トリックスター(全編)


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皆さんは、悪意や悪事の予感がしたという経験はないでしょうか。

それは、必ずしも自分自身に向けられたものとは限りません。

自分の周りの誰かに向けられたものなのか、そもそも誰に向けられたものなのか、はっきりとしないものかもしれません。

何かよくないことが起こるかもしれない予感や予期は、自分を取り巻く環境の変化、つまり、秩序が崩れてしまうことへの不安の表われといえるのではないでしょうか。

そして、それは今ある秩序を改変してしまおうとするいたずらもの、トリックスターの出現を予感しているのかもしれません。

では、トリックスターとは、一体何者なのでしょうか。

一時、六本木ヒルズの寵児であった頃のホリエモンが、経済界の人たちからはトリックスターと呼ばれていた時期がありました。

また、時代を先取りしたかのような言動を行っている一部の政治家などは、やがてトリックスターと呼ばれることになってしまうのかもしれません。

トリックスターとは、一般には子どもとされています。

これは、生物学的な意味における子どもということではなく、たとえ社会的地位を築いている場合でも、精神的にはまだ未成熟ということであれば、やはり子どもということになってしまうのではないでしょうか。

そして、精神的に未成熟な子どもであるトリックスターが示す行為行動の最大の特徴は、幼児的万能感と自己顕示欲ではないかと思われます。

例えが古くなりますが、往年のウルトラマンや仮面ライダーなどは、まさに子どものヒーローであって、幼児的万能感と自己顕示欲を現す象徴的存在であったと思われます。

但し、このような子どもにとってのヒーローの世界を、自分が生きている現実世界に適用したとしたら、さて、どのようになってしまうでしょうか。

おそらく、ヒーローの示す幼児的万能感と自己顕示欲が適用された現実世界は大きく乱れ、その中の人たちは大いに困惑することになってしまうのではないでしょうか。

このような混乱を起こさない人、つまりヒーローの世界と現実世界がきちんと峻別できている人が、大人と呼ばれる人と言うことです。

ところが、時として子どもが示す幼児的万能感と自己顕示欲が、子どもの個性や才能あるいは無類の勇気と勘違いされてしまうことがあります。

例えば、風変わりな芸能人や芸術家等の言動が、世間から賞賛されるという事例は決して珍しいことではありません。

ただ、短期的な評価は得られても、長期的に見てトリックスターが他者(社会)との繋がりを維持して行くことは極めて困難なことであると思われます。

つまり、今在る秩序をかく乱させ、他者(社会)との関係性を混乱させるトリックスターは、社会的にはネガティブな存在と看做されてしまうことになるからです。

トリックスターは、いたずらな子どもであるだけではなく、世間の鼻つまみものということになるのではないでしょうか。

ところで、今在る秩序をかく乱させ、他者(社会)との関係性を混乱させるトリックスターは、一方では閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる存在でもあります。

これはトリックスターの持つ大きな特徴であり能力になりますが、ただ、トリックスターが社会状況(家族状況)を改変させる存在であるためには、その前提として自分自身を守ってくれているセーフティネットの存在が必要になってきます。

繰り返しになりますが、トリックスターとは、精神的に未成熟な子どもということでした。

一般論として、子どもには親の庇護というセーフティネットの存在が欠かすことができません。

親の庇護というセーフティネットがあるからこそ、子どもはたった独りでもファンタジーの世界でヒーローを演じることもできるわけです。

そして、ネガティブな評価があった幼児的万能感や自己顕示欲も、親の庇護の基では個性豊かな冒険的な営為として見守られることになります。

一方、親の庇護(セーフティネット)を受けていない幼児的万能感や自己顕示欲は、世間と直に対峙するために社会不適応者の烙印を押されかねません。

つまり、子どもがファンタジーの世界を楽しむためには、親(あるいはそれに替わる者)の庇護というセーフティネットの存在が前提条件になってくるわけです。

そして、様々な悪意や悪事を仕出かした子ども自ら反省ができるのも、親(あるいはそれに替わる者)の庇護というセーフティネットがあるからではないでしょうか。

要するに、親の庇護(セーフティネット)を持つことができた子どもは、様々な冒険と反省を繰り返しながら、徐々に自分の世界を広げていくことができます。

一方、親の庇護(セーフティネット)を持つことが出来なかった子どもは、様々な悪意や悪事を繰り返すだけで、徐々に自分の世界を狭くしていくことになります。

上記からすると、トリックスターとは、後者の閉鎖的な狭い世界で生きてきた永遠の子ども(ピーターパン)ということになりそうです。

一般論として、人はセキュア・ベース(安全基地)を持つことで自分の世界を広げていくことができ、成熟した大人へと成長することになるのではないでしょうか。

ところで、最初に申し上げたとおり、トリックスターは、悪意や悪事を働くいたずらものということでした。

では、トリックスターの悪意や悪事に自覚はあるのでしょうか。

おそらく、トリックスターには、自らが悪意や悪事を働いているという自覚はないと思われます。

もともとトリックスターは、閉鎖的な狭い世界で未熟な経験を繰り返して来たため、善悪や正邪の道徳的規範が十分に身についていないところがあると思われます。

したがって、依拠できる規範はトリックスター自身の内面にはなく、外部にいる他者の行動規範に依存し振る舞う(まねる)しかないことになります。

このため、参照すべき外部にいる他者の行動規範次第では、トリックスターの採る行動は無自覚に善悪や正邪の道徳的規範を逸脱してしまうことになります。

おそらく、トリックスターは道徳的規範を侵犯する意思をもって逸脱するのではなく、他者依存や状況依存の結果として道徳的規範を逸脱することになりそうです。

トリックスターの行動様式(エトス)は、自律的かつ計画的なものではなく、むしろ他律的かつ衝動的なものということになるのかもしれません。

そして、トリックスターの行動様式(エトス)は日常生活の離婚や転職の原因になり、さらに自らの感情(自尊心)や打算(欲望)と一致さえすれば、容易に危険で理解不能な他者と同調してしまうことになります。

複雑化した現代社会では、既存の制度や習慣、文化だけに頼って、あらゆる局面を生き延びるということは困難になってきていると思われます。

したがって、人は様々な経験と反省を繰り返しながら、今を生き延びるための社会的スキルを身に着けていく必要があると思われます。

ただ、これまでに見てきたトリックスターは、閉鎖的な狭い世界で生きてきたために社会的スキルは身についておらず、危険からは無防備な状態に置かれています。

繰り返しになりますが、トリックスターは善悪や正邪の道徳的規範が曖昧で、その行動様式(エトス)は他律的かつ衝動的であるということでした。

それゆえトリックスターの非常識さ(非道徳)と無防備さ(他者依存)は成熟した大人たちを困惑させますが、よりタフな「欲望(コンプレックス)」を持ったトリックスターからすれば自らの「欲望(コンプレックス)」を満たすための格好のターゲット(獲物)に映ってしまうということです。

ラカンや河合隼雄氏の仮説では、「欲望(コンプレックス)」は「欲望(コンプレックス)」に「欲望(共鳴)する」という関係性が描かれています。

この仮説を踏まえれば、よりタフな悪意と悪事のトリックスターの「欲望(コンプレックス)」は、無防備で制御のきかない衝動的かつ他律的なトリックスターの「欲望(コンプレックス)」をいとも簡単に取り込み、搾取するということが容易に出来てしまうということです。

