入鹿首塚より飛鳥寺(東方面)を望む。この西門周辺に中大兄皇子の軍勢が集結し、甘樫丘にある蝦夷の軍勢と対峙しました。

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第9章 日本書紀が語る大化の改新

日本書紀が完成した時(720年)、律令制度の事実上のトップにあったのは、新興氏族の藤原不比等でした。

そして、藤原不比等が、自らの氏族の始原である中臣鎌足の正当性とその根拠となる大化の改新、つまり乙巳(いっし)の変の政治的正当性を確定させたいという欲望が、おそらく日本書紀を完成させるという本当の目的ではなかったかということです。

従って、官僚がありのままに記述したはずの日本書紀も、藤原不比等の政治的目的のために、不都合な部分は削除され、あるいは書き換えられることになってしまったのかもしれません。

そして、日本書紀の書き換えや改ざんの可能性は、古来より多くの識者から指摘されてきたところでもあります。

では、さっそくですが、日本書記が語る乙巳(いっし)の変を詳細に見ていくことにします。

乙巳(いっし)の変は、西暦645年6月12日に発生します。

乙巳(いっし)の変とは、いうまでもなく中学校の教科書で習った大化の改新のことです。

大化の改新は、ご存知のとおり蘇我入鹿暗殺を中心とする一連のクーデター劇であり、舒明天皇と皇極天皇の長子である中大兄皇子と新興氏族であった中臣鎌足が中心になって、クーデター計画を進めたとされています。

そして、この乙巳(いっし)の変によって、100年以上の栄華を極めた蘇我本宗家が瞬時に滅亡してしまうという古代史における最大の政変劇ということができそうです。

一般には、乙巳(いっし)の変という呼び方よりも、大化の改新の方が馴染み深いのかもしれませんが、現在ではその政変が起きた歳の干支(十干十二支)から、乙巳(いっし)の変と呼ばれることが多いようです。

また、乙巳(いっし)の変は、小説やドラマで取り上げられる機会も多いため、一般には古代史における英雄の活躍がロマン(物語)として語り継がれてきたといえるのかもしれません。

そして、最近ではこの乙巳(いっし)の変の虚構性を主張する説まで出現し、その歴史的評価は百花繚乱というところではないでしょうか。

むろん、筆者は、日本書紀はひとまず正しい史実を語るとする立場から、日本書紀の信憑性については論じるつもりは毛頭ありません。

ただ、権力者という立場にたてば、ひとつの客観的事実を都合よくバイアスのかかった視点で解釈することも可能であり、かように解釈したことが日常まかり通るということも珍しいことではないのかもしれません。

このようなバイアスのかかった視点から、日本書紀の内容の一部が削除され、改ざんされたという可能性は否定できないのではないかということです。

そして、このような痕跡を探し出すためには、日本書記が語る乙巳(いっし)の変を、詳細に読んでいく必要があるということになります。

乙巳(いっし)の変とは、645年6月12日蘇我入鹿が飛鳥板葺宮の皇極天皇の御前で中大兄皇子らにより暗殺されることから始まり、その翌日の13日に実父である蘇我蝦夷が甘樫丘の居宅で自害することにより終結します。

前半部分の蘇我入鹿暗殺の話はよく知られているようですが、後半部分の入鹿暗殺の直後から翌日にかけての事件の経過の詳細はあまり知られていないのではないでしょうか。

そして、ここで皆様にご留意いただきたいこととは、よく知られた日本書記が語る入鹿暗殺のクーデター劇の方ではなく、むしろそのクーデターが発生した直後からの一連の事件の経過の方ということです。

つまり、乙巳(いっし)の変の突発によって、当時の権力の中枢にあった有力豪族たちが、どのような判断を下し、どのような行動を採ったのかを見極めることが、おそらく乙巳(いっし)の変の背後に隠された真実を知る重要な手がかりになるのではないかということです。

以下では、日本書紀の皇極天皇4年(645)6月12日条と6月13日条のうち、乙巳(いっし)の変の入鹿暗殺劇が起きた直後の様子から、翌日蝦夷が誅殺されるまでの一連の経過を日本書紀の記述に基づき紹介をさせていただくことにします。

なお、以下は、岩波書店 日本古典文学大系『日本書紀下』から抜粋させていただいております。

古人大兄(ふるひとのおほえ)、見て私(わたくし)の宮(みや)に走り入(い)りて、
人に謂(い)ひて日(い)はく、

「韓人(からひと)、鞍作臣を殺しつ。吾(わ)が心(こころ)痛(いた)し」といふ。

即ち臥内(ねやのうち)に入りて、門(かど)を杜(さ)して出ず。

中大兄(なかのおほえ)、即ち法興寺(ほうこうじ)に入りて、城(き)として備(そな)ふ。

凡(すべ)て諸(もろもろ)の皇子(みこたち)・諸王(おほきみたち)・諸卿大夫(まへつきみたち)・臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)、悉(ことごとく)に皆(みな)隨侍(みともにはべ)り。

人をして鞍作臣(くらつくりのおみ)の屍(かばね)を大臣蝦夷(おほおみえみし)に賜(たま)はしむ。

是(ここ)に漢直(あやのあたひら)等、眷属(やから)を総て聚め、甲(よろ)を環(き)、兵(つわもの)を持ち、大臣(おおおみ)を助けて軍陣(いくさ)を設(ま)けむとす。

中大兄、将軍(いくさのきみこ)巨勢徳陀臣(こせのとこだのおみ)をして、天地(あめつち)開闢(ひらけて)けてより君臣(きみやつこらま)の始めより有ることを以ちて、賊党(あたのたむら)に説かしめたまひ、起(た)つ所を知らしめまたふ。

是に、高向臣国押(たかむくのおみくにおし)、漢直等に謂(かた)りて曰く、「吾等、君太郎(きみたろう=入鹿)に由りて殺されぬべし。大臣、亦(また)今日(けふ)明日(あす)に立(たちどころ)に其の誅(つみ)せられむことを俟(ま)たむこと決(うつな)し。

然らば誰が為に空(むな)しく戦(たたか)いて、尽(ことごとく)に刑(つみ)せられむか」といふ。

言(い)ひ畢(をは)りて剣(たち)を解(と)き弓(ゆみ)を投げ、此れを捨て去る。

賊徒(あたのともがら)、亦随(したが)ひて散(ち)り走(に)ぐ。

己酉(きいう)に、蘇我臣蝦夷(そがのおみえみし)等、誅(ころ)さるるに臨みて、悉(ふくつ)に、天皇記(すめらみことのみふみ)・国記(くにつふみ)・珍宝(たからもの)を焼く。

船史恵尺(ふねのふひとゑさか)、即ち疾(と)く、焼かるる国記を取りて、中大兄に奉献(たてまつ)る。

是の日に、蘇我臣蝦夷及び鞍作が屍を、墓(はか)に葬(はぶ)ることを許す。

復(また)哭泣(ねつかひ)を許す。

(中略)
庚戌(かうしゆつ)に、位(みくら)を軽皇子(かるのみこ)に譲(ゆづ)り、中大兄を立てて皇太子(ひつぎのみこ)としたまふ。


以下には、上記の古語訳をさらに現代語訳したものを、同じく 岩波書店 日本古典文学大系『日本書紀下』から引用させていただくことにします。

古人大兄(ふるひとのおほえ)は、これ(入鹿暗殺)を見て、私邸に走って入り、
人に語って、「韓人が鞍作臣を殺した私は心が痛む」と言った。

そうして寝室に入って、門を閉ざして出て来なかった。

中大兄は、法興寺(飛鳥寺)に入って、砦とするべく準備した。

諸々の皇子、諸王、諸卿大夫・臣・連・伴造・国造などはことごとくこれに付き従った。

中大兄は、人を遣り鞍作臣の屍(入鹿の屍)を大臣蝦夷に引き渡された。

ここに、漢直(あやのあたい)らは眷属全員を集め、甲を着け武器を持って、大臣(蝦夷)を助けて軍陣を設営しようとした。

中大兄は将軍巨勢徳陀臣(こせのとこだのおみ)に、天地開闢の初めから君臣の区別があることを賊党に説明させ、その立場を知らしめられた。

高向臣国押(たかむくのおみくにおし)は、漢直らに語って、「我らは、大郎(たいろう)さまのためにきっと殺されるだろう。

大臣(蝦夷)も今日明日のうちに誅殺されるであろうことは必定である。

それではいったい誰のために空しい戦いをして、皆処刑されるのか」と言った。

賊徒もこれに従って、剣をはずし弓を投げ捨て逃げ去った。

己酉(翌13日)に、蝦夷らは誅殺されるにあたって、天皇記・国記・珍宝をすべて焼いた。

船史恵尺(ふねのふびとえさか)はとっさに、焼かれようとしている国記を取り、中大兄に奉った。

『(藤氏)家伝』には、「己酉(翌13日)に、豊浦大臣蝦夷、その第に自尽す」とあり。

この日、蘇我臣蝦夷と鞍作の屍を墓に葬ることを許し、また哭泣(死を悼み悲しみ泣くこと)も許した。

(中略)

