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トリクルダウンという言葉はご存知でしょうか。

大木からしたたり落ちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分として成長していくという、大木と草花の相互依存関係をあらわした資本主義の経済理論(仮説)とされています。

上方落語には、大阪船場を舞台とした「百年目」という落語があります。

この「百年目」という落語の中で、トリクルダウンが大阪船場の旦那と番頭の関係として、また番頭と丁稚の関係として描かれています。

そして、落語「百年目」の落ちは、人(労働者)と商売(経済)が元気であるためには、適度なトリクルダウン(露おろし)は必要になるということになります。

ただ厳しいだけでは、人も経済も活性化できない、適度な余裕や遊びが必要ということになるわけです。

これがトリクルダウンの経済理論(仮説)です。

また、大阪船場では、過剰な利益の収奪は卑怯な商法と見做され、節度ある利益の享受と社会貢献が持続的な商売の源泉になると信じらているようです。

「損して得とる」ということでしょうか。

したがって、「百年目」の舞台の大阪船場では、日常的に華しょくや浪費を不徳とする「世俗内禁欲」の習慣があったとされています。

これは、御堂(阿弥陀様)に囲まれた土地柄にも由来するものであって、商売の町船場の宗教的バックボーンを現す一例と言えるものかもしれません。

マックス・ウェバーが、資本主義の精神がプロテスタンティズムの倫理(世俗内禁欲)に由来すると指摘してたことと類似性があると言えそうです。

おそらく、近世から近代にかけての大阪船場は、日本では珍しい資本主義の精神が花開いた町ということになるのではないでしょうか。

資本主義の精神の起源に宗教的バックボーンがあるとすれば、一部の勝者だけを正義とする新自由主義的な考え方は、資本主義の精神からは程遠いものになるはずです。

しかしながら、いつの頃からか、資本主義の精神は自己利益だけを追求する競争原理として理解され、他者への寛容性のみならず自己への配慮も欠いた弱肉強食の経済活動が採られるようになってしまいました。

しかしながら、マクロ的に見ると、合理性や効率性だけで自己利益を追求するして行くと、一見社会全体の効用が最大化するように思われますが、実際はそれとは真逆で自分で自分の足場を崩す不安定な状態に陥ってしまうことがあります。

例えば社会全体の著しい経済格差やブラック企業の問題など。

とても不思議なことですが、経験的にはそのようになっています。

この二律背反する経済現象を一般化すると、資本主義の合理性や効率性はその純度を上げれば上げるほど、つまり資本主義システムを徹底すればするほど、資本主義システムそのものが不安定になるという真逆な関係性にあると言うことです。

したがって、資本主義が安定するためには、適度にその純度を押し下げる不純物(非合理性)、例えば賃金の硬直性や雇用の非弾力性、労働組合の存在といったものが必要になってくるということです。

このことを表した経済理論(仮説)としては、岩井克人氏の「不均衡動学」に関わる一連の著書が挙げられます。

閑話休題。

ではもう少しだけ、経済のお話しにお付き合いください。

ドラッカーの有名な経済タームに「選択と集中」があります。

得意(あるいは不得意)とする分野を明確にして、得意とする分野に経営資源を集中的に投下するという戦略です。

これからの日本は人口が減少し、国内消費が低迷する、つまり日本の価値(人やお金)が縮小していく混迷の時代に入ったと言うことができます。

ドラッカーの「選択と集中」の理論からすると、価値(人やお金)の拡大が見込めない時代であるがゆえに、得意とする分野に社会資源を集中的に投下することが求められることになります。

つまり、日本が経済的に生き残っていくためには、社会資源の「選択と集中」が必須になってくるということです。

さらに、これからの日本人と日本経済が元気を維持していくためには、社会資源の「選択と集中」と共に、先にお話ししたトリクルダウン(露おろし)の実践が必要になってくるということです。

トリクルダウンとは、大木からしたたり落ちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分として成長していくという、大木と草花の相互依存関係のことでした。

そして、この理論の要諦は、まずは大木を育てることが必定で、その大木を基盤として裾野の草花に露おろしをする、先富論が前提になっていると思われます。

では、トリクルダウン(露おろし)が、先富論=「選択と集中」の帰結であるとしたら、具体的にはどのような経済政策が望ましいものになるのでしょうか。

企業の法人税(特に大企業)の適度な軽減化を図る一方で、個人の所得税や相続税に対する累進性の強化、また個人の社会保障への応能負担の強化、そして国全体の平準化を図る目的から地方交付税等による所得の再分配化機能の強化などが挙げられるのではないでしょうか。

そして、国際的な経済政策としては、「21世紀の資本論」のピケティ教授が提唱されている世界連携累進課税が想定されることになると思います。(タックスヘブンをなくすと言うことですね。)

つまり、「選択と集中」の結実を原資としての所得の再分配機能、つまりトリクルダウン(露おろし)の実践こそが縮小していく国内の消費経済(内需)の低迷を回避させて、相対的に見て公平と思えるような社会の実現を図ることになるのではないでしょうか。

ただ残念なことですが、この半世紀の間に、日本人のマインドは、自律する方向から依存する傾向へと変質してしまったように思われます。

依存的で未成熟な社会にあっては、おそらく資本主義の精神の背後にある「寛容性」や所得の再分配機能の背後にある「自律性」は前景化せず、自己利益のみを追求する方便として利用されてしまう可能性があると言えます。

本当に日本人が未熟で依存的としたら、いかなる経済政策も有効とは言えず、誰もが経済的にも文化的にもフラストレーションを抱えたまま出口の見えない状況に耐えるしかない、つまり「終わりなき日常」を生きるしかないという筆者のリアリティは単に思い過ごしであれば良いと思っているのですが、さていかがでしょうか。


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# by kokokara-message | 2017-11-23 11:58 | 我流経済学 | Trackback | Comments(0)

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オーストリア・ハプスブルグ王家の多くの至宝のひとつに、ベラスケスが描いた「白衣の王女マルガリータ」があります。

7年前になりますが、京都国立博物館で開催された「THEハプスブルグ」展で、「白衣の王女マルガリータ」(ウィーン美術史美術館)を鑑賞することができました。

ベラスケスは、17世紀に活躍したスペイン・ハプスブルグ王家の宮廷画家です。

そして、「画家の中の画家」と呼ばれたベラスケスが、晩年に描いた肖像画の傑作が、王女マルガリータの肖像画といえます。

王女マルガリータについては、そのあどけなさや愛らしい表情、そして可憐で豪華な宮廷衣装から、時代を超えて根強いファンが世界中の多くの国にいるようです。

おそらく、ベラスケスが描く王女マルガリータには、洋の東西を超えた、世界中の誰もが愛らしく素晴らしいと感じる普遍性が含まれているためではないでしょうか。

ベラスケスが描いた王女マルガリータの肖像画は、3歳、5歳、8歳、そして10歳の時に描かれた合計6点の作品が残されています。

その中でも、ベラスケスの代表作と言える5歳の王女マルガリータを描いた「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」は、横長が3m弱、縦長が3m以上もある大作で、スペインのプラド美術館が門外不出の作品として所蔵しています。(下の写真)

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「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」は、5歳の王女マルガリータが画面の中心になるように構成されていて、マルガリータのあどけない表情と、王女の確たる威厳が的確に表現されているように思われます。

そして、この「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」とほぼ同じ時期に描かれたとされる肖像画が、京都国立博物館で鑑賞した「白衣の王女マルガリータ」(ウィーン美術史美術館)です。(下の写真)


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「白衣の王女マルガリータ」と「ラス・メニーナス」で、王女マルガリータが同じ白いドレスを着用している点が大変面白く、興味深いものがあります。

ウィーン美術史美術館には、この5歳の「白衣の王女マルガリータ」以外にも、3歳と8歳の王女マルガリータの肖像画(合計3点)が所蔵されています。

これら3点の王女マルガリータの肖像画がスペインではなくウイーンにある理由は、王女マルガリータがスペイン・ハプスブルグ王家からオーストリア・ハプスブルグ王家に嫁ぐ前に、お見合い絵画(今ならお見合い写真ですね。)として贈られた経緯があるためです。

そして、先の「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」と10歳の肖像の「赤いドレスのマルガリータ」の2点の作品は、王女マルガリータの出身地のスペインのプラド美術館が所蔵をしています。

ただ、10歳の「赤いドレスのマルガリータ」(下の写真)だけは、ベラスケスが制作途中に絶命(1660年)したため、弟子たちが作品に加筆して完成させたと言われており、作品の評価は定まっていないところがあるようです。

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そして、最も幼少の頃の3歳の時に描かれたもう一点の肖像画の「王女マルガリータ」は、フランスのルーブル美術館が所蔵しています。

このような計6点(3歳:ウィーン美術史美術館とルーブル美術館、5歳:ウィーン美術史美術館とプラド美術館、8歳:ウィーン美術史美術館、10歳:プラド美術館)のベラスケスの王女マルガリータを訪ねて、ウィーン、プラド、ルーブルとヨーロッパを代表する美術館を巡る観光客も多いように聞きます。

このうち「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」だけは、物理的に大作であることと、なによりスペインの至宝でもあることから、おそらく今後とも直接プラド美術館に出向かなければ実物と出会うことはできないものと思われます。

ただ、「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」以外の王女マルガリータの肖像画は、運がよければ日本に居ても鑑賞するチャンスはありそうです。

私の場合は、3歳の肖像画のうちの一点の「王女マルガリータ」は、25年前に直接ルーブル美術館で鑑賞できるという幸運に恵まれました。(下の写真)

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そして、もう一点の3歳の肖像画の「薔薇色のドレスのマルガリータ」(ウィーン美術史美術館)は、10年程前に兵庫県立美術館で鑑賞することができました。(下の写真)

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また、8歳の肖像画の「青いドレスのマルガリータ」(ウィーン美術史美術館)は、ずいぶんと前になりますが、神戸市立博物館で鑑賞した記憶があります。(下の写真)

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そして、2010年には京都国立博物館で、5歳の肖像画の「白衣の王女マルガリータ」(ウィーン美術史美術館)を鑑賞することができたので、私は合計4点の王女マルガリータに出会うことができたというわけです。

私の王女マルガリータを巡る旅もあと残り2点だけとなったわけですが、「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」については、世界三大絵画のひとつともいわれており、王女マルガリータの存在を超えた、スペイン・ハプスブルグ王家の威信をかけた大作でもあります。

その画面の構成や物語性には、スペイン・ハプスブルグ王家にかかわる多くの謎が含まれているとも言われており、絵画好きであれば一生に一度は目にしておきたい芸術作品といえそうです。

そして、運よくプラド美術館に行くことができた人なら、ベラスケスがスペイン・ハプスブルグ王家の宮廷画家であっただけではなく、王家を支えていた王室配室長(内政と外交の最高責任者)の重責を担っていたことも見逃してはならないと思われます。

つまり、ベラスケスが宮内庁長官の立場から王女マルガリータを描いていたとしたら、私たちの「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」を鑑賞する眼も自ずと変わってくるのではないでしょうか。

ひとつの仮説ですが、晩年のベラスケスが1656年に大作「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」を描いたその理由は、後継者問題に悩んでいたフェリぺ4世(王女マルガリータの実父)がその時点で出していた「王位継承」に対する答えではなかったのかということです。

つまり、フェリぺ4世(王女マルガリータの実父)は、幼少でしかも王女のマルガリータをその時点での王位継承者として考えていたのではなかったのか。

ベラスケスが描いた王女マルガリータの肖像画の中でも、「ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)」と「白衣の王女マルガリータ」の5歳の頃の肖像画が、最も素晴らしい作品に仕上がっているのは、このためではないかと私は考えています。

その後、フェリぺ4世(王女マルガリータの実父)に王子(カルロス2世)が生まれ、王女マルガリータはスペイン・ハプスブルグ王家からオーストリア・ハプスブルグ王家へと嫁いで行くことになります。

フェリぺ4世(王女マルガリータの実父)の後継者となったカルロス2世(王女マルガリータの弟)は、生まれつき体が弱く、子供がもてなかったため、その逝去をもってスペイン・ハプスブルグ王家は消滅してしまいます。

一方、王女マルガリータは、嫁いだ先のオーストリア・ハプスブルグ王家のレオポルド1世との間に一人子供をもうけますが、自らは22歳という若さで逝去してしまいます。

そして、後継者がいなくなった後に起こったスペイン王位継承戦争では、次期の王として亡き王女マルガリータの孫が候補に挙がりましたが、その王子もやがて逝去し、スペイン・ハプスブルグ王家の王位継承者は誰もいなくなってしまいました。

これをもってスペイン・ハプスブルグ王家は名実ともに消滅することになり、スペイン・ハプスブルグ王家と王女マルガリータの面影はベラスケスの絵画の中だけに留め置かれることになりました。

世の栄枯盛衰は必定ですが、ベラスケスが描いた王女マルガリータはどれも愛らしく、そのあどけない表情だけは、今も鑑賞する人に穏やかさと和みを与え続けてくれているのではないでしょうか。

スペイン宮廷画物語―王女マルガリータへの旅 西川和子著より

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# by kokokara-message | 2017-10-20 23:38 | 我流絵画論 | Trackback | Comments(0)

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北海道ラーメンでは、函館のしお、札幌のみそ、旭川のしょうゆが有名ではないでしょうか。

室蘭には、室蘭カレーラーメンがあります。

室蘭カレーラーメンのパイオニアでもある、味の大王 室蘭本店に行ってきました。

味の大王 室蘭本店は、室蘭市役所にほど近い旧市街の商店街の一画にあります。

後から知ったことですが、味の大王は東室蘭駅前に支店を出していました。

東室蘭駅周辺に宿泊する人なら、わざわざ室蘭本店まで行く必要はないということですね。

ご覧のように、室蘭カレーラーメンはやや太めの縮れ麺と濃厚な味わいのカレースープが特徴です。

そして、室蘭市内にはカレーラーメンを提供する店が数十件あるとのこと。

果たして、室蘭カレーラーメンは、函館、札幌、旭川に次ぐ北海道第四のラーメンになることができるのでしょうか。

なお、新千歳空港3階には全道のご当地ラーメンが大集合していますが、残念ながら室蘭カレーラーメンはありませんでした。

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また、室蘭のご当地グルメには、室蘭カレーラーメン以外に、室蘭やきとりがあります。

一般には、やきとりは鶏肉と長ネギなどの野菜を用いた串料理のことを指します。

しかしながら室蘭やきとりは、鶏肉の替わりに豚肉を使用し、長ネギの替わりに玉ねぎを使用し、焼いた串に洋がらしをつけて食べます。

室蘭独自のやきとり文化と言えそうですが、これを確かめるため、やきとりの一平 中島本店に行ってきました。

こちらも後から知ったことですが、やきとりの一平は東室蘭駅前に支店を出していました。

東室蘭駅周辺に宿泊する人なら、わざわざ同駅から徒歩15分の中島本店にまで行く必要はないということですね。

やきとりが鶏でなく豚であるのはとてもユニークですが、これに至った経緯については、室蘭市のホームページのむろらんのグルメからご確認いただくことができます。

なお、室蘭市内のやきとり店は、鶏肉を使用した一般的なやきとりもメニューに並べていますので、ご安心ください。

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新千歳空港からレンタカーで洞爺湖を訪れたあと、宿泊のために立ち寄ったのが室蘭でした。

室蘭は、沿岸部に製鉄や製鋼、製油などの工場群が立ち並ぶ工業都市で、室蘭の夜景は「日本七大工場夜景」のひとつとされています。

むろらん夜景については、室蘭市のホームページからご覧いただくことができます。

盛夏に訪れた室蘭は、すでに短い夏を終えて、ひと足早い秋モードへと切り替わりつつあるのではないかと思われます。

秋・冬の北海道を旅される方は、ぜひ室蘭まで足を延ばされて、室蘭カレーラーメンと室蘭やきとりのご当地グルメをご賞味されるのはいかがでしょうか。


・味の大王 室蘭本店
 ℡0143-23-3434
 駐車場10台

・やきとり一平 中島本店
 ℡0143-44-4420
 駐車場15台


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# by kokokara-message | 2017-09-09 10:33 | 北海道 | Trackback | Comments(0)

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日常の中で、なんだか良く分からない、因果関係が判然としないと言った現実(現象)に出くわすことは、多々あるのではないでしょうか。

おそらく、素朴で限定された世界以外では、あらゆる現実(現象)は一因一果の関係にあるのではなく、ある原因が結果となり、またその結果が新たな原因になるという円環関係(ウロボノスの輪)になっていると思われます。

昨今話題の人工知能(AI)の世界では、入力と出力の関係は一因一果の関係にあるのではなく、入力が出力に影響を及ぼし、その出力がさらなる入力となって出力に影響を及ぼす円環関係(ウロボノスの輪)になってるとされています。

また、「人感万事塞翁が馬」の言葉にあるように、幸運と不運は明確に峻別できるものではなく、ある原因が結果を生み、その結果がまた原因となって次の結果を生むという円環関係(ウロボノスの輪)になっていることは古くから知られていることでもあります。

つまり、自分の周りの現象を見回して見ると、過去にも、現在にも、未来にも、実験モデルのような単純かつ線的な因果律は存在せず、あらゆる現実(現象)が円環関係(ウロボノスの輪)になっていると言うことです。