そして、子どもの世界で起きている「いじめ」と同じで、未成熟な大人たち(トリックスター)の間で起きている「生きにくさ(抑圧)の移譲」は、一度その中(世間)に入ってしまえば、二度と抜け出すことの出来ない蟻地獄のような構造(*引きずりおろし民主主義)になっているのではないでしょうか。

*怒りや脅威で多数派を形成し、自分より上に立つもの、能力がある者を引きずり降す愚民主主義。社会全体の偏差値は下がり続け、やがて上に立つものはいなくなる。

もし、あなたが身近で悪意や悪事を予感したとしたら、それはすぐ近くにトリックスターが潜んでいるのかもしれません。

もはや現代社会が既存の制度や習慣、文化だけで生き延びることが出来ないとなれば、様々な経験と反省から社会的スキルを身に着けて行くしかありません。

したがって、トリックスターの悪意や悪事には、ただ気づかないふりをするのではなく、自分自身はその悪意や悪事の連鎖関係(抑圧の移譲)には決して入らないという決意、そして搾取されそうになれば身に着けた社会的スキルでなりふり構わず自衛するという覚悟が、今を生き延びるための方法論になるのではないかと考えています。

それでは結論になりました。

「生きにくさ(抑圧)の移譲」には与せず、今を生き延びるための社会的スキルで自衛ができる人は、おそらく自分自身がトリックスターでないと自覚できている人ではないかと思われます。

自分自身がトリックスターでないということは、とても大事なことです。

しかしながら、トリックスターの悪意や悪事のある「欲望(コンプレックス)」から自分の身を守るには、自分自身がトリックスターでないと自覚するだけでは十分でないように思われます。

むしろ、これとは真逆に自分自身がトリックスターかもしれないという一回ひねりの視点を担保しつつ、もはや既存の制度や習慣、文化に頼る正規戦ではない、経験と反省から身につけた社会的スキルでもって攻守の両面からゲリラ戦を挑んでいくしかないように思われます。

一般論としても、自分は関係がないと割り切るのではなく、自分自身を勘定に入れた全体像(コンステレーション)の把握が重要であることは言うまでもありません。

つまり、自分自身が勘定に入っているからこそ、自分自身を含めた関係性の全体像(コンステレーション)が一望俯瞰できるようになるというわけです。

自分がトリックスターかもしれないという(自分を勘定に入れた)一回ひねりの視点を担保しておくことが、全体像(コンステレーション)を読むメタレベルからの視点確保につながり、その結果として誰もが陥ってしまう「構造的無知」から脱出するということも可能になるということではないでしょうか。

では、トリックスターとは一体誰のことなのでしょうか。

トリックスターとは、無意識で悪意や悪事を働くいたずらものである一方、この閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる異能を持った(両義的な)存在ということです。

誰もが無意識のうちに「構造的無知」の状態に陥ってしまう可能性がある以上、論理的には「個」の意識が弱く自我が脆弱で相互参照が得意な日本人であるのなら、自分だけがトリックスターでないという信憑性は極めて低いことになるのではないでしょうか。

つまり、日本人の多くがトリックスターである可能性が高いとなれば、この閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる異能を持ったポジティブな評価のトリックスターもまた、この典型的な日本人の中から出現してくる可能性が高いと考えるのは自然なことではないかと大いに期待しているのですが、さていかがでしょうか。

とは言いながらも、関わらないことに尽きますね。関われば例外なく底なしに苦労しますよ。(苦笑い)

(終わり)

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by kokokara-message | 2016-08-17 22:35 | 我流心理学 | Trackback | Comments(0)


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今から十年以上前になるでしょうか。

私は、ふたつの「コンステレーション」に出会うという経験をしました。

ひとつは、河合隼雄氏のユング心理学におけるコンステレーションで、「布置」という意味で使用されています。


もうひとつは、腕時計のコンステレーションで、オメガのコレクションのひとつです。


ほぼ同時期に、二つのコンステレーションを知ることとなり、二つのコンステレーションがその後の私のものの見方に大きな影響を与えていくことになります。


腕時計のコンステレーションは、そのときまだ縁がなかったのか、いったんは私の記憶から遠ざかっていくことになります。


しかしながら、河合隼雄氏のコンステレーションは、ユング心理学における重要なキーワードとして私の記憶に強く残ることとなります。


ユング心理学者の河合隼雄氏は、日本にユング心理学を紹介するにあたって、三つのCを重視したとその著作で記述されていたことを記憶しております。


1番目がコミュニケーションのC、2番目がコミットのC、3番目がコンステレーションのCということです。


コミュニケーション(交換)とコミット(関わり)は、日常においてもよく使用される言葉といえますが、コンステレーション(布置)はユング心理学で使用される専門用語です。


コンステレーションとは、ある原因と結果が存在する場合に、二つの関係を線型の因果律で直接結びつけるのではなく、様々な事柄の布置(配置)から全体像を読む(把握する)というものの見方です。

少し分かりにくいかもしれませんが・・・。


また、ユング心理学は、共時的現象(シンクロ二シティ)と呼ばれる、意味のある偶然の一致という一見オカルト的とも思える要素を含んだ学問体系になっています。


意味のある偶然の一致(共時的現象)とは、たとえば、突然部屋に虫が飛び込んできたときに、電話が鳴り出し、電話で親の死が告げられたというとても不思議な体験のことです。


おそらく似たような体験は誰にでもあると思われますが、それが単に偶然にすぎなかったのか、それとも意味のある偶然の一致であったのかは、最後まではっきりとしないというのが正直な感想ではないでしょうか。


河合隼雄氏によれば、ユング心理学を日本に紹介するにあたって、心理療法の手法に共時的現象(シンクロ二シティ)を導入することが、科学的ではなく、オカルト的と受け取られてしまうことへの強いためらいがあったということです。

しかしながら、ユング心理学では目の前の現象を理解する方法としてコンステレーションを読むことがたいへん重要であるため、意味のある偶然の一致という一見オカルト的な共時的現象(シンクロ二シティ)が学問体系の中に組み込まれていくことになります。


かようなご縁もあってか、その後は河合隼雄氏の著書を愛読することになったわけでしたが、残念なことに氏は2007年7月にご逝去されます。


氏が文化庁長官在任中に病に倒れられるきっかけとなった高松塚古墳に纏わる文化庁の一連の経緯には、古代史をこよなく愛する者として大変心痛むものがありました。

氏のユング心理学の枠を超えた偉大な功績に心から感謝するとともに、ご冥福をお祈りします。


そして、河合隼雄氏がご逝去された同じ年の夏に、私の記憶からいったんは遠ざかっていたもう一つのコンステレーションが、再び私の記憶に蘇えってくることになります。


オメガのコンステレーションです。

オメガのコンステレーションとはようやくご縁があってか、その年の秋に少し無理をしてやっと購入することができました。


コンステレーションという言葉には、ユング心理学の全体像を読む意味の「布置」以外にも、天体の星座の意味があります。


オメガのコレクションのひとつのコンステレーションは、この天体の星座をモチーフとしてデザインされた腕時計といえます。


時計の裏に刻印されグリニッジ天文台のイラストは、まるでオメガのコンステレーションが時計の標準であることを主張しているかのようです。


私にとってのコンステレーションは、ユング心理学の専門用語であるとともに、オメガの時計のコレクションの名称でもあったということです。


そして、私と二つのコンステレーションとの出会いが、そもそも意味のある偶然の一致とするのなら、それは科学ではなく、やはり文学(ロマン)ということになってしまうのかもしれません。