庚戌(翌14日)に、(皇極)天皇は皇位を、軽皇子(皇極天皇の弟=後の孝徳天皇)にお譲りになり、中大兄を立てて皇太子とされた。

以上が、乙巳(いっし)の変と呼ばれる、皇極天皇4年(645)6月12日条と6月13日条を描いた日本書紀の記述内容ですが、さて皆様にとって何か新しい発見はあったでしょうか。

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by kokokara-message | 2011-05-22 10:01 | 我流古代史(蘇我氏編) | Trackback | Comments(0)

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第8章 日本書記と官僚論

筆者は、日本書紀の記述は、ひとまず正しい(歴史的事実)とする立場をとっております。

しかしながら、日本書記の内容がすべて正しい(歴史的事実)とする根拠がないように、その改ざんを明確に指摘できるような根拠がないこともまた事実といえます。

もし、内容に改ざんがあったしても、それは日本書紀が記述された時点の政治的要請から、前後の整合性がとれる程度の範囲で行なわれたものではなかったかと考えています。

そして、もし前後の文脈との整合性を欠くほどの大幅な改ざんが必要であったとすれば、おそらくひとつの段落ごと削除するという方法により、事実を隠蔽するということになったのではないでしょうか。

筆者は、あくまでも日本書記がありのままの史実を記載するという立場を採っておりますが、当時の政治的要請から都合の悪い段落がそのまま削除されてしまうことや、前後の整合性が図られる必要性から修正や改ざんが行なわれたことまでを否定することはできないと考えています。

では、はじめに日本書記とは何かについて、簡単に概要を説明します。

【日本書記】
わが国で最初につくられた勅撰(天皇の命令により撰ばれた)の史書。
神代から持統天皇11年(697年)までを記している。
帝紀・旧辞、諸氏族の記録、寺院の縁起、中国史書、百済関係記録などの当時の文献を幅広く参考にして編まれた。
天武天皇が川嶋皇子・忍壁(おさかべ)皇子ら12人に作成を命じたことが日本書記に、また、西暦720年に完成し舎人(とねり)親王により奏上されたことが続日本紀に記される。
(県民奈良だより、2011.5月号より)


このように、日本書紀は川嶋皇子・忍壁(おさかべ)皇子らの下で編纂が開始されますが、その内容を網羅的に記述したのは、皇子らではなく、天武・持統・文武・元明朝に仕えた多くの官僚であったということになります。

つまり、日本書紀の直接の記述者は政治家自身ではなく、多くの下級官僚たちであるということになります。

少しややこしいですが、官僚とはあくまで事務方のことであり、事務方に求められる第一義的な能力は、日本書記などのような公文書をありのままに記述するという事務処理となります。

そして、このような事務処理の方法を文書主義とも呼ぶことになりますが、天武朝以来1300年間、日本における官僚制度の根幹はこのような文書主義の方法により支えられてきたといっても過言ではないと思われます。

そもそも官僚の行動様式(エトス)とは、決まったことを決まったとおりに処理することができる能力ということになります。

現代の法治主義の社会でも、古代の律令制度の社会でも、官僚に対して求められる最大の能力は決まったことを決まったとおりに処理することであり、時代を通して不変な能力といえそうです。

従って、官僚が作成することになる公文書には、決まったことが決まったとおり、ありのままに記載されていることが大原則となるわけです。

しかしながら、これにも反論があり、公文書の持つその形式主義を単に前例踏襲とみなし、批判するという立場です。

確かに両義的な側面はあるのですが、いずれにせよ文書主義という方法に卓越する能力を保持した身分階級にある者が官僚と呼ばれていたといえそうです。

では、このような行動様式(エトス)を保持する官僚が、日本書記を編纂するうえで果たした役割と責任とは、どのようなものであったのでしょうか。

日本書記は勅撰(天皇の命令により撰ばれた)であったことから、その編者である皇子ら(政治家)が果たした役割は大きなものであったことはいうまでもありません。

しかしながら、実務として日本の内政史や関係史の研究に携わり、歴史的事実を淡々と記載し尽くした官僚の役割と責任は、日本書紀において十二分に発揮されたといえるのではないでしょうか。

そもそも官僚の職務は、法令と上司からの命令に基づいて遂行されることになります。

従って、官僚が独自に何かを創作(企画構想)する能力は、そもそも律令制度からは要請されることのない能力ということになります。

つまり、官僚は法令と上司の命令に対してのみその役割と責任を負うこととなり、政治的領域にある創作(企画構想)の行為は、基本的に官僚の役割と責任の範疇外になるということです。

このため、官僚には、必ず上位の審級が存在するということになります。

そのひとつが法令であり、官僚は法令(ルール)に基づき職務を遂行するということになります。

そして、もうひとつの上位の審級が上司の命令であり、この場合の上司の命令とは法令のみならず論理的に整合的な合理性な命令ということになります。

このため、もし上司の命令が非合法又は非合理である場合には、そもそも上司の命令に従うということが官僚の役割と責任に矛盾を引き起こすことになってしまいます。

つまり、非合法、非合理な上司の命令に従っていれば、決まったことを決まったように処理する、つまり合法かつ合理的(効率的)に振舞う官僚の役割と責任が果たせなくなってしまうことになるからです。

合法かつ合理的(効率的)に、あるがまま処理をするという行動様式(エトス)を喪失してしまえば、もはや官僚と呼ぶことはできず、官僚身分の恩恵だけを受けた政治家という、まるで旧ソ連のノーメンクラツーラのようなグロテスクな存在になってしまうのではないでしょうか。

官僚にとっては、コンプライアンス(法令遵守)と合法合理的な上司の命令への服務が上位の審級ということになり、これらを遵守することにより役割と責任が発揮できることとなり、その身分が保障されることになるわけです。

これに対して、政治家の役割と責任は、どのようになっているのでしょうか。

政治家は、自らの構想や理念の実現に向け政治的権力を奪取するということが、最大の政治目的となり、政治活動の中心として位置づけられます。

そして、政治家は、その目的である政治的権力の奪取により既存の法令(ルール)を改変させることが可能となり、法令(ルール)という社会制度の改変が、やがて自らの構想や理念の社会的実現へとつながっていくことになります。

政治家の役割と責任は、自らのビジョンを立ち上げ、そして国家の仕組みを再構築していくということであり、これに対し官僚の役割と責任は、これにより決定した既定の法令(ルール)に従うことにより、国家ビジョンを淡々と遂行していくということになります。

つまり、官僚は決まったことを合理的かつ効率的に、淡々と文書主義に基づき遂行するということになるわけです。

官僚と政治外の位置関係を俯瞰すれば、官僚は法令という一次的ルールに従うだけの存在ということになりますが、政治家はその法令(一次的ルール)に従いつつも、やがてそのルールを改変するためのメタ法令(二次ルール)にもコミットする立場にあるということができそうです。

官僚と政治家の相違点については、ご理解いただけたでしょうか。

閑話休題

話を元に戻すことにします。

現実問題として、日本書紀の作成に直接携わった多くの人たちは官僚ということであり、その官僚は法令と上司の命令に従って職務を遂行する立場でしかなかったということでした。

日本書紀の完成は720年です。

今上の女帝、元正天皇に奏上されています。

そして、その当時の律令制度のトップは、右大臣の職にあった藤原不比等であり、そのとき左大臣は空席であったとされています。(左大臣が階級は上です)

ご存知のように、藤原不比等は、大化の改新(乙巳の変)の功労者である中臣鎌足の実子(次男とされていますが諸説あり)にあたります。

そして、藤原不比等は、701年大宝律令、718年養老律令などの律令制度の制定に重要な法学者の立場から関係し、また710年の元明天皇の時代に平城京遷都を成功させるなど、天皇を中心とする中央集権体制の構築に寄与した主要な政治家のひとりとされています。

また、藤原不比等は、中臣氏という一豪族の出身であり、皇族ではありませんが、その実娘光明子を後の聖武天皇の皇后として擁立することにも成功することになります。

皇后が皇族以外から擁立されることは、極めて異例なこととされています。

それ以前には、葛城襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)が仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の三天皇を生んだという唯一の前例はあったようです。

そして、光明皇后が擁立される際には、この300年以上も前の仁徳天皇の磐之媛(いわのひめ)の前例が引き合いに出されたとされています。

710年の平城京遷都の成功や光明皇后の擁立への筋道をひくなど、藤原不比等は、蘇我四代の時代に勝るとも劣らない破竹の勢いを持った政治家ということになり、また当代随一の企画構想力を持った戦略家であったといえるのかもしれません。

