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先の見えない時代にあって、自分の求める生活や価値を明確にしておくことは大切なことです。自分と環境との関係性を考え、欲望をほどよく制御するための心と体の癒しのメッセージです。


by 逍遥
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沖縄であくー豚を食する簡便な方法は、しゃぶしゃぶととんかつが挙げられます。

今回は、あくー豚を食するため、沖縄県産豚使用のとんかつの店「豚々ジャッキー」に行ってきました。

「豚々ジャッキー」は駐車場がないので、タイムス等の近隣の駐車場を利用してください。

ちなみに、私は少し離れた福州園の公園駐車場(有料)を利用して、歴史のある久米の街を店まで歩きました。

琉球王朝時代の久米は福建人(現在の福建省から渡来した帰化人)が居留した地区であったらしく、今でも古代中国思想の風水の影響を受けた町割りが残っています。

さて、「豚々ジャッキー」はご覧のビルの二階にあります。


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店内は、ご覧のとおりで、それほど広くはありません。

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とんかつ専門店だけあって、メニューはとてもシンプルです。

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私は数量限定のあぐーのロースとんかつ(1800円)を注文しました。

何グラムかは分かりませんが、普通食べるとんかつの1.5倍くらいのボリュームがあります。

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ご覧のように肉厚は2センチ以上で、脂質たっぷりのとてもジューシなとんかつです。

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味噌汁と漬物、そしておかわり自由のご飯が付きます。

ただ、沖縄では自給自足ができない野菜は高価なため、本土のとんかつ専門店のようにキャベツのおかわりはありませんでした。

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最後に、あぐー豚と沖縄県産豚との違いは正直良く分からないかもしれませんが、ぜひ沖縄であぐー豚を食べてみたいのなら、沖縄県産豚使用のとんかつの店「豚々ジャッキー」であぐーロースとんかつを食して見るのはいかがでしょうか。




沖縄県那覇市久米2-9-11 abc久米ビル2F
℡098-866-1010
ランチ11:30~14:00・ディナー17:00~20:30
定住日:毎週火曜日・第3水曜日


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# by kokokara-message | 2018-01-07 22:11 | 沖縄

トリクルダウンと「選択と集中」_a0126310_11320944.jpg

トリクルダウンという言葉はご存知でしょうか。

大木からしたたり落ちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分としてまた成長していくという、大木と草花の相互依存関係をあらわした資本主義の経済理論(仮説)とされています。

上方落語には、大阪船場を舞台とした「百年目」という落語があります。

この「百年目」という落語の中で、トリクルダウンの経済理論が大阪船場の旦那と番頭の関係として、また番頭と丁稚の関係として描かれています。

そして、落語「百年目」の落ちは、人(労働者)と商売(経済)が元気であるためには、適度なトリクルダウン(露おろし)が必要ということになります。

ただ厳しい状況に耐えるだけでは、人も経済も活性化できない、したがって適度な余裕や遊びが必要ということになるわけです。

これが、トリクルダウンのエッセンスです。

また、大阪船場では、過剰な利益の収奪は卑怯な商法と見做され、節度ある利益の享受と社会貢献が持続的な商売の源泉になると信じらていました。

「損して得とる」ということになるでしょうか。

したがって、「百年目」の舞台大阪船場では、日常的に華しょくや浪費を不徳とする「世俗内禁欲」の習慣があったとされています。

これは、御堂(阿弥陀様)に囲まれた土地柄にも由来することですが、大阪船場の商法は宗教的バックボーンに基づいたものということになりそうです。

マックス・ウェバーが、資本主義の精神はプロテスタンティズムの倫理(世俗内禁欲)に由来すると指摘してたことと極めて類似性があると言えそうです。

江戸近世から明治近代にかけての大阪船場は、日本では珍しい資本主義の精神がいち早く花開いた町ということになるのではないでしょうか。

上記のとおり資本主義の精神に宗教的バックボーンが備わっているとすれば、一部の勝者だけを正義とする新自由主義的な弱肉強食の考え方はおそらく異端ということになるはずです。

しかしながら、いつの頃からか、資本主義の精神は自己利益だけを追求する競争原理と理解されてしまい、他者への寛容性だけではなく自己への配慮も欠いた経済活動が優先されるようになってしまいました。