つまり、二つのコンステレーションとの出会いは、私が描いた(創造した)物語ということであって、私だけのリアリティ(現実)ということになるということです。


しかしながら、二つのコンステレーションの物語は、その後私が生きていくうえでとても重要な意味と価値を与えてくれることになりました。


私にとってのコンステレーションは、腕時計の名称であるとともに、天体の星座であって、ユング心理学の専門用語でもある、そしてなによりもこれら全体を含んだ「布置」になっているということです。


おそらく、意味のある偶然の一致という一見オカルト的と思えるような不思議な現象は、誰にでも身近なところで起こっていることかもしれません。


ただ、そのような不思議な現象に出くわしても、それにどのような意味と価値を見出すかは別なことで、それを読み解くためには少し異なった視点が必要とされると思われます。


つまり、意味のある偶然の一致をオカルト体験で済ませてしまうのではなく、そこに意味と価値を見出すためには、外部に開かれた態度(オープンマインド)で臨むことが必要になるということです。

コンステレーションを読むとは、外部に開かれた態度(オープンマインド)で、目の前の現象に潜んでいる関係性や法則性を見つけ出す作業ではないかと思われます。


そして、開かれた態度(オープンマインド)で臨むということが、自分の思考のフレームワークを柔軟にし、自分が見える風景(自分の視点)の位相を変えてしまうことになります。


例えば、「コンステレーション」の全体像を読む(把握する)ということと、夜空を見上げて星座を探し出すということとは、どちらも「物語」を語るという点では似た関係にあると思われます。

ユング心理学とオメガの腕時計、心理学の布置と天体の星座、そして2007年の離別と再生という、私にとっての意味のある偶然の一致が私自身のコンステレーション(物語)を形成していたということになりそうです。


そして、2007年の離別は先にも記述しましたユング心理学者の河合隼雄氏のご逝去のことですが、では私にとっての2007年の再生とは何であったのか。

私事ながら、離別と再生の意味のある偶然の一致があった2007年は、私にとって結婚15年目という有難い節目の年(再生)でもあったということです。


従って、オメガのコンステレーションは、水晶婚の記念(15年目)として購入した腕時計ということになります。


オメガのコンステレーションは、決して廉価な時計ではなく気軽に買えるものではないため、正直なところ無理して購入したという経過はありました。


しかしながら、結婚生活15年間を振り返って、家庭という新たな共同性を構築し継続できた「奇跡」とも言える営為に対して、等価交換の報いはありえず、放蕩という手段(贈与)でしか対処できなかったということになります。


そして、オメガのコンステレーションは身に着けていると、ささやかながらも自分に自信を与えてくれる貴重なツールであり、ちょっとした自信などはブランド(象徴的価値)に頼るのが適当かもしれません。


そして、結婚や水晶婚だけではなく、どのような「記念日」でも、ただ有ったことを追認する「記念」ではなく、有り難いことを「祈念」するという意味も含まれているような気がします。


では、結婚、そして家庭と言う営為について私なりに少し考察を試みてみることにします。


昭和ロマン風になってしまいますが。(笑)

そもそも、結婚は、共時的現象(シンクロ二シティ)という意味のある偶然の一致から始まる、一見オカルト的ともいえる類いのものではないかと思われます。


つまり、偶然の一致にすぎなかった男女の出会いが、やがて結婚という営為に至ることで、そこに新たな意味と価値が付与され、家庭という共同性にまで変換(昇華)されていくということです。


むろん、現代社会では、未婚率や離婚率の上昇にみられるように、結婚という営為を取り巻く環境がとても厳しいものになってきていることもまた事実です。


しかしながら、男女の出会いが結婚に至るためには、意味のある偶然の一致を感受できるような「開かれた姿勢(オープンマインド)」が必要になってくると思われます。


ここで言う意味のある偶然の一致は、ヒーリングで言う「Here&Now」や茶の湯で言う「一期一会」の感受性に似ているかもしれません。

そして、意味のある偶然の一致というと、一見未来完了形の本末転倒な芸当の印象を受けますが、実際には現在進行形で逐次創り上げて行く遂行的(パフォーマティブ)なものでしかありません。

つまり、意味のある偶然の一致には、その始まりにも、また未来から振り返っても、その時点にはあらかじめ決まった答えは存在していないということです。

したがって、開かれた姿勢(オープンマインド)で意味のある偶然の一致を感受し遂行して結婚に至ったとしても、今度はその結婚(家庭)をいかに維持していくかが次の遂行(パフォーマティブ)ということになります。

言うまでもなく、結婚とは異質な感覚と文化を持った人間同士が生活空間を共有し、新たな価値を創造していく極めて困難な営為のことです。

このため、それぞれが自分のレディメイドな伝統(形式)だけにこだわっていては、結婚(家庭)生活を維持していくことは困難になってしまいます。


つまり、月並みな言い方になりますが、結婚はゴールではなく、新たな家庭(共同性)を構築するためのスタート地点に立つことでしかないということです。


また、結婚は不断の努力と忍耐によってやっと維持できるもので、少しでも努力と忍耐を怠れば、家庭(共同性)はいとも簡単に崩れ去る砂上の楼閣でしかないということです。


したがって、家庭(共同性)を営む構成員は、自分と家庭を取り巻く全体像の「コンステレーション(布置)を読む」という作業が常に求められることになります。


そして、「コンステレーション(布置)を読む」ためのスキルと能力は、家庭(共同性)全体をメタレベルから俯瞰する視点の保持と、メタレベルの視点から見える自分の位置を常に確認し、その役割と責任を適切に果たして行くということになります。

つまり、夜空の「星座」を見失わないためには、それぞれの構成員が「コンステレーション(布置)を読む」作業を絶えず繰り返していく必要があるということです。


私事ながら、結婚(1年目)と水晶婚(15年目)の時間を繋いできたものは、家庭(共同性)というシステム(体系)でした。

家庭(共同性)がシステム(体系)であったからこそ、その場所や構成員が暫時更新されても、家庭(イエ)というフレーム(枠組み)は存続してきたことになります。


つまり、家庭(共同性)とは、男女の出会いという意味のある偶然の一致によって始まり、それぞれが「コンステレーションを読み続ける」ことによって維持される、「イエ」というフレーム(枠組み)を伴ったシステム(体系)のことではないでしょうか。

家庭(共同性)は、世の中で一番小さな社会と言われることがあります。

そして、家庭や会社などの中間共同性の集合体が、社会(国家)ということになると思われます。

社会学では、共同性の最大の目的は「存続」することにあるとされています。

したがって、家庭(共同性)というシステム(体系)の持つ最大の目的もまた「存続」することにあると思われます。


ただ、万物が流転していくように、家庭(共同性)というシステム(体系)の持つ意味と価値もやがては移り変わって行くことになります。

家庭(共同性)というシステム(体系)は、場所や構成員は暫時更新しても、「イエ」というフレーム(枠組み)だけはそのまま存続していくということでした。

では、「イエ」というフレーム(枠組み)だけが存続するとしたら、家庭(共同性)というシステム(体系)で生成された新たな意味と価値は失われてしまうのでしょうか。

おそらく、生成された新たな意味と価値は、やがて家庭(共同性)というシステム(体系)の一番コアな部分にそっと留め置かれて、やがて新たな家庭の伝統(レディメイド)に蓄積されていくことになると思われます。


家庭(共同性)とは、ただ今あるものを継承していくだけの場ではないと思われます。

意味のある偶然の一致から始まった物語の創造を繰り返しながら、その中にあってもなお淘汰されずに残る形式(法則)を大切な伝統(レディメイド)として位置づけて継承していくことが、家庭(共同性)にとってもうひとつの大きな目的になるのではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。