しかしながら、近代を自負する人にとっては、一因一果の関係にないというものの見方は、とても奇異で不可解なものに映ることになるのかもしれません。

なぜならば、近代を自負する人にとっては、ある原因に対してある結果が生じる単純かつ線的な因果律が、自然なものとして受け入れられているからです。

たとえば、近代を自負する人が納得できない結果に出くわしたら、必ず原因が特定できるものと信じ、懸命になって犯人(原因)探しをするのではないでしょうか。

また、現実(現象)は予定調和に展開するものと信じ、予定通りに進まない現実(現象)に出くわすと、現実(現象)の方が間違っていると憤慨するのではないでしょうか。

繰り返しになりますが、現実(現象)は実験モデルのような単純かつ線的な因果律にはなく、あらかじめ予定されたシナリオ通りに展開するものでもないということです。

たとえ運よく犯人(原因)が特定できたり、シナリオ通りに現実(現象)が展開したとしても、ほんの少し環境が変わっただけで現実(現象)は万物流転して行きます。

つまり、最終回答と思われた現実(現象)でも、多様多様な原因が複雑に重なり合った一時点の暫定的な結節点(結果)でしかないということになります。

ところで話は少し逸れますが、因果律において原因と結果が時系列に展開するのは、至極当たり前なこととして広く受け入れられているのではないでしょうか。

まず最初に原因があって、それから時間軸に沿って結果が生じてくるというものの見方です。

特に近代を自負する人にとって、因果律が時系列に展開するというのは信憑性というより、信仰に近いものがあると言えるのかもしれません。

しかしながら、日常の中で経験する多くの現実(現象)は、必ずしも原因と結果が時間軸に沿って時系列に展開するものばかりではないと言うことです。

たとえば、シンクロシニティー(共時性)と呼ばれる現象があります。

もともとパラレル(平行)な関係にあるいくつかの事柄が、シンクロナイズして同期に原因と結果が生じるという見方です。

たとえば、空に虹がかかったことと子供の病気が治癒したことはパラレル(平行)な関係で、そこには何の因果律も見出すことはできないかもしれません。

しかしながら、シンクロシニティー(共時性)では、空に虹がかかったことと子供の病気が治癒したことに因果律を認めて、現実(現象)の展開を図るということになります。

少しオカルト的かもしれませんが、日本人が大好きな占いの世界などでは、パラレル(平行)な事柄を平気で並べてそこに因果律を見出しているのではないでしょうか。

おそらく、近代を自負する人にとっては、このようなシンクロシニティー(共時性)や占いの世界は、非合理的かつ前近代的なオカルトと映るのかもしれません。

一般論としても、なんだか良く分からない、因果関係が判然としないという現実(現象)に出会ったら、おそらく多くの人は戸惑い、そして暫し思考停止(判断保留)状態に陥ることになるのではないでしょうか。

思考停止(判断保留)は二項対立の一方に振り切れない自己防衛のための手段ですが、一方では足場が定まらないままグレーゾーンの中に宙吊りにされたような極めてストレスフルな状態でもあるということです。

おそらく、日常の中で起こる現実(現象)の多くは、白黒はっきりとしないグレーゾーンの中に位置するもので、それは近代(モダン)の合理性や単純かつ線的な因果律から零れ落ちた、どちらかと言えば前近代(プレモダン)的で非合理な円環の因果律を含んだ不可思議でオカルト的なものになるのかもしれません。

現実(現象)とは、あらかじめ決まった答えがあるものではなく、各人の社会的文脈や世界観から導き出された個別のリアリティ(現実感)ということではないでしょうか。

これまでに近代(モダン)や近代化という言葉を使用してきましたが、近代化とは欧米化のことでもあります。

そして、近代化つまり欧米化の最大の特徴は、あらゆる現実(現象)を言語(概念)によって分節(カテゴリー化)してしまうことではないかと思われます。

つまり、目の前にある現実(現象)を余すことなく言語化(概念化)してしまうということが、近代(欧米)化の本質で、近代化の徹底ということになります。

このため、言語化(概念化)が困難とされた現実(現象)は前近代や非合理なものとして分類化されてしまい、社会の背景へと追いやられてしまうことになります。

ヴィットゲンシュタインに「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉がありますが、近代社会において言語化(概念化)の徹底をしても、なお分節(概念化)が困難となった現実(現象)はやがて無化されてしまうことになります。

このことからも分かるように、言語化(概念化)の限界が近代(モダン)化の限界と言うことでもあり、言語化(概念化)の限界(境界)を超えた向こうに位置する非言語空間がポストモダンということになるのではないかと思われます。

現在は、ポストモダンの時代にあるとされることがあります。

繰り返しになりますが、ポストモダンとは、近代(モダン)を超越した境界の向こう側に位置する言語化されていない思考方法や世界観のことであって、その非言語空間を言語化することがポストモダンに求めらることではないかと思われます。

したがって、言語化が近代化の本質であるのなら、ポストモダンにおいては今以上に近代(モダン)を徹底することから始めなければならないのではないかと思われます。

逆説のようですが、今在る近代(モダン)の中に今以上に強固な近代(モダン)を構築することでしか、近代(モダン)を超越して行く足場は構築できないということです。

また、近代(モダン)からポストモダンへの移行は、社会全体がデジタルにポストモダンへと切り替わって行くものではなく、おそらく各人の思考方法や世界観が徐々に位相を変えながら変容して行くものではないかと思われます。

つまり、ポストモダンへの移行とは、世界や国家レベルで起こる劇的な世界観のズレではなく、むしろ個人レベルで起こる属人的な精神面の位相の変化ではないかと思われます。

少し言い方を変えるとすれば、国家や民族などを背景として持った個人レベルの無意識の意識化ということになるのかもしれません。

そして、無意識の意識化は、先の見えない複雑化した近代(モダン)社会の様々な葛藤や軋轢を解決してくれる(近代を超えて行く)端緒になってくれるように思われます。

最後になりましたが、ポストモダンにおける非言語空間の言語化は、自然科学や社会科学における実験モデルのアプローチの方法を採るものではなく、むしろ個人レベルの私的(詩的)で文学的な表現方法による無意識の意識化、つまり「神話の創造」に拠るところが大きくなるのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。

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【蛇足ながら】

前近代(プレモダン)は、神との対話が可能な時代とされていました。

近代(モダン)は、神との対話が途絶えた、神なき時代ともいわれています。

このため、近代(モダン)は、人が自問自答を繰り返す(自分の頭で考える)しかない時代であったということでもあります。

そして、人が自問自答を繰り返す(自分の頭で考える)ことが哲学の営為であるとするのなら、近代(モダン)は哲学の営為を通して、自分の頭で考える「個人」を生み出だすことが可能な時代ということになります。

また一方で、「個人」とはその外部の「他者」の存在なしには生成されることがなく、「他者」と同時に生成されてくる概念ということになります。

なぜなら、「個人」とは自律した概念であると同時に、その外部の「神」や「他者」との関係性(相対化)の中から生成されてきた概念でもあるからです。

従って、ポストモダンの時代では、「個人」が近代(モダン)から零れ落ちた周縁部の非合理性や「他者」という異質性に自覚的となり、その距離感(関係性)を調整していくことがなによりも求められることではないでしょうか。

ところで、仏教には「輪廻転生」という教え(世界観)があります。

おそらく、古代人は、現実(現象)全般が円環関係(ウロボノスの輪)で説明ができるとどこかで理解ができており、この円環関係の現実(現象)全般を「輪廻転生」と呼ぶことにしたのではないでしょうか。

仏教の世界観では、この円環関係にある「輪廻転生」からの「解脱」を目指すということになります。

そして、この「輪廻転生」から「解脱」できた境地のことを、「悟り」と呼んでいるのではないかと思われます。

つまり、古代人にとっての「解脱」とは、この現実(現象)全般からの「解脱」、つまりウロボノスの輪の円環関係からの「解脱」ということになりそうです。

このように考えると「解脱」は、「出家」そのもののであるようにも思われます。

しかしながら、「解脱」の本質が世間の相互参照(自分の頭で考えない)からの離脱にあるとすれば、「自分の頭で考える」という個人の営為はまさに「自分の頭で考えない=相互参照」からの離脱にあるということです。

そして、「解脱」のあとにやってくる「悟り」の境地は、この解脱の本質(自分の頭で考える)に自覚的になる(気づく)ということではないでしょうか。

つまり、「悟り」とは自分の頭で考えた結果であるので、自覚的かつ客観的にももはや迷う余地はない、是非に及ばずという境地(心の安寧)ではないでしょうか。

したがって、「悟り」は「出家」だけを前提とした限定的な境地のことではなく、世俗にあっても、自分の頭で考える営為、つまりは自らを相対化し、自他を生成する自己意識の習得こそが「悟り」のために必要な要件になってくるのではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。


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# by kokokara-message | 2017-08-20 11:18 | 我流方法序説 | Trackback | Comments(0)

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6月末から始まった夏のバーゲンも二回目の週末を迎え、一段落と言ったところではないでしょうか。

バーゲンの小休止に、あべのハルカス近鉄本店ウイング館3.5階にある「COFE' SOLARE Tsumugi あべのsolaha店」の天然水の削り氷を食べに行ってきました。

天然水の削り氷は聴き慣れない言葉ですが、「中央アルプスの天然水で作った高純度な氷を細かく削り、ふわふわに仕上げた」かき氷を同店ではこのように呼んでいるようです。

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まずは、濃い苺みるく(800円)です。

ふわふわした天然水の削り氷の全体に、ミルク(牛乳)味のシロップがたっぷりとかかっています。

練乳はかかっていませんが、ミルク(牛乳)味のシロップはミルク氷ファンを十分に満足させるものでした。

ミルク氷と言えば台湾かき氷の雪花泳(シュエホワピン)が有名ですが、昔ながらの淡白なミルク(牛乳)味のシロップはとても苺シロップと相性が良いようです。

そして、濃い苺シロップは、苺を丸ごとジャム状にした果肉系シロップでした。

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次は、袋布向春園 お抹茶&北海道あずき(850円)です。

袋布向春園は、大阪にあるお茶専門店のようです。

ご覧のような抹茶みるく金時ですが、渋めの抹茶のシロップと甘さ控えめの北海道あずきはとても良く仕上がっています。

ただ、ミルク氷が好物という人には、濃い苺みるくの方がお勧めかもしれません。

あくまで好みの問題ですが・・。

そして、同店で提供している天然水の削り氷は、以下の4種類。

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阿倍野界隈でかき氷を食する時は「甘党まえだ」と決めていたのですが、今回COFE' SOLARE Tsumugiでおいしいかき氷に出会えたことは大変幸運でした。

いよいよ夏本番です。

日本で一番暑いと言われる大阪の盛夏を乗り切るには、何事にも無理はしないで、自愛を込めた休息とこまめな水分補給が不可欠になります。

この夏あべのハルカスに出かけられたら、せひCOFE' SOLARE Tsumugi あべのsolaha店で小休止をされて、天然水の削り氷を食してみるというのはいかがでしょうか。


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場所:あべのハルカス近鉄本店ウイング館3.5階
電話:06-6625-2082


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# by kokokara-message | 2017-07-09 18:10 | おいしいかき氷 | Trackback | Comments(0)

和を以って貴しと為す


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前回に引き続き、リンボウ(林望)先生の著書「新個人主義のすすめ」から引用をさせていただきます。

書評ではありませんのであしからず。

同書では、聖徳太子の十七条憲法の劈頭にある「以和為貴」が取り上げられています。

「以和為貴」は、ふつう「(和)わをもって(貴)たっとしとなす」と読んでいますが、古い写本に拠れば「(和)やわらかなるをもって(貴)たっとしとなす」と読むことがあるようです。

この場合の「和=わ」と「和=やわらか」は、言うまでもなく同じ意味で使用されています。

しかしながら、前者の「和=わ」と後者の「和=やわやか」に少なからず違和感を覚えたとしたら、それはおそらく前者の「和=わ」を「同=どう」と読み違えしていることからくる錯覚ではないでしょうか。

つまり、「和=わ」の意味は調和するということであって、和(なご)やかに、睦(むつ)みあって、諍(いさか)いをしないということになりますが、「同」はどちらかと言えば主体性がなく、付和雷同して誰かの意見に流されるということになります。

「和=わ」は、主体的に、しなやかに、やわらかに、なごやかに、むつみあって、いさかいのない調和した状態をつくりだすということになります。

論語には「君子は和して同ぜず」という言葉がありますが、これはまさに「和」と「同」の違いを言い表していると言えそうです。

但し、大変残念なことに、いつの頃からか日本人は、「和」と「同」を読み違えてしまったようです。

おそらく、この読み違えは日本人が「同じ」であることを前提に成り立っている世間で生きていることと関係があるように思われます。

ここで言う世間は、みんな「同じ」が通用するような狭い範囲の人間関係のことです。

では、世間の「同じ」は、果たして「平等」と同じ意味で使用されているのでしょうか。

人それぞれに身体的な差異があって、付属する有形無形の財産や人間関係に差異があるのは当然のことです。

しかしながら、身分制の封建社会では同じ百姓の間に大きな差異があったとしても、百姓は「同じ」身分であることを前提として来ました。

そして、百姓の中でも大きな割合を占めた農民は、田植えや稲刈をムラ総出の共同作業(結=ゆい)で行い、全体で成果を上げることをムラの掟としていました。

日本のムラ社会(世間)では、たとえ様々な立場の意見があったとしても、意見は自分が言うものではなく、みんなで決まった意見に従うということになっています。

かような百姓の稲作文化が数百年以上続いたためか、日本の世間では「同じ」ことをするが原則になってしまい、自分に合った仕事や生活をすることは悪と見做されることになりました。

日本国の方針に「ワーク・ライフ・バランス」が掲げられていますが、残念なことに十分な成果は上がっていないように思われます。

これは自分に合った仕事や生活をする「ワーク・ライフ・バランス」が日本では個人主義的と見做されて、横並びから突出する不届き者が出ないようみんなで牽制し合い監視し合う関係が続いてきたからだと思われます。

昨今監視社会が話題に上ることがありますが、日本の世間では牽制し監視するが習慣になっているため、内面の自由に対する警戒心は低くなっているように思われます。

おそらく日本には長い世間の歴史があるため、少しくらいの社会構造の変化ではその本質までは変わらず、「平等」ではない「同じ」への強い志向性が今も続いているのではないでしょうか。

ところで、お隣の国、中国は個人主義的と言われることがあります。

また、中国は「個人」がある社会と言われることがあります。

確かに日本との対比では、中国は「同じ」であるよりも、むしろ差異(違い)を重要視する社会で、個人主義的と言われれば確かにそのように思われます。

しかしながら、中国人の個人主義は欧米の一神教を起源とする利他的な個人主義ではなく、それとは真逆な多神教的を起源とする利己的な個人主義ではないかと思われます。

例えば、中国人が平等を求めるのはあくまでルールの下の平等で、異姓不養(異姓からは養子をとらない)の原則に見られる宗族(家族)間の差異は明確にして区別してきました。

つまり、中国は「同じ≠平等」が適用される宗族(世間)が多元的に存在する社会であって、地縁血縁のムラ社会(世間)が多元的に存在する日本ととても似た社会構造にあると言えそうです。

このためか、中国人は個人主義的と言われながらも、相手を一個人として尊重できるような、宗族(世間)を超えた普遍性は持ち合わせてはいないように思われます。

また、中国にも一神教的な天の世界観である儒教がありますが、これはあくまで支配階層の思想(宗教)であって、一般大衆にとっての思想(宗教)は道教になります。

道教が老荘思想の「未分化同一」を志向していることからも分かるように、道教には一神教的に個人が分節されるという世界観はなく、多神教的な渾然一体の世界観になっています。

中国の一般大衆が「未分化同一」の世界観で生きているとしたら、日本の母系原理に基づいた「母子密着」の世界観とはとても近い関係にあるのではないでしょうか。

そして、日本の文化の中に道教の影響が強く見られることについては、中国哲学者の故福永光司氏が数十年以上前から指摘されてきたところでもあります。

ちなみに、先述した「君子は和して同ぜず」は儒教の言葉であって、道教の渾然一体の世界観ではないと言うことです。

中国社会は、欧米社会の数百年後の姿と言われることがあります。

おそらくこれは、中国が爛熟した古代都市文明のなれの果ての姿であって、一神教的な欧米社会の利他的な個人主義は、やがて文化が爛熟すると利己的な個人主義に変貌して行くのではないかと言った危惧ではないかと思われます。

しかしながら、中国の個人主義が前提としている個人は、一神教的な分節で自律している個人ではなく、「未分化同一」のコンプレックス状態の反動形成として生じた未熟で万能感の強い個人であることからすると、中国社会は欧米社会の数百年後の姿ではなく、むしろ母子密着のコンプレックス状態を起源とする母系社会日本の近い将来の姿ではないかと大変危惧しているのですが、さていかがでしょうか。


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# by kokokara-message | 2017-06-17 11:43 | 読書 | Trackback | Comments(0)

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リンボウ(林望)先生の著書「新個人主義のすすめ」から、少し引用をさせていただきます。

