心と体の癒しのメッセージ
2022-12-25T14:31:29+09:00
kokokara-message
先の見えない時代にあって、自分の求める生活や価値を明確にしておくことは大切なことです。自分と環境との関係性を考え、欲望をほどよく制御するための心と体の癒しのメッセージです。
Excite Blog
ローズガーデンのエッグベネディクト(北中城村)
http://kkmessage.exblog.jp/241680457/
2022-12-17T21:09:00+09:00
2022-12-19T21:08:03+09:00
2022-12-17T21:09:00+09:00
kokokara-message
沖縄
沖縄県中頭郡北中城村のアメリカンレストラン「ローズガーデン」に行ってきました。
ローズガーデンの名物はエッグベネディクトです。
エッグベネディクトは、ローズガーデン特製イングリッシュマフィンの上に、厚切りハムか、ローズガーデン特製のアメリカンソーセージがトッピングされます。
その上に、黄身は半熟、卵白はある程度固まった状態のポーチドエッグが乗せられて、さらにその上にオランダーズソースがかけられています。
上の写真です。
ポーチドエッグをつぶして、半熟の黄身とオランダーズソースと絡めて食べます。
ポーチドエッグは、ご存知のとおり、日本では落とし卵と呼ばれる料理です。
固めるために酢を入れた熱湯の中に、生卵の中身を落として加熱したものです。
ゆで卵に比べ、調理時間が短く、黄身が食べごろの半熟となるまで数十秒程度で済むのが特徴のようですね。
料理にはホットコーヒーかアイスティが付きまして、おかわりは自由です。
ぜひ沖縄旅行の際に立ち寄られて、アメリカンな気分に浸るというのいかがでしょうか。
厚切りハムのエッグベネディクト¥1300
ローズガーデン特製アメリカンソーセージ¥1390
アメリカンソーセージとハムのコンビ¥1350
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土地に対する忌避意識(全編)
http://kkmessage.exblog.jp/241662874/
2022-11-26T11:54:00+09:00
2022-12-25T14:31:29+09:00
2022-11-26T11:54:17+09:00
kokokara-message
我流社会学
新明解国語辞典によればと、「忌避(きひ)」とは、嫌がって避けることとされています。
残念なことですが、土地に対する忌避意識という問題が取り上げられることがあります。
これは、大変難しい問題といえますが、土地そのものに対する忌避意識であるのか、それともそこに住んでいる人、またそこに住んでいた人に対する忌避意識であるのか判然としないところがあるように思われます。
つまり、土地に対する忌避意識とは、どうも明確な区分があって発生しているものではないように思われます。
あいまいな区分であるがゆえに忌避意識を発生させ、存続させることになっているといえるのかもしれません。
ただ、土地に対する忌避意識は、その土地にかかわったことが原因で発生している忌避という点では一致しているように思われます。
つまり、その土地に住んでいる人、新たに住んだ人、また住んでいた人などに対して忌避意識が発生していることからすると、その土地にかかわったことが原因で発生している側面が強いといえるのではないでしょうか。
では、なぜ、その土地に対して忌避意識が発生するのでしょうか。
そのアプローチとして、真逆のその土地に対する忌避意識が発生しない場合を考えてみることにします。
おそらく、その土地に対する社会的文脈が共有できていない人には、忌避意識は発生しないと思われます。
たとえば、外国から来た人や地縁血縁のない遠方からの来訪者などがそうです。
なぜなら、その土地にかかる忌避意識は目に見えて手で触れることができるようなものではなく、共同幻想のように実体が伴わないものであるからです。
したがって、共同幻想そのものが相対化できている人ならば、忌避意識は発生しないのかもしれませんね。
では、実体が伴わないにもかかわらず、どうしてその土地に対する忌避意識が存在しているのでしょうか。
これは一仮説ですが、共同体内部に実在する実体的な格差や差別を合理化する方法として、実体の伴わない共同幻想を共同体の内部で共有するという倒錯した方法がとられているのではないかと思われます。
つまり、共同幻想を共有できた人が共同体の仲間ということになり、共同幻想に同化されない人や知らない(関係がない)人は、共同体の仲間として看做されなことになるということです。
身近なところでは、学校や会社などで起きてるいじめ、つまりターゲットを探し出して一緒になっていじめなければ今度は自分がいじめられる、いじめられないためには見て見ぬふりをするという構図と似ていますね。
このことを一般化すると、土地への忌避意識は、共同性を立ち上げるために付与された「記号的意味」ということになり、おそらく土地への忌避意識は共同性を構築するために必要な「スケープゴート」として扱われているということになりそうです。
次に、土地への忌避意識について、土地取引という経済の側面からアプローチをしてみることにします。
資本主義経済では、「選択の自由」が保障されなければならないことはいうまでもありません。
そして、そのための情報収集についても、経済活動のひとつとして保障されなければならないことはいうまでもないことです。
しかしながら、経済学者のハイエクやフリードマンが仮定する「選択の自由」を実践できる自由な個人は、自立して合理的判断ができる個人ということになります。
つまり、他者や共同体(世間)の呪縛から解放されて、自由で合理的な判断ができる人ということになります。
「選択の自由」には、自分が必要とするものを自分で選択できる、つまり能動的に「選択する能力」を持った個人が存在することが前提になります。
従って、自分で選択できる自由が前提にあるにもかかわらず、自分以外にその自由を譲り渡し、選択そのものを他者や共同体(世間)に依存するような受動的な能力ではないということです。
少し話は変わりますが、国富論を著したアダムスミスの仮説では、市場経済は「神の見えざる手」によって動かされているとされています。
そして、「神の見えざる手」は、市場経済活動に参加した人たちの「共感意識」がセットされて機能するものとされています。
ここで言う「共感意識」は、他者への配慮(合理的配慮)ということになります。
つまり、他者への配慮(合理的配慮)がセットされた「神の見えざる手」が機能することによって、市場経済が適正に運営されるという考え方です。
また、上記のようなアダムスミスの古典的自由主義を評価する立場のひとつに新自由主義があります。
新自由主義では、「選択の自由」が実践できる理論的根拠がアダムスミスの「神の見えざる手」ということになります。
しかしながら、先にも指摘したとおり、アダムスミスの「神の見えざる手」には「共感意識」が組み込まれて機能するというものでした。
このため、「共感意識」を欠く経済行為は、たとえ「選択の自由」の美名の下に実践されたとしても、市場経済からは正当な経済行為として容認されるものではありません。
たとえば、世界中でみられる拝金主義やその結果の経済格差、また知る権利を標榜しながらプライバシーを侵害する情報収集などの卑劣な経済行為は、他者への配慮(合理的配慮)や「共感意識」を欠いた自由の放埓であり、欲望の暴走でしかありません。
「立場可換性」という倫理的な観点からは、自分が許容できないことは人に強要しないという立場を採用します。
つまり、お互いがお互いの自由を尊重し合うことでやっと自由のバランスがとれるという考え方になります。
言い方を変えれば、自由には必ず限界があるということです。
「共感意識」を欠いた経済行為は自由のバランスを一方的に破壊するだけではなく、自分自身の自由の足場さえも失ってしまう危険があるわけです。
岩井克人氏の「不均衡動学」によれば、新自由主義が提唱する市場原理をどんどん純化させていけば、やがて市場経済は一握りの勝者と大多数の敗者になってしまい、市場経済から自由そのものが無くなってしまうというパラドックスに陥るということです。
このように倫理感や節度を欠いた経済活動は、もはや市場経済から正当な経済行為として容認されないだけでなく、金融危機で見られたような市場経済そのものを崩壊させてしまう危険性を孕んだ経済行為といえるのではないでしょうか。
本題に戻ります。
土地への忌避意識とは、そもそも実体がなく共同幻想のようなものということでした。
また、その実体のない共同幻想には、倒錯した共同性を立ち上げるために必要な「記号的意味」が付与されている可能性があるということでした。
そして、経済合理性を無視した実体を伴わない土地取引は、どのような美名の下に行われたとしても、共同幻想の呪縛から解放された経済合理的な選択判断とはいえないものということでした。
もちろん、私たちが、ものごとを判断するときに自分が所属している共同体(国や地域社会など)から全く自由な立場でいるということは困難であろうと思われます。
従って、共同体から自立して合理的判断ができる個人という存在は、仮定の存在でフィクションになってしまうのかもしれません。
確かに、この考えは正論のように思われるところもあります。
しかしながら、この考えだけに従っていれば、共同体における他者の視線を無批判に内面化することになってしまい、共同幻想を実体化させる共犯関係になってしまいます。
以上から、あらためて土地への忌避意識について考察して見ると、土地に対する実体の伴わない共同幻想は、象徴的価値(ブランド)に似た現象といえるのではないでしょうか。
つまり、象徴的価値(ブランド)は、本来のモノが持っている以上の価値を指し示す「記号的意味」として認識されているからです。
これと同じように、土地に対する忌避意識は、土地の持つ属性やそこに住んでいる人たちの属性とは大きく異なった「記号的意味」を持つことになってしまっています。
土地に対する忌避意識は、資本主義経済のタームである「選択の自由」や「共感意識」では説明ができないような社会現象ということになります。
一方、社会学的な側面からは、共同体から原初(歴史上のある時点)に付与された両義的な価値のうち、ネガティブな側面だけが「記号」の持つ価値として残存したものと説明できるのかもしれません。
では、私たちは自分たちの共同体の持つ共同性を大切にしながらも、土地に対する忌避意識という共同幻想にとらわれないためには、どのようにすればよいのでしょうか。
まず、自分が所属している共同体を相対化することからはじめるしかないと思われます。
方法論としては、自分に今影響を与えている共同体のパラダイム(常識)を疑ってかかるということが、共同体を相対化する第一歩になるのではないでしょうか。
自分たちの共同体の持つ共同性を大切にはしても、自分たちの共同性を絶対化しない(気位を高く持たない)ということが相対化につながると思われます。
つまり、自分たちとは全く違った考え方や判断の仕方をする共同体が自分たちのすぐ外部に存在していることを知る必要があるということです。
このようにして、自分の外部の存在を知った人たちは、自分たちの共同体を再評価する客観性も持ち合わせることができるようになり、共同幻想の呪縛からも解放されて新たな視点を持つことができるようになると思われます。
私たちは、共同体には必ず外部があることを知り、そして共同体の内部を相対化する(絶対化しない)ことで、「世間のみんな」ではない、「共同体を構成する一個人」に生まれ変わることになると考えているのですが、さていかがでしょうか。
《おわり》
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トリクルダウンと「選択と集中」(再掲)
http://kkmessage.exblog.jp/239343318/
2019-07-01T21:49:00+09:00
2022-07-10T15:27:57+09:00
2019-07-01T21:49:17+09:00
kokokara-message
我流経済学
トリクルダウンという言葉はご存知でしょうか。
大木からしたたり落ちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分としてまた成長していくという、大木と草花の相互依存関係をあらわした資本主義の経済理論(仮説)とされています。
上方落語には、大阪船場を舞台とした「百年目」という落語があります。
この「百年目」という落語の中で、トリクルダウンの経済理論が大阪船場の旦那と番頭の関係として、また番頭と丁稚の関係として描かれています。
そして、落語「百年目」の落ちは、人(労働者)と商売(経済)が元気であるためには、適度なトリクルダウン(露おろし)が必要ということになります。
ただ厳しい状況に耐えるだけでは、人も経済も活性化できない、したがって適度な余裕や遊びが必要ということになるわけです。
これが、トリクルダウンのエッセンスです。
また、大阪船場では、過剰な利益の収奪は卑怯な商法と見做され、節度ある利益の享受と社会貢献が持続的な商売の源泉になると信じられていました。
「損して得とる」ということになるでしょうか。
したがって、「百年目」の舞台大阪船場では、日常的に華しょくや浪費を不徳とする「世俗内禁欲」の習慣があったとされています。
これは、御堂(阿弥陀様)に囲まれた土地柄にも由来することですが、大阪船場の商法は宗教的バックボーンに基づいたものということになりそうです。
マックス・ウェバーが、資本主義の精神はプロテスタンティズムの倫理(世俗内禁欲)に由来すると指摘してたことと極めて類似性があると言えそうです。
