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今から4年前の平成22年9月25日に、相愛学園本町学舎(大阪市中央区)において、中沢新一氏、内田樹氏、釈徹宗氏によるトークセッションが行われました。

テーマは「人文科学の挑戦」ということであり、前半では、人文学再考という観点から人文科学の現在とこれからの位置づけについての討論がなされました。

また、後半では、これからの日本人のあり方というテーマから始まり、大阪人や大阪という都市の特殊性にこそ日本人が生き残る鍵があるのではないかという討論がなされました。

このトークセッションの内容は、平成22年10月17日朝日新聞日曜版に掲載されましたが、ここでは知の巨人であるパネラーの先生方のトークを、少しだけ詳細に紹介させていただきます。

ただ、当日司会から録音ができないとの注意があったため、以下の内容はあくまで当日聞き取ったメモを頼りに再現したものとなっております。

従って、聞き漏らしや聞き違い、不理解も多々あると思われますが、とりあえずは知の巨人のトークセッションの雰囲気だけでも味わっていただければ幸いと思います。

どうぞお楽しみください。

***********************************

<トークセッション>

【釈徹宗】 
人文科学とは何なのでしょうか。

【中沢新一】 
人文科学とは搦め手であり、このことにより人文科学は自身の延命を図ろうとしているのではないでしょうか。

【釈徹宗】 
本来、人文科学とはつなげる学問であり、ヒューマニティ(人間)が要となってつなぐということになっていると思うのですが。

【中沢新一】 
大学の歴史は、神学部、そして自然科学、人文科学から始まることとなりますが、現在は、学問をつなげるものが法律や技術となってしまっているようです。

従って、人間(ヒューマニティ)とは何か、をベースにおいて考えるということが求められているように思われます。

結局、すべての営みをつないでいるのは人間(ヒューマニティ)ということになるのですから。

【釈徹宗】  
人文科学は、人間(ヒューマニティ)をベースにする学問であっていいということですね。

【中沢新一】 
しかしながら、今大学に求められているのは、人間(ヒューマニティ)をベースにするようなものではなくなりつつあるということです。

従って、この時期にあえて人文科学を前面に出すというやり方は、ドンキホーテともいえるのかもしれない。(笑)

【内田樹】 
私は、ミッション系の大学(当時)で教えていますが、ここ数十年間、大学は世俗化し、建学の精神である宗教色を薄めることに終始してきたように思われます。

つまり、建学の精神である宗教を前面に出せば、それ以外の者を排除することになります。

また、教育理論がはっきりすると、これもまた排除になってしまいます。

現在1200の大学がありますが、個々の大学は、唯一無二性を掲げて開学をしてきたはずです。

ただし、それを守ることと、現在のマーケットが要請していることとは、矛盾することになっているということ。

結局マーケットの要請を受け入れれば、どの大学も同じような大学にしかならない。

その結果として、スケールメリットによって、小さな大学は淘汰されてしまうことになるということです。

そもそも教育とは、教えたいことがあるから始まるものではないでしょうか。

大学という組織そのものの存続の問題は、その次になるはずです。

従って、学生からは選ばれないというリスクを引き受けてでも、教えたいことを大切にするということが重要になると想うのですが。

【中沢新一】 
多摩美術大学(当時)で教えていますが、多摩美術大学にはナルシシズムの学生と教授が多いので困ることがあります。(笑)

今の人文科学が虚学ではなく、生命を呼び込むためには、アート、芸術が必要と考えています。

芸術人類学という分野では、芸術やアートが経済やその他いろいろなものとつながっていくことになると思います。

【釈徹宗】  
人文科学は、つなげるよろこびであると思っています。

ものを考える手順やスタイルを習得することは、いろいろな面に汎用することができます。

そして、つながることの喜びを味合うためには、専門性とそれ以外のことを同時に行うことが必要ということであり、それらがやがてつながってくると思います。

大学というある時期に、ものとものをつなげるトレーニングが必要ではないでしょうか。

【内田樹】 
ネアンデルタールの脳の機能は、1対1対応であったらしいのですが、ホモサピエンスになると脳の容量を増やすことができなくなったために、同型性を見出し、組み合わせで対応するようになったらしい。

つまり、同型性を発見しつなげて考えるということで、今まで経験したことにない状況でも、なぜか正解が分かるようになってくるようになります。

初めての問題でも答えが分かるようになるのは、縦(1対1対応)ではなく、横(多対多対応)につながっていくということですね。

クロマニヨンである現在人は、このような考え方をしているようです。

また、本当に頭のいい人とは、思いがけないところに、同型性を見出すことが出来るような人ではないでしょうか。

小学校の教諭に課題図書として、マルクス「共産党宣言」、マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、レビィー・ストロース「悲しき熱帯」、福沢諭吉「福翁自伝」などの10冊を選定したことがあります。