マクロ経済的に見ると、合理性や効率性での自己利益の追求だけを図れば、一見社会全体の効用を最大化させるかのように思わますが、実際はそれとは真逆で自分で自分の足場を崩すという極めて不安定な経済状況を作り上げてしまうことになります。

例えば社会全体の資産の半分以上を上位数名だけで独占するような著しい経済格差、また労働者を代替可能な商品と見做ようなブラック企業の存在など・・。

とても不思議なことですが、確かに経験的にはそのようになっています。

この二律背反する経済現象を一般化すると、資本主義の合理性や効率性はその純度を上げれば上げるほど、つまり資本主義システムを徹底すればするほど、資本主義システムそのものが不安定になるという真逆な関係性にあると言うことです。

したがって、資本主義が長期的に安定して行くためには、合理性や効率性の純度を押し下げる適度な非合理性、例えば賃金の硬直性や雇用の非弾力性、また労働組合の存在が挙げられます。

これらのことを表した経済理論(仮説)としては、岩井克人氏の「不均衡動学」等の著書があります。

閑話休題。

ではもう少しだけ、経済のお話しにお付き合いください。

ドラッカーの有名な経済タームに「選択と集中」があります。

得意(優先順位の高い)分野を明確にして、得意とする(優先順位の高い)分野に経営資源(社会資源)を集中的に投下するという戦略のことです。

これからの日本は確実に人口が減少し、国内消費が低迷する、つまり日本の価値(人やお金)が縮小していく混迷の時代と言うことができそうです。

したがって、ドラッカーの「選択と集中」の理論からすると、自然に価値(人やお金)の拡大が見込めない時代であるからこそ、得意とする(優先順位の高い)分野に社会資源を集中的に投下することが求められるわけです。

つまり、日本が今後も経済的相対的優位に立って生き残っていくためには、あらゆる社会資源を政策的に「選択と集中」してくことが必要になってくるということです。

そして、さらにこれからの日本人と日本経済を元気にするためには、社会資源の「選択と集中」と同時進行に、トリクルダウン(露おろし)の実践が必要になってくると思われます。

トリクルダウンは、大木からしたたり落ちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分として成長していく大木と草花の相互依存関係で、結果として人(労働者)と商売(経済)をともに元気にさせるものでした。

そして、このトリクルダウンの経済理論(仮説)の要諦は、まずは大木を育て、その大木を基盤として裾野の草花に露がおろされるという先富論になっています。

では、トリクルダウン(露おろし)が先富論=「選択と集中」の帰結であるとしたら、トリクルダウンのためにどのような経済政策が考えられるのでしょうか。

例えば、企業の法人税(特に大企業)の適切な軽減化を図る一方で、個人の所得税や相続税に対する累進性の強化、また個人の社会保障への応能負担の強化、そして国全体の平準化を図る目的から地方交付税等による所得の再分配化機能の強化が挙げられると思われます。

そして、国際的な経済政策としては、「21世紀の資本論」のピケティ教授が提唱されているタックスヘブンをなくす「世界連携累進課税」が想定されることになるのではないでしょうか。

つまり、「選択と集中」の結実を原資とした所得の再分配機能、つまりトリクルダウン(露おろし)の実践が縮小していく国内の消費経済(内需)の低迷を回避させる手段であり、その結果として著しい経済格差の解消された、比較的公平と思えうことができるような日本社会が実現されることになるのかもしれません。

ただ残念なことなのですが、この半世紀の間に、日本人のマインドは、自律する方向から依存する傾向へと変質してしまったようにも思われます。

依存的な未成熟社会にあっては、おそらく資本主義の論理(とその背後にある寛容性)や所得の再分配(とその背後にある自律性)がその機能を十全に果たすことができない惧れがあると思われます。

従って、依存的で未成熟なままの社会では、誰もがフラストレーションを抱えながらも出口が見えない、いわゆる「終わりなき日常」を生きるしかないという筆者のリアリティは、勝手な思い過ごしであれば良いと思うのですが、さていかがでしょうか。

今後の日本政府の経済政策と日本人の経済動向をしっかりと見守って行きたいものです。(苦笑)