江戸近世から明治近代にかけての大阪船場は、日本では珍しい資本主義の精神がいち早く花開いた町ということになるのではないでしょうか。
上記のとおり資本主義の精神に宗教的バックボーンが備わっているとすれば、一部の勝者だけを正義とする新自由主義的な弱肉強食の考え方はおそらく異端ということになるはずです。
しかしながら、いつの頃からか、資本主義の精神は自己利益だけを追求する競争原理と理解されてしまい、他者への寛容性だけではなく自己への配慮も欠いた経済活動が優先されるようになってしまいました。
マクロ経済的に見ると、合理性や効率性での自己利益の追求だけを図れば、一見社会全体の効用を最大化させるかのように思わますが、実際はそれとは真逆で自分で自分の足場を崩すという極めて不安定な経済状況を作り上げてしまうことになります。
例えば社会全体の資産の半分以上を上位数名だけで独占するような著しい経済格差、また労働者を代替可能な商品と見做ようなブラック企業の存在など・・。
とても不思議なことですが、確かに経験的にはそのようになっています。
この二律背反する経済現象を一般化すると、資本主義の合理性や効率性はその純度を上げれば上げるほど、つまり資本主義システムを徹底すればするほど、資本主義システムそのものが不安定になるという真逆な関係性にあると言うことです。
したがって、資本主義が長期的に安定して行くためには、合理性や効率性の純度を押し下げる適度な非合理性、例えば賃金の硬直性や雇用の非弾力性、また労働組合の存在が挙げられます。
これらのことを表した経済理論(仮説)としては、岩井克人氏の「不均衡動学」等の著書があります。
閑話休題。
ではもう少しだけ、経済のお話しにお付き合いください。
ドラッカーの有名な経済タームに「選択と集中」があります。
得意(優先順位の高い)分野を明確にして、得意とする(優先順位の高い)分野に経営資源(社会資源)を集中的に投下するという戦略のことです。
これからの日本は確実に人口が減少し、国内消費が低迷する、つまり日本の価値(人やお金)が縮小していく混迷の時代と言うことができそうです。
したがって、ドラッカーの「選択と集中」の理論からすると、自然に価値(人やお金)の拡大が見込めない時代であるからこそ、得意とする(優先順位の高い)分野に社会資源を集中的に投下することが求められるわけです。
つまり、日本が今後も経済的相対的優位に立って生き残っていくためには、あらゆる社会資源を政策的に「選択と集中」してくことが必要になってくるということです。
そして、さらにこれからの日本人と日本経済を元気にするためには、社会資源の「選択と集中」と同時進行に、トリクルダウン(露おろし)の実践が必要になってくると思われます。
トリクルダウンは、大木からしたたり落ちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分として成長していく大木と草花の相互依存関係で、結果として人(労働者)と商売(経済)をともに元気にさせるものでした。
そして、このトリクルダウンの経済理論(仮説)の要諦は、まずは大木を育て、その大木を基盤として裾野の草花に露がおろされるという先富論になっています。
では、トリクルダウン(露おろし)が先富論=「選択と集中」の帰結であるとしたら、トリクルダウンのためにどのような経済政策が考えられるのでしょうか。
例えば、企業の法人税(特に大企業)の適切な軽減化を図る一方で、個人の所得税や相続税に対する累進性の強化、また個人の社会保障への応能負担の強化、そして国全体の平準化を図る目的から地方交付税等による所得の再分配化機能の強化が挙げられると思われます。
そして、国際的な経済政策としては、「21世紀の資本論」のピケティ教授が提唱されているタックスヘブンをなくす「世界連携累進課税」が想定されることになるのではないでしょうか。
つまり、「選択と集中」の結実を原資とした所得の再分配機能、つまりトリクルダウン(露おろし)の実践が縮小していく国内の消費経済(内需)の低迷を回避させる手段であり、その結果として著しい経済格差の解消された、比較的公平と思えうことができるような日本社会が実現されることになるのかもしれません。
ただ残念なことなのですが、この半世紀の間に、日本人のマインドは、自律する方向から依存する傾向へと変質してしまったようにも思われます。
依存的な未成熟社会にあっては、おそらく資本主義の論理(とその背後にある寛容性)や所得の再分配(とその背後にある自律性)がその機能を十全に果たすことができない惧れがあると思われます。
従って、依存的で未成熟なままの社会では、誰もがフラストレーションを抱えながらも出口が見えない、いわゆる「終わりなき日常」を生きるしかないという筆者のリアリティは、勝手な思い過ごしであれば良いと思うのですが、さていかがでしょうか。
今後の日本政府の経済政策と日本人の経済動向をしっかりと見守って行きたいものです。(苦笑)
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Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)
http://kkmessage.exblog.jp/238853738/
2018-11-11T23:04:00+09:00
2018-11-12T21:58:55+09:00
2018-11-11T23:04:16+09:00
kokokara-message
ホノルル・シティ・ライツ
「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」って聴いたことがあるでしょうか。
「Honolulu City Lights」とは、オアフ島在住のケオラ・ビーマーが作詞作曲したハワイアン・トラデショナルの名曲で、クリスマスの季節になると、ハワイのコヒーハウスやショッピングセンターなどでよく耳にします。
スローなテンポでゆったりとしたこの名曲は、日本では杉山清貴がカバーしており、ミニアルバム「Honolulu City Lights」が1997年にリリースされています。
初めてケオラ・ビーマーの「Honolulu City Lights」を聴いたとき、おそらく山側か、あるいは海側から見たホノルルの街の夜景を歌った曲ではないかと勝手に思っていました。
また、クリスチャン・リース・ラッセンの「ワイキキロマンス」という版画を知っている人であれば、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」という言葉の響きから、ワイキキのサンセットの光景を思い浮かべることになったとしても、決して不思議なことではないと思われます。
しかしながら、実際の「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」はラッセンの版画のようにロマンチックではなく、むしろ華やかで賑やかなイベント(催し)といえそうです。
「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」とは、ハワイ州オアフ島ホノルル市庁舎周辺で12月初めから約1ヶ月点灯されるクリスマスイルミネーションのことです。
点灯式には盛大なパレードも行われ、サンクスギビングデーが終った後のクリスマスまでの1ヶ月間、ホノルルは「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」によって華麗にイルミネーションされることになります。
そもそも、ハワイに暮らす人のクリスマスは、自宅で家族だけで迎える過ごし方が一般的であるらしく、自宅のクリスマスツリーのそばにそっとプレゼントを置いておくだけの実に質素で厳かな祝祭とされています。
一方、ホノルルの街を歩いていると、多くのコンドミニアムのラナイなどから煌びやかなに飾られたイルミネーションが道行く人たちを楽しませている光景に出くわすことがあります。
そして、ホノルル市庁舎周辺に飾り付けられた「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」もこれら街中のイルミネーションと同じように、ホノルルのクリスマスシーズンを代表する装飾として存在感を発揮しています。
では、なぜクリスマスの装飾が、自宅では厳粛で質素となる一方、自宅の外部に向けてのイルミネーションは華美なまでに施されることになるのでしょうか。
ハワイ州は、言うまでもなくアメリカ合衆国五十番目の州で、英米系キリスト教(プロテスタント)文化圏に位置しています。
キリスト教が愛の宗教と言われるように、キリスト教では何よりも隣人愛の実践である「無償の贈与」が求められることになります。
その一方で、プロテスタンティズムの倫理によれば、「世俗内禁欲」の質素倹約が徳目とされることになります。(現在のアメリカ人が質素倹約をどの程度徳目と考えているかは定かではありませんが・・・。)
このことから、外面(隣人)への華やかさである「贈与」と内面(世俗内)への質素さである「禁欲」という非対称性な教えが同時に存在することになります。
しかし、これはアメリカ人の人格がふたつに分裂してしまっているからではありません。
プロテスタンティズムでは、「世俗内禁欲」が徳目とされて世俗の諸活動に携わることが禁止されているため、ただひたすら宗教活動としての経済活動(天職と隣人愛)を実践することになります。
つまり、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やラナイを飾るイルミネーションの持つ意味は、道行く知らない人にも無償で装飾を楽しんでもらおうとする「贈与」の経済活動(隣人愛の実践)ということになります。
したがって、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やラナイを飾るイルミネーションは、キリスト教の教えに基づいた行動ということであり、宗教活動そのものということになります。
このことからすると、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」というイベント(催し)が、ホノルル市庁舎という「公共施設」で行われることに注目する必要があると思われます。
つまり、アメリカ合衆国という国家は、政教分離の政治と宗教の距離が十分にとれていない、むしろ表裏一体の政教一致の国家ということになりそうです。
アメリカ合衆国という国家は、オバマ大統領の就任以降、WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の伝統が崩れる方向にあるように思われます。
しかしながら、アメリカ合衆国という国家が建国時に初期設定したプロテスタンティズムの倫理と精神は、アメリカ合衆国に危機が生じると必ず回帰されて、おそらくアメリカ合衆国の起源そのものになっていると思われます。
トランプ大統領やアメリカンファーストというトレンドもアメリカ合衆国の危機に対する揺り戻しのひとつかもしれません。
これは、約250年前のアメリカ合衆国の建国の精神が、今でも変わらず生き続けている証ということになるのではないでしょうか。
したがって、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」は、単に無償の贈与という宗教活動のみではなく、アメリカ建国の精神そのものを体現をしているものということになりそうです。
「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」は、「アメリカン・スピリッツ」でもある無償の贈与(プレゼント)の実践ということでした。
ただ、無償の贈与(プレゼント)という行為は、アメリカ合衆国を代表とするキリスト教文化圏の国家だけで実践されている特殊な習慣ではありません。
日本でも、茶の湯に見られるような「もてなしの心」というホスピタリティが存在し、また日常でも土産や中元、歳暮などのプレゼントを贈る習慣や文化が存在しています。
さらに、無償の贈与(プレゼント)について、文化人類学者のレヴィ=ストロースは人間の類的本質が「贈与」であると指摘しています。
つまり、レヴィ=ストロースの言うところの「贈与」は、まず自分から差し出すこと(無償の贈与)によってしか、自分が欲するものを手に入れることは出来ない、という因果関係に人間の類的本質があるということです。
このことからすると、市場経済の等価交換は、静的で閉じた関係ということになります。(貨幣を介していても、等価交換はそのたびに完結します。)
これに対して、「贈与」は動的で外に開かれた関係(過剰や過小であったりと等価ではありません)ということになり、そのアンバランスがコミュニケーション(交換)を促進させ、経済活動を活発にさせることになります。
「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やラナイを飾るイルミネーションは、宗教活動であってアメリカの精神ということでしたが、文化人類学的の観点からは、人間の類的本質であるコミュニケーション(交換)を促進させるための「贈与」(プレゼント)として一般化(普遍化)できるのかもしれません。
ところで、あわただしい年の瀬を過ごしている私たちが、夜の街角でクリスマスイルミネーションを眼にしたとき、ほんのつかの間でも気持ちが安らぐという経験をしたことはないでしょうか。
日本は、言うまでもなくクリスマスを祝祭する習慣を持ったキリスト教文化圏の国ではありません。
また、欧米人のような強い自我に基づいた個人主義と、それに起因する頑強な思想や強固な論理を持ち合わせているわけでもありません。
