われます。

一つ目は、ぜんざいの小豆(あずき)が、とても大粒で、ご覧のように形がしっかりしていること。

二つ目は、ぜんざいの上のかき氷が、小豆(あずき)を炊いた時の煮汁を凍らせたものであること。

従って、かき氷はご覧のように薄っすらと小豆(あずき)色をしています。

富士家ぜんざい(300円)はそのままで食べるのが一番良いのかもしれませんが、私はミルク(30円)をトッピングすることにしました。
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トッピングのミルク(練乳)は、自分で量の加減ができるよう、下記のようなボトルで提供されます。
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このため、食べながらミルク(練乳)を足すことができるので、最後まで濃厚なミルク味を楽しめます。
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そして、富士家ぜんざいの三つ目の特徴が、ご覧のように塩せんべいが付くことです。

なぜ塩せんべいが付くのか、正しい塩せんべいの食べ方はどうなるのかまでは、残念ながら分かりませんが、ぜんざいと塩せんべいはとりえず別々にして食することにしました。
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富士家ぜんざいはレギュラーサイズでもやや小ぶりな印象は受けるものの、トータルではやはり沖縄ぜんざいの代表格的存在ということになるのではないでしょうか。

那覇市内で、しかも有名人のファンも多い富士家泊本店で、沖縄の味「ぜんざい」を食するのはいかがでしょうか。
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場所:沖縄県那覇市泊2-10-9
電話:098-869-4657
営業時間:午前11時~午後10時

大阪食べ歩き(オリジナル)

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# by kokokara-message | 2013-04-06 15:46 | 沖縄 | Trackback | Comments(0)

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季節がとても良くなってきました。

明日からはお彼岸ですね。

落語「天王寺詣」のご隠居さんのように、この一週間くらいは「彼岸流」で過ごしたいものです。

さて、本日は、沖縄県名護市にある「ひがし食堂」のかき氷をご紹介します。

「ひがし食堂」は、西海岸を走る国道58号線から山側に入った、オリオンビール工場のすぐ近くにあります。

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店内は、座敷と4つのテーブル席があるだけのとても小さな店です。

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まずは、名物のミルクぜんざい(330円)を注文しました。

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かき氷はきめが細かく、濃いめの練乳がたっぷりとかかっています。

ほどよい甘さのせんざい(金時)と濃厚な練乳の組み合わせは、かき氷の王道といえそうです。

「ひがし食堂」のミルクぜんざいは、数ある沖縄ぜんざいの中でも、優れもののひとつと言えそうです。

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次に、三色ミルク金時(380円)を注文しました。

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ぜんざい以外のかき氷は、各種みぞれ(250円)がベースとなり、ミルクをかけると50円アップ、金時(ぜんざい)が入ると80円アップになる模様です。

普通のかき氷のメニューが充実していることが、この店の特徴といえるかもしれません。

そして、レインボーシェイブアイスと言えば、ハワイハレイワのマツモトストアが有名ですね。

「ひがし食堂」の三色かき氷は、イチゴ、レモン、メロンの三色ですが、ご覧のようにくっきりとした色合いがとてもカラフルです。

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観光客よりも、むしろ地元の固定客から強い支持を受けている、昔ながらの「ひがし食堂」で、名物ミルクぜんざいと名物三色ミルク金時を食するというのはいかがでしょうか。

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「ひがし食堂」は、前回の「丸三冷やし物専門店」と同様に、女優の深津絵里さん御用達のお店のようですね。

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住所:名護市大東2-7-1
定休日:月曜日
電話:0980-53-4084



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# by kokokara-message | 2013-03-16 11:25 | 沖縄 | Trackback | Comments(0)

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3月になりました。

かき氷の恋しい季節が近づいてきました。

本日は、糸満市にある「丸三(まるみつ)冷やし物専門店」をご紹介します。

「丸三冷やし物専門店」は、那覇市内からレンタカーで約20分くらいの糸満ロータリーのすぐ近くにあります。

日曜日が定休日なので、訪れる際は曜日を間違えないようにしてください。
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ご覧のように、注文用紙を記入して、オーダーする仕組みになっている模様です。
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私はこの注意書きを読まないで直接席に座ってしまったため、店の方が気を利かせてわざわざ注文をとりに来てくださいました。

