おそらく、素朴で限定された世界以外では、あらゆる現実(現象)は一因一果の関係にあるのではなく、ある原因が結果となり、またその結果が新たな原因になるという円環関係(ウロボノスの輪)になっていると思われます。
昨今話題の人工知能(AI)の世界では、入力と出力の関係は一因一果の関係にあるのではなく、入力が出力に影響を及ぼし、その出力がさらなる入力となって出力に影響を及ぼす円環関係(ウロボノスの輪)になってるとされています。
また、「人間万事塞翁が馬」の言葉にあるように、幸運と不運は明確に峻別できるものではなく、ある原因が結果を生み、その結果がまた原因となって次の結果を生むという円環関係(ウロボノスの輪)になっていることは古くから知られていることでもあります。
つまり、自分の周りの現象を見回して見ると、過去にも、現在にも、未来にも、実験モデルのような単純かつ線的な因果律は存在せず、あらゆる現実(現象)が円環関係(ウロボノスの輪)になっていると言うことです。
しかしながら、近代を自負する人にとっては、一因一果の関係にないというものの見方は、とても奇異で不可解なものに映ることになるのかもしれません。
なぜならば、近代を自負する人にとっては、ある原因に対してある結果が生じる単純かつ線的な因果律が、自然なものとして受け入れられているからです。
たとえば、近代を自負する人が納得できない結果に出くわしたら、必ず原因が特定できるものと信じ、懸命になって犯人(原因)探しをするのではないでしょうか。
また、現実(現象)は予定調和に展開するものと信じ、予定通りに進まない現実(現象)に出くわすと、現実(現象)の方が間違っていると憤慨するのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、現実(現象)は実験モデルのような単純かつ線的な因果律にはなく、あらかじめ予定されたシナリオ通りに展開するものでもないということです。
たとえ運よく犯人(原因)が特定できたり、シナリオ通りに現実(現象)が展開したとしても、ほんの少し環境が変わっただけで現実(現象)は万物流転して行きます。
つまり、最終回答と思われた現実(現象)でも、多様多様な原因が複雑に重なり合った一時点の暫定的な結節点(結果)でしかないということになります。
ところで話は少し逸れますが、因果律において原因と結果が時系列に展開するのは、至極当たり前なこととして広く受け入れられているのではないでしょうか。
まず最初に原因があって、それから時間軸に沿って結果が生じてくるというものの見方です。
特に近代を自負する人にとって、因果律が時系列に展開するというのは信憑性というより、信仰に近いものがあると言えるのかもしれません。
しかしながら、日常の中で経験する多くの現実(現象)は、必ずしも原因と結果が時間軸に沿って時系列に展開するものばかりではないと言うことです。
たとえば、シンクロシニティー(共時性)と呼ばれる現象があります。
もともとパラレル(平行)な関係にあるいくつかの事柄が、シンクロナイズして同期に原因と結果が生じるという見方です。
たとえば、空に虹がかかったことと子供の病気が治癒したことはパラレル(平行)な関係で、そこには何の因果律も見出すことはできないかもしれません。
しかしながら、シンクロシニティー(共時性)では、空に虹がかかったことと子供の病気が治癒したことに因果律を認めて、現実(現象)の展開を図るということになります。
少しオカルト的かもしれませんが、日本人が大好きな占いの世界などでは、パラレル(平行)な事柄を平気で並べてそこに因果律を見出しているのではないでしょうか。
おそらく、近代を自負する人にとっては、このようなシンクロシニティー(共時性)や占いの世界は、非合理的かつ前近代的なオカルトと映るのかもしれません。
一般論としても、なんだか良く分からない、因果関係が判然としないという現実(現象)に出会ったら、おそらく多くの人は戸惑い、そして暫し思考停止(判断保留)状態に陥ることになるのではないでしょうか。
思考停止(判断保留)は二項対立の一方に振り切れない自己防衛のための手段ですが、一方では足場が定まらないままグレーゾーンの中に宙吊りにされたような極めてストレスフルな状態でもあるということです。
おそらく、日常の中で起こる現実(現象)の多くは、白黒はっきりとしないグレーゾーンの中に位置するもので、それは近代(モダン)の合理性や単純かつ線的な因果律から零れ落ちた、どちらかと言えば前近代(プレモダン)的で非合理な円環の因果律を含んだ不可思議でオカルト的なものになるのかもしれません。
現実(現象)とは、あらかじめ決まった答えがあるものではなく、各人の社会的文脈や世界観から導き出された個別のリアリティ(現実感)ということではないでしょうか。
これまでに近代(モダン)や近代化という言葉を使用してきましたが、近代化とは欧米化のことでもあります。
そして、近代化つまり欧米化の最大の特徴は、あらゆる現実(現象)を言語(概念)によって分節(カテゴリー化)してしまうことではないかと思われます。
つまり、目の前にある現実(現象)を余すことなく言語化(概念化)してしまうということが、近代(欧米)化の本質で、近代化の徹底ということになります。
このため、言語化(概念化)が困難とされた現実(現象)は前近代や非合理なものとして分類化されてしまい、社会の背景へと追いやられてしまうことになります。