どちらかといえば、柔らかで移ろいやすい感情の上に築かれているのが、日本人の文化ではないでしょうか。
頑強な思想や強固な論理からではなく、柔らかで移ろいやすい感情の上に安らぎを覚えるのだとしたら、それは日本人が「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やクリスマスイルミネーションを、「和み」や「もてなしの心」という日本人の感覚で咀嚼し、理解し、受け入れているためではないでしょうか。
つまり、宗教活動としての厳粛性や、一般化された「贈与」という思想性ではなく、ことの是非は別にして、クリスマスイルミネーションを日本固有の文化の中で再編集することによって、日本人は「安らぎ」「安らがされる」という感覚を得ているのではないでしょうか。
そして、これはとても大切なことですが、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やクリスマスイルミネーションだけに限らず、あらゆる社会的な現象にその意味と価値を与えているのは、一義的には自分自身(個人の自由)になるということです。
つまり、あらゆる社会的な現象には、個人や個人が所属する文化の数だけ、多種で多様な文脈や解釈が存在することになるということになるわけです。
従って、社会的な現象の持つ意味や価値も多種多様ということになり、それらもやがては移ろい変化していく刹那的なものの見方は、おそらく日本人独自の感性に根差した特殊的なものではなく、むしろ誰もが受け入れざるを得ない(それでいていつも見落としている)「万物流転」という普遍的真理ではないかと思われます。
さて、もうすぐクリスマスです。
東西文化と宗教の垣根を越えた「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」や日本の街角で見るクリスマスイルミネーションは、皆様にとってどのような意味と解釈になるのでしょうか。
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他者と秘密(全編)
http://kkmessage.exblog.jp/238316725/
2018-02-11T17:37:00+09:00
2018-02-25T12:25:10+09:00
2018-02-11T17:37:33+09:00
kokokara-message
我流心理学
人の能力にそれぞれ差があるということは、必然といえそうです。
従って、人によってできることと、できないことがあることもまた当然のことです。
誰もが、平等にできるということにはならないということです。
これは生まれ持った能力が平等でないということだけではなく、生きている偶然が平等ではないということも含まれています。
つまり、自分の置かれている社会的文脈によって、同じような能力があったとしてもその結果に差異が生じてしまうことはあるということです。
確かに、結果の平等はひとつの美しい仮定(物語)ではありますが、現実問題としては大変難しいことではないでしょうか。
また、どこまでを平等と考えるかについても大変難しい問題で、おそらく最後は事実認定の問題になるといえそうです。
言い方を変えれば、政治の問題かもしれません。
従って、国や地域と言った自分が置かれている共同体によっては、平等(事実認定)が大きく異なってくることになります。
これは、平等を支えるポリテカルコレクト(政治的正しさ)が、国や地域によって、その様々であるからです。
さらに、これに時間軸が加われば、今ある正しさとこれから10年後の正しさが異なってくるのは当然のことです。
社会経済を取り巻く環境が10年前と現在、そして10年後で目まぐるしく変化していることを考えれば、正しさの内容が変遷して行くことも当然のことではないでしょうか。
そもそも人や社会が多様であることと、それらが日々変化していくことは必然です。
このように自分を取り巻く与件が違っていれば、たとえ入力が同じものでも、出力(答え)は違ってきます。
つまり、「あらかじめ決まった答えはない」と言う言葉は、このような事体を指してのことではないでしょうか。
したがって、古代ギリシアの時代であっても、現代社会であっても、おそらく万物流転は誰もが否定することのできない真実です。
そして、万物流転するがゆえに、あらかじめ決まった答えがないということであれば、あれこれ思案したところで、結果がままならないのは必定です。
私は、時々「できることしかできない」という言い回しをすることがあります。
この言葉は、自分の限界をあらかじめ規定した消極的な言葉として聴き取られることがあるようです。
しかしながら、この言葉は、必ずしも決定論的な諦観の言葉ではなく、むしろ未知の自分、未来の自分という時間軸を含んだ曖昧さを示した言葉と考えています。
つまり、既知の自分ではない、今の自分を超えた未知の自分の到来、つまり「他者」の訪れがあることを、確信はないにせよ、期待しする言葉ではないかと思われます。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、自分が知らない自分に合ってみたいという欲望は、最後の最後には偶然の「他者」の訪れに依拠せざる得ない、関係性の不思議に帰結するのかもしれません。
人は他者との関係性によっては、いくらでも変わる要素を持っているといえます。
初めて会う人であるにもかかわらず、相手のことが分かった、と思った瞬間はないでしょうか。
人は、ある程度、自分の鋳型に相手をはめて理解しようとする傾向があると思われます。
しかしながら、相手のことが分かったと思った瞬間に、相手のイメージが固定化されてしまうのもまた事実です。
他者との関係性では、このようなイメージの積み上げと修正が絶えず繰り返されて、やがて定型化していくのが一般的な経過ではないでしょうか。
しかしながら、自己満足や自己充足から(上から目線で)他者を分かったつもりになっていると、自分の鋳型(イメージ)をそのまま他者に押し付けてしまう(定型化する)ことにもなってしまいます。
そして、このようなイメージの押し付けが問題になるのは、自分が何も相手を分かっていないのに、分かっていないことが視界から消え去ってしまうことです。
つまり、上から目線で自信満々な無知、いわゆる「構造的無知」と呼ばれる状態です。
自己満足や自己充足の状態にあると、内向化し思考停止した状態に陥り、自分に外部があることにさえ気づかなくなってしまうということです。
何事においても「自分は分からない」と留保しておくことが、自分の思考に外部を持たせ、不用意に鋳型にはめることなく、修正する余地を残すのではないでしょうか。
ところで、自己とは一体何なのでしょうか。
カール・ユングによると、自己とは主客の間(関係性)に構築されるものということになるようです。
主体の思考が未確定(留保)の状態にあって、このため客体のイメージも未確定(留保)のままなら、当然その間に構築される自己も未確定(留保)な状態ということになります。
自己が未確定な状態(留保)ということは、いまだ定型化していないということであり、さらに変化し更新されていく可能性があるということになります。
未確定(留保)であることは、決してネガティブな意味だけではありません。
未確定(留保)であるがゆえに、未来への可能性をも含んでいるということにもなります。
このような自己のあり方、つまり自己が変化し、更新されていく状態を「成長」と呼ぶのであれば、おそらく「成長」には際限がないということになります。
そして、オープンマインドとは、他者のイメージを定型化しないことになると思います。
このため、自他の間に構築される「自己」は流動的なものとなり、「自己」の在り様を指し示す「自己実現」もまたあらかじめ決まった答えがないことになります。
このことからすると、「自己実現」とは執着して奪取できるものではなく、むしろオープンマインドであるがゆえに、自ずと導かれる帰結ではないかと思われます。
「牛にひかれて善光寺」という言葉がありますが、自己実現のための道程を現したメタファー(隠喩)といえるのかもしれません。
また、自分の思考を外部に開放しておくということは、偶然も含めた外部との新たな関係性の到来を「待つ」ことになります。
自己の成長、つまりは自己実現を果たすためには、「待つ」ことはとても重要なステップになると思われます。
但し、偶然の関係性の到来だけを「待つ」だけでは、十分ではありません。
自分が設定した方向に、自己(関係性の構築)を誘導していくことも、また重要ではないでしょうか。
つまり、偶然だけに頼るのではなく、あらかじめ目標に向かって自己コントロールすることが、他者や環境との親和的な関係性をより効率的に構築できるというわけです。
自己は主客の関係性の間に構築されるものであるため、自己コントロールは、自分だけで完結できるものではありません。
そして、偶然の流れに身を任せていれは良いというだけのものでもないということです。
では、自己コントロールとは、何を対象とすれば良いのでしょうか。
「自我(私)」の存在を仮定すれば、「自我」がコントロールができる範囲は、おそらく自分の身体や心のあり方の一部ということになりそうです。
ここでいう「自我」とは、意識化されている「私」程度の意味でお考えください。
そして、自分の身体や心であっても、自分でコントロールができる部分は、ほんの一部でしかないということです。
さらに、外部の他者や環境との関係性は、自分の身体や心のあり方を通してでしか影響を及ぼことができない、間接的な関係ということになります。
したがって、外部の存在である他者や環境を、「自我(私)」が直接コントロールするということはあり得ないことになります。
つまり、「自我(私)」が、自己コントロールできる範囲は、自分の身体や自分の心のあり方の一部であって、外部の理解不能な他者や不可思議な環境は、原則自己コントロール不能と諦めるしかありません。
このため、外部の他者や環境との関係性の構築は、経験則によるのか、偶然に左右されるか、あるいは出たとこ勝負なのか、いずれにせよ決まった答えは用意されていないことになります。
また、「自我(私)」が、他者や環境に対して及ぼす影響の未確定性だけではなく、「自我(私)」が他者や環境から受ける影響も、また同様に計測不可能、あらかじめ決まった答えがないということになります。
自己は主客の関係性に構築されるもので、主客の間の関係性には、今までにも見てきたような未確定性と偶然性が含まれることになります。
自己コントロールの最終的な目的が自己実現であるのなら、自己実現とは偶有性に左右された主客の間のグレーゾーンに位置する暫定的な立ち位置になりそうです。
かように自己実現が遂行的であるとしたら、後になってあれが「自己実現であったのかもしれない」気づいたものが、ほんとうの自己実現の姿であるのかもしれません。
人の思考のフレームワークは、他者の思考のフレームワークに触れることによって更新されていくものということができます。
また、「自我(私)」は、自己コントロールできない自分の中の他者である無意識に耳をから向けることによって、バランスがとれた自己へと更新されていくことになるい思われます。
ただ、自分の中の他者である無意識からの働きかけが余りも強いと、「自我(私)」が自己コントロール不能状態に陥ってしまい、自分の中の他者である無意識に支配されてしまうことになります。
コンプレックス状態(葛藤)が続き、無意識という他者に「自我(私)」が乗っ取られた状態になると、身体的、精神的に様々な症状が現れることになってしまいます。
なかでも、やっかいな症状のひとつが、自分の秘密がすべて他者に知られてしまっているのではないか、という恐怖を抱くことです。
つまり、無意識という他者に支配されてしまうと、抑圧や反動形成などの症状が出現するだけではなく、自分の秘密が保てなくなってしまう、つまり自分の秘密が他者に漏洩してしているのではないかという不安を抱くことになってしまうということです。
つまり、定義上秘密とは知るべき者だけが知っている情報であり、それ以外の他者が知っているはずのない情報であるからです。
もし、自分の秘密が漏洩していると感じることがあるとすれば、それは本来自分と他者との間に存在している境界が、なくなってしまっていると感じているためではないでしょうか。
つまり、秘密が人に漏洩してしまうことの意味は、自分と他者の区分が曖昧になり、自他の境界がなくなってしまっているのではにかということです。
もともと自分と他者の境界には、排他的な意味においての、自分の身体という唯一無二の物理的な区分が存在しているはずです。
また、自分の意識においても、その意識を発生させる自分の脳の固有性、つまり唯一無二の自他を分ける物理的な区分が存在していることになります。
かような明白な区分があるにもかかわらず、自分と他者の境界が曖昧になっている感覚が発生するということがあるということです。
おそらく、このような自他の感覚の曖昧さが、自他の境界を越えて秘密が漏れてしまっている恐怖につながってくるのではないかと思われます。
自分と他者の境界が曖昧となってしまっているという感覚は、おそらく「自我(私)」が弱体化し始めていている兆しかもしれません。
つまり、「自我(私)」が自分の中の他者である無意識からの攻撃を受けて、疲弊しきった状態になっているということです。
このように「自我(私)」が弱体化すると、実在する他者に、自分の秘密が漏洩しているという感覚が生じてその恐怖にさらされることになります。
「自我(私)」の弱体化とは、自己コントロールをする「自我(私)」の弱体化ということであり、つまり「私」の希薄化ということになります。