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by kokokara-message | 2014-12-11 22:50 | 我流心理学 | Trackback | Comments(0)

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加藤諦三氏の著書には、「きずな喪失症候群」と呼ばれる人たちが描かれています。

また、加藤諦三氏の著書には、「燃え尽き症候群」と呼ばれる人たちも描かれています。

そして、加藤諦三氏によると、両類型の関係性は「きずな喪失症候群」の人たちが愛情と承認を欲求し、「燃え尽き症候群」の人たちにしがみつく(執着する)という構図にあるようです。

加藤諦三氏によると、「きずな喪失症候群」の人たちが愛情と承認を欲求するのは、愛情飢餓感が強いためとされています。

また、「きずな喪失症候群」が欲求する愛情や承認のレベルは、母子密着の癒合関係のような全人格的な包摂にまで達するものとされています。

おそらく、このような無謀な欲求を受け入れられるのは、身内であるか、あるいは訓練を受けた専門家だけになるのではないでしょうか。

結局、周りにいる素人たちは、「きずな喪失症候群」に右往左往させられて、疲れ切ってしまうということになるのではないでしょうか。

ただし、「きずな喪失症候群」の特徴の一途さ(執拗さ)が、特殊な才能として受け止められることもあるようです。

例えば、ジョンレノンや尾崎豊などのような、きらめくような才能がそうではないでしょうか。

しかしながら、ほとんどの「きずな喪失症候群」の人たちは、このように認識される才能は持ち合わせてはいません。

従って、「きずな喪失症候群」の思い込みの激しさや節度を欠いた言動などは、無根拠な幼児的万能感として社会から排除されることになってしまうわけです。

例えば、一時マスコミを騒がせた沢尻エリカさんの言動などがそれにあたるのではないでしょうか。

また、「きずな喪失症候群」の人たちが社会に対して要求する報酬(昇進や昇格など)も、自らの社会貢献に対する妥当で客観的な自己評価にはなっていないということです。

どちらかといえば、自らの心の暗闇(トラウマ)を埋め合わせるために欲求する、無根拠で空洞化した自己評価ということになるのではないでしょうか。

ところで、「きずな喪失症候群」がしがみつく対象は「燃え尽き症候群」と呼ばれる人たちです。

もちろん、「燃え尽き症候群」と呼ばれる人たちは、もともと燃え尽きていたわけではありません。

「きずな喪失症候群」の人たちと関係性を持ってしまったため、燃え尽きてしまった(疲れ果ててしまった)ということになります。

では、「燃え尽き症候群」と呼ばれる人たちが、燃え尽きないための方策はあるのでしょうか。

同語反復になってしまいますが、、燃え尽きないための唯一の方策は、おそらく「きずな喪失症候群」の人たちに近づかないということになると思われます。

つまり、関わらないということですね。

ここまで読まれた方なら、もうお気づきかもしれません。

加藤諦三氏は、愛情飢餓感の強い人たちを「きずな喪失症候群」と呼んでいますが、おそらく、加藤諦三氏は、ボーダーライン(境界型人格障害)の人たちを想定しているものと思われます。

そして、一方で「きずな喪失症候群」の人たちがしがみつく対象を「燃え尽き症候群」と呼んでいますが、おそらく、加藤諦三氏は、神経症と呼ばれる人たちを想定しているものと思われます。

ここで留意すべきことは、加藤諦三氏が「燃え尽き症候群」と呼んでいる人たちは、神経症と診断された人たちだけのことを指しているのではないということです。

つまり、(不安)神経症のチェック項目の多くが日本人の典型的な性格と重なるように、(不安)神経症的な症状は、日本人の性格の中にもともと組み込まれた典型的な反応や傾向ということになっているからです。

日本人であれば、少なからず神経症的傾向があるということかもしれません。

ところで、社会学的には、個人は近代自我によって生成されるものとされています。

つまり、自律した個人とは、他者との関係性(距離感)の中から生成されてくるということになります。

ご存知のように、日本人は欧米人に比べると自我が脆弱とされてきました。

これは、日本人が自他の境界があいまいな文化の中から生成されるためであり、自他の区分が明確な文化の中から生成される欧米人とは他者との関係性(距離感)が正反対になっていることが原因になります。

つまり、日本人は自他の間が明確である(距離感がある)と不安や孤独を感じる傾向にありますが、欧米人は自他の区分が不明確である(距離感があいまい)と不安や不自由さを感じる傾向にあるようです。

一般論として、欧米人は自他の区分を明確にすることにより、孤独と孤立に強い近代自我を獲得することができたと考えられます。

そして、このことには一神教であるキリスト教が大きく関与していることを見逃してはならないと思われます。

ところで、最近では欧米人だけではなく、中国人についてもその自我の強さが指摘されるようになりました。

養老孟司氏によれば、中国という国は、アメリカ合衆国の数百年後の姿であるという分析をなされています。

つまり、中国という国は、アメリカ合衆国以上に個人主義の進んだ、ある意味個人主義のなれの果て(利己主義)の国ということになるのかもしれません。

実際に、中国人と話しをした経験のある方なら、少なからずその自己主張の強さ(厚かましさ)に驚愕するのではないでしょうか。

しかしながら、このような利己主義ともいえる自己主張の強さ(厚かましさ)も、養老孟司氏の分析に従えば、中国の悠久の歴史と爛熟した文化がもたらさした個人主義のなれの果てになるということです。

閑話休題。
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「きずな喪失症候群」とは、愛情飢餓感が強く母子密着の癒合関係を欲求する(執着する)人たちのことを指す言葉です。

これゆえ、「きずな喪失症候群」の人たちは、先に記述した中国人の事例と同様に、その欲求を通すために厚かましい自己主張を繰り返すことが指摘されています。

ただし、「きずな喪失症候群」の自己主張(厚かましさ)は、欧米人や中国人の自己主張のような、自他の区分を明確にした強固な近代自我をベースとした個人主義に由来するものではないということです。

むしろ、個人主義とは正反対の方向にある、母子密着のような癒合関係(同化)を欲求する自己主張ということになり、孤独や孤立に極めて弱い脆弱な自我を持った人たちでもあるということです。

個人主義の自己主張であれば自己完結的に収束していくことになりますが、欠如感の充足を外部に依存する「きずな喪失症候群」の自己主張は、収束することなく際限なく続いていくことになります。

この収束することなく際限なく続く自己主張(欲求)が「きずな喪失症候群」の一番の特徴でもあり、だからこそこれに関わった人たちは疲れ切ってしまうことになるわけです。

先ほど、一般論として日本人の自我が脆弱であるということを指摘しました。

つまり、日本人は他者から同化されやすい脆弱な自我を持ってしまったということであり、このことは誰もが「燃え尽き症候群」になる可能性を持っているということにもなります。

そして、日本人の持つこのパーソナリティが、「燃え尽き症候群」のみならず、「きずな喪失症候群」の原因にもなっていると推測するならば、日本人のボーダーラインと神経症は同根の関係にあるといえるのかもしれません。

日本は、母系社会といわれています。

日本人は、少なからず母子密着の癒合関係を志向しているところがあるといえるのかもしれません。

従って、日本人のパーソナリティからすれば、母子密着(マザコン)の度合いの違いが、結果的に「燃え尽き症候群」と「きずな喪失症候群」」に分岐点するということであるのかもしれません。

仮説ですが、幼少時に母子分離ができた人、つまり愛情と承認、その結果としての冒険を経験することができた人は、過度に母子密着関係を欲望しなくなり、やがて他者との関係性(距離感)も適正に維持できるようになると言えるのかもしれません。