まずは、選んでみてから、その中にどのような同型性があるのかを自分で見出すことになるのではないかと思います。

また、求められている人とは、頭がいい人ではなく、橋本治氏のような頭が丈夫な人ではないでしょうか。

頭が丈夫な人とは、普通の人では入らないようなことが入り、その中で二つのものをつなげてしまうような人のことではないでしょうか。

【釈徹宗】  
子どもに求めることは、頭がいいことではなく、頭が丈夫であることですね。

決まったもの、既存のものを購入しただけでは、頭は丈夫にはならない。

頭を丈夫にするには、手の内を明かさないで、自ら気づくことの喜びを与えることが必要ではないでしょうかね。

禅僧が出す典座(てんぞ)料理では、太い箸と低い食台で食べるうちに、自然と美しい作法が身につくようになるようです。

【中沢新一】 
その太い箸は、イニシェーション(通過儀礼)から始まったのでしょう。

イニシェーションとは、いじめの知恵のことであり、育てるためにいじめる知恵ともいえそうです。

仏教には、人を育てるための古い知恵が形を変えながら今も取り入れられています。

仏教は、もともと生活の中にあった日常的なものを経典の中に取り入れています。

これが、仏教の素晴らしいところです。

仏教はある意味、人文科学(ヒューマ二ティ)が一番モデルとするところではないでしょうか。

しかしながら、今では仏教学者は文献学者となってしまっているところがあり、仏教知らずの仏教学者という面もあるようです。

仏教との対比からすると、キリスト教では中世に魔女狩りが行われたことがあります。

魔女とは、人類の知恵(薬草の知恵など)を継承してきた人のことであって、キリスト教では生活の中にあったこのような人類の知恵を抹消しようとしたことになります。

【釈徹宗】  
仏教でも、禅の公案は、あえてダブルバインドをかけているようなところがありますね。

つまり、決まった答えがないということ。

多様性を認めるということは、結局自己決定をするしかないということになります。

しかしながら、自己決定をするということは大変辛いことでもあります。

【中沢新一】 
自分が大学のときには哲学をする人が多かった。

そして、儒教などの東洋哲学は、今のヨーロッパの学問体系とは全く違うものであることを知りました。

それは、先生の教える仕方が、全く違っていて、多様であったということから。

このため、ヨーロッパの教育は一面でしかないことが分かりました。

チベットでは、お経を反復し、リズムをとり、体をつかうという修行を行います。

そして、「心」を学ぶことになるのですが、そうすれば人生は平らに生きられるようになるといわれています。

また、チベットでは本は読まなくていいとされていましたが、これはギリシア学問体系とは全く違うものといえそうです。

人文科学(ヒューマニティ)では、「心」という普遍性から考えることをしないといけないと思います。

異種領域をつなげてしまうのは、比喩の力(カトレアのような女性など)であり、それは人間の力そのものでもあります。

チベットでは「心」はどこから来るのか、と問われたことがありましたが、うまく答えにはならなかった。

【内田樹】 
体を介して学ぶということは、時間をかけて学ぶということと同じであると思います。

時間を与えるということが重要なのでしょう。

時間モデルとは、母性モデルであり、「ちょっとまってね」ということになります。

これに対して、無時間モデルは、父性モデルであり、時間をかけることはしない。

つまり、即断即決のビジネスのターム(用語)ということになります。

人の成熟には長い時間を要することになります。

また、時間がたてば、文脈が変わり、意味が分かってくるということもあります。

ダブルバインド状態のような精神症状は、時間をかけるしかないといえそうです。

たとえば、死んだり、老衰したり、成熟したりするということもあるのですから。

タイム イズ タイム(時間は時間)であって、決してタイム イズ マネー(時間はお金)ではないということですね。

【釈徹宗】
確かに、時間をかければ人は変わるものですね。

大学の4年間が学びの場になるということですね。

仏教文化と音楽が同時に設置されている唯一の(相愛)大学では、仏教音楽も学ぶことが出来ます。

【中沢新一】 
仏教と量子力学は大変似ているところがあると思います。

物理の法則はひつつの原因にひとつの結果が対応する因果関係ですが、量子力学では原因も結果もひとつではないと考えるからです。

それらを並べたもの(多対多対応)をマトリックスと呼びますが、マトリックスとはサンスクリット語で、マトリー(子宮、慈悲)が語源となった言葉です。

従って、ある原因が変化すれば、結果も含めたマトリックス全体が変わってしまうことにもなります。

また、量子力学ではダブルバインド状態が発生することもあるのですが、量子力学をやっている学者はこのことが分かっていないような気がします。

(多対多対応という)マトリックスは、自然科学と人文科学をつなげることになるものといえるのではないでしょうか。

そして、それをつなげるのが、やはり人間の頭ということになるということですね。

【釈徹宗】  
異物は排除するのではなく、いろいろと抱え込むことも必要であると思います。

他者や異文化は確かに痛みを伴うものですが、いかに引き受けるか、そのスタイルが問題となるのではないでしょうか。

【中沢新一】 
マートリー(子宮)は、異物への抗体反応を解除していくということになります。

そして、異物とともに自分を変化させていくというのが「母」ということになりますね。

異物を攻撃しないで、取り入れていくということになりますね。

【釈徹宗】  
学問は自分を棚上げにすることが出来ますが、仏教は自分を棚上げにすることが出来ないものです。

不機嫌にすることで、場を支配しようとする人がいますが、そのような人は自分を棚上げにしてしまっているのではないでしょうか。

ところで、中沢先生も、内田先生もいつも機嫌がいいですね。

(前半終了)

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【釈徹宗】
さて、日本人論といいますか、日本人のあり方についてお伺いしたいのですが。