書評ではありませんのであしからず。

リンボウ(林望)先生は、「世話を焼かない内助の功」が夫婦関係のひとつの有り様ではないかと提言されています。

つまり、個人主義的な夫婦関係では、妻は夫の世話を焼かない、夫は妻の生活に干渉しないことが不文律になるということです。

「個人主義」と言うと自分勝手と勘違いされてしまいそうですが、個人主義とは自分以外の他人を「一個独立の個人」として認める立場のことです。

これに対し利己主義は、他人に対して自分の考えを押し付けたり、その前提として自分の考えだけが尊いと思っている傲慢さや独善性を指します。

日本人が行っている横並びや同質性が同調圧力を意図するものなら、それは利己主義ということになってしまうのかもしれません。

したがって、一見同じように見える個人主義と利己主義は、ベクトルの方向が真逆になっているということです。

繰り返しになりますが、個人主義的な夫婦は自分の考えを相手に押し付ける上下関係ではなく、男女の違いと独立を認め合ったフラットな関係と言うことになります。

夫婦が「一個独立の個人」として認め合える関係であるからこそ、妻は夫の世話を焼かない、夫は妻の生活に干渉しないという不文律が成立するのではないでしょうか。

では、個人主義的な夫婦関係では、相手に何も求めてはいけないのでしょうか。

友情であるのなら、困っている場合に相談してみたりとか、無理を聞いてもらったりすることはあります。

べたべたした関係ではなく、むしろ距離が取れている方が、友情を維持する上では重要になってくるのかもしれません。

個人主義では自分ができることは自分でするが基本となりますが、嫌なことや困ったことはお互いが分担してするもまた大事な基本になると言うことです。

では、家庭における家事は、どのように分担すれば良いのでしょうか。

掃除や洗濯は比較的好きであっても、料理は嫌いという人はいると思われます。

また、その逆もしかりです。

では、家事を全て分担してしまうのが、個人主義的な夫婦関係ということになるのでしょうか。

個人主義とは、自分以外の他者を「一個独立の個人」として認め合う、つまりは他者の尊重や他者への「思いやり」がベースとなって成立するものでした。

この「思いやり」を欧米流の言い方に換えるとしたら、自分以外の他者への「無償の贈与」になるのかもしれません。

ただ、世知がない拝金主義の世の中では、金銭に換算できない「思いやり」や「無償の贈与」は歯牙にもかけられないのが現状と言えます。

では、個人主義的な夫婦関係では、「思いやり」や「無償の贈与」はどのようにして実践されるのでしょうか。

また、妻が負担している家事は、夫に対する「思いやり」や「無償の贈与」と考えて良いのでしょうか。

おそらく、日常の生活実感からすると、妻の家事負担は、夫の経済的な側面に対する妻の分担になるのではないかと思われます。

ただ、妻も夫と同じように働いているとしたら、妻の家事は過分な負担になってしまうのですが・・・。

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では後半です。

もう少しだけお付き合いください。

さて、個人主義的な夫婦関係では、男女の相違と個人の独立をお互いが認め合う(尊重し合う)ことが大前提になるということでした。

男女の相違としては、男性は20年以上一緒にいると恋愛感情はまずないと思われるのですが、女性は特に子供がいないような場合には、母として、子供としての夫に新たに恋愛感情を抱くということは考えられるようです。

このような男女の相違に気付かず、もし夫が浮気でもしようものなら・・・。

大変なことになってしまいます。

また、子供がいない(子供をあきらめたような)女性は、ペットを飼うかのように、夫を子供として錯覚することはあるようです。

子供である夫は自分の掌に乗っていなければならず、逆説的ですが、妻は夫(子供)の成長を必ずしも望むものではないと言うことです。

夫は、願わくば、そこそこかっこいい人で、家庭を犠牲にするような出世は望まず、しかし経済的には安定している方が良いということなのでしょうか。

その掌に乗って行くとしたら、夫の女性関係は禁物で、妻に頭が悪い(かっこ悪い)と思わせてはならないということになります。

かような男女の相違を踏まえれば、古式ゆかしい亭主関白よりも、夫が妻に頼る姉さん女房の方が、夫婦関係は上手く行くのかもしれません。

また、個人主義では、自分ができることは自分でするが基本になると言うことでした。

このため、妻に自分の(イエの)考えを押し付けたり、その前提として自分の(イエの)考えが尊いとも思わなかったし、現に実家に関することは妻にはタッチさせずにすべて自分で行ってきたたつもりです。

たぶん妻は、自分のことと私のことを考えれば良い環境にあったのではないでしょうか。

以上のことから想像を巡らせると、今でも妻が一緒に旅行に行ってくれていることや家事負担をしてくれていることの意味が、何となく分かってくる気がします。

今から15年くらい前になりますが、結婚10年目を経過した頃、私はふと「配偶者は妻ではなく母ではないか。」と思ったことがありました。

そして、今思えばこの発想は全く根拠を持たない妄想などではなく、日本特有の母系社会に根差した夫婦関係のひとつの着眼点であったのではないかと考えています。

欧米の父権社会に対して、日本は母系社会と言われることがあります。

欧米の父権社会では一神教的な分節によって「個人」が出現しますが、日本の母系社会では多神教的な包摂(束縛)から弾き出(排除)されて「個人」が析出されます。

要するに、父権社会と母系社会では「個人」の出現の仕方が真逆になっているということです。

このため、伝統的な日本社会で欧米型の個人主義を実践しようとすれば、夫婦関係での妻は一個人であると共に母の役割も同時に果たさなければならないことになります。

つまり、個人主義的な夫婦関係の妻は、夫の自律を促す良妻の役割と夫の自律を阻止する賢母の役割を同時に果たす二律背反した両義的な存在ということになります。

そして、この考えに従うとしたら、子供のいない家庭の夫は同時に子供であるため、妻からのダブルバインド状態に晒されることになってしまいます。

ただ、子供がいる家庭では、夫と子供を比べれば、妻の感情は夫の方ではなく必ず子供の方(子供であれば息子でも娘でも同じです。)へと向かうことになるようです。

このため、子どもがいる家庭では子供の世話を焼くのが妻の生きがいとなってしまい、夫に「世話を焼かない」はもはや「内助の功」ではなくなってしまいます。

つまり、個人主義的な夫婦関係の「世話を焼かない」は「思いやり」でしたが、この場合の「世話を焼かない」は夫への愛情(承認)不足ということになってしまいます。

そして、この状況を少し角度を変えて見れば、家庭という母系原理の包摂(束縛)から弾き出(排除)された夫が、やっと自由で孤独な「個人」として生まれ変わることが出来たというこになるのかもしれません。

但し、個人主義の大切な基本ルールは、自分ができることは自分でするというでした。

したがって、夫がいくら「個人」に生まれ変わることができたとしても、その内実として夫が依然独立できない我が儘状態な状態なままであるのなら、老後単身の寂しさを差し引いても、妻は別れるという選択をすることになってしまいます。

大変皮肉な話ですが、日本の夫婦関係の夫は、家庭という母系原理の包摂(束縛)から弾き出(疎外)されることでしか、自らの自律の可能性に気づくことができない構造的無知の状態に放置されていると言えそうです。

昨今少子化の影響で、個人主義的な夫婦関係の「世話を焼かない内助の功」が、ようやく半分くらい実践可能な状況になって来たように思われます。

つまり、個人主義の対極にある母系原理が緩み、個人主義的な「自分のことは自分でする(他人のことは他人がやる)」が一般化してくると、従来からの日本の夫婦の枠組みが大きく変化して行くことになるのではないでしょうか。

但し、懸念として少子化に対して社会からの桁外れの愛情が注がれることとなれば、日本の母系原理は緩むどころかさらに強化されることにもなってしまいます。

したがって、少子化をきっかけに芽吹き始めた日本の個人主義は包摂と排除のダブルバインドに耐えながら、軸足はあくまで「個人」の側に置いたままで、国家規模の集団(同化)主義的な母系原理に飲み込まれぬよう、流動化して行く日本社会をしっかりと見守って行くしかないと考えているのですが、さていかがでしょうか。

(終わり)

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# by kokokara-message | 2017-05-04 22:32 | 読書 | Trackback | Comments(0)

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春爛漫、桜の季節となりました。

「桜吹雪けば、情も舞う(赤色エレジーより)」は、今でも変わらない日本人の大事な心のひだではないでしょうか。

さて、今回は、ならまちシリーズの3回目で、「奈良ホテル」「ゆき亭」に引き続き「こおりとお茶のお店『ほうせき箱』」をご紹介します。

「ほうせき箱」は、近鉄奈良駅から東向商店街を抜けて「ならまち」へとつながる奈良もちいどのセンター街の「もちいどの夢CUBE」の中にあります。


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「もちいどの夢CUBE」は、新たに起業家を目指す人たちの創業の場として、奈良もちいどのセンター街が設置したものです。

石畳の路地を挟んだ約10軒のガラス張りの「夢CUBE」が、起業家の様々な夢を乗せて営業していました。

なかでも「ほうせき箱」は、一年中かき氷が食べられる行列のできる店として、内外から人気を集めているようです。

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今回は、琥珀パールミルク氷(750円)とアッサムミルクカスタード(850円)を注文しました。

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まずは、琥珀パールミルク氷です。

通常のミルク氷に、エスプーマと呼ばれる泡状のムースがトッピングされています。

かき氷のミルクシロップは濃厚ではないため、トッピングされたミルク味のエスプーマとカラメル味を混ぜて食べることになります。

ところで、今話題になっているエスプーマとは一体何なのでしょうか。

エスプーマ(ESPUMA)とは、スペインの料理店「エル・ブジ」の料理長フェラン・アドリアによって開発された料理。またはその調理法、調理器具のことを言う。

亜酸化窒素を使い、あらゆる食材をムースのような泡状にすることができる画期的な調理法として、注目を浴びている。 なお"espuma"とはスペイン語で「泡」を意味する。

専用の器具に材料を入れ密封し、亜酸化窒素ガスのボンベでガスを封入し、器具全体を振る。ノズルを操作すると、食材が泡状になって出てくる。

なお、日本では亜酸化窒素ではなく、二酸化炭素で代用するのが一般的である(亜酸化窒素が日本において食品添加物として認められたのは2006年4月であり、代用として使われていた二酸化炭素を使った器具が広まっているため)。だが近年になって亜酸化窒素を用いた器具も認可され、発売されている。

日本においては、「エル・ブジ」で働いていた日本人シェフ山田チカラが、様々なエスプーマ料理を考案し、各メディアに紹介し広く認知されるようになった。(ウィキペディアより引用)


要するに、パンケーキハウスやスターバックスなどでよく見かける、ミルクやクリームを泡状にしたトッピングのことですね。

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次に、アッサムミルクカスタードです。

かき氷に、しっかりとした紅茶味のアッサムシロップがかかっていて、かき氷の真ん中にはカスタードクリームが入っています。

また、ご覧のとおりミルクエスプーマとオレンジがトッピングされているため、多彩な味を楽しむことができます。


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あらゆる食材を泡状にできるエスプーマ(調理法)は、料理界のイノベーションであり、新たなトレンドになって行くものと思われます。(既にトレンドですね。)

見た目と食感が斬新で、食材を選ばず、かつ設備投資にそれほどお金がかからないとなれば、多種多様なエスプーマ料理が提供されるのは必定ではないでしょうか。

ただ、かき氷に限って言えば、見た目と食感の斬新さだけではなく、淡雪のようなきめ細かなかき氷と人工甘味でないナチュラルなシロップの組み合わせがあくまでも基本になると思われます。

したがって、淡白な食感と味覚のエスプーマミルクはこれで良いと思われるのですが、やはりミルク氷を謳うのであれば、ベースとなるシロップは淡白なミルク味ではなく、濃厚なミルク味であることが必要条件になるのではないかと考えています。

春うらら、桜咲く古都奈良へお越しの折には、ならまちのもちいどのセンター街の「夢CUBE」に立ち寄られて、「ほうせき箱」のエスプーマかき氷をご賞味されるのはいかがでしょうか。








住所:奈良市餅飯殿町12番地
℡:0742-93-4260
営業時間:10:00~19:00(かき氷は11:00~)
定休日:木曜日

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# by kokokara-message | 2017-04-01 11:52 | おいしいかき氷 | Trackback | Comments(0)

ゆき亭のオムライス

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「ならまち」にある、オムライスと洋食の店「ゆき亭」に行って来ました。

「ならまち」と呼ばれているこの一画は、奈良時代に飛鳥から移転した元興寺(元法興寺)の旧境内で、今も残る極楽坊(国宝)、禅室(国宝)、大塔跡や小塔跡などは、当時の伽藍配置を今に伝える貴重な痕跡と言えそうです。

また、行政地名として奈良町は存在しませんが、江戸末期から明治にかけての町屋が残る旧境内一帯が、今では「ならまち」と呼ばれています。

落ち着いた風情と懐かしさを漂わせる「ならまち」には、町屋を再利用した素敵なショップが数多くあり、奈良観光のホットスポットになっています。

そして、今回ご紹介する「ゆき亭」は、ふわとろのオムライスが名物となっています。

オムライスにはスープとサラダが付いていて、ソースはデミグラスか、ケチャップのいずれかです。(写真はデミグラスソースです。)

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オムライス以外にも下記の洋食メニューがありますが、オムライスセットを注文している人が圧倒的に多いように思います。

また、リーズナブルな値段で食後のコーヒが付けられるのは、とても有難いことですね。

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ところで、観光地での飲食店等の検索に、食べログなどのインターネット情報は欠かせないものになっています。

そして、検索の上位に位置づけられた情報には、数多くの観光客が集中することになってしまいます。

「ゆき亭」は、インターネット検索上位にあるため、日本人以外にも多くのアジア系外国人観光客が訪れていました。

おそらく、外国の人は、自国の人以上に、インターネット検索上位の情報にアクセス(横並び)する傾向が強いのではないでしょうか。

なぜなら、普通(インターネット以外)ならアクセスしない情報でも、インターネットを介すれば容易にアクセス(横並び)することができるからです。

インターネットに「情弱(じょうじゃく)」という言葉がありますが、では「情強(じょうきょう)」とはどのような人物を指すのでしょうか。

上記の例からすると、インターネットに詳しいがゆえに、検索上位の画一的な情報にアクセス(横並び)してしまう人になるのかもしれません。

つまり、インターネットは情報を拡散させるだけではなく、特定の情報にアクセスを集中(横並び)させることが得意と言えそうです。

また、日本人の意思決定方式として、相互参照と横並びを挙げることが出来ます。

日本人の相互参照と横並びは、各々が自由意思で選択した結果の横並びではなく、同調圧力の結果として「みんな」と横並びする意思決定方式と言えそうです。

このことからすると、インターネットで検索上位の画一的な情報を選択せざるを得ない状況と、同調圧力から横並びの画一的な情報を選択せざる得ない状況とは、とても似た構図にあるように思われます。

つまり、インターネットであっても相互参照であっても、自分以外の「みんな」か選んだものを自分自身で選び直す(シンクロする)意思決定システムということです。

自由意思のようであって決して自由意思ではありえない、少しシニカルな言い方をすれば、ケインズの美人投票のようなものでしょうか。

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もう少し、蛇足ながら。

グローバリゼーションの本質のひとつが情報化と言われたように、グローバリゼーションは、あらゆる情報の差異を見つけては均質化して行くものであると思われます。

また、同時に差異を見つけては情報を分類して行くものでもあると思われます。

例えば、異質と思われた情報であっても、概念化(言語化)が可能となれば、その情報はどこかの引き出しに分類されて、やがて社会に包摂されて行くことになります。

一方、同質と思われていた情報であっても、概念化(言語化)が困難となれば、規格外のレッテルを貼られて、やがて社会から排除されて行くことになります。

要するに、グローバリゼーションの情報化とは、情報の概念化(言語化)とカテゴリー化のことであって、様々な情報を鋳型の中にはめ込んで行く作業が「情報処理」と言うことになります。

そして、社会の至る所で「情報処理」が繰り返されて行くと、やがて社会は二極分化し、各極は細分化されて、グラデーショナルな社会が出現することになります。

まず、経済面では、資本主義における「情報処理」の要諦である「選択と集中」が繰り返されると、やがて富の偏在が生じ、社会の経済格差が拡大することになります。

文化面では、階層社会における「情報処理」の要諦である行動様式(規範)の差異が顕在化すると、隣人同士の話が通じず、コミュニケーションが困難になります。

つまり、グローバリゼーションは期待した自由でフラットな社会ではなく、それとは真逆の経済的、文化的に格差のある階層社会を実現させてしまったということになりそうです。

そして、かような近代(モダン)を超克し、自由でフラットな多文化共生社会の実現には、ポストモダンの左旋回が必要条件になってくると考えているのですが、さていかがでしょうか。

最後は気を取り直して、早春の奈良にお越しの折には、ぜひならまち「ゆき亭」に立ち寄られて、ふわとろオムライスを食されるというのはいかがでしょうか。

(おわり)

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住所:奈良市高御門町4-1
TEL:0742-26-0611


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# by kokokara-message | 2017-03-04 13:37 | 奈良 | Trackback | Comments(0)

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奈良ホテルは、明治42年(1909)創業の日本を代表する老舗のホテルのひとつです。