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# by kokokara-message | 2017-11-23 11:58 | 我流経済学
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オーストリア・ハプスブルグ王家の多くの至宝のひとつに、ベラスケスが描いた「白衣の王女マルガリータ」があります。

7年前になりますが、京都国立博物館で開催された「THEハプスブルグ」展で、「白衣の王女マルガリータ」(ウィーン美術史美術館)を鑑賞することができました。

ベラスケスは、17世紀に活躍したスペイン・ハプスブルグ王家の宮廷画家です。

そして、「画家の中の画家」と呼ばれたベラスケスが、晩年に描いた肖像画の傑作が、王女マルガリータの肖像画といえます。

王女マルガリータについては、そのあどけなさや愛らしい表情、そして可憐で豪華な宮廷衣装から、時代を超えて根強いファンが世界中の多くの国にいるようです。

おそらく、ベラスケスが描く王女マルガリータには、洋の東西を超えた、世界中の誰もが愛らしく素晴らしいと感じる普遍性が含まれているためではないでしょうか。

ベラスケスが描いた王女マルガリータの肖像画は、3歳、5歳、8歳、そして10歳の時に描かれた合計6点の作品が残されています。

その中でも、ベラスケスの代表作と言える5歳の王女マルガリータを描いた「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」は、横長が3m弱、縦長が3m以上もある大作で、スペインのプラド美術館が門外不出の作品として所蔵しています。(下の写真)

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「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」は、5歳の王女マルガリータが画面の中心になるように構成されていて、マルガリータのあどけない表情と、王女の確たる威厳が的確に表現されているように思われます。

そして、この「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」とほぼ同じ時期に描かれたとされる肖像画が、京都国立博物館で鑑賞した「白衣の王女マルガリータ」(ウィーン美術史美術館)です。(下の写真)


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「白衣の王女マルガリータ」と「ラス・メニーナス」で、王女マルガリータが同じ白いドレスを着用している点が大変面白く、興味深いものがあります。

ウィーン美術史美術館には、この5歳の「白衣の王女マルガリータ」以外にも、3歳と8歳の王女マルガリータの肖像画(合計3点)が所蔵されています。

これら3点の王女マルガリータの肖像画がスペインではなくウイーンにある理由は、王女マルガリータがスペイン・ハプスブルグ王家からオーストリア・ハプスブルグ王家に嫁ぐ前に、お見合い絵画(今ならお見合い写真ですね。)として贈られた経緯があるためです。

そして、先の「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」と10歳の肖像の「赤いドレスのマルガリータ」の2点の作品は、王女マルガリータの出身地のスペインのプラド美術館が所蔵をしています。

ただ、10歳の「赤いドレスのマルガリータ」(下の写真)だけは、ベラスケスが制作途中に絶命(1660年)したため、弟子たちが作品に加筆して完成させたと言われており、作品の評価は定まっていないところがあるようです。

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そして、最も幼少の頃の3歳の時に描かれたもう一点の肖像画の「王女マルガリータ」は、フランスのルーブル美術館が所蔵しています。

このような計6点(3歳:ウィーン美術史美術館とルーブル美術館、5歳:ウィーン美術史美術館とプラド美術館、8歳:ウィーン美術史美術館、10歳:プラド美術館)のベラスケスの王女マルガリータを訪ねて、ウィーン、プラド、ルーブルとヨーロッパを代表する美術館を巡る観光客も多いように聞きます。

このうち「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」だけは、物理的に大作であることと、なによりスペインの至宝でもあることから、おそらく今後とも直接プラド美術館に出向かなければ実物と出会うことはできないものと思われます。

ただ、「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」以外の王女マルガリータの肖像画は、運がよければ日本に居ても鑑賞するチャンスはありそうです。

私の場合は、3歳の肖像画のうちの一点の「王女マルガリータ」は、25年前に直接ルーブル美術館で鑑賞できるという幸運に恵まれました。(下の写真)

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そして、もう一点の3歳の肖像画の「薔薇色のドレスのマルガリータ」(ウィーン美術史美術館)は、10年程前に兵庫県立美術館で鑑賞することができました。(下の写真)

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また、8歳の肖像画の「青いドレスのマルガリータ」(ウィーン美術史美術館)は、ずいぶんと前になりますが、神戸市立博物館で鑑賞した記憶があります。(下の写真)