【内田樹】 
ガラパゴス化がいいのではないでしょうか。

つまり、日本の閉鎖性そのものが、日本のガラパゴス化ということですね。

21世紀の日本の国家戦略として、先端的なガラパゴス国家を目指すべきではないでしょうか。

超高齢化、超少子化、人口減少化、右肩下がりの経済成長が、現在の日本の抱える課題といえます。
   
日本人は、これらの課題にくずぐずしながらも、老いや病と伴に、機嫌よく、愉快に生きればいいのではないでしょうか。

明治の初めの頃の人口は、5000万人でした。

人口の減少は、日本が抱える多くの問題を解決することになるのではないでしょうか。

日本は、これから未知の条件に突入することになりますが、発想を切り替えて、創発的に、創造的に、適用していかなければならないということです。

いずれヨーロッパ先進国も少子高齢化が進み、人口減少になりますから、そのアドバンスを利用してガラパゴス先進国になればいいのではないでしょうか。

また、日本は近代化はしても、前近代を抹殺することはしてこなかった。

このため、日本人には普遍的ともいえる人間性が、今も生き残っているように思います。

日本人がガラパゴス化する(閉鎖性、グローバル化とは距離をとる)ことになれば、日本は唯一普遍的な人間性をもったヒトが生き残る場所となるのではないでしょうか。

【釈徹宗】
以前に聞いた話では、合理的な構造をした集合住宅(グループホーム)は、誰にとっても住みにくいものになってしまうということのようです。

つまり、合理性だけを追求するよりも、合理的ではない部分があった方がいいということではないでしょうか。

では、日本文化のありかたというのは、これからどうなっていくのでしょうか。

【中沢新一】 
日本文化は、とても繊細で、目に見えにくいところがあります。

従って、壊れていくことになったとしても、実際には分からないのではないでしょうか。

壊れてしまうことにこだわらないというのなら、日本文化は「なっちゃって」ということでもいいのではないでしょうか。

【釈徹宗】
日本人は、上機嫌で、ぐずぐずしながら、「なっちゃって」ということでいいということですね。

では、この大阪という都市に未来はあるのでしょうか。

【中沢新一】
私は、大阪アースダイバーをやっています。

縄文時代の大阪の陸地はというと、上町台地と南河内のあたりだけでした。

なつかしい風景はやがてなくなり、変化してしまうことになりますが、大阪はその地形を変えながらも、現在も古代にあった構造を残しているように思います。

平松大阪市長(当時)によれば、大阪は形状記憶合金のような都市ということです。

つまり、もはや原形はとどめていないが、その構造だけは残しているということです。

【内田樹】
私は、大阪の土地の力としては、謡曲「弱法師(よろぼし)」が思い浮かびます。


*「弱法師(よろぼし)は、俊徳丸伝説を下敷きにした現在能。四天王寺を舞台とする。観世元雅作。他の俊徳丸伝説より悲劇性が高く、俊徳丸は祈っても視力が回復せず、回復したような錯覚に陥るだけである。 題名は普通「よろぼおし」と読むが、謡曲の本文中では「よろぼし」と読む。(ウィキペディアより引用)


四天王寺西門から、お彼岸にながめる日想観(じっそうかん)がそうですね。


*日想観(にっそうかん、じっそうかん)とは「観無量寿経」に説かれる修法で、夕陽を見ながら極楽浄土を観想する16観の初観。「観無量寿経」には極楽浄土を観想する十六の行法が示されていますが、その一番目に示されているのがこの「日想観」です。この後、水想観、地想観、宝想観、宝池観等々が示されています。(一心寺ホームページ等より)      

また、謡曲の「高砂」には、兵庫の相生から大阪の住ノ江へと向かう中世の風景が描かれています。


*「高砂(たかさご)」 は能の作品の一つ。相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐ大変めでたい能である。「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり」(ウィキペディアより引用)

