茶の湯と倒錯文化(1)
2009年 10月 20日
「大織冠」という呼び名は、藤原鎌足が臨終のとき、天智天皇から与えられた最高位「大織冠」の冠位に由来するとされます。
侘び茶とは、中世の堺で武野紹鴎や千利休によってはじめられた茶の湯文化です。
形成された初期の頃には、いまだ「侘び数寄」などと呼ばれていたらしく、侘び茶と呼ばれるようになるのは江戸時代になってからです。
つまり、後の世に武野紹鴎や千利休が実践していた茶の湯の様式のことを、侘び茶と呼ぶようになったというように順序に逆転がみられます。
以下では、武野紹鴎や千利休の実践した茶の湯のことを、便宜的ですが通俗的な呼び名として「侘び茶」に統一することにします。
侘び茶は、数寄物といわれた堺衆の武野紹鴎や千利休によってはじめられたとされています。
武野紹鴎や千利休は、唐物の天目茶碗にみられるような品質の高い工芸品などよりも、むしろ実用品とされた高麗茶碗や呂宋壺を重用することになります。
また、公家文化の茶の湯では使用されることがなかった竹細工を茶席の中に用いるなど、茶の湯そのものを革新的な試みによって実践していくということになります。
このような、茶の湯は、おそらくは当時においては風変わりな(数寄物)ものとして写ったのではないでしょうか。
このように風変わりな(数寄物)茶の湯が、時の堺の権力者である三好長慶や松永久秀、織田信長の目にとまることになり、庇護をされることになります。
風変わりな茶の湯である侘び茶は、やがて権力者の周辺で権威ある社交手段として認識されるようになります。
このことで、侘び茶の持つ社会的価値は増していくことになるのですが、それとともにその指南役であった武野紹鴎や千利休ら堺衆の権威も増していくということになります。
では、なぜ時の堺の権力者が、このような倒錯した文化ともいえる侘び茶に対して高い評価をすることとなり、指南まで受けるということになったのでしょうか。
そもそも茶の湯は、貴族や大名の間だけで行われていた、公家社会の社交文化のひとつであったとされています。
茶の湯が一般大衆にまで広まることになるのは、江戸時代も中期以降のこととされています。
従って、千利休らの堺衆が風変わりな茶の湯である侘び茶を広めることになる対象とは、一般大衆ではなく、戦国大名などの時の権力者たちであったということになります。
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