そして、藤原不比等は、日本書紀の編纂についても、右大臣という律令制度の事実上のトップの立場から官僚がありのままに作成する公文書を審査し、最終決裁をする権限を持っていたことは間違いありません。

かような当代随一の政治家であり戦略家であった藤原不比等が、自らの最後の大事業として開始後30年以上が経過する日本書記の編纂の完成を選んだとしても不思議ではなかったと思われます。

おそらく、藤原不比等は、日本書記を官僚主導のあるがままの公文書として完成させるのではなく、藤原一族の権威の根源を確定させるための勅撰書(国書)として利用することを考えたのではないでしょうか。

むろん、これは法学者である官僚の行動様式(エトス)としてではなく、戦略家であり政治家としての行動様式(エトス)であったと思われます。

藤原不比等という戦略家が、自らと藤原一族の栄華のために構想した国家ビジョンが、律令制度の完成であり、その律令制度に正当性を賦与する歴史的評価という権威ではなかったのでしょうか。

おそらく、このときの藤原不比等の最大の懸案事項が、自らの氏族である藤原氏が持つ歴史的評価や意味の正当性ではなかったのではないでしょうか。

藤原不比等の実父は、大化の改新(乙巳の変)の功労者とされる中臣鎌足でした。

そして、藤原姓は、中臣鎌足がその臨終の折に天智天皇から直接賜ったものとされています。

藤原不比等にとっては、藤原姓の始原であり、大化の改新(乙巳の変)の功労者である中臣鎌足を神格化することが氏族の正当性の確立につながり、藤原一族の将来に亘る権力基盤を磐石なものにすることになります。

710年に都が平城京に遷都し、日本書紀が完成する720年には、かつての飛鳥京ももはや古都と呼ばれ、いにしえの記憶の向こうにある廃墟と化してしまっていたようです。

天皇の宮居は、大化の改新の飛鳥板葺宮(皇極天皇)以来、難波長柄豊崎宮(孝徳天皇)、飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮(斉明天皇)、近江大津宮(天智天皇)、飛鳥浄御原宮(天武天皇)、藤原京(持統天皇・文武天皇)、平城京(元明天皇・元正天皇)と遷都を繰り返しています。

このため、645年に飛鳥板葺宮で起こった政変、大化の改新(乙巳の変)は、あまりにも遠い過去のことになっており、70年前のこの事変を直接知る人も少なくなっていたのではないでしょうか。

現在において、今から70年前の記憶となると、それはハワイ真珠湾攻撃ということになってしまいます。

このハワイ真珠湾攻撃を直接知っている人は、筆者の周りには残念ながら一人も残っていません。

おそらく、当時においても70年という隔世は、これと同じくらいの断絶があったのではないでしょうか。

つまり、大化の改新(乙巳の変)に関係した人物は誰一人としてこの世になく、大化の改新(乙巳の変)そのものが遠い過去になってしまっていたということです。

おそらく、律令制度の導入されていく際にも、大化の改新(乙巳の変)の意義が議論されることはなくなっていたのかもしれません。

このような時代背景の中にあって、藤原不比等が藤原氏の始原である中臣鎌足を神格化しようとすれば、その最大の事跡である大化の改新(乙巳の変)の政治的正当性を確定しておく必要があったといえそうです。

つまり、戦略家藤原不比等にとっては、大化の改新(乙巳の変)を政治的に正当化しておくということが、その功労者であり藤原氏の始原である中臣鎌足を神格化することになるわけです。

そして、藤原不比等は、このことを日本書紀の完成という形式で、自らの政治目的の実現に利用しようしたとしても決して不思議ではないということです。

藤原不比等が、日本書記という勅撰書の編纂のトップにあったことから、実務的にも、権限的にも十分実現可能なことであり、決して飛躍した解釈とまではいえないと考えます。

具体的には、日本書紀の中でも特に大化の改新(乙巳の変)に関連する記述を、大化の改新(乙巳の変)の政治的正当化と中臣鎌足の神格化が図られるという目的から、内容の修正と改ざんを指示した可能性はあるということです。

ただ、先にも指摘したとおり、筆者は日本書記の信憑性そのものを問うという立場から、かような問題提起をしているわけではないということです。

日本書記が、藤原不比等という戦略家のバイアスがかかった史観から語られる歴史書(物語)である可能性に留意し、読む必要があると述べているだけです。

つまり、藤原不比等は、法学者の立場から官僚の作成したありのままの公文書を最大限生かすことに注意をはらいながらも、政治家としては自らの正当性に不都合と考える部分は削除、改ざんすることを指示したのではないでしょうか。

そして、このような藤原不比等の命令に対しても、官僚はその行動様式(エトス)の具体化である、合法合理的なあるがままの記述から逸脱することなく、その役割と責任において忠実に対応しようとしたのではないでしょうか。

つまり、日本の官僚の行動様式(エトス)が、飛鳥時代から現在に至るまでの1300年間変化していない、普遍であるとするれば、公文書とはありのままを記述するということが最大の基準になるということです。

従って、権力者(上司)から改ざんの命令があったとしても、官僚はその段落そのもののを削除するか(すべてを記載しない)、既定の歴史的事実が変わらない程度の解釈の変更とすることで、行動様式(エトス)からは逸脱せず、権力者(上司)の命令との整合性を図ることに苦心したのではないでしょうか。

従って、私たちが現在見ることが出来る日本書記には、歴史的事実がありのまま網羅的に記載されていることはなく、ある箇所がそのまま空白となってしまっているものや、ある目的のために解釈の変更を余儀なくされてしまった箇所も当然あるということになるのではないでしょうか。

むろん、このことは、日本書記に入念な文献学的な考証を加えた結果の結論ということでないことはいうまでもありません。

あくまで文献学的な考証は専門家にお任せするしかないのですが、ここでは筆者の個的な官僚論から、官僚の採りうるべき行動様式(エトス)を推測し、さらにその官僚が作成するであろう公文書としての「日本書記」像を描いているだけのことです。

一般論として、官僚の作成する公文書は、古代の律令制度にあっても、現代の法治主義にあっても、おそらく同様な経過をたどりながら紆余曲折し、やっと完成するということになるものと考えるのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2011-05-07 21:23 | 我流古代史(蘇我氏編) | Trackback | Comments(0)

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第7章 なぜ古瀬の今来なのか(再考)

以上のことから、蘇我氏の政治権力とその影響範囲について、次のことがいえるのではないでしょうか。、

つまり、蘇我氏の勢力の拠点が飛鳥地域にあったということ、そして蘇我氏の墓域は甘樫丘周辺という伝承が残っていること、また蘇我氏の影響を強く受けてた当時の天皇(大王)の宮居と陵墓が飛鳥地域周辺に存在しているということ。

ご存知のように蘇我蝦夷の実父である蘇我馬子の墳墓は、通説では石舞台古墳とされています。

そして、蘇我馬子の住居は、こちらも通説ですが島庄遺跡(現在の島庄地区)とされており、石舞台古墳とは隣接した位置関係になっています。

つまり、蘇我馬子の住居と墳墓は隣接していたということになります。

一方、当時の天皇(大王)の宮居と陵墓の位置関係は、先の章(6)(7)でも考察したように、同じ飛鳥地域周辺ではあっても、少し離れた場所を選ぶようにして築造されています。

おそらく、この位置関係の相違は、蘇我一族があくまで一豪族(大臣)でしかなかったということと、蘇我一族が死を穢れとはしない仏教思想の影響を受けていたということがあったのかもしれません。

話が大きくそれてしまいました。

御所市の古瀬(こせ)にある水泥(みども)古墳に話を戻すことにします。

大化の改新(乙巳の変)で滅亡することになる蘇我本宗家の蘇我蝦夷と入鹿の墳墓が、御所市の古瀬(こせ)にある水泥(みども)古墳の双墳ではないかという伝承があり、この伝承の元になったものが日本書紀の皇極天皇の条の記述ということでした。

では、当時の天皇(大王)家を凌駕するほどの権勢を誇っていたとされている蘇我本宗家が、国家権力の中心であり、蘇我氏の支配下にあった飛鳥の地から遠く隔てた、しかも蘇我氏にとっては前例のない今来(いまき)の土地に、なにゆえ双墓を造る必要があったのでしょうか。

日本書紀の皇極天皇元年是歳の条の年(642年)は、蘇我蝦夷はいまだ官僚の最高位である大臣(おおおみ)職にあり、蘇我入鹿も働き盛りの実質上の最大の実力者であったとされています。

そのような権勢を持った蘇我蝦夷が、自分自身とその実子であり後継者でもある蘇我入鹿との双墓(ならびのはか)を、飛鳥から遠く離れた今来(いまき)の地に、どうして築造しなければならなかったのでしょうか。