従って、「私」の希薄化は、すなわちアイデンティティ(自己同一性)の脆弱性ということでもあり、その結果自他の区分が不明瞭になっていくということです。
自他の区分が不明瞭になると、聞こえてくる他者の囁きが、自分の中の無意識からのものか、外部に実在する他者のものであるかさえ、分別できなくなってしまいます。
これらの症状(現象)は、自他の区分の曖昧性を自然とする(日本の)文化圏に特徴的な関係性に由来するものであるのかもしれません。
したがって、秘密の漏えいの恐怖とは真逆の他者への共感意識についても、つまり愛情や親密さを安易に感じることができるということ特徴です。
「阿吽の呼吸」と呼ばれる言葉がありますが、これには特段の根拠がないにもかかわらず、同調できていると信じることが自然な文化ということになります。
要するに、他者を同質なものと感じる共感意識と、他者から侵害されていると感じる恐怖は、一見真逆のように見えますが、ともに秘匿している情報が他者に対して開かれているという点では共通の感覚ということができそうです。
つまり、安心安全と感じる共感と危機に瀕していると感じる違和感は隣り合わせの感覚で、コインの表裏の関係にあるといえそうです。
また、自分の無意識が自己コントロールできないことからすると、無意識は外部の他者と同様な存在ということになります。
従って、他者である無意識から攻撃を受けることは、自分の中から湧き出てくるカオス(混沌)との暗闘を繰り返しすことでもあります。
そして、無意識(自分の中の他者)からの攻撃にさらされていると、やがて「自我(私)」の合理的な判断や行動は奪取されてしまいます。
つまり、実際の自分が置かれている文脈では、到底説明がつかないような文脈の世界(幻聴や幻想)に投げ込まれてしまうことになってしまうわけです。
これが、「自我(私)」の自己コントロールを失った状態、無意識からの働きかけである幻聴や幻覚という感覚に支配されてしまった状態ではないでしょうか。
ところで、自分の秘密には、他者と同質な共感感覚の側面と、秘密が漏洩してしまっているという恐怖の側面が隣り合わせで存在するということでした。
また、自分の中の他者である無意識からの攻撃が強くなると、自分自身の自在感を失ってしまうことになるということでした。
自分自身の自在感がなくなった状態とは、自己コントロールが十分できていない状態です。
このような状態に陥ると、自分自身は周りの環境や他者に影響を及ぼす主体ではなくなり、逆に環境や他者から操作される客体になってしまいます。
確かに、自他の同質化によって癒合した関係性の中では、他者から共感や安心感がもたらされるというメリットはあります。
しかしながら、「自我(私)」が弱体化し、他者から操作される客体になってしまうと、もはや他者は共感や安心感を与えてくれる存在ではなく、自分の秘密を聞き出し、自分の言動や行動を操作する存在になってしまいます。
他者とは、もはや自分に安心感を与えてくれると同質な他者ではなく、自分を侵害する異質な他者に変わってしまうということです。
このような状態に陥れば、自分の秘密が他者から覗かれている恐怖感は、ますます高じることになってしまうのではないでしょうか。
日本人は、相対的に見て「自我(私)」は脆弱性、希薄性が特徴であるように思われます。
これは、個人のパーソナリティの問題というよりは、むしろ日本の文化に由来する関係性の問題(プライバシーの感覚)から説明できることではないでしょうか。
このため、自分の秘密の漏洩の恐怖感は、日本人であるなら、誰にでも起こりうる症状(現象)であり、必ずしも病的とまではいえないものかもしれませんね。
では、自己の内部に異質な他者を持たない状態とはどういうことでしょうか。
自分の中の異質な他者とは、無意識のことであると説明をしてきました。
従って、自分の内部に異質な他者、つまり無意識を持たない状態とは、自分自身がすべて自分自身の意識下におかれている状態ということになります。
このような理想の状態は、実際に起こりえるのではないでしょうか。
つまり、自己の仮説(モデル)によれば、自己全体から「自我(私)=(意識)」を除去したものが無意識ということになります。
従って、すべてが意識化されている状態とは、自己=「自我(私)=(意識)」ということになり、自分のこと、あるいは自他の関係性も含めたすべてが分かっているという、とても傲慢な状態ということになります。
そして、このような状態にあると、自己の内部にもはや異質(差異)な他者は存在せず、すべてが自己同一性(アイデンティティ)の中に回収されることになるため、十全に安全や安心感を満喫することができそうです。
おそらく「自足」とは、このような状態を指すのではないでしょうか。
しかしながら、自足状態の揺らぎのない自信などは現実にはありえず、現実逃避の無根拠な過信から自己同一性(同質性)が図られている幻想的な状態と言えそうです。
そして、このような自足状態に陥ってしまうと、人はいとも簡単に、自己判断、自己判決、自己決定を下してしまうことになってしまいます。
つまり、自己判断、自己判決、自己決定は、未成熟な子供に見られる特徴的な行動様式で、独善性な幼児的万能感(ウルトラマンになったような気分でしょうか)からもたらされる自足状態です。
一見、自己判断、自己判決、自己決定を行っていないように見えるケースもありますが、これは裏を返せば母子密着の支配者に一体化する自己判断、自己判決、自己決定に過ぎません。
従って、自己の内部に他者(無意識)を持たない者とは、自足状態にあって幼児的万能感を持った未熟な者ということになり、その振る舞いは、節度ある自由の枠を超えた、放埓(ほうらつ)にもなってしまうということです。
節度ある自由の枠を超えた放埓(ほうらつ)を可能にするものは、同質(同じ)という感覚やそれを支える相対的多数の側にある安心感や共感と思われます。
そして、同質であることや相対的多数の側で安心や共感を維持するための特徴的な行動様式が、横並びや相互参照になります。
同質であることや相対的多数の側にあれば安心感や共感は湯浴なりますが、外部にある危機感を喪失させてしまうことにもなってしまいます。
このような自他の渾然一体の状態が、癒合(アモルフォス)と呼ばれるものであると思われます。
そして、このような癒合(アモルフォス)状態に入ってしまうと、その中での多数派形成が生き残るための唯一の生存戦略となってしまい、さらなる横並びと相互参照を繰り返して同質性を深化させていくことになります。
しかしながら、癒合(アモルフォス)状態にあることの本質は、依存と束縛の両義的な関係ということになると思われます。
つまり、癒合(アモルフォス)状態とは、主客が明確にならない牽制の緊張状態であって、依存と束縛からさらに内向化せざるを得なくなった癒合(アモルフォス)状態は、細分化されてやがて外部を消滅させてしまうことにもなります。
癒合(アモルフォス)状態はやがて依存と束縛から内向化とし、やがてダブルバインド(板ばさみ)状態から内ゲバを繰り返す再分化状態に置かれることになるのではないでしょうか。
そして、再分化されていく癒合(アモルフォス)状態は、ますます外部を構造的に可視化できない「構造的無知」の状態に陥って行くことになると思われます。
最後になりましたが、他者と秘密、つまり他人との距離やプラーバシー感覚の欠如は外部を持つことに慣れていない、同じ(多数派であること)を自然とする日本人に特徴的な感覚ではないかと思われます。
したがって、日本人の他者と秘密に係る悩みが尽きないのは、個人の人間関係の問題というよりは、むしろ日本人のパーソナリティに刷り込まれた文化に起因する行動様式(エトス)の問題ではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。
(終わり)
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とんかつの店「豚々ジャッキー」のあぐーロースかつ(那覇市)
http://kkmessage.exblog.jp/238178867/
2018-01-07T22:11:00+09:00
2018-01-15T22:49:03+09:00
2018-01-07T22:11:47+09:00
kokokara-message
沖縄
沖縄であくー豚を食する簡便な方法は、しゃぶしゃぶととんかつが挙げられます。
今回は、あくー豚を食するため、沖縄県産豚使用のとんかつの店「豚々ジャッキー」に行ってきました。
「豚々ジャッキー」は駐車場がないので、タイムス等の近隣の駐車場を利用してください。
ちなみに、私は少し離れた福州園の公園駐車場(有料)を利用して、歴史のある久米の街を店まで歩きました。
琉球王朝時代の久米は福建人(現在の福建省から渡来した帰化人)が居留した地区であったらしく、今でも古代中国思想の風水の影響を受けた町割りが残っています。
さて、「豚々ジャッキー」はご覧のビルの二階にあります。
店内は、ご覧のとおりで、それほど広くはありません。
とんかつ専門店だけあって、メニューはとてもシンプルです。
私は数量限定のあぐーのロースとんかつ(1800円)を注文しました。
何グラムかは分かりませんが、普通食べるとんかつの1.5倍くらいのボリュームがあります。
ご覧のように肉厚は2センチ以上で、脂質たっぷりのとてもジューシなとんかつです。
味噌汁と漬物、そしておかわり自由のご飯が付きます。
ただ、沖縄では自給自足ができない野菜は高価なため、本土のとんかつ専門店のようにキャベツのおかわりはありませんでした。
最後に、あぐー豚と沖縄県産豚との違いは正直良く分からないかもしれませんが、ぜひ沖縄であぐー豚を食べてみたいのなら、沖縄県産豚使用のとんかつの店「豚々ジャッキー」であぐーロースとんかつを食して見るのはいかがでしょうか。
[#PARTS|USER|117505#]
沖縄県那覇市久米2-9-11 abc久米ビル2F
℡098-866-1010
ランチ11:30~14:00・ディナー17:00~20:30
定住日:毎週火曜日・第3水曜日
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トリクルダウンと「選択と集中」
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2017-11-23T11:58:00+09:00
2019-07-01T21:43:26+09:00
2017-11-23T11:58:27+09:00
kokokara-message
我流経済学
トリクルダウンという言葉はご存知でしょうか。
大木からしたたり落ちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分としてまた成長していくという、大木と草花の相互依存関係をあらわした資本主義の経済理論(仮説)とされています。
上方落語には、大阪船場を舞台とした「百年目」という落語があります。
この「百年目」という落語の中で、トリクルダウンの経済理論が大阪船場の旦那と番頭の関係として、また番頭と丁稚の関係として描かれています。
そして、落語「百年目」の落ちは、人(労働者)と商売(経済)が元気であるためには、適度なトリクルダウン(露おろし)が必要ということになります。
ただ厳しい状況に耐えるだけでは、人も経済も活性化できない、したがって適度な余裕や遊びが必要ということになるわけです。
これが、トリクルダウンのエッセンスです。
また、大阪船場では、過剰な利益の収奪は卑怯な商法と見做され、節度ある利益の享受と社会貢献が持続的な商売の源泉になると信じらていました。
「損して得とる」ということになるでしょうか。
したがって、「百年目」の舞台大阪船場では、日常的に華しょくや浪費を不徳とする「世俗内禁欲」の習慣があったとされています。
これは、御堂(阿弥陀様)に囲まれた土地柄にも由来することですが、大阪船場の商法は宗教的バックボーンに基づいたものということになりそうです。
マックス・ウェバーが、資本主義の精神はプロテスタンティズムの倫理(世俗内禁欲)に由来すると指摘してたことと極めて類似性があると言えそうです。
江戸近世から明治近代にかけての大阪船場は、日本では珍しい資本主義の精神がいち早く花開いた町ということになるのではないでしょうか。
上記のとおり資本主義の精神に宗教的バックボーンが備わっているとすれば、一部の勝者だけを正義とする新自由主義的な弱肉強食の考え方はおそらく異端ということになるはずです。
しかしながら、いつの頃からか、資本主義の精神は自己利益だけを追求する競争原理と理解されてしまい、他者への寛容性だけではなく自己への配慮も欠いた経済活動が優先されるようになってしまいました。
マクロ経済的に見ると、合理性や効率性での自己利益の追求だけを図れば、一見社会全体の効用を最大化させるかのように思わますが、実際はそれとは真逆で自分で自分の足場を崩すという極めて不安定な経済状況を作り上げてしまうことになります。
例えば社会全体の資産の半分以上を上位数名だけで独占するような著しい経済格差、また労働者を代替可能な商品と見做ようなブラック企業の存在など・・。
とても不思議なことですが、確かに経験的にはそのようになっています。
この二律背反する経済現象を一般化すると、資本主義の合理性や効率性はその純度を上げれば上げるほど、つまり資本主義システムを徹底すればするほど、資本主義システムそのものが不安定になるという真逆な関係性にあると言うことです。
したがって、資本主義が長期的に安定して行くためには、合理性や効率性の純度を押し下げる適度な非合理性、例えば賃金の硬直性や雇用の非弾力性、また労働組合の存在が挙げられます。
これらのことを表した経済理論(仮説)としては、岩井克人氏の「不均衡動学」等の著書があります。