このように、大阪には、古代から海の上に引かれていた東西の方向の力を感じることができます。

これは、古代の大阪のコスモロジーなのでしょう。

【中沢新一】
古代の大阪には、太陽信仰があったといえます。

なかでも、高安山が一番重要とされていた場所らしい。

古代の大阪は海の世界であり、海人族は星と太陽を信仰していたようです。

また、住吉大社(大阪市住吉区)は、星と太陽を信仰しています。

大阪は、(天体を軸とする)抽象的な空間として創造された都市といえそうです。

従って、大阪は抽象的であるがゆえに、その地形が変わっても、原型としての構造は残しているということですね。

【釈徹宗】
話は変わりますが、大阪人は正解をいうよりも、むしろ流れを大切にするようなところがあるように思うのですが。

【中沢新一】 
大阪人には、都市の人を感じます。

つまり、むきだしの形ではやらないということ。

また、批判はあってもその場は壊さないということ。

【釈徹宗】  
つまり、上手に合わせるのが大阪人ということですね。

自分の主張を出すよりも、自分を括弧に入れながら、流れに合わせることができるのが大阪人ということですね。

【内田樹】 
東京人は、(緩衝帯のない)出会いがしらといえそうです。
   
東京での人間関係は、使い捨てが基本となっているように思われます。
   
東京は、巨大な都市になっていくほど、人を使い捨てにしていくようになったと思います。

メディアの世界が、その典型ではないでしょうか。

人がタレント並みに消耗品あつかいされるのは、ある意味開放性ということもできますが、それは代わりがいくらでもあることに他ならない。

従って、寄り添っていくためには、閉鎖性であることが必要になると思います。

つまり、ここが必要であって、この関係を大切にするということですね。

大阪人は限られた人間としか付き合えなかったから、その関係を大切にするしかなかったということですね。

これに対して、東京は開放性であるため、(機能面から)人間を選択することが可能であったということになります。

【中沢新一】 
東北の人は、自分たちのことを「東北人はうそつきだからな」といいますよね。

もちろん、そういっている自分も含めて、東北人のことを信用をしているのですが。

【内田樹】
東北の人といえば、少し前に、またぎの人と話をしたのですが、どうも我慢できないのがエコの人であるらしい。

つまり、人と自然との関係には、いい面と悪い面があるにもかかわらず、エコの人のように、いい面だけをいうのは、嘘つきということになるわけです。

【中沢新一】 
宮沢賢治には東北人の毒というものがありますが、その毒を取ってしまえば、エコの人になってしまいます。

エコの人は、あるところに理想を創ろうとしますが、その理想のためには、別のところで破壊があるのが当然となっているのではないでしょうか。

【内田樹】 
結局、人は相互関係の中で生きていくしかない、ということになるのではないでしょうか。

つまり、与えられた環境の中で生きるしかないという覚悟を持つということですね。

東京人は、世界は広くて、いくらでも代えがあるという発想を持っていますが、これが東京人のマナーになってしまっているといえそうです。

【中沢新一】 
嘘(うそ)と真(まこと)の表現方法には、正解はないといえます。

嘘(うそ)と真(まこと)を使いこなす大阪人の表現方法は、私は気に入っています。

大阪人のように弱いところまで見せていくことが、ガラパゴス化(閉鎖性、特殊性)にもつながることではないでしょうか。

日本人は、このような方向、つまり嘘(うそ)と真(まこと)の表現方法で生き残るしかないのかもしれません。

大阪は海で、大阪人は都市の人。

京都は陸で、京都はいけずな人でしょうか。(笑)

【釈徹宗】  
日本人の持つ消費者体質というものを、何とかしなければならないのではないでしょうか。

たとえば、学びを購入するということが、そもそも間違いではないでしょうか。

自分というものは、社会のシステムの中に組み込まれて生きているだけで、だましだましに、その役割を果たしていくだけではないでしょうか。

【内田樹】 
先日、コレクティブハウスで共同生活する学生が、「若い人は子育てで相互支援しているけれど、介護を受けるだけの高齢者には得心が行かない」といっていました。

どうようサービスをすれば何が返ってくるか、商取引のモデル(無時間モデル)で考えていたら、共同体になることはないと思います。

つまり、共同体には時系列というものがあり、受け取ることと出すことには、その相手が違ってくることになりますが、全体では同じことになります。

従って、共同体においては、時間を頭においておくことがとても大切になります。

共同体は、長期にわたって継続することによってその帳尻があってくるものだからです。

また、共生することは、受け入れても、おつりがくるような関係を必要としているのかもしれません。

教育、医療、宗教が共同体といえるものではないでしょうか。

共同体には、自分が理解できない人間、いわば痛みを受け入れるには世代を越えた長い時間の中でつながっているという物語を読み取れることが必要です。

【中沢新一】 
私は、祖々母や祖母からは、よく昔の話しを聞かされました。

江戸や明治という19世紀は、祖々母や祖母から自分の中に入ってきているように思います。

このことは、自分が19世紀を生きているということにもなります。

このことを、言葉にして次の世代に伝えていくことが求められると思います。

共同体には、時間軸にそった、物語が不可欠といえます。

ガラパゴスをめざすのだから、時間軸に沿って体験を伝達することに意識的に取り組みたいです。

【釈徹宗】  
これからの時代を機嫌よく生き抜くために、物語を共有するための、聞き取る能力や語る能力を人文科学によって育てたいと思います。

(トークセッションの終了)

【筆者・蛇足ながら】
ご一読いただきありがとうございました。

トークセッションの最後は、共同性の条件で締めくくられています。

共同体は、利得だけではなく、歴史や風土や文化などを共有する、つまり同じ物語が共有できている唯一無二の人の集まりということになり、なによりも、共同体は存続することが至上の目的とされています。

しかしながら、現代社会では、人が同時に複数の共同体に所属するということは、決して珍しい現象ではありません。

このため、個人が、共同体間の立する価値の葛藤の中に巻き込まれてしまうということにもなってしまいます。

このような危機には、あくまで自分を基軸としながらも、その重心は文脈に沿って小刻みに移動させながら、十分に時間をかけて問題解決を図っていくしかないのかもしれません。

共同体主義(コミュリタリアニズム)は、「ハーバード大学白熱教室」のサンデル教授が提唱する立場でもありますが、このトークセッションにおいても重要視されることになりました。

「共同体」や「共同性」は、古くて新しい、現代社会の知の最先端に位置する、たいへん重要な概念といえるのかもしれませんね。

(終わり)

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by kokokara-message | 2017-01-15 11:22 | 中沢新一×内田樹×釈徹宗・鼎談 | Trackback | Comments(0)