ヴィットゲンシュタインに「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉がありますが、近代社会において言語化(概念化)の徹底をしても、なお分節(概念化)が困難となった現実(現象)はやがて無化されてしまうことになります。
このことからも分かるように、言語化(概念化)の限界が近代(モダン)化の限界と言うことでもあり、言語化(概念化)の限界(境界)を超えた向こうに位置する非言語空間がポストモダンということになるのではないかと思われます。
現在は、ポストモダンの時代にあるとされることがあります。
繰り返しになりますが、ポストモダンとは、近代(モダン)を超越した境界の向こう側に位置する言語化されていない思考方法や世界観のことであって、その非言語空間を言語化することがポストモダンに求めらることではないかと思われます。
したがって、言語化が近代化の本質であるのなら、ポストモダンにおいては今以上に近代(モダン)を徹底することから始めなければならないのではないかと思われます。
逆説のようですが、今在る近代(モダン)の中に今以上に強固な近代(モダン)を構築することでしか、近代(モダン)を超越して行く足場は構築できないということです。
また、近代(モダン)からポストモダンへの移行は、社会全体がデジタルにポストモダンへと切り替わって行くものではなく、おそらく各人の思考方法や世界観が徐々に位相を変えながら変容して行くものではないかと思われます。
つまり、ポストモダンへの移行とは、世界や国家レベルで起こる劇的な世界観のズレではなく、むしろ個人レベルで起こる属人的な精神面の位相の変化ではないかと思われます。
少し言い方を変えるとすれば、国家や民族などを背景として持った個人レベルの無意識の意識化ということになるのかもしれません。
そして、無意識の意識化は、先の見えない複雑化した近代(モダン)社会の様々な葛藤や軋轢を解決してくれる(近代を超えて行く)端緒になってくれるように思われます。
最後になりましたが、ポストモダンにおける非言語空間の言語化は、自然科学や社会科学における実験モデルのアプローチの方法を採るものではなく、むしろ個人レベルの私的(詩的)で文学的な表現方法による無意識の意識化、つまり「神話の創造」に拠るところが大きくなるのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。
【蛇足ながら】
前近代(プレモダン)は、神との対話が可能な時代とされていました。
近代(モダン)は、神との対話が途絶えた、神なき時代ともいわれています。
このため、近代(モダン)は、人が自問自答を繰り返す(自分の頭で考える)しかない時代であったということでもあります。
そして、人が自問自答を繰り返す(自分の頭で考える)ことが哲学の営為であるとするのなら、近代(モダン)は哲学の営為を通して、自分の頭で考える「個人」を生み出だすことが可能な時代ということになります。
また一方で、「個人」とはその外部の「他者」の存在なしには生成されることがなく、「他者」と同時に生成されてくる概念ということになります。
なぜなら、「個人」とは自律した概念であると同時に、その外部の「神」や「他者」との関係性(相対化)の中から生成されてきた概念でもあるからです。
従って、ポストモダンの時代では、「個人」が近代(モダン)から零れ落ちた周縁部の非合理性や「他者」という異質性に自覚的となり、その距離感(関係性)を調整していくことがなによりも求められることではないでしょうか。
ところで、仏教には「輪廻転生」という教え(世界観)があります。
おそらく、古代人は、現実(現象)全般が円環関係(ウロボノスの輪)で説明ができるとどこかで理解ができており、この円環関係の現実(現象)全般を「輪廻転生」と呼ぶことにしたのではないでしょうか。
仏教の世界観では、この円環関係にある「輪廻転生」からの「解脱」を目指すということになります。
そして、この「輪廻転生」から「解脱」できた境地のことを、「悟り」と呼んでいるのではないかと思われます。
つまり、古代人にとっての「解脱」とは、この現実(現象)全般からの「解脱」、つまりウロボノスの輪の円環関係からの「解脱」ということになりそうです。
このように考えると「解脱」は、「出家」そのもののであるようにも思われます。
しかしながら、「解脱」の本質が世間の相互参照(自分の頭で考えない)からの離脱にあるとすれば、「自分の頭で考える」という個人の営為はまさに「自分の頭で考えない=相互参照」からの離脱にあるということです。
そして、「解脱」のあとにやってくる「悟り」の境地は、この解脱の本質(自分の頭で考える)に自覚的になる(気づく)ということではないでしょうか。
つまり、「悟り」とは自分の頭で考えた結果であるので、自覚的かつ客観的にももはや迷う余地はない、是非に及ばずという境地(心の安寧)ではないでしょうか。
したがって、「悟り」は「出家」だけを前提とした限定的な境地のことではなく、世俗にあっても、自分の頭で考える営為、つまりは自らを相対化し、自他を生成する自己意識の習得こそが「悟り」のために必要な要件になってくるのではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。
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