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そして、2010年には京都国立博物館で、5歳の肖像画の「白衣の王女マルガリータ」(ウィーン美術史美術館)を鑑賞することができたので、私は合計4点の王女マルガリータに出会うことができたというわけです。

私の王女マルガリータを巡る旅もあと残り2点だけとなったわけですが、「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」については、世界三大絵画のひとつともいわれており、王女マルガリータの存在を超えた、スペイン・ハプスブルグ王家の威信をかけた大作でもあります。

その画面の構成や物語性には、スペイン・ハプスブルグ王家にかかわる多くの謎が含まれているとも言われており、絵画好きであれば一生に一度は目にしておきたい芸術作品といえそうです。

そして、運よくプラド美術館に行くことができた人なら、ベラスケスがスペイン・ハプスブルグ王家の宮廷画家であっただけではなく、王家を支えていた王室配室長(内政と外交の最高責任者)の重責を担っていたことも見逃してはならないと思われます。

つまり、ベラスケスが宮内庁長官の立場から王女マルガリータを描いていたとしたら、私たちの「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」を鑑賞する眼も自ずと変わってくるのではないでしょうか。

ひとつの仮説ですが、晩年のベラスケスが1656年に大作「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」を描いたその理由は、後継者問題に悩んでいたフェリぺ4世(王女マルガリータの実父)がその時点で出していた「王位継承」に対する答えではなかったのかということです。

つまり、フェリぺ4世(王女マルガリータの実父)は、幼少でしかも王女のマルガリータをその時点での王位継承者として考えていたのではなかったのか。

ベラスケスが描いた王女マルガリータの肖像画の中でも、「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」と「白衣の王女マルガリータ」の5歳の頃の肖像画が、最も素晴らしい作品に仕上がっているのは、このためではないかと私は考えています。

その後、フェリぺ4世(王女マルガリータの実父)に王子(カルロス2世)が生まれ、王女マルガリータはスペイン・ハプスブルグ王家からオーストリア・ハプスブルグ王家へと嫁いで行くことになります。

フェリぺ4世(王女マルガリータの実父)の後継者となったカルロス2世(王女マルガリータの弟)は、生まれつき体が弱く、子供がもてなかったため、その逝去をもってスペイン・ハプスブルグ王家は消滅してしまいます。

一方、王女マルガリータは、嫁いだ先のオーストリア・ハプスブルグ王家のレオポルド1世との間に一人子供をもうけますが、自らは22歳という若さで逝去してしまいます。

そして、後継者がいなくなった後に起こったスペイン王位継承戦争では、次期の王として亡き王女マルガリータの孫が候補に挙がりましたが、その王子もやがて逝去し、スペイン・ハプスブルグ王家の王位継承者は誰もいなくなってしまいました。

これをもってスペイン・ハプスブルグ王家は名実ともに消滅することになり、スペイン・ハプスブルグ王家と王女マルガリータの面影はベラスケスの絵画の中だけに留め置かれることになりました。

世の栄枯盛衰は必定ですが、ベラスケスが描いた王女マルガリータはどれも愛らしく、そのあどけない表情だけは、今も鑑賞する人に穏やかさと和みを与え続けてくれているのではないでしょうか。

スペイン宮廷画物語―王女マルガリータへの旅 西川和子著より

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# by kokokara-message | 2017-10-20 23:38 | 我流絵画論
味の大王 室蘭本店(室蘭カレーラーメン)_a0126310_09413900.jpg