その土地と建物、調度品等はJR西日本が所有し、JR西日本と近鉄都ホテルが50%づつ出資した株式会社奈良ホテルが運営を担っています。

奈良ホテルの事実上のオーナーはJR西日本であることは、地元奈良でもあまり知られていないことかもしれません。

奈良ホテルの経営母体は、国営(鉄道院、鉄道省)、公営企業(国鉄)、民間企業(JR西日本)と移り変わって行きますが、初期の数年を除けば一貫して鉄道関連であり続けたということです。

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奈良ホテル(本館)の設計は、日本銀行本店や東京駅の石積み煉瓦造りで有名な辰野金吾博士です。

但し、奈良ホテル(本館)は、ご覧のような純和風二階建て木造建築となっています。

これは、先行して建てられた帝国奈良博物館(現在の奈良国立博物館)の評判が思いの外悪く、奈良では依然古式ゆかしい木造建築が好まれていたようです。

このため、奈良ホテル(本館)は、当時の最先端技術である石積み煉瓦造りではなく、純和風の二階建て木造りとして建築されました。

奈良ホテル(本館)は、辰野金吾博士設計の現存する貴重な木造建築のひとつと言えそうです。

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では、奈良ホテル(本館)の玄関を入ってみますと、正面にご覧のような大階段が見えてきます。

そして、この重厚な赤じゅうたんの大階段は、館内屈指の写真撮影スポットにもなっています。

ホテルの説明によれば、被写体は大階段下から7段目の向かって右側手すりに寄り掛かり、カメラは大階段向かって左側からローアングルで撮影するのがベストショットになるとのこと。

遠近法によって、被写体が実際よりも痩せて写るのが特徴とのことでした。

また、奈良ホテル館内には数多くの美術品&調度品が存在しています。

そして、そのいずれもが歴史的、文化的に高い価値を持ったものであるとのことです。

例えば、本館玄関の右側の壁(フロントの向かい側)に掛けられている上村松園画伯の「花嫁」(下の写真)は、なんと数億円の価値があるとのこと。

これ以外にも、大正から昭和にかけて鉄道省(当時)が特注した数多くの美術品&調度品が、何の惜し気もなく館内に飾られていました。

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また、100年以上の歴史を持つ奈良ホテルには、皇族を始めとする、数多くの貴賓や来賓が滞在しています。

大正11年(1922)にはアインシュタイン博士、昭和11年(1936)にはチャールズ・チャップリン、昭和12年(1937)にはヘレン・ケラー。

その後もジョー・ディマジオ、マーロン・ブランド、オードリ・ヘップバーンらが奈良ホテルに滞在しました。

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上記の写真は、本館1階ロビーの「桜の間」と呼ばれる部屋です。

それほど広くはありませんが、美術品&調度品の豪華さは、まさに奈良ホテルの伝統と格式を象徴してるかのようです。

即位後に滞在された天皇陛下と皇后陛下がこの部屋へお越しになられて、向かって左側一番奥のソファ(平成の大時計の向かい)に腰を掛けられたとのことです。

また、同じ「桜の間」には、アインシュタイン博士が実際に弾いたとされるピアノ(下記の写真)が当時のロケーションのままで保管されています。

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アインシュタイン博士のピアノは、終戦後GHQの接収から逃れるために、元あった奈良ホテルから旧国鉄大阪鉄道管理局舎へ一時的に移されることになります。

その後暫く、アインシュタイン博士のピアノは世の中から忘れ去られた存在になってしまうのですが、やがてJR西日本時代になると、アインシュタイン博士ゆかりのピアノであると再評価されることになります。


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そして、上の写真のマントルピースの形状とその位置関係から、ピアノは奈良ホテル本館1階ロビー「桜の間」にあったものであることが判明します。

百年の時空を超えて、アインシュタイン博士のピアノは、当時のロケーションのまま、時間が止まったままのマントルピースの隣りにそっと置かれていました。


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次に、奈良ホテルの客室をご紹介します。

下の写真は本館ではなく、新館の客室(スタンダード)の様子です。

新館は昭和59年開業ですが、ご覧のとおり、広々としていて、リニューアルされたのか、とても真新しい感じがします。

本館は大正初期に設置されたセントラルヒーティング(スチーム暖房)が今も稼働していますが、新館では通常の電気エアコンが稼働していました。

客室(スタンダード)の広さや快適性を優先するのなら、本館よりむしろ新館を選ばれた方が良いのかも知れませんね。

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ところで、新館の客室には、下の写真イミテーション(模型)のマントルピースが備え付けられています。(むろん暖房機能はありません。)

大正以来時間が止まったままの本館のマントルピースは、今では客室の重厚なインテリアとして往時をしのばせる役割を担っています。

このことからすると、おそらく新館に設置されたマントルピース(模型)は、本館のパロディになるのではないかと思われます。

「真実(神)は細部に宿る」とも言われますが、奈良ホテルのディテール(細部)に対するこだわりには、感服するものがあります。


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奈良ホテルはその創業地を決めるに当たって、奈良県や奈良市からは東大寺の南側の土地(奈良公園あたりでしょうか。)を打診されたようです。

しかしながら、打診されたその土地は平坦で見晴らしが良くなく、このため近隣で眺望が良いとされた当時飛鳥山と呼ばれていた現在地に決まったようです。

小高い丘に建てられた奈良ホテルは見晴らしが良く、本館1階のメインダイニングルーム「三笠」からは、ご覧のように、興福寺の五重の塔を見渡すことが出来ます。


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朝食は、本館1階のメインダイニングルーム「三笠」で、茶がゆ定食をいただきました。

朝食のメニューには、茶がゆ定食、和食、洋食の三種類があります。

ホテルの説明では、ホテルマン泣かせのメニューは「洋食」であるらしく、宿泊客はパンの種類、卵の焼き方、ジュースの種類をリクエストすることができます。

自分の好みにこだわる常連客には、「洋食」メニューが一番の人気であるようですね。

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奈良ホテルは、県内随一の格式ある高級ホテルとされています。

遠方の方ならともかく、その敷居の高さから、県下や近隣府県にお住まいで、奈良ホテルに宿泊された経験をお持ちの方はそれほど多くはないのではないでしょうか。

また、奈良ホテルの高級ダイニング「三笠」は知っていても、実際にそこでサービスを受けたという経験をお持ちの方はそれほど多くはないのではないでしょうか。

今回、奈良県「ふるさと割」を利用させていただくことで、奈良ホテルの宿泊体験させていただくことになりました。

そして、奈良ホテルの各論については、上述してきたとおりです。

最後に、奈良ホテルの総論ですが、なにより他のホテルに比べてホテルマンの数が多いように感じました。

それは、目に入るフロントや玄関付近の人口密度が高いため生じた錯覚であるのか、それとも奈良ホテルが、JR西日本ホテルズや近鉄都ホテルから、十分に距離が取れた唯一無二のホテルとして存立できているからなのか。

答えは定かではありませんが、いずれにせよ、奈良ホテルは、建造物や美術品&調度品のみならず、働く人(ホテルマン)に古き良き時代の伝統と格式を感じることのできる、有形無形のアセット(資産)を保持した素晴らしいホテルであると思われます。

奈良ホテルはただ高級であるだけではなく、楽天やじゃらんの旅行サイトから申し込めば、比較的リーズナブルな料金で利用することもできます。

まだまだ春が待ち遠しい時節柄ですが、奈良ホテルの数多くの有形無形のアセット(資産)の中に、あなただけのスプリング(春のときめき)を見つけに行く旅を計画されるのはいかがでしょうか。

(おわり)

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# by kokokara-message | 2017-02-18 18:24 | 奈良 | Trackback | Comments(0)

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今から4年前の平成22年9月25日に、相愛学園本町学舎(大阪市中央区)において、中沢新一氏、内田樹氏、釈徹宗氏によるトークセッションが行われました。

テーマは「人文科学の挑戦」ということであり、前半では、人文学再考という観点から人文科学の現在とこれからの位置づけについての討論がなされました。

また、後半では、これからの日本人のあり方というテーマから始まり、大阪人や大阪という都市の特殊性にこそ日本人が生き残る鍵があるのではないかという討論がなされました。

このトークセッションの内容は、平成22年10月17日朝日新聞日曜版に掲載されましたが、ここでは知の巨人であるパネラーの先生方のトークを、少しだけ詳細に紹介させていただきます。

ただ、当日司会から録音ができないとの注意があったため、以下の内容はあくまで当日聞き取ったメモを頼りに再現したものとなっております。

従って、聞き漏らしや聞き違い、不理解も多々あると思われますが、とりあえずは知の巨人のトークセッションの雰囲気だけでも味わっていただければ幸いと思います。

どうぞお楽しみください。

***********************************

<トークセッション>

【釈徹宗】 
人文科学とは何なのでしょうか。

【中沢新一】 
人文科学とは搦め手であり、このことにより人文科学は自身の延命を図ろうとしているのではないでしょうか。

【釈徹宗】 
本来、人文科学とはつなげる学問であり、ヒューマニティ(人間)が要となってつなぐということになっていると思うのですが。

【中沢新一】 
大学の歴史は、神学部、そして自然科学、人文科学から始まることとなりますが、現在は、学問をつなげるものが法律や技術となってしまっているようです。

従って、人間(ヒューマニティ)とは何か、をベースにおいて考えるということが求められているように思われます。

結局、すべての営みをつないでいるのは人間(ヒューマニティ)ということになるのですから。

【釈徹宗】  
人文科学は、人間(ヒューマニティ)をベースにする学問であっていいということですね。

【中沢新一】 
しかしながら、今大学に求められているのは、人間(ヒューマニティ)をベースにするようなものではなくなりつつあるということです。

従って、この時期にあえて人文科学を前面に出すというやり方は、ドンキホーテともいえるのかもしれない。(笑)

【内田樹】 
私は、ミッション系の大学(当時)で教えていますが、ここ数十年間、大学は世俗化し、建学の精神である宗教色を薄めることに終始してきたように思われます。

つまり、建学の精神である宗教を前面に出せば、それ以外の者を排除することになります。

また、教育理論がはっきりすると、これもまた排除になってしまいます。

現在1200の大学がありますが、個々の大学は、唯一無二性を掲げて開学をしてきたはずです。

ただし、それを守ることと、現在のマーケットが要請していることとは、矛盾することになっているということ。

結局マーケットの要請を受け入れれば、どの大学も同じような大学にしかならない。

その結果として、スケールメリットによって、小さな大学は淘汰されてしまうことになるということです。

そもそも教育とは、教えたいことがあるから始まるものではないでしょうか。

大学という組織そのものの存続の問題は、その次になるはずです。

従って、学生からは選ばれないというリスクを引き受けてでも、教えたいことを大切にするということが重要になると想うのですが。

【中沢新一】 
多摩美術大学(当時)で教えていますが、多摩美術大学にはナルシシズムの学生と教授が多いので困ることがあります。(笑)

今の人文科学が虚学ではなく、生命を呼び込むためには、アート、芸術が必要と考えています。

芸術人類学という分野では、芸術やアートが経済やその他いろいろなものとつながっていくことになると思います。

【釈徹宗】  
人文科学は、つなげるよろこびであると思っています。

ものを考える手順やスタイルを習得することは、いろいろな面に汎用することができます。

そして、つながることの喜びを味合うためには、専門性とそれ以外のことを同時に行うことが必要ということであり、それらがやがてつながってくると思います。

大学というある時期に、ものとものをつなげるトレーニングが必要ではないでしょうか。

【内田樹】 
ネアンデルタールの脳の機能は、1対1対応であったらしいのですが、ホモサピエンスになると脳の容量を増やすことができなくなったために、同型性を見出し、組み合わせで対応するようになったらしい。

つまり、同型性を発見しつなげて考えるということで、今まで経験したことにない状況でも、なぜか正解が分かるようになってくるようになります。

初めての問題でも答えが分かるようになるのは、縦(1対1対応)ではなく、横(多対多対応)につながっていくということですね。

クロマニヨンである現在人は、このような考え方をしているようです。

また、本当に頭のいい人とは、思いがけないところに、同型性を見出すことが出来るような人ではないでしょうか。

小学校の教諭に課題図書として、マルクス「共産党宣言」、マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、レビィー・ストロース「悲しき熱帯」、福沢諭吉「福翁自伝」などの10冊を選定したことがあります。

まずは、選んでみてから、その中にどのような同型性があるのかを自分で見出すことになるのではないかと思います。

また、求められている人とは、頭がいい人ではなく、橋本治氏のような頭が丈夫な人ではないでしょうか。

頭が丈夫な人とは、普通の人では入らないようなことが入り、その中で二つのものをつなげてしまうような人のことではないでしょうか。

【釈徹宗】  
子どもに求めることは、頭がいいことではなく、頭が丈夫であることですね。

決まったもの、既存のものを購入しただけでは、頭は丈夫にはならない。

頭を丈夫にするには、手の内を明かさないで、自ら気づくことの喜びを与えることが必要ではないでしょうかね。

禅僧が出す典座(てんぞ)料理では、太い箸と低い食台で食べるうちに、自然と美しい作法が身につくようになるようです。

【中沢新一】 
その太い箸は、イニシェーション(通過儀礼)から始まったのでしょう。

イニシェーションとは、いじめの知恵のことであり、育てるためにいじめる知恵ともいえそうです。

仏教には、人を育てるための古い知恵が形を変えながら今も取り入れられています。

仏教は、もともと生活の中にあった日常的なものを経典の中に取り入れています。

これが、仏教の素晴らしいところです。

仏教はある意味、人文科学(ヒューマ二ティ)が一番モデルとするところではないでしょうか。

しかしながら、今では仏教学者は文献学者となってしまっているところがあり、仏教知らずの仏教学者という面もあるようです。

仏教との対比からすると、キリスト教では中世に魔女狩りが行われたことがあります。

魔女とは、人類の知恵(薬草の知恵など)を継承してきた人のことであって、キリスト教では生活の中にあったこのような人類の知恵を抹消しようとしたことになります。

【釈徹宗】  
仏教でも、禅の公案は、あえてダブルバインドをかけているようなところがありますね。

つまり、決まった答えがないということ。

多様性を認めるということは、結局自己決定をするしかないということになります。

しかしながら、自己決定をするということは大変辛いことでもあります。

【中沢新一】 
自分が大学のときには哲学をする人が多かった。

そして、儒教などの東洋哲学は、今のヨーロッパの学問体系とは全く違うものであることを知りました。

それは、先生の教える仕方が、全く違っていて、多様であったということから。

このため、ヨーロッパの教育は一面でしかないことが分かりました。

チベットでは、お経を反復し、リズムをとり、体をつかうという修行を行います。

そして、「心」を学ぶことになるのですが、そうすれば人生は平らに生きられるようになるといわれています。

また、チベットでは本は読まなくていいとされていましたが、これはギリシア学問体系とは全く違うものといえそうです。

人文科学(ヒューマニティ)では、「心」という普遍性から考えることをしないといけないと思います。

異種領域をつなげてしまうのは、比喩の力(カトレアのような女性など)であり、それは人間の力そのものでもあります。

チベットでは「心」はどこから来るのか、と問われたことがありましたが、うまく答えにはならなかった。

【内田樹】 
体を介して学ぶということは、時間をかけて学ぶということと同じであると思います。

時間を与えるということが重要なのでしょう。

時間モデルとは、母性モデルであり、「ちょっとまってね」ということになります。

これに対して、無時間モデルは、父性モデルであり、時間をかけることはしない。

つまり、即断即決のビジネスのターム(用語)ということになります。

人の成熟には長い時間を要することになります。

また、時間がたてば、文脈が変わり、意味が分かってくるということもあります。

ダブルバインド状態のような精神症状は、時間をかけるしかないといえそうです。

たとえば、死んだり、老衰したり、成熟したりするということもあるのですから。

タイム イズ タイム(時間は時間)であって、決してタイム イズ マネー(時間はお金)ではないということですね。

【釈徹宗】
確かに、時間をかければ人は変わるものですね。

大学の4年間が学びの場になるということですね。

仏教文化と音楽が同時に設置されている唯一の(相愛)大学では、仏教音楽も学ぶことが出来ます。

【中沢新一】 
仏教と量子力学は大変似ているところがあると思います。

物理の法則はひつつの原因にひとつの結果が対応する因果関係ですが、量子力学では原因も結果もひとつではないと考えるからです。

それらを並べたもの(多対多対応)をマトリックスと呼びますが、マトリックスとはサンスクリット語で、マトリー(子宮、慈悲)が語源となった言葉です。

従って、ある原因が変化すれば、結果も含めたマトリックス全体が変わってしまうことにもなります。

また、量子力学ではダブルバインド状態が発生することもあるのですが、量子力学をやっている学者はこのことが分かっていないような気がします。

(多対多対応という)マトリックスは、自然科学と人文科学をつなげることになるものといえるのではないでしょうか。

そして、それをつなげるのが、やはり人間の頭ということになるということですね。

【釈徹宗】  
異物は排除するのではなく、いろいろと抱え込むことも必要であると思います。

他者や異文化は確かに痛みを伴うものですが、いかに引き受けるか、そのスタイルが問題となるのではないでしょうか。

【中沢新一】 
マートリー(子宮)は、異物への抗体反応を解除していくということになります。

そして、異物とともに自分を変化させていくというのが「母」ということになりますね。

異物を攻撃しないで、取り入れていくということになりますね。

【釈徹宗】  
学問は自分を棚上げにすることが出来ますが、仏教は自分を棚上げにすることが出来ないものです。

不機嫌にすることで、場を支配しようとする人がいますが、そのような人は自分を棚上げにしてしまっているのではないでしょうか。

ところで、中沢先生も、内田先生もいつも機嫌がいいですね。

(前半終了)