中沢新一氏(多摩美術大学芸術学科教授)、内田樹氏(神戸女学院文学部総合文化学科教授)、釈徹宗氏(相愛大学人文学部教授)によるトークセッションの後半です。

トークセッションの最後は、共同性の条件で締めくくられています。

共同体は、利得だけではなく、歴史や風土や文化などを共有する、つまり同じ物語が共有できている唯一無二の人の集まりということになり、なによりも、共同体は存続することが至上の目的とされています。

しかしながら、現代社会では、人が同時に複数の共同体に所属するということは、決して珍しい現象ではありません。

このため、個人が、共同体間の立する価値の葛藤の中に巻き込まれてしまうということにもなってしまいます。

このような危機には、あくまで自分を基軸としながらも、その重心は文脈に沿って小刻みに移動させながら、十分に時間をかけて問題解決を図っていくしかないといえるのかもしれません。

共同体主義(コミュリタリアニズム)は、「ハーバード大学白熱教室」のサンデル教授が提唱する立場といえますが、このトークセッションにおいても重要視されることになりました。

「共同体」や「共同性」は、現代社会の知の最先端に位置する、たいへん重要な概念といえるのかもしれませんね。

では、トークセッションの後半をお楽しみください。

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【釈徹宗】
日本人論といいますか、日本人のあり方についてお伺いしたいのですが。

【内田樹】 
ガラパゴス化がいいのではないでしょうか。
   
つまり、日本の閉鎖性そのものが、日本のガラパゴス化ということですね。

21世紀の日本の国家戦略として、先端的なガラパゴス国家を目指すべきではないでしょうか。

超高齢化、超少子化、人口減少化、右肩下がりの経済成長が、現在の日本の抱える課題といえます。
   
日本人は、これらの課題にくずぐずしながらも、老いや病と伴に、機嫌よく、愉快に生きればいいのではないでしょうか。

明治の初めの頃の人口は、5000万人でした。

人口の減少は、日本が抱える多くの問題を解決することになるのではないでしょうか。

日本は、これから未知の条件に突入することになりますが、発想を切り替えて、創発的に、創造的に、適用していかなければならないということです。

いずれヨーロッパ先進国も少子高齢化が進み、人口減少になりますから、そのアドバンスを利用してガラパゴス先進国になればいいのではないでしょうか。

また、日本は近代化はしても、前近代を抹殺することはしてこなかった。

このため、日本人には普遍的ともいえる人間性が、今も生き残っているように思います。

日本人がガラパゴス化する(閉鎖性、グローバル化とは距離をとる)ことになれば、日本は唯一普遍的な人間性をもったヒトが生き残る場所となるのではないでしょうか。

【釈徹宗】
以前に聞いた話では、合理的な構造をした集合住宅(グループホーム)は、誰にとっても住みにくいものになってしまうということのようです。

つまり、合理性だけを追求するよりも、合理的ではない部分があった方がいいということではないでしょうか。

では、日本文化のありかたというのは、これからどうなっていくのでしょうか。

【中沢新一】 
日本文化は、とても繊細で、目に見えにくいところがあります。

従って、壊れていくことになったとしても、実際には分からないのではないでしょうか。

壊れてしまうことにこだわらないというのなら、日本文化は「なっちゃって」ということでもいいのではないでしょうか。

【釈徹宗】
日本人は、上機嫌で、ぐずぐずしながら、「なっちゃって」ということでいいということですね。

では、この大阪という都市に未来はあるのでしょうか。

【中沢新一】
私は、大阪アースダイバーをやっています。

縄文時代の大阪の陸地はというと、上町台地と南河内のあたりだけでした。

なつかしい風景はやがてなくなり、変化してしまうことになりますが、大阪はその地形を変えながらも、現在も古代にあった構造を残しているように思います。

平松(大阪)市長によれば、大阪は形状記憶合金のような都市ということです。

つまり、もはや原形はとどめていないが、その構造だけは残しているということです。

【内田樹】
私は、大阪の土地の力としては、謡曲「弱法師(よろぼし)」が思い浮かびます。


*「弱法師(よろぼし)は、俊徳丸伝説を下敷きにした現在能。四天王寺を舞台とする。観世元雅作。他の俊徳丸伝説より悲劇性が高く、俊徳丸は祈っても視力が回復せず、回復したような錯覚に陥るだけである。 題名は普通「よろぼおし」と読むが、謡曲の本文中では「よろぼし」と読む。(ウィキペディアより引用)


四天王寺西門から、お彼岸にながめる日想観(じっそうかん)がそうですね。


*日想観(にっそうかん、じっそうかん)とは「観無量寿経」に説かれる修法で、夕陽を見ながら極楽浄土を観想する16観の初観。「観無量寿経」には極楽浄土を観想する十六の行法が示されていますが、その一番目に示されているのがこの「日想観」です。この後、水想観、地想観、宝想観、宝池観等々が示されています。(一心寺ホームページ等より)      

また、謡曲の「高砂」には、兵庫の相生から大阪の住ノ江へと向かう中世の風景が描かれています。


*「高砂(たかさご)」 は能の作品の一つ。相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐ大変めでたい能である。「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり」(ウィキペディアより引用)