このことに、何か突拍子のない不自然さと得体の知れない隠された意図を感じるのは、筆者の私だけでしょうか。

蘇我氏の勢力範囲が飛鳥(現在の明日香村)にあったことを考えると、住居のみならずその墳墓についても、天皇(大王)家や蘇我馬子がそうであったように、政治の中心である飛鳥地域周辺に築造されると考えるのが自然ではないでしょうか。

そして、日本書紀の皇極天皇元年是歳(642年)の条の最後の二行は、次のように記述されて終わっています。

「茲(これ)より恨(うらみ)を結(むす)びて、遂(つい)に倶(とも)に亡(ほろぼ)されぬ。」

つまり、蘇我蝦夷が自らの双墓を(今来の土地に)造営するという専横に対し、上宮王家からの強い批難がなされ、その結果、蝦夷と入鹿は多くの人からの恨みをかうことになり、やがて大化の改新(乙巳の変)で滅ぼされてしまったということになります。

ここで注意して置きたいことは、蘇我蝦夷が恨みをかっていたことと蘇我本宗家が滅亡することには、明確な因果関係があったと日本書紀は暗示しているということです。

日本書紀は、史実を時系列に記述する手法を採用し編纂された歴史書とされています。

しかしながら、日本書記の皇極天皇元年是歳(642年)の条の最後の記述から分かることは、客観的とされる時系列記述方式からあえて逸脱し、タイムラインを先取りするように蘇我本宗家の滅亡が予言されることになっているということです。

つまり、日本書紀は演繹的に積み上げられた史実が淡々と記述されている歴史書ではなく、結果から見た原因という史実の整合性(因果関係)が重視された帰納的手法が採用されているということになります。

そして、日本書記において、史実についての因果関係が言及されている箇所は、ここだけではないということです。

従って、日本書記の皇極天皇元年是歳(642年)の条の最後の二行についても、まず蝦夷と入鹿が近未来に滅亡するという史実(結果)があって、この結果に整合する因果関係をいかにしてタイムラインに織り込むかという逆転の発想が採られているのではないかということです。

そして、このような時間の流れがランダムになる書物のことを、私たちは一般に「物語」と呼んでいるのではないでしょうか。

ただし、ここで注意すべきことは、いかなる歴史書であってもその編者の主観から自由であることはできないということです。

つまり、読み手は、少なからず編者のバイアスのかかった史観(物語)を読まされることになっているということを忘れてはならないということです。

従って、歴史書はあくまでも文献学的な価値を考察する資料でしかないとするのなら、読み手は常に歴史書が語る真実に懐疑を持って接することが求められ、その真実に隠蔽された歴史的事実を洞察するということが読み手に求められる射程となってくるのではないでしょうか。

ここまでのところの要点を簡単にまとめておきます。

第一番目が、官僚の最高職の大臣(おおおみ)であった蘇我蝦夷が、その権勢を十全に謳歌できているにもかかわらず、自分とその実子(入鹿)ための墳墓を、しかも政治とは何のゆかりもない今来(いまき)の地に、築造することの意味や必然性が明確にはならないということ。

第二番目は、蘇我蝦夷が、国中の民や上宮王家の者まで動員して墳墓の労役にあたらせたことが、上宮王家などの強い批難の対象となり、このことが蘇我蝦夷と入鹿滅亡の直接の原因になったと日本書記の中にでは単純因果関係として記述されているということ。

これから、水泥(みども)古墳の被葬者がほんとうに蘇我蝦夷と入鹿であるかを考察していくことになりますが、おそらく日本書記が飛鳥時代の背景を知るための唯一の文献資料であることは間違いなく、私たちに残してくれた唯一の時代の痕跡ではないかと思われます。

従って、これからの考察と分析については、日本書紀の持つ物語性には十分な注意を払いながらも、その記述内容はひとまず正しいものとし、拠りどころとするしかないと思われるのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2011-04-30 23:57 | 我流古代史(蘇我氏編) | Trackback | Comments(0)

2010年11月27日(土)菖蒲池古墳の現地説明会です。

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第6章 菖蒲池古墳と八角墳

蘇我四代(稲目、馬子、蝦夷、入鹿)の時代の天皇(大王)の陵墓と宮居について、日本書紀の記述から考察してきました。

天皇(大王)の陵墓については、大坂磯長(南河内郡太子町)の王家の谷に築かれたことはありましたが、原則として奈良県東南部、それも飛鳥周辺地域に築造されてきたことがわかります。

また、天皇(大王)の宮居についても、奈良県東南部、しかも飛鳥周辺地域を中心に遷宮されてきたことが分かるのではないでしょうか。

これらのことから、蘇我四代の時代における権力の中心は、蘇我氏が拠点とした飛鳥周辺地域にあったということが推測できると思われます。

この論考では、あくまで蘇我蝦夷と蘇我入鹿の墳墓を主たるテーマとする関係から、天皇(大王)の陵墓と宮居の所在については、ひとまずこれくらいしたいと思います。

では、天皇(大王)家を凌駕する勢いがあったとされる蘇我一族は、いったいどこに氏族の墳墓を築造してきたというのでしょうか。

まず、蘇我稲目の墳墓については、明確な根拠はないものの、先の明日香村の平田梅山古墳(現欽明天皇陵)がそうではないかとする説が残っています。

また、橿原市五条野にある見瀬丸山古墳が、蘇我稲目の墳墓ではないかという説も残っています。(実際は欽明天皇陵であることは間違いないようですね。)

しかしながら、以下の蘇我馬子の拠点であった島庄遺跡や石舞台古墳が見下ろせる都塚古墳(平成26年発掘調査で円墳であることが確認されました。)が、蘇我稲目の墳墓という説が有力になりつつあるようです。

そして、日本書紀推古天皇三十四年是歳(626)の条には、蘇我氏が全盛を極めた、蘇我馬子が亡くなり、桃源墓に葬られたとする記述があります。

夏五月の戊子(ぼし)の朔(さく)にして丁未(ていび)に、大臣薨(みう)せぬ。

仍りて桃原墓(ももはらのはか)に葬(はぶ)る。

大臣は稲目宿禰の子なり。

性(ひととなり)、武略有りて、亦弁才有り。

以ちて三宝を恭敬して、飛鳥河の傍(ほとり)に家せり。

乃ち庭中(にわのうち)に小池を開(ほ)れリ。

仍りて小島(ちいさきしま)を池の中に興(つ)く。

故、時人、島大臣(しまのおおおみ)と曰う。

626年夏5月の20日に、大臣が薨(こう)じた。そこで桃原墓(ももはらのはか)に葬った。大臣は蘇我稲目の子である。性格は軍略にたけ、また人の議論を弁別する才能があった。仏教を深く敬い、飛鳥川の傍らに家を構えた。そうして庭に小さな池を掘り、池の中に小島を造った。それゆえ、時の人は、島大臣といった。
                   (小学館 新編日本古典文学全集日本書記2より)


日本書紀によると、蘇我馬子は島大臣と呼ばれていたようですが、これは飛鳥川に近接した場所に居宅を構え、その庭を掘削して池に小島を造ったことに起因するようです。

現在の明日香村には島庄という「島大臣」にゆかりの地名が残っており、その島庄遺跡からは一辺40mの方形の池跡が発掘されています。

また、桃原(ももはら)の地名は残っていないものの、島庄遺跡のすぐ東側には石舞台古墳があり、この石舞台古墳が日本書記に記述された蘇我馬子の桃源墓(ももはらのはか)とする説が有力とされています。

そして、今回ご紹介するのが、菖蒲池古墳です。

菖蒲池古墳は、甘樫丘の南西側斜面(橿原市菖蒲町周辺)に築造された古墳ですが、このあたり一帯が蘇我一族の墓域という伝承が残されているようです。

日本書紀皇極天皇四年是歳(645)の条、いわゆる大化の改新(乙巳の変)の記述にもありますように、甘樫丘東麓(飛鳥寺のある側)には蘇我蝦夷の居宅が築かれていたことが分かります。

そして、近年調査がされた甘樫丘東麓遺跡が、蘇我蝦夷関連施設跡ではないかと推測されています。

つまり、蘇我蝦夷の時代には、甘樫丘一帯が蘇我一族の支配地であったと考えられ、その支配地に氏族の居宅や墓域を設けることは決して不自然なことではないと思われます。

そして、この菖蒲池古墳は、これまでに十分な調査が行われて来なかったこともあり、謎の多い古墳とされていたのですが、2009年から2010年にかけて橿原市教育委員会による発掘調査が行われました。

そして、その結果が、2010年11月末に現地説明会で報告されています。

これは南西の四隅にあたりますが、その角度が90度であり、方墳であることが分かります。

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それでは、菖蒲池古墳の概略について見ていくことにします。