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【釈徹宗】
さて、日本人論といいますか、日本人のあり方についてお伺いしたいのですが。

【内田樹】 
ガラパゴス化がいいのではないでしょうか。

つまり、日本の閉鎖性そのものが、日本のガラパゴス化ということですね。

21世紀の日本の国家戦略として、先端的なガラパゴス国家を目指すべきではないでしょうか。

超高齢化、超少子化、人口減少化、右肩下がりの経済成長が、現在の日本の抱える課題といえます。
   
日本人は、これらの課題にくずぐずしながらも、老いや病と伴に、機嫌よく、愉快に生きればいいのではないでしょうか。

明治の初めの頃の人口は、5000万人でした。

人口の減少は、日本が抱える多くの問題を解決することになるのではないでしょうか。

日本は、これから未知の条件に突入することになりますが、発想を切り替えて、創発的に、創造的に、適用していかなければならないということです。

いずれヨーロッパ先進国も少子高齢化が進み、人口減少になりますから、そのアドバンスを利用してガラパゴス先進国になればいいのではないでしょうか。

また、日本は近代化はしても、前近代を抹殺することはしてこなかった。

このため、日本人には普遍的ともいえる人間性が、今も生き残っているように思います。

日本人がガラパゴス化する(閉鎖性、グローバル化とは距離をとる)ことになれば、日本は唯一普遍的な人間性をもったヒトが生き残る場所となるのではないでしょうか。

【釈徹宗】
以前に聞いた話では、合理的な構造をした集合住宅(グループホーム)は、誰にとっても住みにくいものになってしまうということのようです。

つまり、合理性だけを追求するよりも、合理的ではない部分があった方がいいということではないでしょうか。

では、日本文化のありかたというのは、これからどうなっていくのでしょうか。

【中沢新一】 
日本文化は、とても繊細で、目に見えにくいところがあります。

従って、壊れていくことになったとしても、実際には分からないのではないでしょうか。

壊れてしまうことにこだわらないというのなら、日本文化は「なっちゃって」ということでもいいのではないでしょうか。

【釈徹宗】
日本人は、上機嫌で、ぐずぐずしながら、「なっちゃって」ということでいいということですね。

では、この大阪という都市に未来はあるのでしょうか。

【中沢新一】
私は、大阪アースダイバーをやっています。

縄文時代の大阪の陸地はというと、上町台地と南河内のあたりだけでした。

なつかしい風景はやがてなくなり、変化してしまうことになりますが、大阪はその地形を変えながらも、現在も古代にあった構造を残しているように思います。

平松大阪市長(当時)によれば、大阪は形状記憶合金のような都市ということです。

つまり、もはや原形はとどめていないが、その構造だけは残しているということです。

【内田樹】
私は、大阪の土地の力としては、謡曲「弱法師(よろぼし)」が思い浮かびます。


*「弱法師(よろぼし)は、俊徳丸伝説を下敷きにした現在能。四天王寺を舞台とする。観世元雅作。他の俊徳丸伝説より悲劇性が高く、俊徳丸は祈っても視力が回復せず、回復したような錯覚に陥るだけである。 題名は普通「よろぼおし」と読むが、謡曲の本文中では「よろぼし」と読む。(ウィキペディアより引用)


四天王寺西門から、お彼岸にながめる日想観(じっそうかん)がそうですね。


*日想観(にっそうかん、じっそうかん)とは「観無量寿経」に説かれる修法で、夕陽を見ながら極楽浄土を観想する16観の初観。「観無量寿経」には極楽浄土を観想する十六の行法が示されていますが、その一番目に示されているのがこの「日想観」です。この後、水想観、地想観、宝想観、宝池観等々が示されています。(一心寺ホームページ等より)      

また、謡曲の「高砂」には、兵庫の相生から大阪の住ノ江へと向かう中世の風景が描かれています。


*「高砂(たかさご)」 は能の作品の一つ。相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐ大変めでたい能である。「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり」(ウィキペディアより引用)

このように、大阪には、古代から海の上に引かれていた東西の方向の力を感じることができます。

これは、古代の大阪のコスモロジーなのでしょう。

【中沢新一】
古代の大阪には、太陽信仰があったといえます。

なかでも、高安山が一番重要とされていた場所らしい。

古代の大阪は海の世界であり、海人族は星と太陽を信仰していたようです。

また、住吉大社(大阪市住吉区)は、星と太陽を信仰しています。

大阪は、(天体を軸とする)抽象的な空間として創造された都市といえそうです。

従って、大阪は抽象的であるがゆえに、その地形が変わっても、原型としての構造は残しているということですね。

【釈徹宗】
話は変わりますが、大阪人は正解をいうよりも、むしろ流れを大切にするようなところがあるように思うのですが。

【中沢新一】 
大阪人には、都市の人を感じます。

つまり、むきだしの形ではやらないということ。

また、批判はあってもその場は壊さないということ。

【釈徹宗】  
つまり、上手に合わせるのが大阪人ということですね。

自分の主張を出すよりも、自分を括弧に入れながら、流れに合わせることができるのが大阪人ということですね。

【内田樹】 
東京人は、(緩衝帯のない)出会いがしらといえそうです。
   
東京での人間関係は、使い捨てが基本となっているように思われます。
   
東京は、巨大な都市になっていくほど、人を使い捨てにしていくようになったと思います。

メディアの世界が、その典型ではないでしょうか。

人がタレント並みに消耗品あつかいされるのは、ある意味開放性ということもできますが、それは代わりがいくらでもあることに他ならない。

従って、寄り添っていくためには、閉鎖性であることが必要になると思います。

つまり、ここが必要であって、この関係を大切にするということですね。

大阪人は限られた人間としか付き合えなかったから、その関係を大切にするしかなかったということですね。

これに対して、東京は開放性であるため、(機能面から)人間を選択することが可能であったということになります。

【中沢新一】 
東北の人は、自分たちのことを「東北人はうそつきだからな」といいますよね。

もちろん、そういっている自分も含めて、東北人のことを信用をしているのですが。

【内田樹】
東北の人といえば、少し前に、またぎの人と話をしたのですが、どうも我慢できないのがエコの人であるらしい。

つまり、人と自然との関係には、いい面と悪い面があるにもかかわらず、エコの人のように、いい面だけをいうのは、嘘つきということになるわけです。

【中沢新一】 
宮沢賢治には東北人の毒というものがありますが、その毒を取ってしまえば、エコの人になってしまいます。

エコの人は、あるところに理想を創ろうとしますが、その理想のためには、別のところで破壊があるのが当然となっているのではないでしょうか。

【内田樹】 
結局、人は相互関係の中で生きていくしかない、ということになるのではないでしょうか。

つまり、与えられた環境の中で生きるしかないという覚悟を持つということですね。

東京人は、世界は広くて、いくらでも代えがあるという発想を持っていますが、これが東京人のマナーになってしまっているといえそうです。

【中沢新一】 
嘘(うそ)と真(まこと)の表現方法には、正解はないといえます。

嘘(うそ)と真(まこと)を使いこなす大阪人の表現方法は、私は気に入っています。

大阪人のように弱いところまで見せていくことが、ガラパゴス化(閉鎖性、特殊性)にもつながることではないでしょうか。

日本人は、このような方向、つまり嘘(うそ)と真(まこと)の表現方法で生き残るしかないのかもしれません。

大阪は海で、大阪人は都市の人。

京都は陸で、京都はいけずな人でしょうか。(笑)

【釈徹宗】  
日本人の持つ消費者体質というものを、何とかしなければならないのではないでしょうか。

たとえば、学びを購入するということが、そもそも間違いではないでしょうか。

自分というものは、社会のシステムの中に組み込まれて生きているだけで、だましだましに、その役割を果たしていくだけではないでしょうか。

【内田樹】 
先日、コレクティブハウスで共同生活する学生が、「若い人は子育てで相互支援しているけれど、介護を受けるだけの高齢者には得心が行かない」といっていました。

どうようサービスをすれば何が返ってくるか、商取引のモデル(無時間モデル)で考えていたら、共同体になることはないと思います。

つまり、共同体には時系列というものがあり、受け取ることと出すことには、その相手が違ってくることになりますが、全体では同じことになります。

従って、共同体においては、時間を頭においておくことがとても大切になります。

共同体は、長期にわたって継続することによってその帳尻があってくるものだからです。

また、共生することは、受け入れても、おつりがくるような関係を必要としているのかもしれません。

教育、医療、宗教が共同体といえるものではないでしょうか。

共同体には、自分が理解できない人間、いわば痛みを受け入れるには世代を越えた長い時間の中でつながっているという物語を読み取れることが必要です。

【中沢新一】 
私は、祖々母や祖母からは、よく昔の話しを聞かされました。

江戸や明治という19世紀は、祖々母や祖母から自分の中に入ってきているように思います。

このことは、自分が19世紀を生きているということにもなります。

このことを、言葉にして次の世代に伝えていくことが求められると思います。

共同体には、時間軸にそった、物語が不可欠といえます。

ガラパゴスをめざすのだから、時間軸に沿って体験を伝達することに意識的に取り組みたいです。

【釈徹宗】  
これからの時代を機嫌よく生き抜くために、物語を共有するための、聞き取る能力や語る能力を人文科学によって育てたいと思います。

(トークセッションの終了)

【筆者・蛇足ながら】
ご一読いただきありがとうございました。

トークセッションの最後は、共同性の条件で締めくくられています。

共同体は、利得だけではなく、歴史や風土や文化などを共有する、つまり同じ物語が共有できている唯一無二の人の集まりということになり、なによりも、共同体は存続することが至上の目的とされています。

しかしながら、現代社会では、人が同時に複数の共同体に所属するということは、決して珍しい現象ではありません。

このため、個人が、共同体間の立する価値の葛藤の中に巻き込まれてしまうということにもなってしまいます。

このような危機には、あくまで自分を基軸としながらも、その重心は文脈に沿って小刻みに移動させながら、十分に時間をかけて問題解決を図っていくしかないのかもしれません。

共同体主義(コミュリタリアニズム)は、「ハーバード大学白熱教室」のサンデル教授が提唱する立場でもありますが、このトークセッションにおいても重要視されることになりました。

「共同体」や「共同性」は、古くて新しい、現代社会の知の最先端に位置する、たいへん重要な概念といえるのかもしれませんね。

(終わり)

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# by kokokara-message | 2017-01-15 11:22 | 中沢新一×内田樹×釈徹宗・鼎談 | Trackback | Comments(0)

天文館むじゃきの白熊


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これから立春過ぎまでが、一年で一番寒い季節となります。

寒風にもめげず、南国鹿児島の天文館むじゃき(本店)で白熊を食べてきました。

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天文館むじゃき(本店)は、鹿児島市内随一の繁華街天文館にあります。

また、天文館むじゃき(本店)は食堂ビルになっていて、どの店でも、白熊を食べることが出来ます。


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メニューはご覧のとおり。

レギュラーサイズ以外にも、ミニサイズがあります。(ミニサイズが通常のかき氷の大きさでしょうか。)


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こちらが白熊です。

濃厚な練乳味を期待していたのですが、残念ながら練乳はかかっておらず、全体がやや人工的なミルク味と言った印象です。


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上から見るとご覧のとおり。

さくらんぼや干し葡萄、ゼリーなどで白熊の顔が作られています。(果たして白熊に見えるでしょうか。)


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次は、ミルク金時です。

金時はたっぷり乗っていましたが、ベースのミルク味が同じであったのが、少し残念でした。


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2018年は、明治150年です。

近代化の黎明「鹿児島」で、名物白熊を食してみるというのはいかがでしょうか。

場所:鹿児島市千日町5-8
電話:099-222-6904
営業時間:11:00~22:00(日・祝・7~8月は10:00~22:00)


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# by kokokara-message | 2016-12-30 15:10 | おいしいかき氷 | Trackback | Comments(0)

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誰も自分を必要としていない。

偉そうなことばかり言って、行動が伴わない人など誰が必要としましょうか。


気力、体力、胆力・・どれもないのなら、なおさらのこと。


誰が自分を必要としましょうか。


それであるのなら、他人は自分を必要としなくとも、自分はかような自分を必要としているのでしょうか。


結論から言うと、とりあえず生きていくためには、どのような自分であっても、自分が自分を必要とするとしか言えないと思われます。


つまり、消極的なものではあっても、自分は自分を必要としているは確実なことであると言えそうです。


では、自分は自分を必要としているのなら、果たして必要としている自分は自分(のもの)と言えるのでしょうか。


少々物騒ですが、あくまで思考実験として、ここで自殺について考えてみることにします。


自殺について考えてみるのは、自分が自分(のもの)であることを、明確にさせるためです。


言うまでもなく、自殺は、自分が自分(のもの)でなければ成就することのできない作業と言えます。


また、自殺は、自分が自分(の脳を含む身体)を必要とすることなしには、成就できない作業でもあります。

一般には、自殺は自分は自分を必要としていないので、自分は自分(のもの)である必要がないことが原因と思われているようです。

しかしながら、上記を対偶関係で考えてみると、自殺は、自分が自分(のもの)であって、自分が自分を必要とする作業ということになります。


つまり、自殺は、生きて行くことと同じで、自分は自分(のもの)であって、自分が自分を必要としていることが前提条件になってきます。

当たり前と言えば、当たり前のことですが。

さらにもう少し、あくまで思考実験として、もう少しだけ自殺についての考察にお付き合い下さい。

ご注意いただく点は、たとえ思考実験であったとしても、自分が自殺について考えていることを、決して他人には告げてはならないと言うことです。


これは、他人の困惑を避ける意図もあります、そもそも他人に告げること自体が、他人が自分を必要としているかどうかを試すことになってしまうからです。

元々自分は誰にも必要とされていないという認識から始まった論理なので、誰かに告げて試すこと自体が、すでに前提の認識が破たんしていることになってしまいます。


つまり、まず「誰も自分を必要としていない」という前提(認識)があって、が、しかし、「自分は自分を必要としている」という認識も一方にはあって、さらにひょっとすると誰かが自分を必要としているかもしれないという迷いが、自殺を考えている人の心理状態(カオス)ではないでしょうか。


この迷いの心理状態を自分なりに上手く処理できれば、極めてシンプルでプリミティブな結論である「誰も自分を必要としていないが、自分は自分を必要としている」に達することになると思わえます。

そして、「誰も自分を必要としていないが、自分は自分を必要としている」という結論は、別な角度から見ると、「世の中(世間)で頼ることが出来るのは自分だけ」という身も蓋もない無縁社会の結論になってしまいます。

ただ、ここで注意しておきたいことは、そもそも世の中(世間)は、有縁(うえん)ではなく、無縁でしななかったという当たり前な驚愕の事実です。

世の中(世間)が無縁なのは、今に始まった現象ではなく、太古の昔から、普遍的に、無縁(無常)であったという歴然たる真実でもあります。

したがって、世の中(世間)が常ならざるもの、つまり無縁(無常)であるがゆえに、今を大切にする(一期一会)ことしかできないと言う結論にも至ります。

つまり、先が見えず、すべてが万物流転してしまう世の中(世間)であるがゆえに、今を大切して生きる(一期一会)しかできないと言うことになるのではないでしょうか。

ヒーリングでは、「Here&Now」という言葉がとても大切にされています。

茶の湯における「一期一会」もまた、万物流転する世の中(世間)の絶望的な断絶から、連続した時間へと引き戻してくれる極めて貴重なキーワードと言えそうです。

さて、ここでお話しは再び自殺を考えている人(自分)へと回帰していくのですが、そもそも自殺を考える前提となった「誰も自分を必要としていない」という認識が正しいかどうかは、おそらく確かめようのない答えであると思われます。


ただ、一つだけ確実なことは、すべてが万物流転する(無常である)がゆえに、あらかじめ決まった答えはなく、縁(人間関係)が変われば、唯一無二と思えた答え(認識)もまた移り変わって行くだけということになります。


つまり、最初の「誰も自分を必要としていない」という非日常的な認識から、やがて「誰かが自分を必要としているのでは?」という認識へと移り変わり、そして「自分は自分を必要としているように、誰かが自分を必要としているかも・・」という極めて日常的で平穏な認識へと移り変わり、着地していくことになったわけです。

しかしながら、たとえ思考実験ではあっても、究極の非日常である自分の死(自殺)について考えたということは、自分の無常(無縁)感を自分の死という最低部まで深化させたことになると思われます。

その結果、これだけは疑えないと認識していた絶望的な「誰も自分を必要としていない」という認識さえも、所詮常ならざる自分の認識のひとつでしかないと理解ができたなら、究極の非日常である自分の死(自殺)というネガティブ思考は最低部でようやく底を打って反転し、カオス状態以前の連続した日常(世間)の中へと還って行くことができるのではないかと思われます。