逆に、これも仮説ですが、幼少時に母子分離ができないまま、つまり愛情と承認、その結果としての冒険を経験することができなかった人は、大人になってからも母子密着関係を欲望することになり、その結果母性的な全人格的包摂という癒合関係を他者に対し欲求することになってしまうのかもしれません。

従って、日本人である自分のパーソナリティが「燃え尽き症候群」予備軍でしかないと自覚できたのなら、脆弱な自我では背負うことができない荷物とは、きっぱりと距離を採る覚悟を決めることが肝要と思われます。

日本には古くから、安分以養福(分をわきまえていれば、禍は遠のき、幸せを養生する)という言葉があります。

日本の社会では、古来より身の丈を知った振る舞い(地道であること)こそが幸を引き寄せる最良の方法とされきたところがあり、これを反対から見れば、身の丈を知った振る舞いこそが降りかかる火の粉を避けて通るための最良の方法であったということになるのではないでしょうか。

自分が「燃え尽き症候群」予備軍であると自覚できたのなら、決して「きずな喪失症候群」には近づかない、関わらないことを覚悟することです。

身内でもなく、専門家(精神科医)でもないのなら、このような選択も当然社会的に容認されることであると思われます。

繰り返しになりますが、「きずな喪失症候群」の人たちが求める愛情や承認の欲求には際限がありません。

底なしです。

底なしの愛情や承認の欲求に関わるということは、餓えた野良犬に丹精込めて焼いたビスケットの欠片を一枚だけ与えるようなものです。

焼け石に水でしかありません。

また、精神科医ラカンには、「欲望は欲望に欲望する」という有名な言葉があります。

つまり、自己コントロールができない(ブレーキがきかない)状態のクライアントの欲望(アクセル)を開放すれば、クライアントの欲望は実体を離れて幻想化され、欲望(幻想)は際限なく肥大化していくということのようです。

「きずな喪失症候群」の人たちが求める愛情や承認の欲求には際限がないということでした。

このことからすると、「きずな喪失症候群」の人たちの欲望は、まさに実体を離れ幻想化された欲望ということになり、これは際限なく肥大化していく欲望(幻想)ということになります。

あくまで自分は自我の脆弱な日本人であると自覚し、決して底なしの欲望には近づかないと覚悟することが、「きずな喪失症候群」に対する最も適切なアプローチといえるのかもしれません。

先ほど、中国人は自己主張が強い(厚かましい)ということを記述しました。

そして、これは悠久の歴史と文化に培われた個人主義に由来するものであるということも記述しました。

一見すると、中国人の自己主張((厚かましさ)は、「きずな喪失症候群」の熱く一途な自己主張(厚かましさ)と類似しているところがあるため、同じものように受け止められることがあるようです。

このため、日本文化圏では排除されてしまう言動や行動の厚かましさも、中国文化圏では受容されることがあるように思われます。

実際に、「きずな喪失症候群」の人たちが、排除されていると感じる(孤立感を抱く)日本文化圏よりも、むしろ受容されていると感じる機会が多い中国文化圏の方に親近感を抱くこともやむを得ないのかもしれません。

このことからすると、「きずな喪失症候群」という人たちの存在、つまりボーダーライン(境界型人格障害)という疾病そのものが、環境や文化に依拠した概念(分類)になるということかもしれません。

例えば、日本でボーダーライン(境界型人格障害)と診断された人であっても、欧米文化圏や中国文化圏の精神科に受診すれば、ボーダーライン(境界型人格障害)とは診断さされず、至極適正な範囲にあると診断されると聞きます。

ただ、先にも述べたとおり、個人主義とボーダーライン(境界型人格障害)では、自己主張の強さ(厚かましさ)に類似性が見られるものの、その自己主張の強さ(厚かましさ)の根拠になる精神構造(自我の構造)のあり方は全く正反対になっているということです。

つまり、個人主義では自我が過度に硬固なため合理性があるとなれば自己完結型の強い自己主張(正義)を繰り返すことになりますが、ボーダーラインでは自我が脆弱過ぎるためその欠如感を埋め合わす目的で際限のない自己主張(自己満足)を繰り返すことになるわけです。

おそらく、今後とも日本人の精神構造(自我の構造)が急激に変化するとは考えられず、その結果としての日本人のパーソナリティも大きく変わるということは、おそらくないと思われます。

逆に、資本主義の徹底化や新自由主義の方向性は個人の欲望の開放をその原資としているため、社会的には「きずな喪失症候群」、つまりボーダーラインが生まれやすい環境になっていくことが予想されます。

おそらく、日本社会全体に占めるボーダーラインの割合は、ますます増加していく傾向にあるのではないでしょうか。

元来、日本の文化や共同性(コミュニティ)のあり方は、日本人の脆弱な自我を基盤として形成されてきたものであり、つまりは微妙なバランス感覚の上に構築された不安定な社会構造を反映したものになっているということです。

従って、社会全体に占める「きずな喪失症候群」の割合が今後増加していくことになれば、今ある日本の文化や共同性(コミュニティ))の基盤そのものが、根底から崩れ去ってしますこともあるのかもしれません。

先に、日本には、古くから「安分以養福」という言葉があるということを説明しました。

そして、このような日本の文化や共同性(コミュニティ)の中に組み込まれた先人の叡智を徹底させることが、「きずな喪失症候群」に対する有力な戦略になるのではないでしょうか。

つまり、分をわきまえた、身の丈を知った節度のある振る舞いこそが、伝統的な日本人の採るべき態度であり、このことが自分の身を守るための手段であったわけです。

日本人が、それぞれの分(役割)をわきまえた適切な行動を徹底させることができれば、日本の文化や共同性(コミュニティ)の基盤の崩壊を防ぐ(先送り)することもできるかもしれず、また日本人の精神構造の微妙なバランスを今後とも維持し続けることが可能になるかもしれません。

従って、専門的な訓練や経験を積んだ者以外は決して関わらない、それ以外の者は自分の無能さ、非力さ(脆弱な自我を持った日本人であること)を謙虚に受け止めることが、「きずな喪失症候群」の欲求を肥大化させない唯一の方法になるのではないでしょうか。

つまるところは、糧(欲望)を与えない、そのためには不必要な関わりは持たない、距離をとるということが、「きずな喪失症候群」に対する唯一効果的なアプローチになるということです。

最後になりました。

では、糧(欲望)を与えない、近づかない、関わらないことを続けたならば、果たして「きずな喪失症候群」の人たちはどのようになっていくのでしょうか。

私は、やがて、消えてなくなると予測しています。

むろん、長期間にわたるストイックな環境に耐えて、欲望の自己コントロールができるようになればの話しですが・・・。

(おわり)
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by kokokara-message | 2013-11-30 22:06 | 我流心理学 | Trackback | Comments(0)

他者と秘密(8)

ホノルル市庁舎(ホノルル・ハレ)周辺のガレージでも、ホノルル・シティライツのイルミネーションが華やかに輝いています。
ホノルル市庁舎(ホノルル・ハレ)が、一年で一番にぎやかになる瞬間といえそうです。
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このように、自分の内部にも、外部にも、他者をもたなくなった個人は、ますます自足感を深めていくことになり、自分の中の欠落部分にさえ気づくことがなくなってしまいます。