菖蒲池古墳の概略を説明するにあたり、橿原市教育委員会の作成した現地説明会配布資料から、以下のとおり引用をさせていただきます。

菖蒲池古墳とは、橿原市菖蒲町に位置し、甘樫丘から西に延びる丘陵の南斜面に築かれた、7世紀の古墳です。

墳丘は封土の流出および後世の改変が著しく、埋葬施設である横穴式石室の玄室天井石は地表に露出しており、羨道の天井石も失われています。

現在は玄門部の上から玄室内の様子を見ることができる状態になっています。

玄室の規模は、長さ7.2メートル、幅2.6メートル、高さ2.6メートルを測ります。

玄室には、2基の家形石棺(全棺、奥棺)が縦一列に並べて安置されています。

2基の石棺は、細部に違いがありますが、ほぼ同じ形に仕上げられています。

棺蓋(かんぶた)は寄棟式の屋根で、頂部に棟飾り風の突起があります。

棺身の表面にも柱や梁を表現した突起が見られます。

また、棺の内面には漆が塗られています。

このような精巧な造りの家形石棺は他に例が無い特異なもので、菖蒲池古墳の代名詞と言えます。

なお、石室部分は、昭和2年(1927)に国の史跡に指定されています。

平成19年(2007)には、丸山古墳や植山古墳、高松塚古墳などとともに、菖蒲池古墳も「飛鳥・藤原の京都とその関連資産群」の構成資産の一つとして世界遺産暫定一覧表に記載されました。

調査により、墳丘規模は下段一辺約30m・上段一辺約18mの規模を測る、方墳である事が明らかとなりました。

また、築造から1世紀も経たない藤原京期頃に、墳丘の一部を破壊してその隣接地を利用している事は、菖蒲池古墳の被葬者や築造時期を検討する上で、興味深い材料と考えられます。
                 (橿原市教育委員会 現地説明会配布資料より)


少し分かりにくいのですが、手前と奥に2基の石棺が縦一列に並んでいます。

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以上が、菖蒲池古墳の説明となります。

その特徴として挙げられることは、玄室に2基の家形石棺(全棺、奥棺)を持つこと、7世紀に築造された方墳であることになると思われます。

また、この菖蒲池古墳が、藤原京の南の正面玄関に当たる朱雀門(すざくもん)跡と、野口王墓呼ばれる天武・持統合葬陵を結んだ聖なるライン上に位置することは、従来から指摘されていたところです。(下の地図を参照してください)




確かに、藤原京朱雀門跡、菖蒲池古墳、そして天武・持統合葬陵が南北一直線に並んでいることが分かります。

もちろん、偶然の一致にしか過ぎないという見方もできるのかもしれません。

しかしながら、聖なるラインの築造を時代順に見てみると、まず菖蒲池古墳が築造され、その後藤原京の造営が始まり、そして天武持統合葬陵が築造されるという経過があります。

このことを踏まえると、菖蒲池古墳を基点として、藤原京朱雀門と天武・持統合葬陵の配置が決定されたという見方もできるのではないでしょうか。

つまり、聖なるラインが意図されたものであるとするなら、菖蒲池古墳を真ん中にした藤原京と天武・持統合葬陵の配置(コンステレーション)には、何らかの意味があるということになるはずです。

そして、菖蒲池古墳が藤原京や天武・持統合葬陵と同等に聖なる施設という想定をするのなら、菖蒲池古墳の被葬者は蘇我一族ではなく、むしろ天皇家の皇子クラスの人物になるといえるのかもしれません。

話は少しそれるのですが、飛鳥時代の天皇陵墓(あるいはそれに類する皇子)は、どのような墳丘形態をしていたかご存知でしょうか。

この時代の天皇陵墓は、八角の形をした八角墳であり、考古学上の終末期古墳にあたります。

考古学的には、前方後円墳の時代が終わったあと、大型の方墳や円墳が築造される時代が続き、そのあとに古墳形態が多様化してくる終末期古墳の時代となります。

多様化した終末期古墳は、飛鳥周辺地域以外にも伝播することとなり、関東地方などでも数例ですが、八角墳が発見されています。

そして、飛鳥周辺地域の八角墳は、7世紀前半から8世紀初めまでの約70年間だけに築造された天皇陵墓(あるいはそれに類する皇子)に特徴的な墳丘形態ということになります。

飛鳥周辺地域で現在確認されている八角墳は、以下のとおりです。

推定されている築造時代順に並べてみることにします。

桜井市の段ノ塚古墳  (現・舒明天皇陵)

明日香村の牽牛子塚古墳(斉明陵の可能性が高いとされています)

京都市の御廟野古墳  (現・天智天皇陵)

明日香村の野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵)

高取町の束明神古墳  (草壁皇子の可能性が高いとされています)

明日香村の中尾山古墳 (文武天皇陵の可能性高いとされています)

明日香村の岩屋山古墳 (被葬者は未定ながら方形墳の上に八角形の墳丘を営んでいた可能性が強いとされています。)

このように、八角墳が飛鳥周辺地域に現れるのは、舒明天皇陵(段ノ塚古墳、桜井市)からということになります。

また、八角の形態については、道教や仏教思想との結びつきを指摘する説もあるようですが、天皇(大王)家が特別な存在であることを天下に知らしめる目的で創り出された、新たな墳丘形態と考えることができるのかもしれません。

つまり、舒明天皇(大王)の時代は、大王の称号が天皇へと変わった時代でもあるとされており、天皇家の持つ固有性とその権威が高められていく時代であったということができそうです。

従って、飛鳥時代は、天皇(大王)家を中心とする権力支配体制が整備されつつあった時代ということになり、このような中央集権体制の中、それまでに前例のない八角墳が出現することになったのではないでしょうか。

今回の橿原市教育委員会の発掘調査では、菖蒲池古墳の墳丘形態が、八角墳ではなく、方墳であることが判明しました。

このことから、菖蒲池古墳は聖なるライン上にある古墳とはいえ、天皇陵墓(あるいはそれに類する皇子)でないことは明らかとなり、伝承どおりに蘇我一族の墳墓である可能性が高まったということになります。

しかしながら、菖蒲池古墳が聖なるラインの真上に位置している事実は紛れもなく、諸説あるものの、個人的な感想では、聖なるラインは単なる偶然の一致として生まれたものではないと考えます。

つまり、菖蒲池古墳が、蘇我一族の墳墓であり、なおかつ聖なるライン上に位置することが意図されたものであるとすれば、それは天皇(大王)家と蘇我家との間に何らかの隠された謎があったということになるのではないでしょうか。

では、菖蒲池古墳の被葬者は、いったい誰であるのでしょうか。

大化の改新(乙巳の変)で蘇我入鹿暗殺の重要な役割を務め、のちに右大臣に起用されるものの、反逆の咎で自害に追い込まれた蘇我倉山田石川麻呂とその長男の興志(こごし)の墳墓とする説が有力であるようです。

但し、本論考の主人公である蘇我蝦夷と蘇我入鹿が埋葬された墳墓という説も、有力なものとして残されていることはいうまでもありませんが・・・。

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by kokokara-message | 2011-01-15 11:47 | 我流古代史(蘇我氏編) | Trackback | Comments(0)

宗教の根本には、贈与がセットされているといわれています。
贈与があるからこそ、宗教といえるのかもしれません。
そして、これは医療にも教育にも同じことがいえます。ホノルル・シティ・ライツです。
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第5章 飛鳥時代の宮居の所在

蘇我四代の約百年間の天皇(大王)の陵墓は、そのほとんどが飛鳥周辺に築造されてきたということでした。

そして、敏達天皇(30)、用明天皇(31)、推古天皇(33)については、飛鳥周辺ではなく、大坂磯長(南河内郡太子町)の王家の谷に葬られたのですが、敏達天皇(30)以外は、いったん宮居のあった飛鳥周辺に葬られたあとで改葬されているということでした。

では、次に蘇我四代の約百年間に天皇(大王)が定めた宮居、いわゆる天皇(大王)の政治の中心であり、聖地でもあった宮居はどこにあったのでしょうか。

天皇(大王)の宮居の所在は、その陵墓の所在以上に、地政学的な権力の背景を知る手がかりになるといえそうです。

そもそも宮居とは、天皇(大王)が政治や祭事をつかさどる場所であり、その時代の権力の中心ということになります。

そして、古代における宮居とは恒久施設ではなく、天皇(大王)の在位期間に限った暫定施設ということになります。

さらに、天皇(大王)の在位期間であっても特別な事情があれば、遷宮することも一般に行われてきました。

隋の長安をモデルにした平城京が、国内最初の恒久的な宮居(都)と思われているようです。

しかしながら、平城京も恒久的な宮居(都)になることはなく、聖武天皇の在位中に、恭仁京、難波京、平城京と遷都が繰り返されることになります。

つまり、律令制度が整った奈良時代にあっても、天皇の宮居(都)はいまだ定まらず、恒久的な宮居(都)の登場は、桓武天皇の平安京まで待たなければならないということになります。