そして、無常感がもたらす諦念だけではなく、諦念とは表裏の関係にある「今在ること」(一期一会)の有難さが同時に理解できるようになれば、もはや何事にも執着せず、サクサクとなすべきことだけを成す、後悔や憂いとは十分な距離が取れた「今を生きる」ためのポジティブ思考へと切り替えることができるのではないでしょうか。


少々荒療治かもしれませんが、かような自分の死(自殺)を介した思考実験によって、ネガティブな思考からポジティブな思考へと反転する、つまりは非日常(あの世)と日常(この世)を往還することで、「今在ること」(一期一会)の有難さが生き生きと実感できたならば、それは自分自身が今生まれ変わったということ、つまりは自分自身の死から再生したことを自画自賛しても良いのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。


なお、本稿と同じテーマの記事が、大人のなり方~思い出がいっぱい/H2O(全編)にもありますので、こちらもご一読いただければ幸いです。

(終わり)

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# by kokokara-message | 2016-11-23 16:17 | 我流方法序説 | Trackback | Comments(0)

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唐突ですが、信じるとは、いったい何なのでしょうか。

自分を信じる、他者を信じる、共同体を信じる、宗教を信じる、国家を信じる・・・。

詰まる所、信じるとは、さまざまな「物語」を信じるということであって、言い方を変えるなら、自ら進んで「物語」の中で思考停止するということになるのではないでしょうか。

思考停止というと何かネガティブなイメージになりますが、思考停止は考えるためのステップ(足場)であって、考えるための「枠組み」を与えてくれるものになります。

つまり、ヒトにとってフリーハンドの自由ほど危険なものはなく、ヒトが安全に考え続けるためには、ある程度不自由な「枠組み」が必要になってくるということです。

おそらく、私たちが束縛と感じる自分や他者の限界、そして共同体、宗教、国家といった制度は、このような不自由な「枠組み」のひとつと言えます。

真逆のようになりますが、自由に生きるとは、不自由と共存することであって、いかに不自由と親和的な関係が構築できるかにかかっていると言えそうです。

したがって、誰もが例外なく自由と不自由との共存という難題(アポリア)に耐えながら、生きていくしかない運命にあるのではないでしょうか。

ところで、信じることが考えるための「枠組み」になるとしたら、それはしっかりとした「枠組み」でなければなりません。

なぜなら、安心安全に思考停止することができなくなってしまうからです。

つまり、信じた「物語」が嘘であったり、はったりであったとしたら、自由に考えるための「枠組み」を得るどころか、自らの生命や財産を危険にさらすことになってしまいます。

したがって、かようなリスクから身を守り、安心安全に思考停止するためには、どの「物語」を信じるかをしっかりと考えておく必要があると言うことになります。

信じるためには、まずはしっかりと考えておくということになります。

これでは、先の「考えるためには信じなければならない」という命題に矛盾しますが、信じることと考えることのは入れ子状態であるため、まずはしっかりと考えることから始めなければならないということです。

それでは、信じるためには、しっかりと考えなければならないとしたら、いったい何をどのように考えれば良いのでしょうか。

自分について、他者について、共同体について、宗教について、国家について、・・・考えるということなのでしょうか。

少しだけ先回りして申し上げれば、「考えるための方法(作法)」について考えるということが、なによりも大事になってくると思われます。

そして、さらに先回りして申し上げれば、「考えるための方法(作法)」とは、自らの絶対化ではなく、自らの相対化がその要諦になると言うことです。

相対化と言うと分かり難いかもしれませんが、あらかじめ決まった答えには固執せずに、オープンマインドで外部に開かれた視点を保持するということでしょうか。

そのうえで、さらに真逆になってしまいますが、自らの相対化には、まずは自らの絶対化が必要になってくるということです。

ややこしい話になって済みません。

ただ、ここで言う自らの絶対化とは、自らを相対化するために必要な前提要件でしかありません。

つまり、自らの立ち位置を自らで決定する自らの絶対化は、自らを相対化するための戦略的な立ち位置でしかないということです。

したがって、たとえ自らを絶対化しても、絶対化した自分自身とは十分に距離をとって、自らを客体化する相対的な立ち位置が同時に求められているということです。

相対化とは、いったん絶対化した自分自身を括弧に入れて、自分自身を含めた関係性を俯瞰できるような醒めた視点の保持になるのかもしれませんね。

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では、たとえ戦略的かつ暫定的であったとしても、自らが選び取った立ち位置から見えてくる風景(現象)とは、一体どのようなものなのでしょうか。

おそらく、そこから見えてくる風景(現象)が、リアリティ(現実感)と呼ばれるものになると思われます。

リアリティ(現実感)とは、ヒトの眼や耳などの感覚器官から入力された情報が、脳で認知されて出現する現象(意識)と言い換えることができそうです。

現象学という学問領域では、現象(意識)、つまりリアリティ(現実感)を確かなもの(確実性)としてではなく、確からしいもの(信憑性)として扱うことになります。

つまり、目の前の現象(意識)が実体そのものと一致しているかどうかは「確か」でないが、ありありとしている様からは「確からしい」と言うことになります。

少し分かりにくいかもしれませんが、普段私たちの目の前にある現象(意識)は、実体そのものと一致しているとの確信のもとで暮らしているのが一般的と思われます。

しかしながら、現象学においては、目の前の現象(意識)と実体そのものが一致することの決定不可能性を採る立場から、リアリティ(現実感)はあくまで「確からしい」信憑性と言うことになります。

例えば、目の前にある現象(意識)と実体そのものが一致していると決定できるのであれば、リアリティ(現実感)は必ず現実と一致することになり、誰もが同じ現実を共有することになります。

しかしながら、目の前の現象(意識)と実体そのものが一致していない可能性があるとすれば、リアリティ(現実感)はあくまで個人に限定された一現実でしかなく、現実はヒトの数だけ存在することになってしまいます。

少し見方を変えるなら、リアリティ(現実感)は脳が描いたひとつのイメージ(現象)ということであり、自分の脳(主観)という閉ざされた領域から出ることのできない限界を持ったイメージ(現象)になるということです。

そして、さらにリアリティ(現実感)が脳の中に現れたイメージ(現象)でしなかいという側面だけが強調されると、現象学は「独我論」と呼ばれることになります。

たとえば、人と話が通じないと感じる瞬間があったとしたら、それはお互いのリアリティ(現実感)が相違しているだけのことで、リアリティ(現実感)の相違として捉えれば、必ずしも不思議な現象ではないということになります。

また、人と話をしていて話が通じていると感じる幸運な瞬間があったとしても、それはお互いのリアリティ(現実感)が一致したのではなく、たまたまお互いのリアリティ(現実感)の一部が重なり合っただけということかもしれません。

あるいは、話が通じていると感じられる瞬間があるとすれば、良くあることですが、他者が一方的に話を合わせてくれているだけのことかもしれません。

要するに、リアリティ(現実感)は個人の脳に現れたひとつのイメージ(現象)という立場に立てば、リアリティ(現実感)はヒトの数だけ存在し、したがって他者と話が通じないが一般となり、他者と話が通じることがむしろ例外になるのではないでしょうか。

現象学が「独我論」と呼ばれるのは、おそらくこのような観念上の思考実験をベースにして構築された学問領域であるためであると思われます。

ただ、生活実感として、取りつく島もない人間関係の隔絶を目の前にしてただ呆然と立ち尽くすという悲劇に遭遇したら、現実の多元性(独我論)に還元して理解せざるを得ない場面も多いのではないでしょうか。

つまり、誰もが同じ現実を生きているという楽観的な確証は持てず、各人が自分だけのパラレルワールド(独我論)の現実を生きているかもしれないという仮説です。

しかしながら、この仮説に依拠したとしても、根本的な人間関係の隔絶を解消できるはずもなく、ほんの少しだけ稚拙で拙速な問題解決が避けられる(留保する)くらいのものではないでしょうか。

ただ一方で、自分の中だけに閉ざされた主観と言えるリアリティ(現実感)が、外部に開かれた客観性(普遍性)へと繋がって行く瞬間が稀に存在します。

稀有な例ですが、自分だけのパーソナルな問題(主観)を突き詰めて行けば、ある時位相の異なった客観性(普遍性)へと繋がる瞬間があるということです。

但し、客観性(普遍性)はダイレクトにそれを目指して得られるものではなく、パーソナルな問題を経由することでしか到達することができない極めて稀な境地でもあると言うことです。

以上のことからすると、個別なリアリティ(現実感)が位相の異なる客観性(普遍性)へと繋がって行く可能性はあるとしても、本質的には自分以外のそれとは重なり合わない、孤独で孤立した多元的なパラレルワールド(独我論)の位置関係にあると言えそうです。

したがって、リアリティ(現実感)を支えているヒトの感覚や認知の個別性という限界を踏まえれば、今私たちが考えるべきことは、自らのリアリティ(現実感)を内部に向かって絶対化して行く「一元化=個別化」の方向ではなく、自分自身を疑ってかかる(懐疑する)、つまり外部に向かって自分を相対化して行く「多元化=多様化」の方向ではないかと思われます。

その結果、自らの軸足を半歩自分自身の外側にずらすことができれば、おそらく視界に入ってくる風景(現象)も変化して、自分はどのような「物語」を信じ、いかにしてパーソナルな問題を普遍性(客観性)へと繋げていくかを、自らが自らの身体のコンパスで指し示すことが可能になるのではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。

【追記】

最後までご一読いただきありがとうございました。

ご一読の上で、ご一読された内容をすべて否定してしまうようで大変申し訳ございませんが、少しだけお付き合いください。

脳科学においては、生物学的なヒトの脳の個別性はそれほど大きなものではなく、程度の差異(程度の問題)でしかないとされています。

養老孟司氏によれば、ヒトの脳が持つ特徴としては「両端を除いた真ん中あたり」がすべて普遍性と呼ばれることになるということです。

つまり、大半のヒトの脳の特徴は「同じ」あって、同じものを見て、同じように感じて、同じように判断しているということになるようです。

しかしながら、たとえ脳の特徴は「同じ」であっても、それぞれのヒトのリアリティ(現実感)が多元化したパラレルワールドになっているのは紛れもない事実です。

では、ヒトのリアリティ(現実感)が多元化したパラレルワールドになってしまっているその理由は何でしょうか。

おそらく、ヒトが帰属している集団の文化から受ける影響が強いからではないかと思われます。

文化とは、言うまでもなく先天的なものではなくて、後天的に帰属する集団からもたらされた二次的な脳への刷り込みということになります。

しつけや習慣などがそれで、その結果習得した固有な行動様式(エトス)が、リアリティ(現実感)の多元性をもたらす要因になっているということです。

ただし、本論考では、生物学的な要因であれ、文化的な要因であれ、自らを絶対化せずに、自らが自らの外に立つ相対化の実践を究極の目的としています。

大変勇気のいることですが、自らが所属する文化(集団)を絶対化せず、自らの文化(集団)を疑い、自らの文化(集団)を否定する、自らの文化(集団)の相対化が時に必要になるのではないかということです。

唐突な終わり方になってしまいますが、絶対化に対する相対化とは、詰まる所、出世間(プチ出家)のことではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。(笑)

(終わり)
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# by kokokara-message | 2016-10-30 09:17 | 我流方法序説 | Trackback | Comments(0)

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ヒトは、「知ること」によって成長すると言われています。

そして、これは教育における基本とも言われています。

「知ること」、つまり知識の習得が大切なのは当然ですが、それ以上に自分が「いかに知らないか」を知っておくことの方がより重要ではないでしょうか。
 
つまり、自分が「いかに知らないか」を知ることによって、ヒトは「知りたい」というモチベーションを賦活させることができるようになるということです。

「何でも知っている」という充足感は一見満ち足りた状態のように思われますが、少し見方を変えれば何もかも放棄した諦念の境地ということにもなります。

「いかに知らないか」を知っているということ、つまり無知と既知の位相差が自覚できていることが、ヒトの成長の原動力になっているということです。

また、ヒトが一生のうちで経験し習得できることは、ほんの一握りのことでしかありません。

この世界の大半は経験も習得もできないままに、ヒトはその人生を終えてしまうのが必定と言えそうです。

したがって、たとえどれだけのことを「知っていた」としても、それは大海の一滴でしかありません。

この事実に驚愕した先人たちは、自分の非力さにただ頭をたれながら、再び自己の思索へと戻って行ったものと思われます。

ヒトが成長して行くためには、「知るということ」について常に謙虚な姿勢でいることが求めらていると言えそうです。

昨今、このような謙虚さを欠いた、傲慢とも言える万能感に支配された自己愛型の主張に出くわすことが多々あります。

「すべて知ることができる(つながっている)」かのような幼児的万能感は、まるでインターネット社会におけるヒーローやヒロインを演じているかのようです。

もちろん、「知ること」、つまり知識の習得がいかに大切であるかは十分理解しているつもりです。

ただ、自分の既知がどれ程のものであったとしても、自分の無知を知っていることに比べれば、その総量は僅かなものでしかないということです。

ヒトが万能感に支配されずに生きて行くためには、「知っている」と思った瞬間、しばし立ち止まり、今一度考え直してみるという謙虚さが必要とされているようです。

なかには、全ての夢が適ってしまった(失われてしまった)ので、今はただ充足感(喪失感)に浸っていたいだけというヒトはいるかもしれません。

ヒトの脳と体には休息が必要です。

但し、いまだ夢が適っていない(失われていない)のであるなら、充足感(喪失感)に浸るのではなく、無知と既知の位相差(欠如感)を自覚し続けることが大事ではないでしょうか。

自分が「いかに知らないか」を知っているということ、つまり自身の欠如感の認識こそが、さらなる夢の実現に向けて自分を成長させる原動力になって行くと考えます。

では最後に。

「知っている」という充足感は余裕を想起させることから、ヒトから承認(評価)を得るためのポジティブな要因と思われがちですが、本当にそうなのでしょうか。

「知っている」という充足感は無知と既知をフラット状態にするため、位相差(欠如感)に起因する思索や行動化のモチベーションは起動せず、逆に思考停止や非行動化という停滞状況を引き起こすことになります。

何もしなくて良いことが許容されているのなら話は別ですが、一般にヒトが思考停止や非行動化に陥っている状態を積極的に承認(評価)するのは極めて稀なことではないでしょうか。

一方、「知らない」という欠如感は焦燥感と裏表の関係にあるため、どちらかと言えばヒトからの承認(評価)が得ることが難しいネガティブな要因と思われがちですが、本当にそうなのでしょうか。

繰り返しになりますが、自分が「いかに知らないか」を知っていることこそが、さらなる夢の実現に向けて自分を成長させるモチベーションの原動力ということでした。

つまり、「知らない」という欠如感こそが、無知と既知の位相差を埋めるための思索と行動化を促すため、その結果合目的的な成果が生じれば、ヒトからの承認(評価)は得やすくなるのが必定と考えるのですが、さていかがでしょうか。

そして、ヒトからの承認(評価)が得られるようになれば、やがてキャリアの扉は向こう側から自ずと開いてくる(力任せにこじ開けるものではない。)という理路については、またの機会にお話しをさせていただくことといたします。

(終わり)
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# by kokokara-message | 2016-09-24 23:50 | 夢とは何でしょうか? | Trackback | Comments(0)

トリックスター(全編)


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皆さんは、悪意や悪事の予感がしたという経験はないでしょうか。

それは、必ずしも自分自身に向けられたものとは限りません。

自分の周りの誰かに向けられたものなのか、そもそも誰に向けられたものなのか、はっきりとしないものかもしれません。

何かよくないことが起こるかもしれない予感や予期は、自分を取り巻く環境の変化、つまり、秩序が崩れてしまうことへの不安の表われといえるのではないでしょうか。

そして、それは今ある秩序を改変してしまおうとするいたずらもの、トリックスターの出現を予感しているのかもしれません。

では、トリックスターとは、一体何者なのでしょうか。

一時、六本木ヒルズの寵児であった頃のホリエモンが、経済界の人たちからはトリックスターと呼ばれていた時期がありました。

また、時代を先取りしたかのような言動を行っている一部の政治家などは、やがてトリックスターと呼ばれることになってしまうのかもしれません。

トリックスターとは、一般には子どもとされています。

これは、生物学的な意味における子どもということではなく、たとえ社会的地位を築いている場合でも、精神的にはまだ未成熟ということであれば、やはり子どもということになってしまうのではないでしょうか。