たとえ、自分の欠落部分に気づいたとしても、もはや外部からの働きかけはなく、自分の欠落部分を補うためのモチベーションも起動しなくなってしまいます。

つまり、一度外部を喪失してしまった個人は、ますます癒合(アモルフォス)を深め、自足感を強めるという自縛の構造に置かれてしまうことになります。

これに対して、自分の内部の異質な他者に自覚的であということは、自分の内部(脳)の無意識と折り合いがとれている状態にあるということになります。

つまり、自分の内部(脳)の多様性に気づくということであり、このような気づきがなければ、多様な自己を統合し、制御することもできなくなってしまうのではないでしょうか。

また、自分の外部の異質な他者(差異)に自覚的であるということは、同質社会にありながらも、外部からの視点が保持できているということであり、同質社会の行動様式(エトス)を客観的に観察することができるということです。

つまり、自分と他者との差異に気づくということになり、このような気づきがなければ、他者だけではなく自分に対する興味や関心さえも失ってしまうことになるのではないでしょうか。

このことから、自分の内外から他者がなくなることは、同質(同じ)であることが自分の存在理由になってしまうということになるということです。

そして、他者との横並びと相互参照以外には他者への興味や関心はなくなり、また他者と同じである自分にしか興味や関心を示さなくなってしまうということになります。

では、自分の内外に他者を持つことによって、いったい何が見えてくるのでしょうか。

おそらく、他者の存在が、自分が何者であるかを知る手がかりを与えてくれるものではないかと思われます。

つまり、自分が何者であるかを知ることが、アイデンティティを保持することでもあります。

そして、他者(異質性)の相対化によって、初めて自分のアイデンティティ(自己同一性)は明確になるということになります。

自分のアイデンティティ(自己同一性)が確認できれば、自分の内部の多様な価値観や美意識を冷静に観察することが可能となり、自分の内部の不一致に気づくことも可能となります。

さらに、保持したアイデンティティは、自己を分裂していく方向ではなく、むしろ統合していく方向に働くことになるということです。

つまり、自分の中で複雑に絡まりあったコンプレックス(複合心理)状態が、徐々にほぐされて、それでも余りあるものは折り合いをつけながら共生することになります。

むろん、自分の内外に他者を持つことは負荷であり、現実と理想の埋めがたい欠落感(差異)に悩まされる原因にもなります。

しかしながら、このような欠落感(差異)こそが、理想を実現するモチベーションとなり、その落差を埋めることが自分自身の価値を創造することになると思われます。

つまり、欠落感(差異)こそが価値の源泉となり、差異によって創造される価値が、その時点における(とりあえずの)自分の存在理由(意味)ということになるのではないでしょうか。

蛇足ながら付け加えれば、労働価値説は労働そのものに(実体的な)価値があるとみなす考え方ですが、ここでは(関係性である)差異から生み出された価値こそが労働の意味そのものととらえる考え方になっています。

要するに、労働価値説とは正反対からの発想ということですね。

このように自分の内外に多様な他者を持ち、その差異から生成されてくる多様な個人が、複雑極まりない現代社会の中で、異質で理解しがたい他者とも共生できる意思と能力、そして対話力(コミュニケーション)を保持できるものと考えているのですが、さていかがでしょうか。

最後になりました。

自分の内外に他者(差異)を持つことがない、つまり平板な横並と相互参照による多数派形成が唯一の生存戦力上の行動原理になった大衆社会とは、全く顔の見えない(千と千尋の神隠しの「かおなし」のような)社会ということになります。

つまり、全体がどこに向かって流れているのか、そして自分がどっちを向いているのか、また誰が自分の味方であって、自分の敵は誰であるのか、このことさえも見えなくなってしまい混沌とした状況が、現代の大衆社会の姿ではないでしょうか。

かのような大衆社会にあっても、右肩上がりの経済社会情勢にあれば、多くの矛盾は経済力で覆い隠され、問題が先送りにされることもできたのかもしれません。

しかしながら、現代のように経済が右肩下がりの人口が減少する縮小社会では、社会全体の地滑り現象と自分の足場の崩壊がシンクロ(同調)しながら進行する状況にあるといえそうです。

従って、社会全体と自分の足場の崩壊が相関していることに自覚的であらねば、やがて自分の足場がなくなってから、なくなったことに気づくという事態にもなりかねません。

また、自分に与えられた役割は何であり、何を目指すのかは知っておかないと、自分の足場が崩れていくだけでは済まず、自らが自らの足場を崩すという自己処罰や自殺行為ともとれる見当違いの事態にもなりかねません。

さらに、急速に縮小(崩壊)していく社会では、自分が生き延びるためのニッチ(棲家)さえも確保できないような状況は頻繁に起こってくるということです。

この論考では、他者と秘密をキーワードとしながら、私が感じている統合失調状態ともとれる大衆社会の狂気を暗喩(メタファー)として取り上げてきました。

そして、大衆社会の一番の狂気とは、かような統合失調状態にありながら、誰もそのことに気づいていない、たとえ気がついても気づかないふりをする行動様式(エトス)にあるのではないでしょうか。

ただ一筋の光明は、狂気にある人でも、社会的な危機が高まるとともに、正気に戻ることがあると聞きます。

統合失調状態ともとれるような大衆社会が、将来の避けがたいクライシスを眼前にして、少しでも正気を取り戻すことをただ祈るだけといえます。

では、このような大衆社会を、私たちはいかにして生き延びればいいのでしょうか。

おそらく、一度病んでしまった社会は、一時的な寛解はあっても、その趨勢としては後戻りすることはなく、不可逆的に病状が悪化していくということになるのではないでしょうか。

最後の最後は、生き延びるために「自分の身は自分で守る」と一日でも早く覚悟を決めるしかないと考えているのですが、さて皆様はいかがお考えでしょうか。

《おわり》

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by kokokara-message | 2010-12-02 23:05 | 我流心理学 | Trackback | Comments(0)

トリックスター(2)

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トリックスターには、親の庇護というセーフティネットの存在が大きく関わっているといえそうです。

トリックスターとは、精神的に未成熟な子どもということでした。

つまり、親というセーフティネットがあれば、未成熟な子どもも、独りでもファンタジーの世界を存分に楽しむことができます。

そして、未成熟な子どもが引き起こす幼児的万能感や自己顕示欲も、親によって無邪気な子どもの「遊び」として見守られることになるわけです。

しかしながら、親の庇護がないと、未成熟な子どもの幼児的万能感や自己顕示欲は、社会的不適応なパーソナリティとして認知されてしまうことにもなりかねません。

つまり、子どもがファンタジーの世界のを楽しむためには、親(あるいはそれに替わる者)の庇護という安全圏が必要になるということです。

そして、このようなセーフティネット(安全圏)があるからこそ、冒険を終えた子どもは、安心して自今が仕出かした事の顛末を省みるということもできるのではないでしょうか。

セーフティネット(安全圏)を持つことができた人は、安全に冒険を楽しみながら、自分の世界を広げていくことができるということになります。

一方、セーフティネット(安全圏)を持つことができなかった人は、危険な冒険であるがゆえに、自分の世界を狭めてしまうことになりかねません。

トリックスターは、未成熟な子どもがそのまま大人になったということでした。

つまり、トリックスターとは、自分の世界を広げる経験ができなかった人であり、もともとセーフティネット(安全圏)を持っていなかったのか、あるいは失ってしまった人ということになるのではないでしょうか。