このように、大阪には、古代から海の上に引かれていた東西の方向の力を感じることができます。

これは、古代の大阪のコスモロジーなのでしょう。

【中沢新一】
古代の大阪には、太陽信仰があったといえます。

なかでも、高安山が一番重要とされていた場所らしい。

古代の大阪は海の世界であり、海人族は星と太陽を信仰していたようです。

また、住吉大社(大阪市住吉区)は、星と太陽を信仰しています。

大阪は、(天体を軸とする)抽象的な空間として創造された都市といえそうです。

従って、大阪は抽象的であるがゆえに、その地形が変わっても、原型としての構造は残しているということですね。

【釈徹宗】
話は変わりますが、大阪人は正解をいうよりも、むしろ流れを大切にするようなところがあるように思うのですが。

【中沢新一】 
大阪人には、都市の人を感じます。
   
つまり、むきだしの形ではやらないということ。

また、批判はあってもその場は壊さないということ。

【釈徹宗】  
つまり、上手に合わせるのが大阪人ということですね。

自分の主張を出すよりも、自分を括弧に入れながら、流れに合わせることができるのが大阪人ということですね。

【内田樹】 
東京人は、(緩衝帯のない)出会いがしらといえそうです。
   
東京での人間関係は、使い捨てが基本となっているように思われます。
   
東京は、巨大な都市になっていくほど、人を使い捨てにしていくようになったと思います。

メディアの世界が、その典型ではないでしょうか。
   
人がタレント並みに消耗品あつかいされるのは、ある意味開放性ということもできますが、それは代わりがいくらでもあることに他ならない。

従って、寄り添っていくためには、閉鎖性であることが必要になると思います。

つまり、ここが必要であって、この関係を大切にするということですね。

大阪人は限られた人間としか付き合えなかったから、その関係を大切にするしかなかったということですね。

これに対して、東京は開放性であるため、(機能面から)人間を選択することが可能であったということになります。

【中沢新一】 
東北の人は、自分たちのことを「東北人はうそつきだからな」といいますよね。
   
もちろん、そういっている自分も含めて、東北人のことを信用をしているのですが。

【内田樹】
東北の人といえば、少し前に、またぎの人と話をしたのですが、どうも我慢できないのがエコの人であるらしい。

つまり、人と自然との関係には、いい面と悪い面があるにもかかわらず、エコの人のように、いい面だけをいうのは、嘘つきということになるわけです。

【中沢新一】 
宮沢賢治には東北人の毒というものがありますが、その毒を取ってしまえば、エコの人になってしまいます。

エコの人は、あるところに理想を創ろうとしますが、その理想のためには、別のところで破壊があるのが当然となっているのではないでしょうか。

【内田樹】 
結局、人は相互関係の中で生きていくしかない、ということになるのではないでしょうか。

つまり、与えられた環境の中で生きるしかないという覚悟を持つということですね。

東京人は、世界は広くて、いくらでも代えがあるという発想を持っていますが、これが東京人のマナーになってしまっているといえそうです。

【中沢新一】 
嘘(うそ)と真(まこと)の表現方法には、正解はないといえます。

嘘(うそ)と真(まこと)を使いこなす大阪人の表現方法は、私は気に入っています。

大阪人のように弱いところまで見せていくことが、ガラパゴス化(閉鎖性、特殊性)にもつながることではないでしょうか。

日本人は、このような方向、つまり嘘(うそ)と真(まこと)の表現方法で生き残るしかないのかもしれません。

大阪は海で、大阪人は都市の人。

京都は陸で、京都はいけずな人でしょうか。(笑)

【釈徹宗】  
日本人の持つ消費者体質というものを、何とかしなければならないのではないでしょうか。

たとえば、学びを購入するということが、そもそも間違いではないでしょうか。

自分というものは、社会のシステムの中に組み込まれて生きているだけで、だましだましに、その役割を果たしていくだけではないでしょうか。

【内田樹】 
先日、コレクティブハウスで共同生活する学生が、「若い人は子育てで相互支援しているけれど、介護を受けるだけの高齢者には得心が行かない」といっていました。

どうようサービスをすれば何が返ってくるか、商取引のモデ(無時間モデル)で考えていたら、共同体になることはないと思います。

つまり、共同体には時系列というものがあり、受け取ることと出すことには、その相手が違ってくることになりますが、全体では同じことになります。

従って、共同体においては、時間を頭においておくことがとても大切になります。

共同体は、長期にわたって継続することによってその帳尻があってくるものだからです。

また、共生することは、受け入れても、おつりがくるような関係を必要としているのかもしれません。

教育、医療、宗教が共同体といえるものではないでしょうか。

共同体には、自分が理解できない人間、いわば痛みを受け入れるには世代を越えた長い時間の中でつながっているという物語を読み取れることが必要です。

【中沢新一】 
私は、祖々母や祖母からは、よく昔の話しを聞かされました。

江戸や明治という19世紀は、祖々母や祖母から自分の中に入ってきているように思います。

このことは、自分が19世紀を生きているということにもなります。

このことを、言葉にして次の世代に伝えていくことが求められると思います。

共同体には、時間軸にそった、物語が不可欠といえます。

ガラパゴスをめざすのだから、時間軸に沿って体験を伝達することに意識的に取り組みたいです。

【釈徹宗】  
これからの時代を機嫌よく生き抜くために、物語を共有するための、聞き取る能力や語る能力を人文科学によって育てたいと思います。

(トークセッションの終了)

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by kokokara-message | 2010-09-29 21:58 | 中沢新一×内田樹×釈徹宗・鼎談 | Trackback | Comments(0)