そして、精神的に未成熟な子どもであるトリックスターが示す行為行動の最大の特徴は、幼児的万能感と自己顕示欲ではないかと思われます。

例えが古くなりますが、往年のウルトラマンや仮面ライダーなどは、まさに子どものヒーローであって、幼児的万能感と自己顕示欲を現す象徴的存在であったと思われます。

但し、このような子どもにとってのヒーローの世界を、自分が生きている現実世界に適用したとしたら、さて、どのようになってしまうでしょうか。

おそらく、ヒーローの示す幼児的万能感と自己顕示欲が適用された現実世界は大きく乱れ、その中の人たちは大いに困惑することになってしまうのではないでしょうか。

このような混乱を起こさない人、つまりヒーローの世界と現実世界がきちんと峻別できている人が、大人と呼ばれる人と言うことです。

ところが、時として子どもが示す幼児的万能感と自己顕示欲が、子どもの個性や才能あるいは無類の勇気と勘違いされてしまうことがあります。

例えば、風変わりな芸能人や芸術家等の言動が、世間から賞賛されるという事例は決して珍しいことではありません。

ただ、短期的な評価は得られても、長期的に見てトリックスターが他者(社会)との繋がりを維持して行くことは極めて困難なことであると思われます。

つまり、今在る秩序をかく乱させ、他者(社会)との関係性を混乱させるトリックスターは、社会的にはネガティブな存在と看做されてしまうことになるからです。

トリックスターは、いたずらな子どもであるだけではなく、世間の鼻つまみものということになるのではないでしょうか。

ところで、今在る秩序をかく乱させ、他者(社会)との関係性を混乱させるトリックスターは、一方では閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる存在でもあります。

これはトリックスターの持つ大きな特徴であり能力になりますが、ただ、トリックスターが社会状況(家族状況)を改変させる存在であるためには、その前提として自分自身を守ってくれているセーフティネットの存在が必要になってきます。

繰り返しになりますが、トリックスターとは、精神的に未成熟な子どもということでした。

一般論として、子どもには親の庇護というセーフティネットの存在が欠かすことができません。

親の庇護というセーフティネットがあるからこそ、子どもはたった独りでもファンタジーの世界でヒーローを演じることもできるわけです。

そして、ネガティブな評価があった幼児的万能感や自己顕示欲も、親の庇護の基では個性豊かな冒険的な営為として見守られることになります。

一方、親の庇護(セーフティネット)を受けていない幼児的万能感や自己顕示欲は、世間と直に対峙するために社会不適応者の烙印を押されかねません。

つまり、子どもがファンタジーの世界を楽しむためには、親(あるいはそれに替わる者)の庇護というセーフティネットの存在が前提条件になってくるわけです。

そして、様々な悪意や悪事を仕出かした子ども自ら反省ができるのも、親(あるいはそれに替わる者)の庇護というセーフティネットがあるからではないでしょうか。

要するに、親の庇護(セーフティネット)を持つことができた子どもは、様々な冒険と反省を繰り返しながら、徐々に自分の世界を広げていくことができます。

一方、親の庇護(セーフティネット)を持つことが出来なかった子どもは、様々な悪意や悪事を繰り返すだけで、徐々に自分の世界を狭くしていくことになります。

上記からすると、トリックスターとは、後者の閉鎖的な狭い世界で生きてきた永遠の子ども(ピーターパン)ということになりそうです。

一般論として、人はセキュア・ベース(安全基地)を持つことで自分の世界を広げていくことができ、成熟した大人へと成長することになるのではないでしょうか。

ところで、最初に申し上げたとおり、トリックスターは、悪意や悪事を働くいたずらものということでした。

では、トリックスターの悪意や悪事に自覚はあるのでしょうか。

おそらく、トリックスターには、自らが悪意や悪事を働いているという自覚はないと思われます。

もともとトリックスターは、閉鎖的な狭い世界で未熟な経験を繰り返して来たため、善悪や正邪の道徳的規範が十分に身についていないところがあると思われます。

したがって、依拠できる規範はトリックスター自身の内面にはなく、外部にいる他者の行動規範に依存し振る舞う(まねる)しかないことになります。

このため、参照すべき外部にいる他者の行動規範次第では、トリックスターの採る行動は無自覚に善悪や正邪の道徳的規範を逸脱してしまうことになります。

おそらく、トリックスターは道徳的規範を侵犯する意思をもって逸脱するのではなく、他者依存や状況依存の結果として道徳的規範を逸脱することになりそうです。

トリックスターの行動様式(エトス)は、自律的かつ計画的なものではなく、むしろ他律的かつ衝動的なものということになるのかもしれません。

そして、トリックスターの行動様式(エトス)は日常生活の離婚や転職の原因になり、さらに自らの感情(自尊心)や打算(欲望)と一致さえすれば、容易に危険で理解不能な他者と同調してしまうことになります。

複雑化した現代社会では、既存の制度や習慣、文化だけに頼って、あらゆる局面を生き延びるということは困難になってきていると思われます。

したがって、人は様々な経験と反省を繰り返しながら、今を生き延びるための社会的スキルを身に着けていく必要があると思われます。

ただ、これまでに見てきたトリックスターは、閉鎖的な狭い世界で生きてきたために社会的スキルは身についておらず、危険からは無防備な状態に置かれています。

繰り返しになりますが、トリックスターは善悪や正邪の道徳的規範が曖昧で、その行動様式(エトス)は他律的かつ衝動的であるということでした。

それゆえトリックスターの非常識さ(非道徳)と無防備さ(他者依存)は成熟した大人たちを困惑させますが、よりタフな「欲望(コンプレックス)」を持ったトリックスターからすれば自らの「欲望(コンプレックス)」を満たすための格好のターゲット(獲物)に映ってしまうということです。

ラカンや河合隼雄氏の仮説では、「欲望(コンプレックス)」は「欲望(コンプレックス)」に「欲望(共鳴)する」という関係性が描かれています。

この仮説を踏まえれば、よりタフな悪意と悪事のトリックスターの「欲望(コンプレックス)」は、無防備で制御のきかない衝動的かつ他律的なトリックスターの「欲望(コンプレックス)」をいとも簡単に取り込み、搾取するということが容易に出来てしまうということです。

そして、子どもの世界で起きている「いじめ」と同じで、未成熟な大人たち(トリックスター)の間で起きている「生きにくさ(抑圧)の移譲」は、一度その中(世間)に入ってしまえば、二度と抜け出すことの出来ない蟻地獄のような構造(*引きずりおろし民主主義)になっているのではないでしょうか。

*怒りや脅威で多数派を形成し、自分より上に立つもの、能力がある者を引きずり降す愚民主主義。社会全体の偏差値は下がり続け、やがて上に立つものはいなくなる。

もし、あなたが身近で悪意や悪事を予感したとしたら、それはすぐ近くにトリックスターが潜んでいるのかもしれません。

もはや現代社会が既存の制度や習慣、文化だけで生き延びることが出来ないとなれば、様々な経験と反省から社会的スキルを身に着けて行くしかありません。

したがって、トリックスターの悪意や悪事には、ただ気づかないふりをするのではなく、自分自身はその悪意や悪事の連鎖関係(抑圧の移譲)には決して入らないという決意、そして搾取されそうになれば身に着けた社会的スキルでなりふり構わず自衛するという覚悟が、今を生き延びるための方法論になるのではないかと考えています。

それでは結論になりました。

「生きにくさ(抑圧)の移譲」には与せず、今を生き延びるための社会的スキルで自衛ができる人は、おそらく自分自身がトリックスターでないと自覚できている人ではないかと思われます。

自分自身がトリックスターでないということは、とても大事なことです。

しかしながら、トリックスターの悪意や悪事のある「欲望(コンプレックス)」から自分の身を守るには、自分自身がトリックスターでないと自覚するだけでは十分でないように思われます。

むしろ、これとは真逆に自分自身がトリックスターかもしれないという一回ひねりの視点を担保しつつ、もはや既存の制度や習慣、文化に頼る正規戦ではない、経験と反省から身につけた社会的スキルでもって攻守の両面からゲリラ戦を挑んでいくしかないように思われます。

一般論としても、自分は関係がないと割り切るのではなく、自分自身を勘定に入れた全体像(コンステレーション)の把握が重要であることは言うまでもありません。

つまり、自分自身が勘定に入っているからこそ、自分自身を含めた関係性の全体像(コンステレーション)が一望俯瞰できるようになるというわけです。

自分がトリックスターかもしれないという(自分を勘定に入れた)一回ひねりの視点を担保しておくことが、全体像(コンステレーション)を読むメタレベルからの視点確保につながり、その結果として誰もが陥ってしまう「構造的無知」から脱出するということも可能になるということではないでしょうか。

では、トリックスターとは一体誰のことなのでしょうか。

トリックスターとは、無意識で悪意や悪事を働くいたずらものである一方、この閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる異能を持った(両義的な)存在ということです。

誰もが無意識のうちに「構造的無知」の状態に陥ってしまう可能性がある以上、論理的には「個」の意識が弱く自我が脆弱で相互参照が得意な日本人であるのなら、自分だけがトリックスターでないという信憑性は極めて低いことになるのではないでしょうか。

つまり、日本人の多くがトリックスターである可能性が高いとなれば、この閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる異能を持ったポジティブな評価のトリックスターもまた、この典型的な日本人の中から出現してくる可能性が高いと考えるのは自然なことではないかと大いに期待しているのですが、さていかがでしょうか。

とは言いながらも、関わらないことに尽きますね。関われば例外なく底なしに苦労しますよ。(苦笑い)

(終わり)

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# by kokokara-message | 2016-08-17 22:35 | 我流心理学 | Trackback | Comments(0)

文二郎のパナマ帽(2)


文二郎の「パナマスペシャルソフト」です。

目の粗い鉤針編みの中折れ帽は、目の詰まったそれよりも通気性が高く、軽くて、トロピカルな印象を受けるのではないでしょうか。

オーストラリアの帽子メーカー・ヘレンカミンスキーはスリランカ産のラフィアを使用しますが、文二郎は通常のパナマ帽と同じ、エクアドル産のトキヤ草をします。

ただ、トキヤ草を使用した鉤針編みの中折れ帽は、ラフィアを使用したそれよりも少し重たくなるようです。

素敵なパナマ帽ですが、これが唯一の難点かも知れませんね。
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# by kokokara-message | 2016-08-04 08:19 | 大阪 | Trackback | Comments(0)

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以下は、今から8年程前に某大学で拝聴した、養老孟司氏講演会の講演記録(要旨)です。

養老孟司氏の講演やその著書は、えらそうであるとか、難解であるとか、本質とはかけ離れた曲解がなされていることが多いように思われます。

氏は、自らの言葉で、あたりまえのことを、あたりまえのこととして、平明にお話しされているだけです。

内容は普遍性の高いものであり、8年経過した今でも決して色あせることはなく、ますます輝きを増しています。

当時は気づかなかったことにあらためて気づかされるなど、内容はエキサイトで新鮮そのものです。

それでは、開演時間となりました。

最後までご一読いただきますようお願いいたします。

【開演】

ヒトへの出入力関係からすると、感覚は入力であり、運動が出力という関係になっています。

そして、その間に介在するものが脳であり、脳で意識が発生するということになります。

感覚の入力によって脳に意識が発生しますが、脳は意識が発生する0.5秒前からすでに作動を開始しています。

つまり、意識は脳が作動を開始したことによって発生する関係にあるということです。

脳の一番の特徴としては同じ(同一性)という認識ができることです。

脳の「同一性」という特徴により、いろいろなモノを同じモノとして認識できることが可能となります。

そして、脳の「同一性」の特徴により、いろいろなモノを同じモノとして認識できる機能を持った「言葉」の使用が可能となったわけです。

しかしながら、言葉が使用できることで、脳の他の能力が低下するという結果にもなってしまいます。

脳を動かすということは、観念という意識を発生させるだけではなく、身体を動かすこともまた当然脳を動かすことであります。
  
たとえば、絶対音感とは、音の高低がそれぞれ別の音として認識される能力のことです。

絶対音感と、先天的に動物に備わった機能と言えます。

人間の乳児にも絶対音感は備わっていますが、使用しないとその能力は衰えてしまうことになります。

一方、絶対音感に対して相対音感があります。

相対音感とは、音の高低に支配されずに同じ言葉を同じ言葉として認識できる能力のことです。

つまり、音の高低にかかわらず同じ言葉を同じ言葉として認識できる相対音感を得ることで、言語の使用が可能となったといえます。

このことを文化的・進歩的能力の獲得と思っているようですが、本来動物が保有しているはずの絶対音感が消滅した結果ということも出来ます。

このことからすると、現代人は差異(違い)の感覚能力が劣化し、ダメになってしまったということになります。

ところで、脳の特徴の同じという感覚は、差異(違い)をなくしてしまう非常に乱暴な感覚ではありますが、その結果としてヒトは同一性を前提とする言葉や貨幣を使用することが可能になったということはできます。

(【筆者】蛇足ながら、言葉は概念という同一性を使用し、貨幣は価値という同一性を使用して、いろいろなモノを同じモノと認識させる機能を持った媒体です。したがって、言葉や貨幣は交換(コミュニケーション)を促進させるものと言えます。)

考古学的には、新人類のホモサピエンスがはじめていろいろなモノを同じと認識する能力を取得し、言葉や貨幣の使用が可能になったと言われています。

一方、旧人類のネアンデルタールの脳には同じという能力は備わっていません。

ネアンデルタールの遺跡から出土する遺物はその目的が想像できるものばかりで、貨幣のように「象徴」を表すような遺物などは出土しておりません。

このことからネアンデルタールは、言葉や貨幣を使用できなかったと考えられています。

ホモサピエンスの脳は同じという能力を獲得することで貨幣や言葉が使用できるようになり、交換(コミュニケーション)が可能になったということがいえます。

そして、貨幣や言葉の同じにするという能力を進歩や便利と思っているようですが、この同じという能力を突き詰めてゆくと、論理的には宇宙を統括する唯一絶対神にまで行き着くことになります。

つまり、西洋社会が発見した一神教の世界観があるということです。

ところで、NHKの報道は、公正中立であると言われています。

しかし、NHKの報道の視点もひとつの視点でしかなく、他のある特定の個人の視点とは等価の関係にあり、決してNHKだけが公平・客観・中立ということはできません。

つまり、一人ひとりは「視覚的」には違うものを見ているはずなのに、言葉や情報にすると同じことを表すことになってしまうということです。

個性が大切といわれますが、個性とは遺伝子であり身体そのものであるということです。

ナンバーワンよりオンリーワンという表現がありますが、普通ナンバーワンといわれるようなヒトは稀にしか存在しませんが、オンリーワンとはモノや身体でいうとあたりまえのことであり、ただのモノやただのヒトという意味のことでしかありません。

感覚の世界では、モノやヒトはすべて違っていることが当たり前ですが、脳内の「同じ」という働きによって、概念という言葉の同一性や価値という貨幣の同一性を使用することが可能となります。

人それぞれ感覚がバラバラであるはずなのに、同じにできるという感覚こそが「共感」できるということであって、「ありがたさ」にもつながるということになります。

しかしながら、言葉は止まったものです。

これに対してヒトは変化します。

このことから、人と人が交わす約束とは、変わってしまう自分を止まった変わらない言葉に結びつける行為ということができます。

現代人は、言葉は使い捨てであって、自分のほうが変わらないと考えているようです。

噂話では、話し言葉の記憶に頼ることになるため、結局相手が自分程度に記憶力が悪いと思える(リスクヘッジできる)ことで成立している関係性といえるのではないでしょうか。

しかし、ヒトはひたすら変わっていきますが、言葉は止まったまま変わりません。

情報化社会での情報は変わらないことがその特徴であって、変わるのはあくまでヒトです。

情報が変化するのは、ヒトが情報に手を加えるから変わるだけであって、変わるのはあくまでヒトということになります。

本来、ヒトの感覚はバラバラです。

にもかかわらず、言語によるコミュニケーションで共感できるのは、バラバラな感覚が同じと思えるためで、これが安心感につながっていると思われます。

つまり、感覚が違っていることが当たり前なのに、そのことを忘れて「共感」したような感覚になることで、安心や安全を得ているということではないでしょうか。

現代人は、とても不安です。

したがって、安全や安心が欲しいと考えています。

また、現代人は自分の頭の中で考えていることの外側に出ることを知らないように思われます。

自分の外側の見えない世界に一歩踏み出すことを勇気と呼ぶのでしょうが、現代人にはそのような勇気が欠けている一面があるように思われます。

安全第一の世界の中にいると、本来一人ひとりがバラバラな感覚であるという基本的な原則を忘れてしまい、皆が同じ感覚であるはずという思い込みに陥ってしまうことになります。

このため、安全第一の中にいると、同じであることを求めるあまりに、少しでも差異があると不安がわいてくることになります。

もともと一人ひとり感覚に差異があるのは当たり前であって、差異に不安が伴うのは当たり前の状態であるといえます。

しかしながら、皆と感覚が同じでないと気がすまなくなり、このため差異に伴う不安をつぶさないと前にも進めなくなってしまい、さらなる否定的な(ネガティブな)感情をつぶさなくてはいられないという感覚の循環(思考の連鎖)に陥ってしまうことになります。

これが皆と同じでないと気がすまない(不安である)という感覚のようです。

これは、テレビの影響として考えられます。

テレビの映し出す映像はあくまでひとつの視点でしかないはずなのに、皆が同じ映像を観ることによって同じ視点が共有されて、感覚も同じであるという勘違いが生じてしまうことになります。

つまり、感覚は人それぞれバラバラであるはずなのに、皆一緒という認識がされてしまうということです。

教育を考える場合でも、現代人は皆一緒という感覚を持っているという認識を基点として出発する必要があるように思われます。

つまり、昔のように人やモノはバラバラであり多様なものであるという認識からはじめるのではなく、皆一緒という視点から教育をはじめないといけなくなってしまっている現実があるということです。