訪れた時間が午後3時前と他には客がいなかったため、ご配慮をいただいたのかもしれません。

お店のローカルルールですので、くれぐれも注文をすませてから、席に着くようにしてください。

メニューには白熊ミニもありましたが、お目当ての大きな方の白熊(480円)を注文しました。
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かき氷の高さは、25センチくらいはありそうです。

かき氷全体にやや薄めの(濃厚ではない)素朴な風味の練乳がかかっています。

白熊は、ご覧のようにおどけた表情をしていています。

愛おしい表情とこぼれんばかりのボリュームで、果たしてどこから食べていいものかと迷ってしまいます。

また、白熊の底には金時豆と白玉が入っているので、沖縄ミルクぜんざいのスタイルもとっているといえそうです。
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店内は、一昔前のなつかしい昭和の食堂の香りが残っています。
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2000年の沖縄サミット以降、地元商店の改築が進み、昔なつかしい食堂はなりつつあるように思われます。

時計の針が止まったような時空間で、「まるみつ」名物の白熊かき氷を食するのはいかがでしょうか。
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そして、かき氷と言えば、やはり女優の深津絵里さんと蒼井優さんですね。
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住所:糸満市糸満967-29
営業時間:11:00~16:30
休日:日曜日

# by kokokara-message | 2013-03-03 11:57 | 沖縄 | Trackback | Comments(2)

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本日(9月23日)は、特別公開の正倉院正倉整備工事(主催;宮内庁正倉院事務所)の見学に行ってきました。

正倉院の宝物が、春と秋に国立奈良博物館で一般公開されることはあっても、正倉(宝庫)そのものが一般公開されることはとても珍しいことのようです。

従って、今回の経験はとても貴重といえるのかもしれません。

これが、有名な正倉の校倉(あぜくら)です。
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現説によれば、校倉には教科書で教わったような、正倉内外の湿度調節をする機能はないとのことです。
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また、奈良時代にはその造形から「甲倉」と呼ばれていたらしく、その後「甲」と音が同じ「校」の字があてられて、校倉(あぜくら)と表記されるようになったとのことです。
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屋根瓦は、すべて撤去されていました。
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使用できる天平時代の瓦は、今後も正倉の屋根に葺かれるとのことです。
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ところで、上記の正倉院正倉やその宝物が宮内庁の管理であることは周知のことと思われます。

しかしながら、正倉院正倉が国宝(正倉周辺地域は史跡)に指定されていて、さらに世界遺産「古都奈良の文化財」の登録対象になっていたということを、果たしてどのくらいの方がご存知でしょうか。

恥ずかしながら、私は今回見学するまで、この事実を全く知りませんでした。

正倉は1997年に国宝(正倉周辺地域は史跡)に指定され、その翌年(1998)には正倉と正倉周辺地域が世界遺産「古都奈良の文化財」に登録されています。

このことについて、奈良の公式ガイドブックである(社)奈良市観光協会公式ホームページを探してみたのですが、残念ながら、東大寺に関する説明はあるものの、正倉が世界遺産の登録対象になっているとの説明はどこにも見当たりません。

また、文化庁の文化遺産オンラインにも、同様、かような記載はないように思われます。

従って、そもそも正倉が世界遺産であることを知らないため、私のように「古都奈良の文化財」はすべて制覇したと勘違いしてる人も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

また、たとえ正倉が世界遺産であるという知識があっても、実物の正倉は真近で見ていない(外溝や柵越しの見学は可能ですが。)という世界遺産マニアの方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

いずれにせよ、なんだか少し残念な気がします。

この他にも、いまだ宮内庁が管理している多くの遺産であって、学術的には国宝や特別史跡に指定できる極めて貴重な文化遺産も多く存在していると思われます。

やがて、これらの文化遺産が、今回の正倉と同様に、国宝(特別史跡)指定⇒世界遺産登録という迂回した方法を採ることによって、広く国民に公開される日が来ることになるのかもしれません。