平成22年9月25日(土)午後4時~6時、相愛学園本町学舎(大阪市中央区)において、中沢新一氏(多摩美術大学芸術学科教授)、内田樹氏(神戸女学院文学部総合文化学科教授)、釈徹宗氏(相愛大学人文学部教授)によるトークセッションが行われました。

テーマは「人文科学の挑戦」ということであり、前半では、人文学再考という観点から人文科学の現在とこれからの位置づけについての討論がなされました。

また、後半では、これからの日本人のあり方からというテーマから始まり、大阪人や大阪という都市の特殊性にこそ日本人が生き残る鍵があるのではないかという討論がなされました。

このトークセッションの内容は、10月17日朝日新聞日曜版に掲載される予定ですが、ここでは知の巨人であるパネラーの先生方のトークを、一足先にご紹介させていただくことにします。

ただ、当日司会から録音ができないことの注意があったため、以下の内容はあくまでも聞き取ったメモをもとにして、当日のトークセッションを再現したものになっております。

従って、聞き漏らしや聞き違い、不理解も多々あると思われますが、とりあえずは知の巨人たちのトークセッションの雰囲気だけでも味わっていただければ幸いと思います。

***********************************
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<トークセッション>

【釈徹宗】 
人文科学とは何なのでしょうか。

【中沢新一】 
人文科学とは搦め手であり、このことにより人文科学は自身の延命を図ろうとしているのではないでしょうか。

【釈徹宗】 
本来、人文科学とはつなげる学問であり、ヒューマニティが要となってつなぐということになっていると思うのですが。

【中沢新一】 
大学の歴史は、神学部、そして自然科学、人文科学から始まることとなりますが、現在は、学問をつなげるものが法律や技術となってしまっているようです。

従って、人間(ヒューマニティ)とは何か、をベースにおいて考えるということが求められているように思われます。

結局、すべての営みをつないでいるのは人間ということになるのですから。

【釈徹宗】  
人文科学は、人間をベースにする学問であっていいということですね。

【中沢新一】 
しかしながら、今大学に求められているのは、人間をベースにするようなものではなくなりつつあるということです。

従って、この時期にあえて人文科学を前面に出すというやり方は、ドンキホーテともいえるのかもしれない。(笑)

【内田樹】 
私は、ミッション系の大学で教えていますが、ここ数十年間、大学は世俗化し、建学の精神である宗教色を薄めることに終始してきたように思われます。

つまり、建学の精神である宗教を前面に出せば、それ以外の者を排除することになります。

また、教育理論がはっきりすると、これもまた排除になってしまいます。

現在1200の大学がありますが、個々の大学は、唯一無二性を掲げて開学をしてきたはずです。

ただし、それを守ることと、現在のマーケットが要請していることとは、矛盾することになっているということ。

結局マーケットの要請を受け入れれば、どの大学も同じような大学にしかならない。

その結果として、スケールメリットによって、小さな大学は淘汰されてしまうことになるということです。

そもそも教育とは、教えたいことがあるから始まるものではないでしょうか。

大学という組織そのものの存続の問題は、その次になるはずです。

従って、学生からは選ばれないというリスクを引き受けてでも、教えたいことを大切にするということが重要になると想うのですが。

【中沢新一】 
多摩美術大学で教えていますが、多摩美術大学にはナルシシズムの学生と教授が多いので困ることがあります。(笑)

今の人文科学が虚学ではなく、生命を呼び込むためには、アート、芸術が必要と考えています。

芸術人類学という分野では、芸術やアートが経済やその他いろいろなものとつながっていくことになると思います。

【釈徹宗】  
人文科学は、つなげるよろこびであると思っています。

ものを考える手順やスタイルを習得することは、いろいろな面に汎用することができます。

そして、つながることの喜びを味合うためには、専門性とそれ以外のことを同時に行うことが必要ということであり、それらがやがてつながってくると思います。

大学というある時期に、ものとものをつなげるトレーニングが必要ではないでしょうか。

【内田樹】 
ネアンデルタールの脳の機能は、1対1対応であったらしいのですが、ホモサピエンスになると脳の容量を増やすことができなくなったために、同型性を見出し、組み合わせで対応するようになったらしい。

つまり、同型性を発見しつなげて考えるということで、今まで経験したことにない状況でも、なぜか正解が分かるようになってくるようになります。

初めての問題でも答えが分かるようになるのは、縦(1対1対応)ではなく、横(多対多対応)につながっていくということですね。

クロマニヨンである現在人は、このような考え方をしているようです。

また、本当に頭のいい人とは、思いがけないところに、同型性を見出すことが出来るような人ではないでしょうか。

小学校の教諭に課題図書として、マルクス「共産党宣言」、マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、レビィー・ストロース「悲しき熱帯」、福沢諭吉「福翁自伝」などの10冊を選定したことがあります。

