和を以って貴しと為す


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前回に引き続き、リンボウ(林望)先生の著書「新個人主義のすすめ」から引用をさせていただきます。

書評ではありませんのであしからず。

同書では、聖徳太子の十七条憲法の劈頭にある「以和為貴」が取り上げられています。

「以和為貴」は、ふつう「(和)わをもって(貴)たっとしとなす」と読んでいますが、古い写本に拠れば「(和)やわらかなるをもって(貴)たっとしとなす」と読むことがあるようです。

この場合の「和=わ」と「和=やわらか」は、言うまでもなく同じ意味で使用されています。

しかしながら、前者の「和=わ」と後者の「和=やわやか」に少なからず違和感を覚えたとしたら、それはおそらく前者の「和=わ」を「同=どう」と読み違えしていることからくる錯覚ではないでしょうか。

つまり、「和=わ」の意味は調和するということであって、和(なご)やかに、睦(むつ)みあって、諍(いさか)いをしないということになりますが、「同」はどちらかと言えば主体性がなく、付和雷同して誰かの意見に流されるということになります。

「和=わ」は、主体的に、しなやかに、やわらかに、なごやかに、むつみあって、いさかいのない調和した状態をつくりだすということになります。

論語には「君子は和して同ぜず」という言葉がありますが、これはまさに「和」と「同」の違いを言い表していると言えそうです。

但し、大変残念なことに、いつの頃からか日本人は、「和」と「同」を読み違えてしまったようです。

おそらく、この読み違えは日本人が「同じ」であることを前提に成り立っている世間で生きていることと関係があるように思われます。

ここで言う世間は、みんな「同じ」が通用するような狭い範囲の人間関係のことです。

では、世間の「同じ」は、果たして「平等」と同じ意味で使用されているのでしょうか。

人それぞれに身体的な差異があって、付属する有形無形の財産や人間関係に差異があるのは当然のことです。

しかしながら、身分制の封建社会では同じ百姓の間に大きな差異があったとしても、百姓は「同じ」身分であることを前提として来ました。

そして、百姓の中でも大きな割合を占めた農民は、田植えや稲刈をムラ総出の共同作業(結=ゆい)で行い、全体で成果を上げることをムラの掟としていました。

日本のムラ社会(世間)では、たとえ様々な立場の意見があったとしても、意見は自分が言うものではなく、みんなで決まった意見に従うということになっています。

かような百姓の稲作文化が数百年以上続いたためか、日本の世間では「同じ」ことをするが原則になってしまい、自分に合った仕事や生活をすることは悪と見做されることになりました。

日本国の方針に「ワーク・ライフ・バランス」が掲げられていますが、残念なことに十分な成果は上がっていないように思われます。

これは自分に合った仕事や生活をする「ワーク・ライフ・バランス」が日本では個人主義的と見做されて、横並びから突出する不届き者が出ないようみんなで牽制し合い監視し合う関係が続いてきたからだと思われます。

昨今監視社会が話題に上ることがありますが、日本の世間では牽制し監視するが習慣になっているため、内面の自由に対する警戒心は低くなっているように思われます。

おそらく日本には長い世間の歴史があるため、少しくらいの社会構造の変化ではその本質までは変わらず、「平等」ではない「同じ」への強い志向性が今も続いているのではないでしょうか。

ところで、お隣の国、中国は個人主義的と言われることがあります。

また、中国は「個人」がある社会と言われることがあります。

確かに日本との対比では、中国は「同じ」であるよりも、むしろ差異(違い)を重要視する社会で、個人主義的と言われれば確かにそのように思われます。

しかしながら、中国人の個人主義は欧米の一神教を起源とする利他的な個人主義ではなく、それとは真逆な多神教的を起源とする利己的な個人主義ではないかと思われます。

例えば、中国人が平等を求めるのはあくまでルールの下の平等で、異姓不養(異姓からは養子をとらない)の原則に見られる宗族(家族)間の差異は明確にして区別してきました。

つまり、中国は「同じ≠平等」が適用される宗族(世間)が多元的に存在する社会であって、地縁血縁のムラ社会(世間)が多元的に存在する日本ととても似た社会構造にあると言えそうです。

このためか、中国人は個人主義的と言われながらも、相手を一個人として尊重できるような、宗族(世間)を超えた普遍性は持ち合わせてはいないように思われます。

また、中国にも一神教的な天の世界観である儒教がありますが、これはあくまで支配階層の思想(宗教)であって、一般大衆にとっての思想(宗教)は道教になります。

道教が老荘思想の「未分化同一」を志向していることからも分かるように、道教には一神教的に個人が分節されるという世界観はなく、多神教的な渾然一体の世界観になっています。

中国の一般大衆が「未分化同一」の世界観で生きているとしたら、日本の母系原理に基づいた「母子密着」の世界観とはとても近い関係にあるのではないでしょうか。

そして、日本の文化の中に道教の影響が強く見られることについては、中国哲学者の故福永光司氏が数十年以上前から指摘されてきたところでもあります。

ちなみに、先述した「君子は和して同ぜず」は儒教の言葉であって、道教の渾然一体の世界観ではないと言うことです。

中国社会は、欧米社会の数百年後の姿と言われることがあります。

おそらくこれは、中国が爛熟した古代都市文明のなれの果ての姿であって、一神教的な欧米社会の利他的な個人主義は、やがて文化が爛熟すると利己的な個人主義に変貌して行くのではないかと言った危惧ではないかと思われます。

しかしながら、中国の個人主義が前提としている個人は、一神教的な分節で自律している個人ではなく、「未分化同一」のコンプレックス状態の反動形成として生じた未熟で万能感の強い個人であることからすると、中国社会は欧米社会の数百年後の姿ではなく、むしろ母子密着のコンプレックス状態を起源とする母系社会日本の近い将来の姿ではないかと大変危惧しているのですが、さていかがでしょうか。


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by kokokara-message | 2017-06-17 11:43 | 読書 | Trackback | Comments(0)