閑話休題。
ではもう少しだけ、経済のお話しにお付き合いください。
ドラッカーの有名な経済タームに「選択と集中」があります。
得意(優先順位の高い)分野を明確にして、得意とする(優先順位の高い)分野に経営資源(社会資源)を集中的に投下するという戦略のことです。
これからの日本は確実に人口が減少し、国内消費が低迷する、つまり日本の価値(人やお金)が縮小していく混迷の時代と言うことができそうです。
したがって、ドラッカーの「選択と集中」の理論からすると、自然に価値(人やお金)の拡大が見込めない時代であるからこそ、得意とする(優先順位の高い)分野に社会資源を集中的に投下することが求められるわけです。
つまり、日本が今後も経済的相対的優位に立って生き残っていくためには、あらゆる社会資源を政策的に「選択と集中」してくことが必要になってくるということです。
そして、さらにこれからの日本人と日本経済を元気にするためには、社会資源の「選択と集中」と同時進行に、トリクルダウン(露おろし)の実践が必要になってくると思われます。
トリクルダウンは、大木からしたたり落ちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分として成長していく大木と草花の相互依存関係で、結果として人(労働者)と商売(経済)をともに元気にさせるものでした。
そして、このトリクルダウンの経済理論(仮説)の要諦は、まずは大木を育て、その大木を基盤として裾野の草花に露がおろされるという先富論になっています。
では、トリクルダウン(露おろし)が先富論=「選択と集中」の帰結であるとしたら、トリクルダウンのためにどのような経済政策が考えられるのでしょうか。
例えば、企業の法人税(特に大企業)の適切な軽減化を図る一方で、個人の所得税や相続税に対する累進性の強化、また個人の社会保障への応能負担の強化、そして国全体の平準化を図る目的から地方交付税等による所得の再分配化機能の強化が挙げられると思われます。
そして、国際的な経済政策としては、「21世紀の資本論」のピケティ教授が提唱されているタックスヘブンをなくす「世界連携累進課税」が想定されることになるのではないでしょうか。
つまり、「選択と集中」の結実を原資とした所得の再分配機能、つまりトリクルダウン(露おろし)の実践が縮小していく国内の消費経済(内需)の低迷を回避させる手段であり、その結果として著しい経済格差の解消された、比較的公平と思えうことができるような日本社会が実現されることになるのかもしれません。
ただ残念なことなのですが、この半世紀の間に、日本人のマインドは、自律する方向から依存する傾向へと変質してしまったようにも思われます。
依存的な未成熟社会にあっては、おそらく資本主義の論理(とその背後にある寛容性)や所得の再分配(とその背後にある自律性)がその機能を十全に果たすことができない惧れがあると思われます。
従って、依存的で未成熟なままの社会では、誰もがフラストレーションを抱えながらも出口が見えない、いわゆる「終わりなき日常」を生きるしかないという筆者のリアリティは、勝手な思い過ごしであれば良いと思うのですが、さていかがでしょうか。
今後の日本政府の経済政策と日本人の経済動向をしっかりと見守って行きたいものです。(苦笑)
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ベラスケスのマルガリータ(全編)
http://kkmessage.exblog.jp/237902230/
2017-10-20T23:38:00+09:00
2017-11-04T23:23:59+09:00
2017-10-20T23:37:59+09:00
kokokara-message
我流絵画論
オーストリア・ハプスブルグ王家の多くの至宝のひとつに、ベラスケスが描いた「白衣の王女マルガリータ」があります。
7年前になりますが、京都国立博物館で開催された「THEハプスブルグ」展で、「白衣の王女マルガリータ」(ウィーン美術史美術館)を鑑賞することができました。
ベラスケスは、17世紀に活躍したスペイン・ハプスブルグ王家の宮廷画家です。
そして、「画家の中の画家」と呼ばれたベラスケスが、晩年に描いた肖像画の傑作が、王女マルガリータの肖像画といえます。
王女マルガリータについては、そのあどけなさや愛らしい表情、そして可憐で豪華な宮廷衣装から、時代を超えて根強いファンが世界中の多くの国にいるようです。
おそらく、ベラスケスが描く王女マルガリータには、洋の東西を超えた、世界中の誰もが愛らしく素晴らしいと感じる普遍性が含まれているためではないでしょうか。
ベラスケスが描いた王女マルガリータの肖像画は、3歳、5歳、8歳、そして10歳の時に描かれた合計6点の作品が残されています。
その中でも、ベラスケスの代表作と言える5歳の王女マルガリータを描いた「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」は、横長が3m弱、縦長が3m以上もある大作で、スペインのプラド美術館が門外不出の作品として所蔵しています。(下の写真)
「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」は、5歳の王女マルガリータが画面の中心になるように構成されていて、マルガリータのあどけない表情と、王女の確たる威厳が的確に表現されているように思われます。
そして、この「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」とほぼ同じ時期に描かれたとされる肖像画が、京都国立博物館で鑑賞した「白衣の王女マルガリータ」(ウィーン美術史美術館)です。(下の写真)
「白衣の王女マルガリータ」と「ラス・メニーナス」で、王女マルガリータが同じ白いドレスを着用している点が大変面白く、興味深いものがあります。
ウィーン美術史美術館には、この5歳の「白衣の王女マルガリータ」以外にも、3歳と8歳の王女マルガリータの肖像画(合計3点)が所蔵されています。
これら3点の王女マルガリータの肖像画がスペインではなくウイーンにある理由は、王女マルガリータがスペイン・ハプスブルグ王家からオーストリア・ハプスブルグ王家に嫁ぐ前に、お見合い絵画(今ならお見合い写真ですね。)として贈られた経緯があるためです。
そして、先の「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」と10歳の肖像の「赤いドレスのマルガリータ」の2点の作品は、王女マルガリータの出身地のスペインのプラド美術館が所蔵をしています。
ただ、10歳の「赤いドレスのマルガリータ」(下の写真)だけは、ベラスケスが制作途中に絶命(1660年)したため、弟子たちが作品に加筆して完成させたと言われており、作品の評価は定まっていないところがあるようです。
そして、最も幼少の頃の3歳の時に描かれたもう一点の肖像画の「王女マルガリータ」は、フランスのルーブル美術館が所蔵しています。
このような計6点(3歳:ウィーン美術史美術館とルーブル美術館、5歳:ウィーン美術史美術館とプラド美術館、8歳:ウィーン美術史美術館、10歳:プラド美術館)のベラスケスの王女マルガリータを訪ねて、ウィーン、プラド、ルーブルとヨーロッパを代表する美術館を巡る観光客も多いように聞きます。
このうち「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」だけは、物理的に大作であることと、なによりスペインの至宝でもあることから、おそらく今後とも直接プラド美術館に出向かなければ実物と出会うことはできないものと思われます。
ただ、「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」以外の王女マルガリータの肖像画は、運がよければ日本に居ても鑑賞するチャンスはありそうです。
私の場合は、3歳の肖像画のうちの一点の「王女マルガリータ」は、25年前に直接ルーブル美術館で鑑賞できるという幸運に恵まれました。(下の写真)
そして、もう一点の3歳の肖像画の「薔薇色のドレスのマルガリータ」(ウィーン美術史美術館)は、10年程前に兵庫県立美術館で鑑賞することができました。(下の写真)
また、8歳の肖像画の「青いドレスのマルガリータ」(ウィーン美術史美術館)は、ずいぶんと前になりますが、神戸市立博物館で鑑賞した記憶があります。(下の写真)
そして、2010年には京都国立博物館で、5歳の肖像画の「白衣の王女マルガリータ」(ウィーン美術史美術館)を鑑賞することができたので、私は合計4点の王女マルガリータに出会うことができたというわけです。
私の王女マルガリータを巡る旅もあと残り2点だけとなったわけですが、「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」については、世界三大絵画のひとつともいわれており、王女マルガリータの存在を超えた、スペイン・ハプスブルグ王家の威信をかけた大作でもあります。
その画面の構成や物語性には、スペイン・ハプスブルグ王家にかかわる多くの謎が含まれているとも言われており、絵画好きであれば一生に一度は目にしておきたい芸術作品といえそうです。
そして、運よくプラド美術館に行くことができた人なら、ベラスケスがスペイン・ハプスブルグ王家の宮廷画家であっただけではなく、王家を支えていた王室配室長(内政と外交の最高責任者)の重責を担っていたことも見逃してはならないと思われます。
つまり、ベラスケスが宮内庁長官の立場から王女マルガリータを描いていたとしたら、私たちの「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」を鑑賞する眼も自ずと変わってくるのではないでしょうか。
ひとつの仮説ですが、晩年のベラスケスが1656年に大作「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」を描いたその理由は、後継者問題に悩んでいたフェリぺ4世(王女マルガリータの実父)がその時点で出していた「王位継承」に対する答えではなかったのかということです。
つまり、フェリぺ4世(王女マルガリータの実父)は、幼少でしかも王女のマルガリータをその時点での王位継承者として考えていたのではなかったのか。
ベラスケスが描いた王女マルガリータの肖像画の中でも、「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」と「白衣の王女マルガリータ」の5歳の頃の肖像画が、最も素晴らしい作品に仕上がっているのは、このためではないかと私は考えています。
その後、フェリぺ4世(王女マルガリータの実父)に王子(カルロス2世)が生まれ、王女マルガリータはスペイン・ハプスブルグ王家からオーストリア・ハプスブルグ王家へと嫁いで行くことになります。
フェリぺ4世(王女マルガリータの実父)の後継者となったカルロス2世(王女マルガリータの弟)は、生まれつき体が弱く、子供がもてなかったため、その逝去をもってスペイン・ハプスブルグ王家は消滅してしまいます。
一方、王女マルガリータは、嫁いだ先のオーストリア・ハプスブルグ王家のレオポルド1世との間に一人子供をもうけますが、自らは22歳という若さで逝去してしまいます。
そして、後継者がいなくなった後に起こったスペイン王位継承戦争では、次期の王として亡き王女マルガリータの孫が候補に挙がりましたが、その王子もやがて逝去し、スペイン・ハプスブルグ王家の王位継承者は誰もいなくなってしまいました。
これをもってスペイン・ハプスブルグ王家は名実ともに消滅することになり、スペイン・ハプスブルグ王家と王女マルガリータの面影はベラスケスの絵画の中だけに留め置かれることになりました。
世の栄枯盛衰は必定ですが、ベラスケスが描いた王女マルガリータはどれも愛らしく、そのあどけない表情だけは、今も鑑賞する人に穏やかさと和みを与え続けてくれているのではないでしょうか。
スペイン宮廷画物語―王女マルガリータへの旅 西川和子著より
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味の大王 室蘭本店(室蘭カレーラーメン)
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2017-09-09T10:33:00+09:00
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北海道
北海道ラーメンでは、函館のしお、札幌のみそ、旭川のしょうゆが有名ではないでしょうか。
室蘭には、室蘭カレーラーメンがあります。
室蘭カレーラーメンのパイオニアでもある、味の大王 室蘭本店に行ってきました。
味の大王 室蘭本店は、室蘭市役所にほど近い旧市街の商店街の一画にあります。
後から知ったことですが、味の大王は東室蘭駅前に支店を出していました。
東室蘭駅周辺に宿泊する人なら、わざわざ室蘭本店まで行く必要はないということですね。
ご覧のように、室蘭カレーラーメンはやや太めの縮れ麺と濃厚な味わいのカレースープが特徴です。
そして、室蘭市内にはカレーラーメンを提供する店が数十件あるとのこと。
果たして、室蘭カレーラーメンは、函館、札幌、旭川に次ぐ北海道第四のラーメンになることができるのでしょうか。
なお、新千歳空港3階には全道のご当地ラーメンが大集合していますが、残念ながら室蘭カレーラーメンはありませんでした。
また、室蘭のご当地グルメには、室蘭カレーラーメン以外に、室蘭やきとりがあります。
一般には、やきとりは鶏肉と長ネギなどの野菜を用いた串料理のことを指します。