従って、平城京よりもさらに200年近く遡った蘇我稲目の時代には、宮居とは国威発揚の場ではなく、おもに天皇(大王)の生活の場、政治や祭事をつかさどる場として機能していたのではないでしょうか。

蘇我氏が、中央政権の一角に初めて登場するは宣化天皇(28)の536年です。

宣化天皇(28)が、蘇我稲目を大臣(おおおみ)に起用したことから、蘇我四代の時代が始まることになります。

その宣化天皇(28)の宮居は、檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりのみや:奈良県明日香村檜前)とされています。

そして、次の欽明天皇(29)の宮居は、磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや:奈良県桜井市金屋付近)とされています。

さらに、次の敏達天皇(30)の宮居は、即位して百済大井宮(くだらのおおいのみや:場所には諸説あり)に定めますが、まもなく訳語田幸玉宮(おさだのさきたまのみや:奈良県桜井市戒重)に遷宮します。

その次の用明天皇(31)の宮居は、磐余池辺双槻宮(いわれのいけのべのなみつきのみや:奈良県桜井市阿部磐余池)とされています。

また、祟峻天皇(32)は、倉梯柴垣宮(くらはししばがきのみや:奈良県桜井市倉橋)を宮居としました。

そして、蘇我四代の中でも一番勢力があったとされる蘇我馬子の時代に在位した天皇(大王)が、推古天皇(33)です。

推古天皇は、飛鳥そのものではありませんが、飛鳥に隣接する豊浦宮(とよらのみや:奈良県明日香村豊浦)、小墾田宮(おはりだのみや:奈良県高市郡明日香村)を宮居としました。

続く舒明天皇(34)は、蘇我馬子の実子である蘇我蝦夷の影響を強く受けて即位することができた天皇(大王)といわれています。

従って、舒明天皇の宮居は、初めて飛鳥の地に定められることとなり、飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや:奈良県高市郡明日香村)と呼ばれています。

飛鳥の中心には法興寺(現在の飛鳥寺、蘇我氏の氏寺)が建てられたように、飛鳥の地はまぎれもなく蘇我氏が支配していた地ということがいえます。

つまり、蘇我蝦夷は、自らの支配地である飛鳥の地に、その地名を冠した天皇(大王)の宮居を造らせたということになります。

舒明天皇は、その後田中宮(たなかのみや:奈良県橿原市畝傍町)、厩坂宮(うまやさかのみや:奈良県橿原市大軽町)、百済宮(くだらのみや:奈良県北葛城郡広陵町百済)と飛鳥の周辺を遷宮していきます。

そして、舒明天皇(34)が崩御した後、その后であった皇極天皇(35)が即位することになりますが、その皇極天皇が定めた宮居は、飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや:奈良県高市郡明日香村)と呼ばれています。

飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)は、当時の最大実力者であった蘇我蝦夷がその命によって造らせたといわれており、舒明天皇の飛鳥岡本宮と同様、飛鳥の地名を冠した宮居ということになります。

先の推古天皇(33)の豊浦宮(とゆらのみや)、小墾田宮(おはりだのみや)は、飛鳥の地名を冠した宮居ではありませんが、その所在地の選定には、当時の実力者である蘇我馬子の強い意思が働いていたことが予測できます。

つまり、推古天皇(33)、舒明天皇(34)、皇極天皇(35)の宮居は、三代続いて蘇我氏の支配地であった飛鳥の地に定められたということになるわけです。

但し、皮肉なことですが、蘇我蝦夷が自らの威信をかけて造らせたはずの飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)で、蘇我本宗家が滅亡する原因となるクーデターが発生します。

645年に起こった乙巳の変(いっしのへん)であり、俗に言う大化の改新です。

蘇我蝦夷は、自らの支配下にあっらはずの飛鳥板蓋宮で、実子入鹿を暗殺され、その翌日には自らも自害に追いやられることなってしまいます。

このようにして蘇我本宗家は滅亡するのですが、その直後に皇極天皇(35)が譲位し、孝徳天皇(36)が即位します。

そして、孝徳天皇(36)が宮居として定めたのが、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや:大阪府大阪市東区法円坂町)ということになります。

やがて、孝徳天皇(36)が崩御すると、皇極天皇(35)が重祚して斉明天皇(37)となります。

斉明天皇(37)は、約30年前、夫の舒明天皇(34)が飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)に定めた同じ場所に、後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)を造らせることになったということです。

以上が、蘇我四代の約百年間に定められた、天皇(大王)の宮居の変遷ということになります。

このことから分かることは、この約百年間の天皇(大王)の宮居の所在は、孝徳天皇(36)の難波長柄豊碕宮以外、すべてが現在の明日香村、桜井市、橿原市、広陵町という飛鳥周辺の地に定められているということです。

そして、さらに重要なことは、天皇(大王)の宮居が、桜井市、橿原市、広陵町、そしてその北方にあたる天理市など現在の奈良県の東部域に定められるというのは、決して蘇我四代の時代に限定されたことではないということです。

ここでは詳細に踏み込みませんが、それ以前の歴代の天皇(大王)の宮居の所在を文献(記紀)から考察すれば、奈良県の東部域を中心として宮居が置かれていたことが分かるはずです。

もちろん、天皇(大王)の宮居の所在地には諸説があり、考古学的な裏づけのない伝承でしかない宮居も多いといえそうです。

しかしながら、少なくとも文献(記紀)から考察する限りでは、宮居の所在地が奈良県の東部域以外に造られるということは、かなり異例なことであったといえるのではないでしょうか。

つまり、乙巳の変直後の(緊急避難的な)孝徳天皇(36)の難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや:大阪府大阪市東区法円坂町)。

そして、倭の五王の讃とされる仁徳天皇(16)の難波高津宮(なにわたかつのみや:現大阪市中央区)。

さらに、倭の五王の珍とされる反正天皇(18)の河内国丹比柴籬宮(かわちのくにたじひのしばかきのみや)などがそれにあたります。

*『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇等の説がある。

このうち「済」、「興」、「武」については研究者間でほぼ一致を見ているが、「讃」と「珍」については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがあるため未確定である。

他の有力な説として、「讃」が仁徳天皇で「珍」を反正天皇とする説や、「讃」は応神天皇で「珍」を仁徳天皇とする説などがある。
                             (ウィキペディアより)


時折、古代王権の中心が、河内や摂津にあったのではないかという話を聞くことがあります。

確かに、上町台地の先端が朝貢の津(湊)として利用されていたことや、河内や和泉が天皇(大王)の巨大陵墓の墓域として利用されていたことはまぎれもない事実です。

しかしながら、あくまでも古代王権の中心ということになれば、天皇(大王)の聖なる場所であり、政治と祭事をつかさどった宮居がそれにあたるといえるのではないでしょうか。

つまり、実用の場所としての難波(なにわ)に対し、聖なる王権をいただく倭(やまと)という関係になっていたのかもしれません。

従って、多くの天皇(大王)の宮居が、現在の奈良県の東部域に集中していることからすると、古代王権の中心が、奈良県の東部域あたりにあったと考えることも不自然ではないように思われます。

さらに、古代国家発祥の地についても、この奈良県の東部域あたりではないかと推測することは、文献上(記紀)の解釈を超えた暴論とまではいえないと思うのですが、さていかがでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-11-20 22:26 | 我流古代史(蘇我氏編) | Trackback | Comments(0)

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第4章 飛鳥時代の陵墓の所在

まず、疑問となるのが、官僚の最高位にあった大臣(おおおみ)の蘇我蝦夷が、なぜ政治の中心地でもない飛鳥京から遠く離れた今来の土地(現在の御所市古瀬から大淀町今木のあたり)に、わざわざ自分と実子の、しかも双墓(ならびのはか)を造らなければならなかったのかということです。

つまり、今来の地は当時巨勢氏が支配していた土地であり、蘇我氏が直接支配しているわけでもないのに、どうしてそこに蝦夷が自分とその実子の墓を並べて造る必要があったのかということになります。

蘇我蝦夷と入鹿の時代は、欽明天皇と姻戚関係を結んで、その後は推古天皇の実質的な後見人となる馬子の時代と比較すれば、確かに蘇我本宗家の権勢は衰えていたといえるのかもしれません。

たとえば、皇極天皇の後継者問題として、古人兄皇子(舒明天皇と馬子の娘の法堤郎媛との子)を押す蘇我本宗家と皇極天皇の弟である軽皇子(のちの孝徳天皇)を押す蘇我分家という争いの構図はあったようですが、いずれも蘇我一族内のことといえます。