人が成長していくためには、セーフティネット(親の庇護)の存在は絶大なものがあり、なくてはならない前提条件といえるのではないでしょうか。

そして、このようなセーフティネット(安全圏)を確保しつつ経験を積んでいくことで、やがて人は成熟することになるのではないでしょうか。

ところで、トリックスターの行為行動の特徴として、悪意や悪事をあげることができます。

また、トリックスターは、いたずらものでもあります。

では、トリックスターが行ういたずらに、悪意や悪事という自覚はあるのでしょうか。

おそらく、トリックスターには、自らが悪意や悪事を働いているという自覚はないように思われます。

もともと、トリックスターは経験が未熟であるため、善や悪、また正や邪という道徳的な基準が曖昧である場合が多く、状況次第でモラルの基準を変えていくところがあるようです。

つまり、トリックスターは、一定の決まったモラルから、自律的な自己制御をしているわけではないということです。

むしろ、トリックスターは、憐憫や悲哀や激昂や激怒というような一時的な感情から行動を起こすことが多く、自律的というより他律性(依存性)な側面が強いといえそうです。

また、トリックスターは、自らの打算(欲得)と一致すれば、理解不能な他者であっても容易に同調することはあるようです。

トリックスターの依存的で、自らの欲望を優先させる姿勢は、他者との良好な関係性を構築するには障壁が高く、自他の関係性も不安定なものになり、やがて空洞化することになってしまうようです。

トリックスターの交友関係が荒いものであったり、仕事や職場を転々としていく様は、他者や社会との親和的な関係性が構築できないことを表象しているのかもしれません。

このように、トリックスターは、自分の感情(自尊心)や利得(打算)の根源である「欲望」を優先させることが行動様式(エトス)となっています。

また、トリックスターは、依存的であるうえ、打算的でもあるため、より悪意のある他者が出現すれば、その悪意に翻弄されてしまうことになりかねません。

つまり、自分よりタフな幼児的万能感や自己顕示欲を保持した他者と対峙すると、相対的劣位におかれることとなり、欲望を放埓する側ではなく、むしろ欲望に奉仕する側に回ってしまうということです。

弱肉強食といえる現代社会においては、闘うための技術や武器を持っていることは必須条件といえます。

しかしながら、未熟な経験しかできなかったトリックスターは、それらの技術や武器を十分に持ち合わせているとはいえず、どちらかといえば無防備な状態にあるといえそうです。

つまり、トリックスターの常識(技術や武器)のなさが、その周りにいる大人たちを困らせる原因となっていたのですが、逆に悪意のある他者からすると、その非常識(無防備さ)は自らの欲望を誘発する原因として映ってしまうわけです。

要するに、タフな幼児的万能感や自己顕示欲という「欲望」は、より無防備な「欲望」をターゲットとして欲することとなり、より悪意のある他者の「欲望」は、未熟で制御のきかない子どもの「欲望」を利用し、搾取するということになります。

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by kokokara-message | 2010-10-26 22:58 | 我流心理学 | Trackback | Comments(0)

トリックスター(1)

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皆さんは、悪意や悪事についての予感がしたということはないでしょうか。

それは、必ずしも自分自身に向けられたものとは限りません。

周りの誰かに向けられたものかもしれませんし、そもそも誰に向けられたのか、はっきりとしないものであるのかもしれません。

何かよくないことが起こるかもしれないという予感や予期は、自分を取り巻く環境の変化、つまり、秩序が崩れてしまうことへの不安の表われといえるのではないでしょうか。

そして、それは今ある秩序を改変してしまうような、トリックスターの出現を意味しているといえるのではないでしょうか。

では、トリックスターとは、一体誰のことでしょうか。

一時、六本木ヒルズの寵児であった頃のホリエモンが、経済界の人たちからはトリックスターと呼ばれていたことがあったようです。

また、少しローカルな話になりますが、時代を先取りしているかのような某知事の言動などは、やがてトリックスターと呼ばれることになってしまうのかもしれません。

トリックスターとは、一般に子どもとされています。

これは、生物学的な意味における子どもということではなく、たとえ社会的地位を築いているような場合でも、精神的にはまだ未成熟ということであれば、やはり子どもということになってしまうのではないでしょうか。

そして、精神的に未成熟な子どもの示す行為行動の特徴とは、幼児的万能感と自己顕示欲ということができそうです。

たとえが古くなってしまいますが、ウルトラマンや仮面ライダーなどは、私たちの子どもの頃のヒーローであり、まさに子どもの幼児的万能感と自己顕示欲を象徴するような存在といえました。

ただ、このようなフィクションやファンタジーの世界観を、もし自分の生きている現実の中にそのまま適用することになったとしたら、さて、どうなってしまうのでしょうか。

おそらく、現実の中の秩序は大きく乱れ、周りは混乱することになってしまうと思われます。

また、子どもの未成熟(幼児的万能感と自己顕示欲)が、時折子どもの持つ個性(才能)として社会から評価されることがあるようです。

一風変わった芸能人や芸術家などの言動が、一時的にせよ社会から賞賛されるという例は珍しいことではないと思われます。

しかしながら、子どもが採る幼児的万能感と自己顕示欲とは、そもそも他者(社会)とのつながりを築くうえではあまりにも高い障壁となっているということができそうです。

今ある秩序を乱し、周りをかく乱するという意味から、ネガティブな評価がなされてしまうということが多いのではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-10-25 22:14 | 我流心理学 | Trackback | Comments(0)

他者と秘密(7)

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では、自己の内部に異質な他者を持たない状態とはどういうことでしょうか。

自分の中の異質な他者とは、無意識のことであるという説明をしました。

従って、自分の内部に異質な他者、つまり無意識を持たない状態とは、自分自身がすべて自分自身の意識下におかれている状態ということになります。

このような状態は、実際にはありえないことといえるのではないでしょうか。

つまり、自己の仮説(モデル)によれば、自己全体から自我(意識)を除去したものが無意識ということになります。

従って、すべてが意識化されている状態とは、自己=自我(意識)ということになり、自分のこと、あるいは自他の関係性も含めたすべてが分かっているという、とても傲慢な態度ということになりそうです。

そして、このような状態になると、自己の内部にはもはや異質(差異)は存在しなくなって、すべてが自己同一性(アイデンティティ)に回収されることになるため、十全に安全や安心感を満喫することができそうです。

これは、自足状態と呼ばれるものではないでしょうか。

自足状態の揺らぎのない自信は、現実から遊離した無根拠な過信でしかなく、このため自己内部の同一性(同質性)についても幻想になってしまうのではないでしょうか。

そして、このような自足状態に陥ってしまうと、人はいとも簡単に、自己判断、自己判決、自己決定を下してしまうことになります。

つまり、自己判断、自己判決、自己決定は、未成熟な子供に見られる特徴的な行動様式であり、このような独善性は幼児的万能感からもたらされたものということができます。

従って、自己の内部に他者(無意識)を持たない人とは、自足状態にあって幼児的万能感を持った未熟な人ということになり、その振る舞いは、節度を伴った自由ではなく、好き勝手な放埓(ほうらつ)ということになってしまうのかもしれません。

では、自己の外部に異質な他者を持たない状態とはどういうことでしょうか。

同質であるという感覚や相対的多数の側にあるからもたらされる安心感や共感が、おそらく外部に異質な他者を持たない状態ということではないでしょうか。

そして、外部との横並びや相互参照をすることが、同質であることや相対的多数の側にあるための、なくてはならない行動様式ということになります。

相対的多数の側にあれば、同じであるという幻想をより強く持つことができるため、安心感や共感も強くなると思われますが、一方ではこのような幻想は自己の外部を喪失させてしまうことにもなってしまいます。