ただし、私たちの次の世代のことになるのかもしれませんが・・・。
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では、今回のかき氷は、奈良町にある「樫舎(かしや)の氷」です。
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樫舎(かしや)は、元興寺近くの奈良町情報館のちょうど向い側にあたります。

店の中はというと、町屋造り風の狭い部屋があり、その奥の狭い階段を上がった2階が喫茶室になっています。
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とても、急な階段です。
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2階は、4畳半くらいの広さです。
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ご覧のような修二会(お水取り)のときに使用される松明も展示されていました。

店の方によれば、そもそも樫舎(かしや)が奉納した松明を修二会で使用した後、奉納先の二月堂から下賜されたということのようです。

修二会の松明が間近で見られるのは、とても貴重なことではないでしょうか。
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それでは、メニューです。
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かき氷の「氷」の削りはやや粗く感じましたが、むろん違和感まではありません。

寒天と餡が器の底の方に並べられいて、大きめの白玉が氷の上の方に乗っています。
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抹茶シロップは甘すぎることなく、適量のシロップが氷全体に振り掛けられ、とてもなじんだ感じがします。
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かき氷で1050円という値段は、少し高いといえるかもしれません。

また、味は抹茶のみということもあり、リピーターが足しげく通う店ということではないのかもしれません。

ただ、樫舎の氷は、細部にまでこだわった、繊細で上品な逸品であることだけは間違いないようです。

今年の氷は、9月末とのことですので、ご賞味されたい方は少々お急ぎください。

場所:奈良市中院町22-3
電話:0742-22-8899

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# by kokokara-message | 2012-09-23 21:46 | おいしいかき氷 | Trackback | Comments(0)

以下の内容が、なぜ「オアフ島バスの旅」なのか分からないと思われる方もいらっしゃると思いますが、前回、前々回からお読みいただければ納得いただけるかもしれません。
下の写真は、セネター・フォング・プランテーションに咲いていたレッドジンジャーです。
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自分の中の引き出しである経験知(暗黙知)が豊かであるほど、文脈を理解する力、つまりメタメッセージを読む力につながっていくと考えられます。

しかしながら、日常生活の中では、何が起こっているのか分からないという事態に出くわすという経験をすることがあると思います。

つまり、自分の経験知(暗黙知)の引き出しだけでは、前後の文脈が理解できないという事態に遭遇してしまっているということになります。

これは、必ずしも個人の能力が劣っているために生じている現象ではないということです。

普通このような場合には、自分も含めた人と人の関係性(文脈)をじっと観察するということになります。

つまり、その言語ゲーム(自分が理解できていない環境)を規定しているメタルールが理解できるようになるまでじっと待つということになります。
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現在と比べると、昔の人間関係は小さな世間の中だけで安定させることができたため、とりあえず自分の身の回りの世間のルールに合わせておけば、安心安全に暮らすこともできたようです。

しかしながら、現在は、このような世間が、複層的に重なり合あって、それぞれの利害が対立する状況になっているということも珍しいことではありません。

また、決まっているように見えるルールであっても、暫定的であるということが一般的であり、現在は極めて早い速度でルールの書き換えが行われている状況にあるといえます。

従って、どのような立場にあったとしても、その経験知(暗黙知)だけでは理解できないような文脈や関係性に遭遇するということはありうるということになります。
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つまり、自分がルールと確信しているものが、もはやルールではないという事態がいつ発生してもおかしくはないという状況に投げ出されているということになります。