つまり、推古天皇以後の舒明、皇極天皇の時代にあっても、蘇我一族の実質的な政治支配は、動かしようのない事実であったといえそうです。

では、ここで蘇我四代の時代の天皇(大王)の在位について、簡単に整理しておきます。

宣化天皇の536年に、蘇我稲目は初めて大臣(おおおみ)に起用されることになり、その約百年後の645年には、大化の改新(乙巳の変)によって蘇我本宗家は滅亡することになります。

蘇我稲目から始まり、馬子、蝦夷、そして入鹿と続いた蘇我四代の約百年間の天皇(大王)の在位は次の通りです。

宣化天皇(28)、欽明天皇(29)、敏達天皇(30)、用明天皇(31)、祟峻天皇(32)、推古天皇(33)、舒明天皇(34)、皇極天皇(35)、孝徳天皇(36)、そして斉明天皇(37、皇極天皇の重祚)と続きます。( )内は在位の順番。

このうち、皇極天皇(35)の時に、本稿の主題と関連することになる、大化の改新(乙巳の変)という政変が起こります。

続いて、蘇我四代の時代に在位した天皇(大王)の陵墓の所在を見ておくことにします。

まず、蘇我稲目の時代では、宣化天皇(継体天皇の第2皇子)の陵墓は、奈良県橿原市鳥屋町にある身狭桃花鳥坂上陵が治定されています。

そして、次の欽明天皇(継体天皇の第3皇子)の陵墓は、現在の明日香村大字平田にある檜隈坂合陵が欽明天皇陵として治定されています。

ただ、最近の説では、ほんとうの欽明天皇陵はすぐ隣にある橿原市五条野の見瀬丸山古墳がそれではないかといわれています。

また、蘇我馬子の時代になると、欽明天皇の第2皇子であった敏達天皇(母は宣化天皇の娘の石姫)、欽明天皇の第4皇子であった用明天皇(実母は稲目の娘の小姉君)、欽明天皇の第3皇女子である推古天皇(実母は稲目の娘の堅塩姫)が即位することになります。

そして、それぞれの天皇の陵墓は、明日香村の周辺ではなく、大坂磯長(南河内郡太子町)の王家の谷に築造されることとなります。

敏達天皇(30)の陵墓は河内磯長中尾陵、用明天皇(31)の陵墓は河内磯長原陵(磐余池上陵からの改葬とされています)、推古天皇(33)の陵墓は磯長山田陵(大野岡上陵=奈良県橿原市の植山古墳からの改葬とされています)として治定されています。

用明天皇(31)が崩御し、推古天皇(33)が即位するまでの6年間は、欽明天皇の第12皇子であった祟峻天皇(実母は稲目の娘の小姉君)が第32代天皇(大王)として即位しています。

そして、祟峻天皇(32)は、歴代唯一暗殺された記録が残る天皇(大王)とされています。

祟峻天皇(32)の陵墓は倉梯岡上陵(奈良県桜井市大字倉橋)が治定されていますが、こちらもほんとうの陵墓は、同じ奈良県桜井市大字倉橋にある赤坂天王古墳がそれではないかとされています。

祟峻天皇の後を受けて、推古天皇がその後の36年間在位することになりますが、その後は、蘇我一族の血を引いた山背大兄皇子ではなく、敏達天皇(30)の孫にあたり、押坂彦人大兄皇子の子であった田村皇子が舒明天皇(34)として即位します。

皇統図からもわかるように、舒明天皇は、蘇我一族とは直接的な姻せき関係がなかったことから、欽明天皇以来続いてきた蘇我一族の姻せき支配もここでいったん途絶えたかのように見えます。

しかしながら、舒明天皇(34)は、後継者候補から山背大兄皇子を外すという蝦夷の政治的判断によって即位するができた天皇(大王)であったため、その実権はあくまで蝦夷にあったということになりそうです。

また、舒明天皇(34)の陵墓は、押坂内陵(奈良県桜井市大字忍阪)が治定されいます。

祟峻天皇(32)と舒明天皇(34)の陵墓は、ともに明日香村の東に位置する桜井市に治定されています。

舒明天皇(34)が崩御すると、その皇后であった皇極天皇(敏達天皇の孫にあたり、押坂彦人大兄皇子の子であった茅渟王の皇女)が、即位するということになります。

そして、皇極天皇の陵墓には、奈良県高市郡高取町車木の越智崗上陵が治定されていますが、ご存知のように、最近の発掘調査で明日香村にある牽牛子塚(けんごしづか)古墳が、八角形墳であることが判明しました。

八角形墳は、天武持統合葬陵や中尾山古墳(ほんとうの文武天皇陵とされています)に見られるような、7世紀に特徴的な皇族級陵墓の形態とされています。

このことから、八角形墳である牽牛子塚(けんごしづか)古墳が、ほんとうの皇極天皇(重祚して斉明天皇)の陵墓ではないかとする説が有力になっています。

これらのことから判明することは、敏達天皇(30)、用明天皇(31)、推古天皇(33)以外の天皇(大王)の陵墓は、すべて明日香の周辺に築造されてきたということです。

そして、用明天皇も、最初磐余池上陵(奈良県橿原市?)に葬らたとされており、また推古天皇も、実子竹田皇子陵(植山古墳、奈良県橿原市)に追葬されたとされているように、大坂磯長(南河内郡太子町)の王家の谷に葬られる前には、他の天皇(大王)と同じように明日香周辺に葬られてきたということがいえそうです。

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by kokokara-message | 2010-10-20 21:32 | 我流古代史(蘇我氏編) | Trackback | Comments(0)

第3章 今来の並墓

斉明天皇陵ではないかと話題になっている、発掘調査前の牽牛子塚(けんごしづか)古墳です。
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第3章 今来の並墓

次に、二つの水泥古墳の被葬者が、それぞれ蘇我蝦夷と蘇我入鹿とする根拠は、日本書紀の記述にあるということでした。

日本書紀の文献記述から、その根拠についてもう少し詳しく見ていくことにします。

日本書紀の皇極天皇元年是歳(642年)の条になりますが、より原文に近い感覚で読んでいただくため、小学館日本古典文学全集日本書紀第三巻より、古語訳を引用することにします。

是(こ)の歳(とし)に、蘇我大臣蝦夷(そがのおおみえみし)、己(おの)が祖廟(おやのまつりや)を葛城(かづらき)の高宮(たかみや)に立てて、八らの舞(やつらのまひ)をし、
〔中略〕
又(また)、尽(ことごとく)に国挙(あめのした)の民(おほみたから)、併(あはせ)て百八十部曲(ももやそのかきべ)を發(おこ)して、預(あらかじ)双並墓(ならびのはか)を今来(いまき)に造り、

一(ひと)つは大陵(おほみささぎ)と日ひ大臣(おおおみ)の墓とし、

一(ひと)つは小陵(をみささぎ)と日ひ入鹿臣(いるかのおみ)の墓とす。

死(みまか)りて後(のち)に、人を労らしむること勿れと望みしなり。

更に悉くに上宮の乳部の民を聚(あつ)めて、塋兆所(はかどころ)に役使う(つか)う。

是(ここ)に、上宮大郎姫王(うえのみやのいやつめのひめみこ)、発憤(むつか)りて歎(なげ)きて曰(いは)く、

「蘇我臣(そがのおみ)、国政(くにのまつるごと)を専擅(ほしきまま)にして、多(さは)に無礼(ゐやな)き行(わざ)す。

天(あめ)に二日(ふつかのひ)無く、国政(くにのまちうりごと)に二王(ふたつのきみ)無し。何(なに)の由(ゆえ)にか意(こころ)の任(まにま)に悉に封(よき)せる民を役(つか)はむ」といふ。

茲(これ)より恨(うらみ)を結(むす)びて、遂(つい)に倶(とも)に亡(ほろぼ)されぬ。是年(ことし)、太歳壬寅(たいさいじんいん)にあり。


つまり、皇極元年(642)蘇我蝦夷は、何か期するところでもあるかのように、葛城の高宮に先祖の廟を新設して、中国の王家の舞である八併舞(やつらのまい)を奉納したということです。

また、蘇我蝦夷は、国中の民、併せて百八十の部曲(かきべ)を徴発して、生存中に双墓を今来に造り、ひとつは大陵といって大臣(蘇我蝦夷)の墓として、もう一つは小陵といって、入鹿臣の墓とした、ということです。

このように、日本書記の皇極天皇元年是歳(642年)の条の記述によると、はっきりと蘇我蝦夷が自分自身とその実子である蘇我入鹿のために陵墓を今来の地に造っていたということが分かります。

また、同条の後半では、蘇我蝦夷が墓の造営のために、上宮王家の皇子の出産養育担当までを動員して墓の労役にあたらせていたことから、上宮王家の姫王から、国に二人の王はいないとして、蝦夷の専横に対しての強い批難がなされることになります。