北海道ラーメンでは、函館のしお、札幌のみそ、旭川のしょうゆが有名ではないでしょうか。

室蘭には、室蘭カレーラーメンがあります。

室蘭カレーラーメンのパイオニアでもある、味の大王 室蘭本店に行ってきました。

味の大王 室蘭本店は、室蘭市役所にほど近い旧市街の商店街の一画にあります。

後から知ったことですが、味の大王は東室蘭駅前に支店を出していました。

東室蘭駅周辺に宿泊する人なら、わざわざ室蘭本店まで行く必要はないということですね。

ご覧のように、室蘭カレーラーメンはやや太めの縮れ麺と濃厚な味わいのカレースープが特徴です。

そして、室蘭市内にはカレーラーメンを提供する店が数十件あるとのこと。

果たして、室蘭カレーラーメンは、函館、札幌、旭川に次ぐ北海道第四のラーメンになることができるのでしょうか。

なお、新千歳空港3階には全道のご当地ラーメンが大集合していますが、残念ながら室蘭カレーラーメンはありませんでした。

味の大王 室蘭本店(室蘭カレーラーメン)_a0126310_09400113.jpg

また、室蘭のご当地グルメには、室蘭カレーラーメン以外に、室蘭やきとりがあります。

一般には、やきとりは鶏肉と長ネギなどの野菜を用いた串料理のことを指します。

しかしながら室蘭やきとりは、鶏肉の替わりに豚肉を使用し、長ネギの替わりに玉ねぎを使用し、焼いた串に洋がらしをつけて食べます。

室蘭独自のやきとり文化と言えそうですが、これを確かめるため、やきとりの一平 中島本店に行ってきました。

こちらも後から知ったことですが、やきとりの一平は東室蘭駅前に支店を出していました。

東室蘭駅周辺に宿泊する人なら、わざわざ同駅から徒歩15分の中島本店にまで行く必要はないということですね。

やきとりが鶏でなく豚であるのはとてもユニークですが、これに至った経緯については、室蘭市のホームページのむろらんのグルメからご確認いただくことができます。

なお、室蘭市内のやきとり店は、鶏肉を使用した一般的なやきとりもメニューに並べていますので、ご安心ください。

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新千歳空港からレンタカーで洞爺湖を訪れたあと、宿泊のために立ち寄ったのが室蘭でした。

室蘭は、沿岸部に製鉄や製鋼、製油などの工場群が立ち並ぶ工業都市で、室蘭の夜景は「日本七大工場夜景」のひとつとされています。

むろらん夜景については、室蘭市のホームページからご覧いただくことができます。

盛夏に訪れた室蘭は、すでに短い夏を終えて、ひと足早い秋モードへと切り替わりつつあるのではないかと思われます。

秋・冬の北海道を旅される方は、ぜひ室蘭まで足を延ばされて、室蘭カレーラーメンと室蘭やきとりのご当地グルメをご賞味されるのはいかがでしょうか。


・味の大王 室蘭本店
 ℡0143-23-3434
 駐車場10台

・やきとり一平 中島本店
 ℡0143-44-4420
 駐車場15台


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# by kokokara-message | 2017-09-09 10:33 | 北海道
今考えるべきこと(近代を超えるもの~ポストモダンとは何か)_a0126310_10070154.jpg

日常の中で、なんだか良く分からない、因果関係が判然としないと言った現実(現象)に出くわすことは、多々あるのではないでしょうか。

おそらく、素朴で限定された世界以外では、あらゆる現実(現象)は一因一果の関係にあるのではなく、ある原因が結果となり、またその結果が新たな原因になるという円環関係(ウロボノスの輪)になっていると思われます。

昨今話題の人工知能(AI)の世界では、入力と出力の関係は一因一果の関係にあるのではなく、入力が出力に影響を及ぼし、その出力がさらなる入力となって出力に影響を及ぼす円環関係(ウロボノスの輪)になってるとされています。

また、「人間万事塞翁が馬」の言葉にあるように、幸運と不運は明確に峻別できるものではなく、ある原因が結果を生み、その結果がまた原因となって次の結果を生むという円環関係(ウロボノスの輪)になっていることは古くから知られていることでもあります。

つまり、自分の周りの現象を見回して見ると、過去にも、現在にも、未来にも、実験モデルのような単純かつ線的な因果律は存在せず、あらゆる現実(現象)が円環関係(ウロボノスの輪)になっていると言うことです。