学校での徒競走で生徒が手をつないでゴールするということからは、何も生まれてこない、何もやっていないことと同じといえます。

また、機械(コンピュータ)を丈夫にすると、人間は壊れると言われています。

つまり、文明(コンピュータ)と人間は相互補完の関係にあるといえるのですが、このことから、まともなヒトの感覚では文明(コンピュータ)は発達することになってしまうため、逆に役に立たない人間を育てることにもなってしまうということです。

便利な生活をすることで、人間はやがて役に立たなくなり、壊れてしまうのではないかと考えることもできるということです。

しかしながら、一方では脳も社会もシステムとして機能していることからすれば、働かない部分にも何らかの意味があるというように考えることもできるということではないでしょうか。

(おわり)

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# by kokokara-message | 2016-07-24 09:07 | 養老孟司講演会 | Trackback | Comments(0)

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人口減少社会におけるグローバリズムとは、いったい何を意味するのでしょうか。

また、人口減少社会におけるナショナリズムとは、いったい何を意味するのでしょうか。

グローバリズムとは、英米を中心とした新自由主義の普遍化(標準化)をさすことはいうまでもありません。

そして、その内実は、資本主義と民主主義の徹底であり、真逆のようですが、近代国民国家システムの徹底ということになりそうです。

奇しくも1989年のベルリンの壁の崩壊と新自由主義の隆盛の時期は一致しています。

また、その前哨戦であったソ連ゴルバチョフのペレストロイカと米国レーガン・英国サッチャーのマネタリズムは、近代国民国家システムの行く末を予言していたと言えるのではないでしょうか。

ところで、今から150年以上前、近代国民国家というものが成立した当時、資本主義の生産手段は、土地、労働力、資本とされていました。

土地とは、人間の生産活動で創出することのできない水や空気などを含めた概念といえます。

そして、当時のこれらの生産手段は、一国民国家の中でのみ移動が可能とされていました。

しかしながら、資本主義の原理は、これらの生産手段から差異を創出することで駆動することになります。

このため、資本主義拡大のためには、一国民国家のみならず、植民地主義という軍事力を背景とした新たな差異の獲得に乗り出さなければならない時期もありました。

しかしながら、現在では、グローバリゼーション(国際化・情報化)の進展から、軍事力を背景とせずとも、いとも簡単に特定の生産手段が世界中を移動することが可能となっています。

ただ、現在においても、土地という生産手段は移動しないという前提に変わりはありません。

また、労働力は、労働者の短期の移動は可能であっても、国籍、文化、言語の障壁から、長期の移動は難しいとされています。

ご存知のように、長期の移動がもたらす「移民」問題の功罪については、枚挙にいとまがありません。

そして、先日の英国EU離脱の結果は、長期の移動がもたらした「移民」問題とダイレクトにつながっているのは言うまでもありません。

従って、各国の過去の経験則からしますと、実際にグローバルな展開が可能な生産手段は、資本(金融)とそれに伴う技術や情報に限られてくるということになります。

資本(金融)とは、端的に言えば貨幣(お金)のことであって、多彩な戦略によって、多様な世界展開が可能となります。

そして、概念上は人間の生産活動では創出できない鉱物資源も、金融商品として見るのなら、資本として世界展開することは可能です。

情報はと言うと、インターネットによって瞬時に移転し、グローバル化(標準化)が可能であることは言うまでもないことです。

また、技術は情報ほど即時性はないものの、数年単位で移転し、グローバル化(標準化)していくことになります。

蛇足ながら申し上げると、差異を求める資本主義の原理では、資本や技術、情報という生産手段の移転が可能となるのは、あくまでグローバル化した世界に未だ差異が存在しているからということになります。

つまり、各国や各地域間に社会経済的な格差が存在していることが前提になっています。

このため、それらの格差(差異)が消滅することになれば、論理的には世界中の資本主義の展開は終結となり、世界中がフラット化(標準化)してしまうことになります。

つまり、グローバリぜーション(国際化)の結末は、世界中のフラット化(標準化)ということになります。

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ところで、生産手段の中でも、土地と労働力は移転が難しいということでした。

また、移転可能とされている資本や技術、情報も、その差異(水位差)が数年間で平準化されてしまえば、資本主義の展開の原理となった差異性は期間限定のバブルの源泉でしかなかったことになります。

そして、これからの日本の社会は、有史以来増加し続けた人口が急激に減少する社会であるとされています。

また、これからの日本の社会には、高度経済成長を支えたような差異性をもった(低賃金)労働者が、自然発生的に生まれてくるとは考えられない状況にあるということです。

このため「移民」問題は日本の社会でも議論の俎上に上ることになりますが、労働者の長期の移動がもたらす功罪については先にも申し上げたところです。

したがって、労働者の長期の移動、つまり「移民」受け入れが難しいとしたら、今後の日本の資本主義のあり方は、どのような方向に進んでいけば良いのでしょうか。

おそらく、資本や技術、情報の差異を原理とした期間限定のバブルを生み出すグローバリズム(国際化)ではなく、それとは真逆の一国内のナショナリズムを基軸とした差異の平準化に向かう近代国民国家の資本主義システムが重要視されることになるのではないでしょうか。

ここで言うナショナリズムとは「愛国心」のことです。

ナショナリズムは、日本と言う国民国家を、社会経済的に平準化していく方向性にありものと思われます。

つまり、資本主義が差異性を前提としたシステムである以上、革新的なイノベーションでもない限り、今ある土地(国土)と将来の労働力人口(国民)は自明のものとなり、その中から差異性を創出していくしかないということになります。

少し言い方を替えるとすれば、将来に向い日本国内に存在している差異性をすべて平準化してしまうということが、今後の日本の資本主義の経済システムを駆動させる源泉になるということです。

少し分かりにくいかもしれません。

つまり、日本の経済成長(資本主義経済システム)を駆動させるためには、日本の社会に未だ残存してる差異性を掘り起こし、それらを源泉にするしかないということです。

具体的には、男女共同参画社会の推進や社会保障(社会保険や社会福祉)の普遍化を図ることで、新たな差異性を創出することが考えられるのではないでしょうか。

要するに、人口減少社会という新たな差異の創出が極めて難しい環境にあっても、今あるの差異性を平準化していくという方向性であるのなら、資本主義システムの原理にも合致して、中長期的に見て具体的かつ現実的な展開が見込まれるのではないかということです。

そして、この場合日本の社会の差異性を掘り起すことだけでは十分ではなく、国内においては所得・資産の再分配機能の賦活化、そして国際的にはタックス・ヘブン等への世界協調的な取り組みが同時進行して行くことが必須になると考えられます。

大変困難な政策ではありますが・・・。

ところで、ナショナリズム(愛国心)というと、第二次世界大戦中の日本の海外への覇権(植民地主義)を想起される方も多いのではないでしょうか。

しかしながら、海外への覇権主義という側面だけを捉えれば、それは区分としてはナショナリズムではなく、グローバリズムになると思われます。

また、ナショナリズム(愛国心)というと、国内におけるマジョリテイ(多数派)からのパターナリズム(上から目線)として受け取られてしまうかもしれません。

しかしながら、ナショナリズム(愛国心)とは、必ずしもマイノリティ(少数派)を日本人の境界から排外する狭隘な方向性を持ったものではないということです。

なぜなら、日本の近代史を振り返っても、原理として国民国家の幻想性ゆえに、日本人の境界線は揺れ動き、日本民族と日本の国土は拡大と収縮を繰り返してきた歴史があるからです。

従って、今ある日本人の境界(国民国家)はあくまで暫定的なものでしかなく、したがって将来も現状のまま同じ境界線(国民国家)であり続ける保障などないということになります。

むしろ、国民国家のマジョリテイ(多数派)が、国民国家のマイノリティ(少数派)を穏やかに社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)していくという方向性が求められるのではないでしょうか。

そして、一般論として生産手段である労働力のグローバル化は岐路に立たされており、これ以上の展開が難しいとなれば、それは日本から海外への展開以上に、日本への労働者の長期の移動、つまり「移民」の受け入れが困難という事態になってしまうからです。

日本の総人口(労働力人口)が減少していく中で、しかも「移民」の受け入れが困難で、なおかつ生産手段の労働力に基軸を置いた政策を採るとしたら、いったいどのような展望になるのでしょうか。

おそらく、金融資本主義が引き起こす幻想的な差異性を原理とするグローバリズムではなく、それとは真逆な国民国家を同化して平準化していくナショナリズム(愛国心)こそが、日本の中長期的なあるべき姿を構想する(再構築する)ための原動力になるのではないかと思われます。

日本人口の減少は避けがたい与件ですが、マジョリテイ(多数派)がマイノリティ(少数派)を内包し日本社会を平準化していく方向にあるのならば、ナショナリズム(愛国心)を基軸とした資本主義システムが社会的格差で混迷する日本という国民国家を、自己コントロールが可能な範囲にとどめ置くこともできるようになるのではないでしょうか。

したがって、今後の日本は幻想的な金融資本主義に依拠した不安定な「経済成長優先型社会」ではなく、むしろ低成長であっても平準化を目指すがゆえに労働力の差異性に基軸を置くことができる「定常性(恒常性)が維持できる社会(定常型社会)」を目指すことになると思われます。

少し無理やりな結論になってしまいました。

グローバリズムではなく、ナショナリズム(愛国心)こそが、平準化志向にある資本主義システムを駆動させることによって、その結果国民国家内の経済格差を比較的小さく、相対的に平等と言える「定常型社会」を実現する原理(思想)になるのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがなものでしょうか。

【蛇足ながら、終わりに】

グローバリズムに対応する概念は、一般的にはローカリズムであると思われます。

しかしながら、暫定的ではあっても国民国家を既定のものとするのなら、歴史、民族、言語、文化等による細分化プログラムが組み込まれたローカリズムは、グローバリズム以上に国民国家の枠組みを根底から揺るがすものになる可能性があると思われます。

つまり、両端にグローバリズムとローカリズムがあって、その真ん中に当たり(中庸)にナショナリズムがあるのではないかということです。

したがって、両端のグローバリズムとローカリズムが国民国家を不安定にさせる思想とするのなら、ナショナリズムは国民国家を社会文化的に安定させる保守に当たる思想ではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

(おわり)

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# by kokokara-message | 2016-06-26 08:52 | 我流日本論 | Trackback | Comments(0)

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最近のことですが、「ミーハーですね。」と言われたことがありました。

おそらく、私の選択が結果的に多数派にあることが多いため、そのような指摘がなされたのかもしれません。

ウィキペディアによると、ミーハーの意味は、以下のようになっています。

ミーハーとは、昭和初期に生まれた俗語であり、テレビが普及し始めた1950年代後半、大宅壮一が唱えた「一億総白痴化」とほぼ時期を同じくして用いられた。

元々は低俗な趣味や流行に夢中になっている教養の低い者や、そのような人を軽蔑して言う蔑称で、特に若い女性のことを指していた。

現在では男性にも使われる言葉である。

最近の用法としては、「ある事象に対して(それがメディアなどで取り上げられ)世間一般で話題になってから飛びつく」という意味のものがほとんどである。


低俗な趣味や流行の意味するところは定かではありませんが、おそらくミーハーとは何かに熱しやすいタイプの人を指すのかもしれません。

また、ある事象に対して(それがメディアなどで取り上げられ)世間一般で話題になってから飛びつく、という意味では、おそらくミーハーは横並び意識が強く、同じでないと不安になる人かもしれません。

昨今の賞味期限の短い、一過性ともいえる情報が飛び交う社会情勢では、ミーハーのような後追い型の付和雷同は極めてリスクの高い選択になるのかもしれません。

いずれにせよ、ミーハーとは、表層的な横並び意識を基盤とした多数派形成を志向する人たちといえそうです。

そして、ミーハーは多数派にあるということが、他には替えがたい自信になっているということのようです。

おそらく、かようなミーハーは、大衆社会において代表的な行動様式(エトス)を採る人たちのことといえるのかも知れません。

一方、多数派志向の「ミーハー」に対して、「普遍性」という一般性を表す言葉があります。

養老孟司氏によれば、普遍性とは偏在する多様な感性や価値観の極端な部分を除いた真ん中あたり、ということになるようです。

つまり、マニアの感性や価値観のような特殊性、つまり極端な例外を除いた一般性の部分が普遍性になるということです。

例えば、誰もが美しいと感じるものを美しいと感じることや、文化や共同体の論理に囚われない、誰もが納得できる価値や判断が下せることを普遍性と呼ぶのではないでしょうか。

おそらく、普遍性とは、人間であるのなら誰もが納得できる範囲に収まるような「一般性」を指す言葉であると思われます。

このため、見方によれば、普遍性は、相互参照や横並び意識で多数派を志向するミーハーの人たちと重なり合う感性や価値観を所持しているということにもなります。

つまり、マニアのような特殊性を除けば、普遍性であっても、ミーハーであっても、結果として一般性を所持する人たちということでは同じということになります。

また、数の上ではおそらく、どちらにしても多数派を形成する人たちということになるのではないでしょうか。

ただし、先にも述べましたように、大衆社会におけるミーハーの感性や価値観は、あくまでも相互参照や横並び意識の結果として形成されたものということになります。

つまり、ミーハーがもともと多数派志向の人たちであって、その行動様式の相互参照や横並び意識を繰り返した結果地滑り的に多数派が形成されていくことになります。

一方、普遍性はというと、個人の自由で内発的な選択の結果として、同じような傾向を示す人たちが寄り集まることで一般性が形成されていくということになります。

つまり、普遍性は、もともと人間に内在している至極当たり前な感性や価値観を各々が自ら確認した結果、当然のようにして多数派が形成されていくことになるわけです。

結果としてどちらも多数派にあるという点では同じように見えますが、そのアプローチの方法は真逆になっているということには注意しておく必要はあると思われます。

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最近私が気になることは、仕事や家庭の中で、考えても考えなくとも、またやってもやらなくても結果は同じという、なんとなく虚無的と感じる場面に出くわすことが多々あります。

おそらく、これは結果だけが高く評価される現代社会の風潮にあって、多数派にあるという事実だけを持って容易に勝ち負けが決定してしまうことが原因になっているのではないでしょうか。

つまり、民主的な手続きの結果として多数派にさえあれば、ミーハーであろうと普遍性であろうと、そのアプローチの方法には関係なく、同じ(勝ち組)として扱われることになるということです。

もちろん、民主主義社会において、自分が多数派に属しているということはとても大事なことです。

しかしながら、月並みな言い方ですが、結果の勝ち負けではない、その形成過程(プロセス)に対する考察がより重要になってくるのではないかということです。

つまり、現代社会において民主主義が重用されるのは、その単純な多数決の意思決定システムが全体意思をあらわすためではなく、むしろ民主主義という意思決定システムの中に「人間の持つ普遍性」に対する信頼が組み込まれているためではないでしょうか。

社会学者の橋爪大三郎氏は、その著書で「民主主義は最高の意思決定システム」とおっしゃっています。

少なくとも近代以降の日本の意思決定システムは、相互参照や横並び意識による多数派形成だけを意図して制度設計されたものではないと思われます。

あくまでも、個人の自由で内発的な選択を前提として、多数決の意思決定システムが機能するものと考えられていたはずです。

もちろん、残念なことではありますが、理念と実態がかい離している現象に出くわすことは多々あります。

おそらく、大衆社会とは、個々の感性や価値観が多様化する一方で、それらの感性や価値観が画一化されて行くという、拡散と収縮(選択と集中でもかまいません。)が同時に起こるカオスの状態のことではないでしょうか。

では、私たちは、このような両義的で複雑怪奇な大衆社会をいかにして生き延びれば良いのでしょうか。

まず、グローバリズムのトレンドからすると、文化や共同体という特殊性の枠を超えた、もともと人間に内在している「普遍性」に依拠した判断や決定が行われることが求められているといえそうです。

これは大変難しいことですが、いかに文化や共同体のバイアスから自由な(解放された)判断や決定ができるか、つまりは自分や自分を取り巻く環境をいかに相対化できるかが、今を生き延びるための能力(スキル)になってくるといえそうです。

そして、少し戦略的な話になってしまいますが、やはり民主主義社会で生き延びるということは、いかなる場合であっても、社会の多数派から零れ落ちない立ち位置をキープしておく慎重さは必要とされるということです。

つまり、今を生き延びるための能力(スキル)には「世を忍ぶ仮の姿」も必要になってくるのではないでしょうか。

先にも述べたとおり、ミーハーと普遍性では多数派形成へアプローチの方法は、真逆になっているということでした。

しかしながら、あらためて大衆社会における多数派の重要性を考えれば、ミーハーと普遍性はともに今を生き延びるために必要とされる能力(スキル)であって、しかもそれぞれは必ずしも対立する概念として位置づけられてはいないということです。

普遍性は多数派が形成されるうえで根源となる重要な能力(スキル)ですが、それだけでは十分ではなく、ミーハーの付和雷同がバランス良く補完し合える関係となって初めて、決まった答えのない一過性で両義的な大衆社会を生き延びることができるのではないでしょうか。

では、最後に、ミーハーと普遍性の関係性を洞察した小津安二郎監督の言葉で終わります。

「どうでもいいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。」

(終わり)
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# by kokokara-message | 2016-05-30 21:38 | 我流日本論 | Trackback | Comments(0)