このような幻想が、癒合(アモルフォス)状態というものではないでしょうか。

そして、このような癒合(アモルフォス)状態に入ってしまうと、多数派形成だけが生き残るための唯一の生存戦略となってしまい、その中では、さらなる横並びと相互参照を繰り返すことで同質性を深化させていくことになってしまいます。

癒合(アモルフォス)による多数派であることは、同じという幻想をより強化させて、快感と安心感をもたらすことになるのかもしれません。

しかしながら、癒合(アモルフォス)の持つ本質とは、依存と束縛の両義的な関係ということになるのではないでしょうか。

つまり、癒合(アモルフォス)とは、依存と束縛の主客が明確にならない緊張関係にあることであり、このため内向化せざるを得なくなった癒合(アモルフォス)は、やがて外部を消滅させてしまうことになります。

癒合(アモルフォス)とは、内向化するダブルバインド(板ばさみ)状態ということであるのかもしれません。

おそらく、癒合(アモルフォス)の中は、外部を可視化することができない構造、つまり構造的無知の状態になっているといえるのかもしれません。

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by kokokara-message | 2010-09-25 22:31 | 我流心理学 | Trackback | Comments(0)

他者と秘密(6)

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また、自分の中の無意識は、自己コントロールができないことからすると、外部の他者と同様な存在ということになります。

従って、他者である無意識から攻撃を受けるということは、自分の中から湧き出てくるカオス(混沌)との暗闘ということになります。

そして、無意識からの攻撃にさらされていると、やがて個人の合理的な判断や行動は奪取されてしまうことになります。

つまり、実際の自分が置かれている文脈からは、到底説明がつかないような物語の中に投げ込まれてしまうことになってしまうわけです。

これが、自我(私)による自己コントロールを失った、幻聴や幻覚という無意識からの働きによって支配されてしまった状態といえるのではないでしょうか。

ところで、自分の秘密には、他者と同質化していることによる共感や安心感という側面と、秘密が漏洩してしまっているのではないかという恐怖の側面の両義性ということでした。

また、自分の中の他者である無意識の攻撃が強くなると、自分の自在感も喪失してしまうということでした。

つまり、自分の自在感がなくなった状態とは、自由に自己コントロールができない状態ということになります。

このような状態になると、自分は環境や他者に影響を及ぼすという主体ではなく、逆に環境や他者から操作される客体ということになってしまいます。

確かに、他者は、自他の曖昧性から同質化した癒合関係によって共感や安心感をもたらすことはありましす。

しかしながら、自我が弱体化し、他者から操作される客体になってしまうと、もはや他者は共感や安心感を与えてくれる存在ではなく、自分の秘密を聞き出し、自分の言動や行動を操作する存在になってしまうということです。

要するに、他者は、もはや自分とは同質な存在ではなく、自分を侵害する異質な存在ということになってしまうということです。

このような状態では、自分の秘密が他者から覗かれているという恐怖感は、ますます高じることになってしまうのではないでしょうか。

日本人は、自我(私)の希薄性が指摘されているところがあると思われます。

これは、個人のパーソナリティというよりも、日本の文化との関係から説明できるようにも思われます。

このため、自分の秘密が漏洩してしまうという恐怖は、日本人であるのなら、誰にでも起こりうる可能性のあることであり、必ずしも病的とまではいえないことであるのかもしれません。

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by kokokara-message | 2010-09-17 22:28 | 我流心理学 | Trackback | Comments(0)

他者と秘密(5)

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自分と他者の境界が曖昧となってしまっているという感覚は、おそらく自我が弱体化し始めていているという兆しであるかもしれません。

つまり、自我が自分の中の他者である無意識からの攻撃を受けて、疲れきった状態になっているということです。

このように自我が弱体化すると、実在する他者に、自分の秘密が漏洩してしまっているという感覚が生じ、その恐怖にさらされるということになるようです。

自我の弱体化とは、自己コントロールをする自我(私)の弱体化ということであり、つまり私の希薄化ということになります。

従って、私が希薄化するということは、アイデンティティ(自己同一性)が脆弱になるということであり、自他の区分が不明瞭なものになっていくということになるようです。

そして、自他の区分が不明瞭になると、聞こえてくる他者の声が、自分の中の無意識からのものなのか、外部に実在する他者の声であるのかさえ、分別することができなくなってしまうということにもなりかねません。

つまり、自分の秘密が他者に漏洩するという恐怖は、自分と他者の区別が曖昧になってしまっているということが原因であり、これは弱体化した自我(私)によって引き起こされた症状(現象)ということになるようです。

このことは、曖昧性を自然とする文化圏の持つ特徴といえるものであるのかもしれません。

このため、逆に他者と共感意識があるように感じられて、愛情や親近感を感じてしまうということもあるようです。

本来自分だけにあるはずの秘密が、他者との間でも共有できているものと感じてしまうことにもなってしまうということです。

「阿吽の呼吸」と呼ばれる感覚がありますが、この場合も特定の根拠はなく、同調できていると感じることが自然になってしまっているということになるのかもしれません。

要するに、同質な他者として感じることができる共感と、異質な他者から侵害されているという感覚は、一見正反対のようにも思えますが、ともに秘匿している秘密が他者に対して開かれている(知られている)ということでは共通の感覚ということができるのかもしれません。

つまり、安心安全の感覚と危機の感覚はいつも隣り合わせということであり、コインの表裏の関係にあるといえるのかもしれませんね。

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by kokokara-message | 2010-08-21 05:59 | 我流心理学 | Trackback | Comments(0)

他者と秘密(4)

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人の思考のフレームワークは、他者の思考のフレームワークに触れることによって更新されていくものということができます。

また、自我(私)が、自己コントロールすることができない自分の中の他者である、無意識の声を聞くことによって、よりバランスがとれた自己へと更新されていくこともあるといえます。

ただ、自分の中の他者である無意識からの働きかけが強すぎると、自我(私)が自己コントロール能力を失ってしまい、無意識という他者に支配されてしまうことがあるようです。

そして、無意識という他者に支配されてしまったうえで、コンプレックス状態(葛藤)が続くと、様々な症状が現れるということにもなってしまいます。

そのなかでも、やっかいな症状のひとつが、自分の秘密がすべて他者に知られてしまっているのではないか、という恐怖を抱くということです。

つまり、無意識という他者に支配されてしまうと、抑圧や反動形成などの症状が出現するだけではなく、自分の秘密が保てなくなってしまう、つまり自分の秘密が他者に漏洩してしまっているのではないかという不安を抱くようになってしまうということです。

つまり、秘密とはあくまでも自分だけが知っていることであり、他者が知っているはずのことではないからです。

もし、自分の秘密が漏洩してしまっていると感じるようなことがあるとすれば、それは本来自分と他者との間に存在しているはずの何かが、なくなってしまっていると感じていることになるのではないでしょうか。

つまり、秘密が人に漏洩してしまうということの意味は、自分と他者の区分が曖昧になってしまっているということであり、人との境界がなくなってしまっているということになるのではないでしょうか。

もともと自分と他者の境界には、排他的な意味においての、自分の身体という唯一無二の物理的な区分が存在しているということになります。

また、自分の意識においても、その意識を発生させる自分の脳という臓器の固有性、つまり唯一無二の物理的な区分が存在しているということになります。

このような明白な区分にもかかわらず、自分と他者の境界が曖昧となってしまっているという感覚が発生することがあるということです。

このような感覚の曖昧さが、自他の境界を越えて秘密が漏れてしまっているというような恐怖につながっているのではないでしょうか。

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by kokokara-message | 2010-08-18 22:12 | 我流心理学 | Trackback | Comments(0)