そして、最後の二行は、そもそも日本書紀が暦年形式の記述を原則としていることからすると、少し異例な印象を受けることにもなりますが、要するに2年後に蘇我蝦夷と入鹿が乙巳の変で滅亡することが、ここで予言されているということになります。

おそらく、これは日本書紀の編者が、大化の改新(乙巳の変)で滅亡する蘇我本宗家と、蘇我蝦夷による双墓の造営という専横との因果関係を、強調したいがためにあえて記述することになった一文といえるのではないでしょうか。

いや、むしろ、大化の改新(乙巳の変)を合理化するために、あえて設けておく必要性があった一文といえるのではないのでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-09-11 21:14 | 我流古代史(蘇我氏編) | Trackback | Comments(0)

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次に、西尾邸から50メートルほど南側にはなれたところにある水泥南古墳は、6世紀後半に築造されたとされる、直径25メートルの円墳とみられています。

こちらは、今も巨勢の道沿いに面しているため、水泥南古墳の様子は外側から自由に見学することができます。

どうしても、羨道内に入りたいという場合は、水泥北古墳と同様に管理者である西尾氏から直接許可をいただく必要があります。

石室は全長約15メートル、玄室の長さ4.6メートル、同幅約2.4メートル、同高さ約2.6メートルで、水泥北古墳に比べると玄室の規模は小さくなっています。

水泥南古墳も、その被葬者の弔いが現在も行われている模様で、玄室の手前にある羨道には花が供えられていました。

そして、この水泥南古墳の被葬者が蘇我入鹿という伝承が残っています。

水泥南古墳で特筆すべきことは、石室内の玄室とその手前にある羨道に、それぞれ1基ずつの家形石棺が置かれていることです。
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上の写真では少し見づらいのですが、羨道にある手前の石棺の奥に、玄室の石棺がうっすらとライトに浮かんでいます。

手前の羨道の家形石棺は竜山石(兵庫県加古川流域で産出する凝灰岩)のものを使用しているようです。

そして、ここで注目されることは、羨道にある手前の石棺蓋の正面にあたる縄掛け突起に刻まれている蓮華文(ハスの花をかたどった模様)です。

古墳文化の家形石棺に仏教文化を表現する蓮華文が刻まれるという実例は、他には見当たらないということです。

小口部の縄掛け突起の蓮華文は、古墳文化と仏教文化の結合の一例として著名なものとされています。
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上の写真で確認できる蓮華文は、仏教寺院の軒瓦の文様として使用されることが一般的といえそうです。

水泥南古墳は、その出土遺物から6世紀後半に築造されたと推定されていますが、一般に氏族と仏教文化との関係性が顕著になるのは蘇我氏の飛鳥寺(6世紀末)以降のこととされています。

従って、仏教文化の影響を受けた家形石棺の出現時期は、6世紀末の飛鳥寺創建からさらに下った時期のものと考えるのが自然であり、おそらく家形石棺は水泥南古墳の築造とは全く別な意図の下に建造されたと考えるのが自然ではないでしょうか。

また、家形石棺の側面にあたる縄掛け突起は削られて小さくされた痕跡が残っています。

これは、石棺を石室内に追葬するための搬入する際、羨道側の壁に縄掛け突起が当たったために削ってしまったものと考えられています。

このことからすると、玄室にある奥の石棺が水泥南古墳のもともとの被葬者ということになり、羨道にある石棺はその大きさが規格に合っていないことからも想像できるように、あとから無理やりに追葬されたものとして考えのが自然ではないでしょうか。

以上が、水泥古墳の双墳についての考古学的見地からの説明となります。

再度確認しておくと、伝承によると、北側にある規模の大きい水泥北古墳が蘇我蝦夷の墳墓とされており、南の規模のやや小さい方(水泥南古墳)が蘇我入鹿の墳墓とされてきたということです。

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by kokokara-message | 2010-08-10 20:43 | 我流古代史(蘇我氏編) | Trackback | Comments(0)

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第2章 古瀬の水泥古墳

まず、はじめに水泥古墳がどのような古墳であるかについて簡単に説明をすることにします。

考古学的な考証となりますので、以下の説明にあたっては、奈良国立文化財研究所飛鳥資料館「飛鳥時代の古墳」を参考とさせていただきます。

水泥古墳は、約100メートルの間隔を隔てて存在する水泥北古墳と水泥南古墳を併せたもので、2基一括で昭和36年に国史跡に指定されています。

水泥北古墳と水泥南古墳とも個人の所有地にあり、その土地の所有者である西尾氏がふたつの古墳を管理されています。

まず、水泥北古墳ですが、こちらは西尾邸の敷地内にあるため、見学をするには西尾氏から直接許可をもらう必要があります。

いきなり敷地内に入れば、迷惑をかけるだけではなく、不法進入にも当たりますので、くれぐれもマナーを守るように注意してください。
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西尾邸の裏庭の側にある水泥北古墳は、水泥塚穴古墳とも呼ばれ、直径20メートルの円墳で、両袖式の横穴式石室を有しています。

石室の全長は13.4メートル、玄室の長さ5.6メートル、同幅約2.9メートル、同高さ約3.3メートルとかなり大規模な石室で、花崗岩の大きな石が用いられています。

水泥北古墳は、現在でもその被葬者の弔いが行われている模様で、石室には花が供えられていました。

そして、この水泥北古墳には、その被葬者が蘇我蝦夷であるという伝承が残っています。

ただ、考古学的には、水泥北古墳の築造時期は、6世紀中ごろとされています。

従って、蘇我蝦夷の没年である7世紀中ごろ(645)とは約100年間のひらきがあるため、考古学的には、蝦夷の墳墓としては説明がつかないものとされているようです。

また、現在は水泥北古墳の石室内に石棺は存在しません。

しかしながら、調査の結果からは凝灰岩の破片の出土が確認されており、元は石室内に石棺が安置されていたことが推測できるとされるようです。

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by kokokara-message | 2010-07-17 20:56 | 我流古代史(蘇我氏編) | Trackback | Comments(0)

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蘇我氏が、飛鳥寺(法興寺、元興寺)の創建にみられるように、仏教文化の導入に積極的であったことは、日本書記の記述などからも良く知られているところといえます。

そして、大化の改新(乙巳の変)で、蘇我本宗家が滅亡したことも良く知られていることと思われます。

また、蘇我氏の墳墓については、蘇我馬子の墳墓が、石舞台古墳であるという伝承がほぼ確実なことは良く知られたことではないでしょうか。

また、その父である蘇我稲目の墳墓が、五条野(見瀬)丸山古墳や檜隈梅山陵(現在の欽明天皇陵)ではないかという仮説を耳にすることもあるといえます。

しかしながら、蘇我4代のうちで、大化の改新(乙巳の変)で暗殺された蘇我入鹿と翌日に誅殺(ちゅうさつ)された実父の蘇我蝦夷の墳墓については、ほとんど話題にのぼることもなく、まるでその後の経過が忘却されてしまったかのようになってしまっているのではないでしょうか。

そして、古瀬にある双墳が蘇我蝦夷と蘇我入鹿の墳墓であるという伝承も、全く荒唐無稽な作り話ではないということです。

その根拠になっているのが、日本書記の皇極天皇元年是歳(642年)の条の記述です。

同条によれば、「蘇我蝦夷が、双墓(ならびのはか)を今来(いまき)に造って、一つは大臣(蝦夷のこと)の墓として、もう一つは入鹿臣の墓とする。」と記述されていることが挙げられます。

今来とは、現在の御所市古瀬から大淀町今木あたりまでの地域一帯を指すとされています。

そして、このあたり一帯を見回したところ、水泥古墳以外には、双墓と推定されるような二つ並んだ墳墓の存在は確認されていないということです。

また、江戸時代享保17年(1734)に書かれた大和志という書物では「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」と記述されています。

これは、(日本書紀に記述されている)葛上郡今木にある双墓は、吉野郡の今木の隣にあたる、古瀬の水泥邑にあり、ということを意味しています。

つまり、古瀬の双墳である水泥古墳は、江戸時代以前の古くから、日本書紀にいう蘇我蝦夷と蘇我入鹿の双墓として広く言い慣わされてきた伝承があったということが、分かる資料といえそうです。

日本書紀の記述内容は、あとで詳細にふれることにしますが、その記述内容やそれに基づいた伝承が存在していることからすると、双墓の被葬者が蘇我蝦夷と蘇我入鹿であるというようにも考えられます。

それでは、古瀬にあって、現在水泥(みどろ)古墳と呼ばれている双墳の被葬者は、ほんとうに蘇我蝦夷と蘇我入鹿と断定することはできるものなのでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-06-19 10:47 | 我流古代史(蘇我氏編) | Trackback | Comments(0)