このような断層があまりにも大きい場合には、自分がどこにいるのか(立ち位置)さえ、分からなくなってしまうことがあるかもしれません。

現代社会が抱える多くの不可解な社会現象は、このような自分の立ち位置の喪失が原因となって発生することになっているのではないでしょうか。

自分が誰であるのか分からないという、アイデンティティ喪失による統合失調症型の病理現象といえるのかもしれません。

現代社会は、決まった答えがないということがその本質になっていますが、だからといって自分の頭で考えたことが必ずしも答えになるとは限らないと留保しておくことも、もう一方の本質となっているということを、あわせて理解しておく必要があるのではないでしょうか。
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こちらも、セネター・フォング・プランテーションのピンクジンジャーです。
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# by kokokara-message | 2012-09-04 07:03 | オアフ島 ザ・バスの旅 | Trackback | Comments(0)

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京都はよく訪れるのですが、そのたびに素敵な店を発見することがあります。

雑誌などで紹介された店でも、大阪のように一気呵成に人が押し寄せることもなく、比較的穏やかに営業している店が多いように思われます。

今回は、雑誌で知ったパンケーキ10枚重ねという離れ業を披露する、京都町屋の「サラサ押小路(おしこうじ)」をご紹介します。
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サラサ押小路は、京都市役所近くの町屋を使用したパンケーキ専門店です。

パンケーキのメニューは、ご覧のとおりです。
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そして、こちらが10枚重ねパンケーキ(1100円)のメニューになります。
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珈琲は500円とちょっと高めですが、お替り自由なのは大変有難いですね。
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いよいよ、こちらが夢の10枚重ねパンケーキです。
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パンケーキには、たっぷりの生クリームと季節のフルーツ・キウイがのっていました。

また、2種類の自家製ジャムとたっぷりのメープルシロップがついています。
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横から見るとこのようになります。

1枚1枚は小ぶりでも、10枚重なるとさすがにボリュームがありますね。

自家製ジャムやメープルシロップとふわふわの生クリームと絡めて食べていると、最後まで飽きが来ません。
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10枚重ねの切り口は、このように整然としています。

噂に聴くことがあっても、出会うことの少ない、夢のパンケーキ10枚重ねという貴重な体験でした。
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次は、お得なランチメニューです。
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アボガドとクリームチーズとトマトのイタリアンサラダ(890円)。

ドリンク付きで、しかも珈琲はお替り自由なのはとてもお得です。
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パンケーキ業界広しといえども、このアイデアとこの価格設定をもってすれば、他に引けをとらないどころか、食道楽・大阪の町に持ち込めば、おそらく商売繁盛となること間違いなしではないでしょうか。

また訪れてみたい、そして大切にしたいパンケーキ専門店のひとつといえそうです。

木屋町、西京極という繁華街もいいのですが、京都リピーターの方ならぜひ、大通りから小路に一本分け入った、夢のパンケーキ10枚重ねを食べてみるのはいかがでしょうか。
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住所;京都市中京区押小路富小路東入ル橘町630
電話;075-241-4884

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# by kokokara-message | 2012-08-30 22:58 | おいしいパンケーキ | Trackback | Comments(0)

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前回に引き続き、今回も、京都のおいしいかき氷をご紹介します。

今回ご紹介する「月ヶ瀬」は、京都ではあんみつの月ヶ瀬と呼ばれているらしく、甘味処としては昭和の初期から続く老舗のようです。
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京都市役所にほど近い「月ヶ瀬」堺町店は、御池通から少し下った真新しいビル1階の小路の奥にありました。
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小路の入口には、このような看板が立っていました。
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では、早速ですが、ミルク金時(790円)+バニラアイス(100円)からご紹介します。
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+バニラアイスは、少しだけ贅沢のトッピングです。

ミルク金時かき氷の盛りは、あまりよくありません。

小ぶりであるため、少し物足りない感じがします。

大玉の白玉は、ご覧のように別皿に乗せられて出てきました。

上品ですね。

次は、宇治金時ミルク(890円)です。
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ほんのりと甘味のついた抹茶シロップがたっぷりかかっています。

抹茶シロップと金時や練乳との甘さ加減はとても良い塩梅です。

宇治金時ミルクの盛りも、やや小ぶりな感じがします。

暑さ真っ盛りの時に食べれば、、少し物足りない感じがするかもしれませんね。

ただし、トータルの印象では、上品でよくできたかき氷ということになると思われます。

ご覧のようなメニューがあります。
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そして、ご覧のようなトッピングが選択できます。
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関西ではお盆が終わると、秋の虫が鳴き始めます。