しかしながら室蘭やきとりは、鶏肉の替わりに豚肉を使用し、長ネギの替わりに玉ねぎを使用し、焼いた串に洋がらしをつけて食べます。
室蘭独自のやきとり文化と言えそうですが、これを確かめるため、やきとりの一平 中島本店に行ってきました。
こちらも後から知ったことですが、やきとりの一平は東室蘭駅前に支店を出していました。
東室蘭駅周辺に宿泊する人なら、わざわざ同駅から徒歩15分の中島本店にまで行く必要はないということですね。
やきとりが鶏でなく豚であるのはとてもユニークですが、これに至った経緯については、室蘭市のホームページのむろらんのグルメからご確認いただくことができます。
なお、室蘭市内のやきとり店は、鶏肉を使用した一般的なやきとりもメニューに並べていますので、ご安心ください。
新千歳空港からレンタカーで洞爺湖を訪れたあと、宿泊のために立ち寄ったのが室蘭でした。
室蘭は、沿岸部に製鉄や製鋼、製油などの工場群が立ち並ぶ工業都市で、室蘭の夜景は「日本七大工場夜景」のひとつとされています。
むろらん夜景については、室蘭市のホームページからご覧いただくことができます。
盛夏に訪れた室蘭は、すでに短い夏を終えて、ひと足早い秋モードへと切り替わりつつあるのではないかと思われます。
秋・冬の北海道を旅される方は、ぜひ室蘭まで足を延ばされて、室蘭カレーラーメンと室蘭やきとりのご当地グルメをご賞味されるのはいかがでしょうか。
・味の大王 室蘭本店
℡0143-23-3434
駐車場10台
・やきとり一平 中島本店
℡0143-44-4420
駐車場15台
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今考えるべきこと(近代を超えるもの~ポストモダンとは何か)
http://kkmessage.exblog.jp/237599186/
2017-08-20T11:18:00+09:00
2021-04-16T08:08:19+09:00
2017-08-20T11:18:50+09:00
kokokara-message
我流方法序説
日常の中で、なんだか良く分からない、因果関係が判然としないと言った現実(現象)に出くわすことは、多々あるのではないでしょうか。
おそらく、素朴で限定された世界以外では、あらゆる現実(現象)は一因一果の関係にあるのではなく、ある原因が結果となり、またその結果が新たな原因になるという円環関係(ウロボノスの輪)になっていると思われます。
昨今話題の人工知能(AI)の世界では、入力と出力の関係は一因一果の関係にあるのではなく、入力が出力に影響を及ぼし、その出力がさらなる入力となって出力に影響を及ぼす円環関係(ウロボノスの輪)になってるとされています。
また、「人間万事塞翁が馬」の言葉にあるように、幸運と不運は明確に峻別できるものではなく、ある原因が結果を生み、その結果がまた原因となって次の結果を生むという円環関係(ウロボノスの輪)になっていることは古くから知られていることでもあります。
つまり、自分の周りの現象を見回して見ると、過去にも、現在にも、未来にも、実験モデルのような単純かつ線的な因果律は存在せず、あらゆる現実(現象)が円環関係(ウロボノスの輪)になっていると言うことです。
しかしながら、近代を自負する人にとっては、一因一果の関係にないというものの見方は、とても奇異で不可解なものに映ることになるのかもしれません。
なぜならば、近代を自負する人にとっては、ある原因に対してある結果が生じる単純かつ線的な因果律が、自然なものとして受け入れられているからです。
たとえば、近代を自負する人が納得できない結果に出くわしたら、必ず原因が特定できるものと信じ、懸命になって犯人(原因)探しをするのではないでしょうか。
また、現実(現象)は予定調和に展開するものと信じ、予定通りに進まない現実(現象)に出くわすと、現実(現象)の方が間違っていると憤慨するのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、現実(現象)は実験モデルのような単純かつ線的な因果律にはなく、あらかじめ予定されたシナリオ通りに展開するものでもないということです。
たとえ運よく犯人(原因)が特定できたり、シナリオ通りに現実(現象)が展開したとしても、ほんの少し環境が変わっただけで現実(現象)は万物流転して行きます。
つまり、最終回答と思われた現実(現象)でも、多様多様な原因が複雑に重なり合った一時点の暫定的な結節点(結果)でしかないということになります。
ところで話は少し逸れますが、因果律において原因と結果が時系列に展開するのは、至極当たり前なこととして広く受け入れられているのではないでしょうか。
まず最初に原因があって、それから時間軸に沿って結果が生じてくるというものの見方です。
特に近代を自負する人にとって、因果律が時系列に展開するというのは信憑性というより、信仰に近いものがあると言えるのかもしれません。
しかしながら、日常の中で経験する多くの現実(現象)は、必ずしも原因と結果が時間軸に沿って時系列に展開するものばかりではないと言うことです。
たとえば、シンクロシニティー(共時性)と呼ばれる現象があります。
もともとパラレル(平行)な関係にあるいくつかの事柄が、シンクロナイズして同期に原因と結果が生じるという見方です。
たとえば、空に虹がかかったことと子供の病気が治癒したことはパラレル(平行)な関係で、そこには何の因果律も見出すことはできないかもしれません。
しかしながら、シンクロシニティー(共時性)では、空に虹がかかったことと子供の病気が治癒したことに因果律を認めて、現実(現象)の展開を図るということになります。
少しオカルト的かもしれませんが、日本人が大好きな占いの世界などでは、パラレル(平行)な事柄を平気で並べてそこに因果律を見出しているのではないでしょうか。
おそらく、近代を自負する人にとっては、このようなシンクロシニティー(共時性)や占いの世界は、非合理的かつ前近代的なオカルトと映るのかもしれません。
一般論としても、なんだか良く分からない、因果関係が判然としないという現実(現象)に出会ったら、おそらく多くの人は戸惑い、そして暫し思考停止(判断保留)状態に陥ることになるのではないでしょうか。
思考停止(判断保留)は二項対立の一方に振り切れない自己防衛のための手段ですが、一方では足場が定まらないままグレーゾーンの中に宙吊りにされたような極めてストレスフルな状態でもあるということです。
おそらく、日常の中で起こる現実(現象)の多くは、白黒はっきりとしないグレーゾーンの中に位置するもので、それは近代(モダン)の合理性や単純かつ線的な因果律から零れ落ちた、どちらかと言えば前近代(プレモダン)的で非合理な円環の因果律を含んだ不可思議でオカルト的なものになるのかもしれません。
現実(現象)とは、あらかじめ決まった答えがあるものではなく、各人の社会的文脈や世界観から導き出された個別のリアリティ(現実感)ということではないでしょうか。
これまでに近代(モダン)や近代化という言葉を使用してきましたが、近代化とは欧米化のことでもあります。
そして、近代化つまり欧米化の最大の特徴は、あらゆる現実(現象)を言語(概念)によって分節(カテゴリー化)してしまうことではないかと思われます。
つまり、目の前にある現実(現象)を余すことなく言語化(概念化)してしまうということが、近代(欧米)化の本質で、近代化の徹底ということになります。
このため、言語化(概念化)が困難とされた現実(現象)は前近代や非合理なものとして分類化されてしまい、社会の背景へと追いやられてしまうことになります。
ヴィットゲンシュタインに「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉がありますが、近代社会において言語化(概念化)の徹底をしても、なお分節(概念化)が困難となった現実(現象)はやがて無化されてしまうことになります。
このことからも分かるように、言語化(概念化)の限界が近代(モダン)化の限界と言うことでもあり、言語化(概念化)の限界(境界)を超えた向こうに位置する非言語空間がポストモダンということになるのではないかと思われます。
現在は、ポストモダンの時代にあるとされることがあります。
繰り返しになりますが、ポストモダンとは、近代(モダン)を超越した境界の向こう側に位置する言語化されていない思考方法や世界観のことであって、その非言語空間を言語化することがポストモダンに求めらることではないかと思われます。
したがって、言語化が近代化の本質であるのなら、ポストモダンにおいては今以上に近代(モダン)を徹底することから始めなければならないのではないかと思われます。
逆説のようですが、今在る近代(モダン)の中に今以上に強固な近代(モダン)を構築することでしか、近代(モダン)を超越して行く足場は構築できないということです。
また、近代(モダン)からポストモダンへの移行は、社会全体がデジタルにポストモダンへと切り替わって行くものではなく、おそらく各人の思考方法や世界観が徐々に位相を変えながら変容して行くものではないかと思われます。
つまり、ポストモダンへの移行とは、世界や国家レベルで起こる劇的な世界観のズレではなく、むしろ個人レベルで起こる属人的な精神面の位相の変化ではないかと思われます。
少し言い方を変えるとすれば、国家や民族などを背景として持った個人レベルの無意識の意識化ということになるのかもしれません。
そして、無意識の意識化は、先の見えない複雑化した近代(モダン)社会の様々な葛藤や軋轢を解決してくれる(近代を超えて行く)端緒になってくれるように思われます。
最後になりましたが、ポストモダンにおける非言語空間の言語化は、自然科学や社会科学における実験モデルのアプローチの方法を採るものではなく、むしろ個人レベルの私的(詩的)で文学的な表現方法による無意識の意識化、つまり「神話の創造」に拠るところが大きくなるのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。
【蛇足ながら】
前近代(プレモダン)は、神との対話が可能な時代とされていました。
近代(モダン)は、神との対話が途絶えた、神なき時代ともいわれています。
このため、近代(モダン)は、人が自問自答を繰り返す(自分の頭で考える)しかない時代であったということでもあります。
そして、人が自問自答を繰り返す(自分の頭で考える)ことが哲学の営為であるとするのなら、近代(モダン)は哲学の営為を通して、自分の頭で考える「個人」を生み出だすことが可能な時代ということになります。
また一方で、「個人」とはその外部の「他者」の存在なしには生成されることがなく、「他者」と同時に生成されてくる概念ということになります。
なぜなら、「個人」とは自律した概念であると同時に、その外部の「神」や「他者」との関係性(相対化)の中から生成されてきた概念でもあるからです。
従って、ポストモダンの時代では、「個人」が近代(モダン)から零れ落ちた周縁部の非合理性や「他者」という異質性に自覚的となり、その距離感(関係性)を調整していくことがなによりも求められることではないでしょうか。
ところで、仏教には「輪廻転生」という教え(世界観)があります。
おそらく、古代人は、現実(現象)全般が円環関係(ウロボノスの輪)で説明ができるとどこかで理解ができており、この円環関係の現実(現象)全般を「輪廻転生」と呼ぶことにしたのではないでしょうか。
仏教の世界観では、この円環関係にある「輪廻転生」からの「解脱」を目指すということになります。
そして、この「輪廻転生」から「解脱」できた境地のことを、「悟り」と呼んでいるのではないかと思われます。
つまり、古代人にとっての「解脱」とは、この現実(現象)全般からの「解脱」、つまりウロボノスの輪の円環関係からの「解脱」ということになりそうです。
このように考えると「解脱」は、「出家」そのもののであるようにも思われます。
しかしながら、「解脱」の本質が世間の相互参照(自分の頭で考えない)からの離脱にあるとすれば、「自分の頭で考える」という個人の営為はまさに「自分の頭で考えない=相互参照」からの離脱にあるということです。
そして、「解脱」のあとにやってくる「悟り」の境地は、この解脱の本質(自分の頭で考える)に自覚的になる(気づく)ということではないでしょうか。
つまり、「悟り」とは自分の頭で考えた結果であるので、自覚的かつ客観的にももはや迷う余地はない、是非に及ばずという境地(心の安寧)ではないでしょうか。
したがって、「悟り」は「出家」だけを前提とした限定的な境地のことではなく、世俗にあっても、自分の頭で考える営為、つまりは自らを相対化し、自他を生成する自己意識の習得こそが「悟り」のために必要な要件になってくるのではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。
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COFFE' SOLARE Tsumugi あべのsolaha店の 濃い苺みるく
http://kkmessage.exblog.jp/237151930/
2017-07-09T18:10:00+09:00
2017-07-17T20:54:16+09:00
2017-07-09T18:10:06+09:00
kokokara-message
おいしいかき氷
6月末から始まった夏のバーゲンも二回目の週末を迎え、一段落と言ったところではないでしょうか。
バーゲンの小休止に、あべのハルカス近鉄本店ウイング館3.5階にある「COFE' SOLARE Tsumugi あべのsolaha店」の天然水の削り氷を食べに行ってきました。