しかしながら、近代を自負する人にとっては、一因一果の関係にないというものの見方は、とても奇異で不可解なものに映ることになるのかもしれません。

なぜならば、近代を自負する人にとっては、ある原因に対してある結果が生じる単純かつ線的な因果律が、自然なものとして受け入れられているからです。

たとえば、近代を自負する人が納得できない結果に出くわしたら、必ず原因が特定できるものと信じ、懸命になって犯人(原因)探しをするのではないでしょうか。

また、現実(現象)は予定調和に展開するものと信じ、予定通りに進まない現実(現象)に出くわすと、現実(現象)の方が間違っていると憤慨するのではないでしょうか。

繰り返しになりますが、現実(現象)は実験モデルのような単純かつ線的な因果律にはなく、あらかじめ予定されたシナリオ通りに展開するものでもないということです。

たとえ運よく犯人(原因)が特定できたり、シナリオ通りに現実(現象)が展開したとしても、ほんの少し環境が変わっただけで現実(現象)は万物流転して行きます。

つまり、最終回答と思われた現実(現象)でも、多様多様な原因が複雑に重なり合った一時点の暫定的な結節点(結果)でしかないということになります。

ところで話は少し逸れますが、因果律において原因と結果が時系列に展開するのは、至極当たり前なこととして広く受け入れられているのではないでしょうか。

まず最初に原因があって、それから時間軸に沿って結果が生じてくるというものの見方です。

特に近代を自負する人にとって、因果律が時系列に展開するというのは信憑性というより、信仰に近いものがあると言えるのかもしれません。

しかしながら、日常の中で経験する多くの現実(現象)は、必ずしも原因と結果が時間軸に沿って時系列に展開するものばかりではないと言うことです。

たとえば、シンクロシニティー(共時性)と呼ばれる現象があります。

もともとパラレル(平行)な関係にあるいくつかの事柄が、シンクロナイズして同期に原因と結果が生じるという見方です。

たとえば、空に虹がかかったことと子供の病気が治癒したことはパラレル(平行)な関係で、そこには何の因果律も見出すことはできないかもしれません。

しかしながら、シンクロシニティー(共時性)では、空に虹がかかったことと子供の病気が治癒したことに因果律を認めて、現実(現象)の展開を図るということになります。

少しオカルト的かもしれませんが、日本人が大好きな占いの世界などでは、パラレル(平行)な事柄を平気で並べてそこに因果律を見出しているのではないでしょうか。

おそらく、近代を自負する人にとっては、このようなシンクロシニティー(共時性)や占いの世界は、非合理的かつ前近代的なオカルトと映るのかもしれません。

一般論としても、なんだか良く分からない、因果関係が判然としないという現実(現象)に出会ったら、おそらく多くの人は戸惑い、そして暫し思考停止(判断保留)状態に陥ることになるのではないでしょうか。

思考停止(判断保留)は二項対立の一方に振り切れない自己防衛のための手段ですが、一方では足場が定まらないままグレーゾーンの中に宙吊りにされたような極めてストレスフルな状態でもあるということです。

おそらく、日常の中で起こる現実(現象)の多くは、白黒はっきりとしないグレーゾーンの中に位置するもので、それは近代(モダン)の合理性や単純かつ線的な因果律から零れ落ちた、どちらかと言えば前近代(プレモダン)的で非合理な円環の因果律を含んだ不可思議でオカルト的なものになるのかもしれません。

現実(現象)とは、あらかじめ決まった答えがあるものではなく、各人の社会的文脈や世界観から導き出された個別のリアリティ(現実感)ということではないでしょうか。

これまでに近代(モダン)や近代化という言葉を使用してきましたが、近代化とは欧米化のことでもあります。

そして、近代化つまり欧米化の最大の特徴は、あらゆる現実(現象)を言語(概念)によって分節(カテゴリー化)してしまうことではないかと思われます。

つまり、目の前にある現実(現象)を余すことなく言語化(概念化)してしまうということが、近代(欧米)化の本質で、近代化の徹底ということになります。

このため、言語化(概念化)が困難とされた現実(現象)は前近代や非合理なものとして分類化されてしまい、社会の背景へと追いやられてしまうことになります。

ヴィットゲンシュタインに「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉がありますが、近代社会において言語化(概念化)の徹底をしても、なお分節(概念化)が困難となった現実(現象)はやがて無化されてしまうことになります。

このことからも分かるように、言語化(概念化)の限界が近代(モダン)化の限界と言うことでもあり、言語化(概念化)の限界(境界)を超えた向こうに位置する非言語空間がポストモダンということになるのではないかと思われます。

現在は、ポストモダンの時代にあるとされることがあります。

繰り返しになりますが、ポストモダンとは、近代(モダン)を超越した境界の向こう側に位置する言語化されていない思考方法や世界観のことであって、その非言語空間を言語化することがポストモダンに求めらることではないかと思われます。