まずは、選んでみてから、その中にどのような同型性があるのかを自分で見出すことになるのではないかと思います。

また、求められている人とは、頭がいい人ではなく、橋本治氏のような頭が丈夫な人ではないでしょうか。

頭が丈夫な人とは、普通の人では入らないようなことが入り、その中で二つのものをつなげてしまうような人のことではないでしょうか。

【釈徹宗】  
子どもに求めることは、頭がいいことではなく、頭が丈夫であることですね。

決まったもの、既存のものを購入しただけでは、頭は丈夫にはならない。

頭を丈夫にするには、手の内を明かさないで、自ら気づくことの喜びを与えることが必要ではないでしょうかね。

禅僧が出す典座(てんぞ)料理では、太い箸と低い食台で食べるうちに、自然と美しい作法が身につくようになるようです。

【中沢新一】 
その太い箸は、イニシェーション(通過儀礼)から始まったのでしょう。

イニシェーションとは、いじめの知恵のことであり、育てるためにいじめる知恵ともいえそうです。

仏教には、人を育てるための古い知恵が形を変えながら今も取り入れられています。

仏教は、もともと生活の中にあった日常的なものを経典の中に取り入れています。

これが、仏教の素晴らしいところです。

仏教はある意味、人文科学(ヒューマ二ティ)が一番モデルとするところではないでしょうか。

しかしながら、今では仏教学者は文献学者となってしまっているところがあり、仏教知らずの仏教学者という面もあるようです。

仏教との対比からすると、キリスト教では中世に魔女狩りが行われたことがあります。

魔女とは、人類の知恵(薬草の知恵など)を継承してきた人のことであって、キリスト教では生活の中にあったこのような人類の知恵を抹消しようとしたことになります。

【釈徹宗】  
仏教でも、禅の公案は、あえてダブルバインドをかけているようなところがありますね。

つまり、決まった答えがないということ。

多様性を認めるということは、結局自己決定をするしかないということになります。

しかしながら、自己決定をするということは大変辛いことでもあります。

【中沢新一】 
自分が大学のときには哲学をする人が多かった。

そして、儒教などの東洋哲学は、今のヨーロッパの学問体系とは全く違うものであることを知りました。

それは、先生の教える仕方が、全く違っていて、多様であったということから。

このため、ヨーロッパの教育は一面でしかないことが分かりました。

チベットでは、お経を反復し、リズムをとり、体をつかうという修行を行います。

そして、「心」を学ぶことになるのですが、そうすれば人生は平らに生きられるようになるといわれています。

また、チベットでは本は読まなくていいとされていましたが、これはギリシア学問体系とは全く違うものといえそうです。

人文科学(ヒューマニティ)では、「心」という普遍性から考えることをしないといけないと思います。

異種領域をつなげてしまうのは、比喩の力(カトレアのような女性など)であり、それは人間の力そのものでもあります。

チベットでは「心」はどこから来るのか、と問われたことがありましたが、うまく答えにはならなかった。

【内田樹】 
体を介して学ぶということは、時間をかけて学ぶということと同じであると思います。

時間を与えるということが重要なのでしょう。

時間モデルとは、母性モデルであり、「ちょっとまってね」ということになります。

これに対して、無時間モデルは、父性モデルであり、時間をかけることはしない。

つまり、即断即決のビジネスのターム(用語)ということになります。

人の成熟には長い時間を要することになります。

また、時間がたてば、文脈が変わり、意味が分かってくるということもあります。

ダブルバインド状態のような精神症状は、時間をかけるしかないといえそうです。

たとえば、死んだり、老衰したり、成熟したりするということもあるのですから。

タイム イズ タイム(時間は時間)であって、決してタイム イズ マネー(時間はお金)ではないということですね。

【釈徹宗】
確かに、時間をかければ人は変わるものですね。

大学の4年間が学びの場になるということですね。

仏教文化と音楽が同時に設置されている唯一の(相愛)大学では、仏教音楽も学ぶことが出来ます。

【中沢新一】 
仏教と量子力学は大変似ているところがあると思います。

物理の法則はひつつの原因にひとつの結果が対応する因果関係ですが、量子力学では原因も結果もひとつではないと考えるからです。

それらを並べたもの(多対多対応)をマトリックスと呼びますが、マトリックスとはサンスクリット語で、マトリー(子宮、慈悲)が語源となった言葉です。

従って、ある原因が変化すれば、結果も含めたマトリックス全体が変わってしまうことにもなります。

また、量子力学ではダブルバインド状態が発生することもあるのですが、量子力学をやっている学者はこのことが分かっていないような気がします。

(多対多対応という)マトリックスは、自然科学と人文科学をつなげることになるものといえるのではないでしょうか。

そして、それをつなげるのが、やはり人間の頭ということになるということですね。

【釈徹宗】  
異物は排除するのではなく、いろいろと抱え込むことも必要であると思います。

他者や異文化は確かに痛みを伴うものですが、いかに引き受けるか、そのスタイルが問題となるのではないでしょうか。

【中沢新一】 
マートリー(子宮)は、異物への抗体反応を解除していくということになります。

そして、異物とともに自分を変化させていくというのが「母」ということになりますね。

異物を攻撃しないで、取り入れていくということになりますね。

【釈徹宗】  
学問は自分を棚上げにすることが出来ますが、仏教は自分を棚上げにすることが出来ないものです。

不機嫌にすることで、場を支配しようとする人がいますが、そのような人は自分を棚上げにしてしまっているのではないでしょうか。

ところで、中沢先生も、内田先生もいつも機嫌がいいですね。
(前半の終了)

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by kokokara-message | 2010-09-26 17:50 | 中沢新一×内田樹×釈徹宗・鼎談 | Trackback | Comments(2)