天然水の削り氷は聴き慣れない言葉ですが、「中央アルプスの天然水で作った高純度な氷を細かく削り、ふわふわに仕上げた」かき氷を同店ではこのように呼んでいるようです。
まずは、濃い苺みるく(800円)です。
ふわふわした天然水の削り氷の全体に、ミルク(牛乳)味のシロップがたっぷりとかかっています。
練乳はかかっていませんが、ミルク(牛乳)味のシロップはミルク氷ファンを十分に満足させるものでした。
ミルク氷と言えば台湾かき氷の雪花泳(シュエホワピン)が有名ですが、昔ながらの淡白なミルク(牛乳)味のシロップはとても苺シロップと相性が良いようです。
そして、濃い苺シロップは、苺を丸ごとジャム状にした果肉系シロップでした。
次は、袋布向春園 お抹茶&北海道あずき(850円)です。
袋布向春園は、大阪にあるお茶専門店のようです。
ご覧のような抹茶みるく金時ですが、渋めの抹茶のシロップと甘さ控えめの北海道あずきはとても良く仕上がっています。
ただ、ミルク氷が好物という人には、濃い苺みるくの方がお勧めかもしれません。
あくまで好みの問題ですが・・。
そして、同店で提供している天然水の削り氷は、以下の4種類。
阿倍野界隈でかき氷を食する時は「甘党まえだ」と決めていたのですが、今回COFE' SOLARE Tsumugiでおいしいかき氷に出会えたことは大変幸運でした。
いよいよ夏本番です。
日本で一番暑いと言われる大阪の盛夏を乗り切るには、何事にも無理はしないで、自愛を込めた休息とこまめな水分補給が不可欠になります。
この夏あべのハルカスに出かけられたら、せひCOFE' SOLARE Tsumugi あべのsolaha店で小休止をされて、天然水の削り氷を食してみるというのはいかがでしょうか。
場所:あべのハルカス近鉄本店ウイング館3.5階
電話:06-6625-2082
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和を以って貴しと為す
http://kkmessage.exblog.jp/237101870/
2017-06-17T11:43:00+09:00
2017-07-07T14:17:02+09:00
2017-06-17T11:43:31+09:00
kokokara-message
読書
前回に引き続き、リンボウ(林望)先生の著書「新個人主義のすすめ」から引用をさせていただきます。
書評ではありませんのであしからず。
同書では、聖徳太子の十七条憲法の劈頭にある「以和為貴」が取り上げられています。
「以和為貴」は、ふつう「(和)わをもって(貴)たっとしとなす」と読んでいますが、古い写本に拠れば「(和)やわらかなるをもって(貴)たっとしとなす」と読むことがあるようです。
この場合の「和=わ」と「和=やわらか」は、言うまでもなく同じ意味で使用されています。
しかしながら、前者の「和=わ」と後者の「和=やわやか」に少なからず違和感を覚えたとしたら、それはおそらく前者の「和=わ」を「同=どう」と読み違えしていることからくる錯覚ではないでしょうか。
つまり、「和=わ」の意味は調和するということであって、和(なご)やかに、睦(むつ)みあって、諍(いさか)いをしないということになりますが、「同」はどちらかと言えば主体性がなく、付和雷同して誰かの意見に流されるということになります。
「和=わ」は、主体的に、しなやかに、やわらかに、なごやかに、むつみあって、いさかいのない調和した状態をつくりだすということになります。
論語には「君子は和して同ぜず」という言葉がありますが、これはまさに「和」と「同」の違いを言い表していると言えそうです。
但し、大変残念なことに、いつの頃からか日本人は、「和」と「同」を読み違えてしまったようです。
おそらく、この読み違えは日本人が「同じ」であることを前提に成り立っている世間で生きていることと関係があるように思われます。
ここで言う世間は、みんな「同じ」が通用するような狭い範囲の人間関係のことです。
では、世間の「同じ」は、果たして「平等」と同じ意味で使用されているのでしょうか。
人それぞれに身体的な差異があって、付属する有形無形の財産や人間関係に差異があるのは当然のことです。
しかしながら、身分制の封建社会では同じ百姓の間に大きな差異があったとしても、百姓は「同じ」身分であることを前提として来ました。
そして、百姓の中でも大きな割合を占めた農民は、田植えや稲刈をムラ総出の共同作業(結=ゆい)で行い、全体で成果を上げることをムラの掟としていました。
日本のムラ社会(世間)では、たとえ様々な立場の意見があったとしても、意見は自分が言うものではなく、みんなで決まった意見に従うということになっています。
かような百姓の稲作文化が数百年以上続いたためか、日本の世間では「同じ」ことをするが原則になってしまい、自分に合った仕事や生活をすることは悪と見做されることになりました。
日本国の方針に「ワーク・ライフ・バランス」が掲げられていますが、残念なことに十分な成果は上がっていないように思われます。
これは自分に合った仕事や生活をする「ワーク・ライフ・バランス」が日本では個人主義的と見做されて、横並びから突出する不届き者が出ないようみんなで牽制し合い監視し合う関係が続いてきたからだと思われます。
昨今監視社会が話題に上ることがありますが、日本の世間では牽制し監視するが習慣になっているため、内面の自由に対する警戒心は低くなっているように思われます。
おそらく日本には長い世間の歴史があるため、少しくらいの社会構造の変化ではその本質までは変わらず、「平等」ではない「同じ」への強い志向性が今も続いているのではないでしょうか。
ところで、お隣の国、中国は個人主義的と言われることがあります。
また、中国は「個人」がある社会と言われることがあります。
確かに日本との対比では、中国は「同じ」であるよりも、むしろ差異(違い)を重要視する社会で、個人主義的と言われれば確かにそのように思われます。
しかしながら、中国人の個人主義は欧米の一神教を起源とする利他的な個人主義ではなく、それとは真逆な多神教的を起源とする利己的な個人主義ではないかと思われます。
例えば、中国人が平等を求めるのはあくまでルールの下の平等で、異姓不養(異姓からは養子をとらない)の原則に見られる宗族(家族)間の差異は明確にして区別してきました。
つまり、中国は「同じ≠平等」が適用される宗族(世間)が多元的に存在する社会であって、地縁血縁のムラ社会(世間)が多元的に存在する日本ととても似た社会構造にあると言えそうです。
このためか、中国人は個人主義的と言われながらも、相手を一個人として尊重できるような、宗族(世間)を超えた普遍性は持ち合わせてはいないように思われます。
また、中国にも一神教的な天の世界観である儒教がありますが、これはあくまで支配階層の思想(宗教)であって、一般大衆にとっての思想(宗教)は道教になります。
道教が老荘思想の「未分化同一」を志向していることからも分かるように、道教には一神教的に個人が分節されるという世界観はなく、多神教的な渾然一体の世界観になっています。
中国の一般大衆が「未分化同一」の世界観で生きているとしたら、日本の母系原理に基づいた「母子密着」の世界観とはとても近い関係にあるのではないでしょうか。
そして、日本の文化の中に道教の影響が強く見られることについては、中国哲学者の故福永光司氏が数十年以上前から指摘されてきたところでもあります。
ちなみに、先述した「君子は和して同ぜず」は儒教の言葉であって、道教の渾然一体の世界観ではないと言うことです。
中国社会は、欧米社会の数百年後の姿と言われることがあります。
おそらくこれは、中国が爛熟した古代都市文明のなれの果ての姿であって、一神教的な欧米社会の利他的な個人主義は、やがて文化が爛熟すると利己的な個人主義に変貌して行くのではないかと言った危惧ではないかと思われます。
しかしながら、中国の個人主義が前提としている個人は、一神教的な分節で自律している個人ではなく、「未分化同一」のコンプレックス状態の反動形成として生じた未熟で万能感の強い個人であることからすると、中国社会は欧米社会の数百年後の姿ではなく、むしろ母子密着のコンプレックス状態を起源とする母系社会日本の近い将来の姿ではないかと大変危惧しているのですが、さていかがでしょうか。
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世話を焼かない内助の功(夫婦を超えて行け!)
http://kkmessage.exblog.jp/23860265/
2017-05-04T22:32:00+09:00
2017-06-08T23:02:14+09:00
2017-05-04T22:32:43+09:00
kokokara-message
読書
リンボウ(林望)先生の著書「新個人主義のすすめ」から、少し引用をさせていただきます。
書評ではありませんのであしからず。
リンボウ(林望)先生は、「世話を焼かない内助の功」が夫婦関係のひとつの有り様ではないかと提言されています。
つまり、個人主義的な夫婦関係では、妻は夫の世話を焼かない、夫は妻の生活に干渉しないことが不文律になるということです。
「個人主義」と言うと自分勝手と勘違いされてしまいそうですが、個人主義とは自分以外の他人を「一個独立の個人」として認める立場のことです。
これに対し利己主義は、他人に対して自分の考えを押し付けたり、その前提として自分の考えだけが尊いと思っている傲慢さや独善性を指します。
日本人が行っている横並びや同質性が同調圧力を意図するものなら、それは利己主義ということになってしまうのかもしれません。
したがって、一見同じように見える個人主義と利己主義は、ベクトルの方向が真逆になっているということです。
繰り返しになりますが、個人主義的な夫婦は自分の考えを相手に押し付ける上下関係ではなく、男女の違いと独立を認め合ったフラットな関係と言うことになります。
夫婦が「一個独立の個人」として認め合える関係であるからこそ、妻は夫の世話を焼かない、夫は妻の生活に干渉しないという不文律が成立するのではないでしょうか。
では、個人主義的な夫婦関係では、相手に何も求めてはいけないのでしょうか。
友情であるのなら、困っている場合に相談してみたりとか、無理を聞いてもらったりすることはあります。
べたべたした関係ではなく、むしろ距離が取れている方が、友情を維持する上では重要になってくるのかもしれません。
個人主義では自分ができることは自分でするが基本となりますが、嫌なことや困ったことはお互いが分担してするもまた大事な基本になると言うことです。
では、家庭における家事は、どのように分担すれば良いのでしょうか。
掃除や洗濯は比較的好きであっても、料理は嫌いという人はいると思われます。
また、その逆もしかりです。
では、家事を全て分担してしまうのが、個人主義的な夫婦関係ということになるのでしょうか。
個人主義とは、自分以外の他者を「一個独立の個人」として認め合う、つまりは他者の尊重や他者への「思いやり」がベースとなって成立するものでした。
この「思いやり」を欧米流の言い方に換えるとしたら、自分以外の他者への「無償の贈与」になるのかもしれません。
ただ、世知がない拝金主義の世の中では、金銭に換算できない「思いやり」や「無償の贈与」は歯牙にもかけられないのが現状と言えます。
では、個人主義的な夫婦関係では、「思いやり」や「無償の贈与」はどのようにして実践されるのでしょうか。
また、妻が負担している家事は、夫に対する「思いやり」や「無償の贈与」と考えて良いのでしょうか。
おそらく、日常の生活実感からすると、妻の家事負担は、夫の経済的な側面に対する妻の分担になるのではないかと思われます。
ただ、妻も夫と同じように働いているとしたら、妻の家事は過分な負担になってしまうのですが・・・。
では後半です。
もう少しだけお付き合いください。
さて、個人主義的な夫婦関係では、男女の相違と個人の独立をお互いが認め合う(尊重し合う)ことが大前提になるということでした。
男女の相違としては、男性は20年以上一緒にいると恋愛感情はまずないと思われるのですが、女性は特に子供がいないような場合には、母として、子供としての夫に新たに恋愛感情を抱くということは考えられるようです。
このような男女の相違に気付かず、もし夫が浮気でもしようものなら・・・。
大変なことになってしまいます。
また、子供がいない(子供をあきらめたような)女性は、ペットを飼うかのように、夫を子供として錯覚することはあるようです。
子供である夫は自分の掌に乗っていなければならず、逆説的ですが、妻は夫(子供)の成長を必ずしも望むものではないと言うことです。
夫は、願わくば、そこそこかっこいい人で、家庭を犠牲にするような出世は望まず、しかし経済的には安定している方が良いということなのでしょうか。
その掌に乗って行くとしたら、夫の女性関係は禁物で、妻に頭が悪い(かっこ悪い)と思わせてはならないということになります。
かような男女の相違を踏まえれば、古式ゆかしい亭主関白よりも、夫が妻に頼る姉さん女房の方が、夫婦関係は上手く行くのかもしれません。
また、個人主義では、自分ができることは自分でするが基本になると言うことでした。
このため、妻に自分の(イエの)考えを押し付けたり、その前提として自分の(イエの)考えが尊いとも思わなかったし、現に実家に関することは妻にはタッチさせずにすべて自分で行ってきたたつもりです。
たぶん妻は、自分のことと私のことを考えれば良い環境にあったのではないでしょうか。
以上のことから想像を巡らせると、今でも妻が一緒に旅行に行ってくれていることや家事負担をしてくれていることの意味が、何となく分かってくる気がします。