関西以東にお住いの方なら、夜窓を開けると、チロチロ、リンリンという秋の虫の音を聴くことができるのではないでしょうか。

今年の夏もいよいよ終わりですね。

まだまだ日中厳しい残暑は続きますが、京都「月ヶ瀬」の上品なかき氷を、去りゆく夏の名残りにするというのはいかがでしょうか。
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場所;京都市中京区堺町通御池下ル(アーバンライフフォルムズ烏丸御池1階)
電話;075(212)1959

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# by kokokara-message | 2012-08-17 23:08 | おいしいかき氷 | Trackback | Comments(0)

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関西の夏は、日本の中でも一番暑いと言われています。

なかでも、京都の夏の暑さは、ひとしおではないでしょうか。

まるで、関西の気候分布が、温帯から亜熱帯に移行してしまったかのようです。

地球温暖化の影響なのでしょうか。

今回は、暑い、暑い京都の夏を少しだけ涼しくしてくれる、おいしいかき氷をご紹介します。

ほんの少しだけですが、清々しい「涼」を感じていただければと思います。

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早速ですが、今回ご紹介するのは、北野天満宮の門前の「いっぷく処 古の花(このはな)」のかき氷です。

「古の花」は、北野天満宮門前というローケーションからも分かるように、天神さんに参拝する人たちが食事や一服をする店といえます。

そして、「古の花」では、6月から9月の期間限定ながら、とてもリーズナブルな値段で、とても美味しいかき氷を提供しています。

ご覧のように、他店にはない、数多くのかき氷メニューが用意されています。

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「古の花」では、フルーツ系かき氷がお勧めということらしく、まずは、「もも氷」期間限定(700円)を注文してみました。

桃の味をしたかき氷というのは、珍しいのではないでしょうか。(私が知らないだけかもしれませんが・・)

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そして、「もも氷」にかかった薄淡色の桃シロップは、ほんのりと桃の香りがしています。

味は、みずみずしいほんものの桃を食べているかのような感じです。

甘すぎることもなく、すっぱくもなく、口の中は桃の清涼感でいっぱいになりました。

まさに、「もも氷」はフルーツ系かき氷というジャンルの希少な逸品といえそうです。

次は、いちごミルクです。

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いちごミルクは、「古の花」のメニューの中でも、一番人気があるようです。

いちごシロップは、いちごをつぶしたものをシロップにしているため、つぶつぶ種がそのまま入っています。

このようなシロップは、前回ご紹介した旧鴻池邸表屋「みやけ」のいちごミルクでも使用されていました。

ただ、いちごの密度では、前回よりも、今回の「古の花」の方がやや少な目という印象です。

また、ミルク(練乳)の量もやや控え目であることから、「古の花」のいちごミルクは、さっぱりとした清涼感の漂うフルーツ系のかき氷を狙ったものであるのかもしれません。

「古の花」のもも氷、いちごミルクは、この夏一度は食べてみたいフルーツ系かき氷といえるのではないでしょうか。

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ところで、ご存知のように、京都の祇園祭は、疫病退散(あるいはその起源となった御霊信仰)を祈祷する祭りとされています。

そして、京都の祇園祭に関わらず、全国で6月から8月に行われる夏祭(夏越し祓い)の多くが、何らかの形で疫病退散(あるいは御霊信仰)の祈祷に起源を持つ祭(祀り)といえるのかもしれません。

御霊信仰とは、御霊(疫病)を畏怖し、そして御霊(疫病)を丁重に敬い(祀り)、御霊(疫病)が早急に退散すること、つまり平穏(何事もないこと)に戻ることを切に願うということです。