したがって、言語化が近代化の本質であるのなら、ポストモダンにおいては今以上に近代(モダン)を徹底することから始めなければならないのではないかと思われます。

逆説のようですが、今在る近代(モダン)の中に今以上に強固な近代(モダン)を構築することでしか、近代(モダン)を超越して行く足場は構築できないということです。

また、近代(モダン)からポストモダンへの移行は、社会全体がデジタルにポストモダンへと切り替わって行くものではなく、おそらく各人の思考方法や世界観が徐々に位相を変えながら変容して行くものではないかと思われます。

つまり、ポストモダンへの移行とは、世界や国家レベルで起こる劇的な世界観のズレではなく、むしろ個人レベルで起こる属人的な精神面の位相の変化ではないかと思われます。

少し言い方を変えるとすれば、国家や民族などを背景として持った個人レベルの無意識の意識化ということになるのかもしれません。

そして、無意識の意識化は、先の見えない複雑化した近代(モダン)社会の様々な葛藤や軋轢を解決してくれる(近代を超えて行く)端緒になってくれるように思われます。

最後になりましたが、ポストモダンにおける非言語空間の言語化は、自然科学や社会科学における実験モデルのアプローチの方法を採るものではなく、むしろ個人レベルの私的(詩的)で文学的な表現方法による無意識の意識化、つまり「神話の創造」に拠るところが大きくなるのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。

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【蛇足ながら】

前近代(プレモダン)は、神との対話が可能な時代とされていました。

近代(モダン)は、神との対話が途絶えた、神なき時代ともいわれています。

このため、近代(モダン)は、人が自問自答を繰り返す(自分の頭で考える)しかない時代であったということでもあります。

そして、人が自問自答を繰り返す(自分の頭で考える)ことが哲学の営為であるとするのなら、近代(モダン)は哲学の営為を通して、自分の頭で考える「個人」を生み出だすことが可能な時代ということになります。

また一方で、「個人」とはその外部の「他者」の存在なしには生成されることがなく、「他者」と同時に生成されてくる概念ということになります。

なぜなら、「個人」とは自律した概念であると同時に、その外部の「神」や「他者」との関係性(相対化)の中から生成されてきた概念でもあるからです。

従って、ポストモダンの時代では、「個人」が近代(モダン)から零れ落ちた周縁部の非合理性や「他者」という異質性に自覚的となり、その距離感(関係性)を調整していくことがなによりも求められることではないでしょうか。

ところで、仏教には「輪廻転生」という教え(世界観)があります。

おそらく、古代人は、現実(現象)全般が円環関係(ウロボノスの輪)で説明ができるとどこかで理解ができており、この円環関係の現実(現象)全般を「輪廻転生」と呼ぶことにしたのではないでしょうか。

仏教の世界観では、この円環関係にある「輪廻転生」からの「解脱」を目指すということになります。

そして、この「輪廻転生」から「解脱」できた境地のことを、「悟り」と呼んでいるのではないかと思われます。

つまり、古代人にとっての「解脱」とは、この現実(現象)全般からの「解脱」、つまりウロボノスの輪の円環関係からの「解脱」ということになりそうです。

このように考えると「解脱」は、「出家」そのもののであるようにも思われます。

しかしながら、「解脱」の本質が世間の相互参照(自分の頭で考えない)からの離脱にあるとすれば、「自分の頭で考える」という個人の営為はまさに「自分の頭で考えない=相互参照」からの離脱にあるということです。

そして、「解脱」のあとにやってくる「悟り」の境地は、この解脱の本質(自分の頭で考える)に自覚的になる(気づく)ということではないでしょうか。

つまり、「悟り」とは自分の頭で考えた結果であるので、自覚的かつ客観的にももはや迷う余地はない、是非に及ばずという境地(心の安寧)ではないでしょうか。

したがって、「悟り」は「出家」だけを前提とした限定的な境地のことではなく、世俗にあっても、自分の頭で考える営為、つまりは自らを相対化し、自他を生成する自己意識の習得こそが「悟り」のために必要な要件になってくるのではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。


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# by kokokara-message | 2017-08-20 11:18 | 我流方法序説