今から15年くらい前になりますが、結婚10年目を経過した頃、私はふと「配偶者は妻ではなく母ではないか。」と思ったことがありました。
そして、今思えばこの発想は全く根拠を持たない妄想などではなく、日本特有の母系社会に根差した夫婦関係のひとつの着眼点であったのではないかと考えています。
欧米の父権社会に対して、日本は母系社会と言われることがあります。
欧米の父権社会では一神教的な分節によって「個人」が出現しますが、日本の母系社会では多神教的な包摂(束縛)から弾き出(排除)されて「個人」が析出されます。
要するに、父権社会と母系社会では「個人」の出現の仕方が真逆になっているということです。
このため、伝統的な日本社会で欧米型の個人主義を実践しようとすれば、夫婦関係での妻は一個人であると共に母の役割も同時に果たさなければならないことになります。
つまり、個人主義的な夫婦関係の妻は、夫の自律を促す良妻の役割と夫の自律を阻止する賢母の役割を同時に果たす二律背反した両義的な存在ということになります。
そして、この考えに従うとしたら、子供のいない家庭の夫は同時に子供であるため、妻からのダブルバインド状態に晒されることになってしまいます。
ただ、子供がいる家庭では、夫と子供を比べれば、妻の感情は夫の方ではなく必ず子供の方(子供であれば息子でも娘でも同じです。)へと向かうことになるようです。
このため、子どもがいる家庭では子供の世話を焼くのが妻の生きがいとなってしまい、夫に「世話を焼かない」はもはや「内助の功」ではなくなってしまいます。
つまり、個人主義的な夫婦関係の「世話を焼かない」は「思いやり」でしたが、この場合の「世話を焼かない」は夫への愛情(承認)不足ということになってしまいます。
そして、この状況を少し角度を変えて見れば、家庭という母系原理の包摂(束縛)から弾き出(排除)された夫が、やっと自由で孤独な「個人」として生まれ変わることが出来たというこになるのかもしれません。
但し、個人主義の大切な基本ルールは、自分ができることは自分でするというでした。
したがって、夫がいくら「個人」に生まれ変わることができたとしても、その内実として夫が依然独立できない我が儘状態な状態なままであるのなら、老後単身の寂しさを差し引いても、妻は別れるという選択をすることになってしまいます。
大変皮肉な話ですが、日本の夫婦関係の夫は、家庭という母系原理の包摂(束縛)から弾き出(疎外)されることでしか、自らの自律の可能性に気づくことができない構造的無知の状態に放置されていると言えそうです。
昨今少子化の影響で、個人主義的な夫婦関係の「世話を焼かない内助の功」が、ようやく半分くらい実践可能な状況になって来たように思われます。
つまり、個人主義の対極にある母系原理が緩み、個人主義的な「自分のことは自分でする(他人のことは他人がやる)」が一般化してくると、従来からの日本の夫婦の枠組みが大きく変化して行くことになるのではないでしょうか。
但し、懸念として少子化に対して社会からの桁外れの愛情が注がれることとなれば、日本の母系原理は緩むどころかさらに強化されることにもなってしまいます。
したがって、少子化をきっかけに芽吹き始めた日本の個人主義は包摂と排除のダブルバインドに耐えながら、軸足はあくまで「個人」の側に置いたままで、国家規模の集団(同化)主義的な母系原理に飲み込まれぬよう、流動化して行く日本社会をしっかりと見守って行くしかないと考えているのですが、さていかがでしょうか。
(終わり)
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ほうせき箱の琥珀パールミルク氷
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2017-04-01T11:52:00+09:00
2017-04-09T09:14:49+09:00
2017-04-01T11:52:03+09:00
kokokara-message
おいしいかき氷
春爛漫、桜の季節となりました。
「桜吹雪けば、情も舞う(赤色エレジーより)」は、今でも変わらない日本人の大事な心のひだではないでしょうか。
さて、今回は、ならまちシリーズの3回目で、「奈良ホテル」「ゆき亭」に引き続き「こおりとお茶のお店『ほうせき箱』」をご紹介します。
「ほうせき箱」は、近鉄奈良駅から東向商店街を抜けて「ならまち」へとつながる奈良もちいどのセンター街の「もちいどの夢CUBE」の中にあります。
「もちいどの夢CUBE」は、新たに起業家を目指す人たちの創業の場として、奈良もちいどのセンター街が設置したものです。
石畳の路地を挟んだ約10軒のガラス張りの「夢CUBE」が、起業家の様々な夢を乗せて営業していました。
なかでも「ほうせき箱」は、一年中かき氷が食べられる行列のできる店として、内外から人気を集めているようです。
今回は、琥珀パールミルク氷(750円)とアッサムミルクカスタード(850円)を注文しました。
まずは、琥珀パールミルク氷です。
通常のミルク氷に、エスプーマと呼ばれる泡状のムースがトッピングされています。
かき氷のミルクシロップは濃厚ではないため、トッピングされたミルク味のエスプーマとカラメル味を混ぜて食べることになります。
ところで、今話題になっているエスプーマとは一体何なのでしょうか。
エスプーマ(ESPUMA)とは、スペインの料理店「エル・ブジ」の料理長フェラン・アドリアによって開発された料理。またはその調理法、調理器具のことを言う。亜酸化窒素を使い、あらゆる食材をムースのような泡状にすることができる画期的な調理法として、注目を浴びている。 なお"espuma"とはスペイン語で「泡」を意味する。専用の器具に材料を入れ密封し、亜酸化窒素ガスのボンベでガスを封入し、器具全体を振る。ノズルを操作すると、食材が泡状になって出てくる。なお、日本では亜酸化窒素ではなく、二酸化炭素で代用するのが一般的である(亜酸化窒素が日本において食品添加物として認められたのは2006年4月であり、代用として使われていた二酸化炭素を使った器具が広まっているため)。だが近年になって亜酸化窒素を用いた器具も認可され、発売されている。日本においては、「エル・ブジ」で働いていた日本人シェフ山田チカラが、様々なエスプーマ料理を考案し、各メディアに紹介し広く認知されるようになった。(ウィキペディアより引用)
要するに、パンケーキハウスやスターバックスなどでよく見かける、ミルクやクリームを泡状にしたトッピングのことですね。
次に、アッサムミルクカスタードです。
かき氷に、しっかりとした紅茶味のアッサムシロップがかかっていて、かき氷の真ん中にはカスタードクリームが入っています。
また、ご覧のとおりミルクエスプーマとオレンジがトッピングされているため、多彩な味を楽しむことができます。
あらゆる食材を泡状にできるエスプーマ(調理法)は、料理界のイノベーションであり、新たなトレンドになって行くものと思われます。(既にトレンドですね。)
見た目と食感が斬新で、食材を選ばず、かつ設備投資にそれほどお金がかからないとなれば、多種多様なエスプーマ料理が提供されるのは必定ではないでしょうか。
ただ、かき氷に限って言えば、見た目と食感の斬新さだけではなく、淡雪のようなきめ細かなかき氷と人工甘味でないナチュラルなシロップの組み合わせがあくまでも基本になると思われます。
したがって、淡白な食感と味覚のエスプーマミルクはこれで良いと思われるのですが、やはりミルク氷を謳うのであれば、ベースとなるシロップは淡白なミルク味ではなく、濃厚なミルク味であることが必要条件になるのではないかと考えています。
春うらら、桜咲く古都奈良へお越しの折には、ならまちのもちいどのセンター街の「夢CUBE」に立ち寄られて、「ほうせき箱」のエスプーマかき氷をご賞味されるのはいかがでしょうか。
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住所:奈良市餅飯殿町12番地
℡:0742-93-4260
営業時間:10:00~19:00(かき氷は11:00~)
定休日:木曜日
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ゆき亭のオムライス
http://kkmessage.exblog.jp/23694294/
2017-03-04T13:37:00+09:00
2017-04-02T22:40:35+09:00
2017-03-04T13:37:32+09:00
kokokara-message
奈良
「ならまち」にある、オムライスと洋食の店「ゆき亭」に行って来ました。
「ならまち」と呼ばれているこの一画は、奈良時代に飛鳥から移転した元興寺(元法興寺)の旧境内で、今も残る極楽坊(国宝)、禅室(国宝)、大塔跡や小塔跡などは、当時の伽藍配置を今に伝える貴重な痕跡と言えそうです。
また、行政地名として奈良町は存在しませんが、江戸末期から明治にかけての町屋が残る旧境内一帯が、今では「ならまち」と呼ばれています。
落ち着いた風情と懐かしさを漂わせる「ならまち」には、町屋を再利用した素敵なショップが数多くあり、奈良観光のホットスポットになっています。
そして、今回ご紹介する「ゆき亭」は、ふわとろのオムライスが名物となっています。
オムライスにはスープとサラダが付いていて、ソースはデミグラスか、ケチャップのいずれかです。(写真はデミグラスソースです。)
オムライス以外にも下記の洋食メニューがありますが、オムライスセットを注文している人が圧倒的に多いように思います。
また、リーズナブルな値段で食後のコーヒが付けられるのは、とても有難いことですね。
ところで、観光地での飲食店等の検索に、食べログなどのインターネット情報は欠かせないものになっています。
そして、検索の上位に位置づけられた情報には、数多くの観光客が集中することになってしまいます。
「ゆき亭」は、インターネット検索上位にあるため、日本人以外にも多くのアジア系外国人観光客が訪れていました。
おそらく、外国の人は、自国の人以上に、インターネット検索上位の情報にアクセス(横並び)する傾向が強いのではないでしょうか。
なぜなら、普通(インターネット以外)ならアクセスしない情報でも、インターネットを介すれば容易にアクセス(横並び)することができるからです。
インターネットに「情弱(じょうじゃく)」という言葉がありますが、では「情強(じょうきょう)」とはどのような人物を指すのでしょうか。
上記の例からすると、インターネットに詳しいがゆえに、検索上位の画一的な情報にアクセス(横並び)してしまう人になるのかもしれません。
つまり、インターネットは情報を拡散させるだけではなく、特定の情報にアクセスを集中(横並び)させることが得意と言えそうです。
また、日本人の意思決定方式として、相互参照と横並びを挙げることが出来ます。
日本人の相互参照と横並びは、各々が自由意思で選択した結果の横並びではなく、同調圧力の結果として「みんな」と横並びする意思決定方式と言えそうです。
このことからすると、インターネットで検索上位の画一的な情報を選択せざるを得ない状況と、同調圧力から横並びの画一的な情報を選択せざる得ない状況とは、とても似た構図にあるように思われます。
つまり、インターネットであっても相互参照であっても、自分以外の「みんな」か選んだものを自分自身で選び直す(シンクロする)意思決定システムということです。
自由意思のようであって決して自由意思ではありえない、少しシニカルな言い方をすれば、ケインズの美人投票のようなものでしょうか。
もう少し、蛇足ながら。
グローバリゼーションの本質のひとつが情報化と言われたように、グローバリゼーションは、あらゆる情報の差異を見つけては均質化して行くものであると思われます。
また、同時に差異を見つけては情報を分類して行くものでもあると思われます。
例えば、異質と思われた情報であっても、概念化(言語化)が可能となれば、その情報はどこかの引き出しに分類されて、やがて社会に包摂されて行くことになります。
一方、同質と思われていた情報であっても、概念化(言語化)が困難となれば、規格外のレッテルを貼られて、やがて社会から排除されて行くことになります。
要するに、グローバリゼーションの情報化とは、情報の概念化(言語化)とカテゴリー化のことであって、様々な情報を鋳型の中にはめ込んで行く作業が「情報処理」と言うことになります。
そして、社会の至る所で「情報処理」が繰り返されて行くと、やがて社会は二極分化し、各極は細分化されて、グラデーショナルな社会が出現することになります。
まず、経済面では、資本主義における「情報処理」の要諦である「選択と集中」が繰り返されると、やがて富の偏在が生じ、社会の経済格差が拡大することになります。
文化面では、階層社会における「情報処理」の要諦である行動様式(規範)の差異が顕在化すると、隣人同士の話が通じず、コミュニケーションが困難になります。
つまり、グローバリゼーションは期待した自由でフラットな社会ではなく、それとは真逆の経済的、文化的に格差のある階層社会を実現させてしまったということになりそうです。
そして、かような近代(モダン)を超克し、自由でフラットな多文化共生社会の実現には、ポストモダンの左旋回が必要条件になってくると考えているのですが、さていかがでしょうか。
最後は気を取り直して、早春の奈良にお越しの折には、ぜひならまち「ゆき亭」に立ち寄られて、ふわとろオムライスを食されるというのはいかがでしょうか。
(おわり)
[#PARTS|USER|115789#]
住所:奈良市高御門町4-1
TEL:0742-26-0611
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