疫病が蔓延する夏の時期に、その原因を悪霊(御霊)に見立てるという発想は、古代、中世を生きる人たちの災難に対する世界観そのものといえそうです。

つまり、御霊信仰は、科学的方法がなかった時代の、災難(疫病)に対する、世の中の鎮静化を狙った祭事(まつりごと)の一種といえるのではないでしょうか。

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ところで、現代を生きる私たちが、日常の中で何か災難に出くわした時、必ずと言っていいほど犯人探しをする(犯人を特定する)傾向があるように思われます。

犯人が特定されることで、不安定化した状態が安定化するという考えがあるように思われます。

現代人は御霊(夏祭の起源)に対して意識は払わなくとも、自分に降りかかる災難に対しては、その起源(犯人)を特定し、自分を取り巻く環境の鎮静化を図っているのかもしれません。

このことからすると、現代人は、古代や中世の人たちと同様、御霊信仰の世界観の中を生きているといえるのかもしれません。

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御霊信仰、つまり夏祭の持つ本質は、御霊を認識し、そして御霊を畏怖し、御霊を敬い、最後に御霊の退場(平常に戻ること)を切に願うということでした。

現代人が、古代や中世の人たちと同様に御霊信仰の世界を生きているとしたら、犯人を特定するだけではなく、特定した犯人を畏怖し、敬い、犯人の退散を切に願うこと、つまりそっとしておく(鎮めておく)という態度も必要になるのではないでしょうか。

そっとしておく(鎮めておく)ということは、一見何もしないことのように思われますが、実際には相手が退散するまでの間、お互いの間に強い緊張関係(ストレス)が生じていることになります。

仏教の四苦八苦に「怨憎会苦」があります。

会いたくない相手(話しが通じない相手)と出会わなければならない、会いたくない相手(話しが通じない相手)ともコミュニケーション(交易)を図らなければならないということ。

おそらく、「怨憎会苦」の場面では、相手と関わらないことが最善の解決方法になるように思われます。

しかしながら、会いたくない相手(話しが通じない相手)でも、最低限のコミュニケーションは必要とされることもあります。

「沈黙交易」というコミュニケーションの方法はご存知でしょうか。

「沈黙交易」とは、黙ったまま意味の分からないをものを相手から入手し、黙ったまま意味の分からないものをそっとこちらから相手に提供するというコミュニケーションの方法です。

おそらく、「沈黙交易」は、理解不能な他者とのコミュニケーションの原初の方法であると思われます。

例えば、供物を介した沈黙する神々(御霊)とのコミュニケーションなどが「沈黙交易」ではないでしょうか。

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京都祇園祭の御霊信仰(夏祭)も、かような「沈黙交易」の一種であると考えられます。

また、「沈黙交易」である御霊信仰(夏祭)は、「日常」としての緊張関係が強いられる側面と、その緊張関係から開放される「非日常」の側面(羽目を外す)の両面から構成されています。

そして、この御霊信仰(夏祭)の最大の特徴が、緊張関係が強いられる「日常」からその開放である「非日常」へ反転していくことにあると考えられます。

ただし、御霊信仰(夏祭)が終わると、「非日常」へと反転した状態は、再び元の「日常」へと戻っていくことになります。

このような閉じた繰り返し(往復運動)が、御霊信仰(夏祭)の伝統と言われるものであると考えられます。

「何も変わらない」ということが、日本の祭事(政事)の伝統なのかもしれませんね。

そもそも御霊とは、理解不能な他者のことでした。

古代、中世の人の災難(御霊)に対する知恵の表現に、「鬼神は敬してこれを遠ざく」という言葉があります。

「鬼神は敬してこれを遠ざく」は、過去も、現代も、変わらない、理解不能な他者に採るべき最良のコミュニケーションの方法であると考えているのですが、さていかがでしょうか。

かようなことを考えながらも、御霊信仰の本家本元ともいえる、怖い、怖い天神さまの門前にある「古の花」のいちごミルクをご賞味されるのはいかがでしょうか。

場所;京都市上京区御前通り今小路上ル馬喰町898 北野天満宮前
電話;075-461-6687

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# by kokokara-message | 2012-08-05 10:45 | おいしいかき氷 | Trackback | Comments(0)