トリックスター(全編)


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皆さんは、悪意や悪事の予感がしたという経験はないでしょうか。

それは、必ずしも自分自身に向けられたものとは限りません。

自分の周りの誰かに向けられたものなのか、そもそも誰に向けられたものなのか、はっきりとしないものかもしれません。

何かよくないことが起こるかもしれない予感や予期は、自分を取り巻く環境の変化、つまり、秩序が崩れてしまうことへの不安の表われといえるのではないでしょうか。

そして、それは今ある秩序を改変してしまおうとするいたずらもの、トリックスターの出現を予感しているのかもしれません。

では、トリックスターとは、一体何者なのでしょうか。

一時、六本木ヒルズの寵児であった頃のホリエモンが、経済界の人たちからはトリックスターと呼ばれていた時期がありました。

また、時代を先取りしたかのような言動を行っている一部の政治家などは、やがてトリックスターと呼ばれることになってしまうのかもしれません。

トリックスターとは、一般には子どもとされています。

これは、生物学的な意味における子どもということではなく、たとえ社会的地位を築いている場合でも、精神的にはまだ未成熟ということであれば、やはり子どもということになってしまうのではないでしょうか。

そして、精神的に未成熟な子どもであるトリックスターが示す行為行動の最大の特徴は、幼児的万能感と自己顕示欲ではないかと思われます。

例えが古くなりますが、往年のウルトラマンや仮面ライダーなどは、まさに子どものヒーローであって、幼児的万能感と自己顕示欲を現す象徴的存在であったと思われます。

但し、このような子どもにとってのヒーローの世界を、自分が生きている現実世界に適用したとしたら、さて、どのようになってしまうでしょうか。

おそらく、ヒーローの示す幼児的万能感と自己顕示欲が適用された現実世界は大きく乱れ、その中の人たちは大いに困惑することになってしまうのではないでしょうか。

このような混乱を起こさない人、つまりヒーローの世界と現実世界がきちんと峻別できている人が、大人と呼ばれる人と言うことです。

ところが、時として子どもが示す幼児的万能感と自己顕示欲が、子どもの個性や才能あるいは無類の勇気と勘違いされてしまうことがあります。

例えば、風変わりな芸能人や芸術家等の言動が、世間から賞賛されるという事例は決して珍しいことではありません。

ただ、短期的な評価は得られても、長期的に見てトリックスターが他者(社会)との繋がりを維持して行くことは極めて困難なことであると思われます。

つまり、今在る秩序をかく乱させ、他者(社会)との関係性を混乱させるトリックスターは、社会的にはネガティブな存在と看做されてしまうことになるからです。

トリックスターは、いたずらな子どもであるだけではなく、世間の鼻つまみものということになるのではないでしょうか。

ところで、今在る秩序をかく乱させ、他者(社会)との関係性を混乱させるトリックスターは、一方では閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる存在でもあります。

これはトリックスターの持つ大きな特徴であり能力になりますが、ただ、トリックスターが社会状況(家族状況)を改変させる存在であるためには、その前提として自分自身を守ってくれているセーフティネットの存在が必要になってきます。

繰り返しになりますが、トリックスターとは、精神的に未成熟な子どもということでした。

一般論として、子どもには親の庇護というセーフティネットの存在が欠かすことができません。

親の庇護というセーフティネットがあるからこそ、子どもはたった独りでもファンタジーの世界でヒーローを演じることもできるわけです。

そして、ネガティブな評価があった幼児的万能感や自己顕示欲も、親の庇護の基では個性豊かな冒険的な営為として見守られることになります。

一方、親の庇護(セーフティネット)を受けていない幼児的万能感や自己顕示欲は、世間と直に対峙するために社会不適応者の烙印を押されかねません。

つまり、子どもがファンタジーの世界を楽しむためには、親(あるいはそれに替わる者)の庇護というセーフティネットの存在が前提条件になってくるわけです。

そして、様々な悪意や悪事を仕出かした子ども自ら反省ができるのも、親(あるいはそれに替わる者)の庇護というセーフティネットがあるからではないでしょうか。

要するに、親の庇護(セーフティネット)を持つことができた子どもは、様々な冒険と反省を繰り返しながら、徐々に自分の世界を広げていくことができます。

一方、親の庇護(セーフティネット)を持つことが出来なかった子どもは、様々な悪意や悪事を繰り返すだけで、徐々に自分の世界を狭くしていくことになります。

上記からすると、トリックスターとは、後者の閉鎖的な狭い世界で生きてきた永遠の子ども(ピーターパン)ということになりそうです。

一般論として、人はセキュア・ベース(安全基地)を持つことで自分の世界を広げていくことができ、成熟した大人へと成長することになるのではないでしょうか。

ところで、最初に申し上げたとおり、トリックスターは、悪意や悪事を働くいたずらものということでした。

では、トリックスターの悪意や悪事に自覚はあるのでしょうか。

おそらく、トリックスターには、自らが悪意や悪事を働いているという自覚はないと思われます。

もともとトリックスターは、閉鎖的な狭い世界で未熟な経験を繰り返して来たため、善悪や正邪の道徳的規範が十分に身についていないところがあると思われます。

したがって、依拠できる規範はトリックスター自身の内面にはなく、外部にいる他者の行動規範に依存し振る舞う(まねる)しかないことになります。

このため、参照すべき外部にいる他者の行動規範次第では、トリックスターの採る行動は無自覚に善悪や正邪の道徳的規範を逸脱してしまうことになります。

おそらく、トリックスターは道徳的規範を侵犯する意思をもって逸脱するのではなく、他者依存や状況依存の結果として道徳的規範を逸脱することになりそうです。

トリックスターの行動様式(エトス)は、自律的かつ計画的なものではなく、むしろ他律的かつ衝動的なものということになるのかもしれません。

そして、トリックスターの行動様式(エトス)は日常生活の離婚や転職の原因になり、さらに自らの感情(自尊心)や打算(欲望)と一致さえすれば、容易に危険で理解不能な他者と同調してしまうことになります。

複雑化した現代社会では、既存の制度や習慣、文化だけに頼って、あらゆる局面を生き延びるということは困難になってきていると思われます。

したがって、人は様々な経験と反省を繰り返しながら、今を生き延びるための社会的スキルを身に着けていく必要があると思われます。

ただ、これまでに見てきたトリックスターは、閉鎖的な狭い世界で生きてきたために社会的スキルは身についておらず、危険からは無防備な状態に置かれています。

繰り返しになりますが、トリックスターは善悪や正邪の道徳的規範が曖昧で、その行動様式(エトス)は他律的かつ衝動的であるということでした。

それゆえトリックスターの非常識さ(非道徳)と無防備さ(他者依存)は成熟した大人たちを困惑させますが、よりタフな「欲望(コンプレックス)」を持ったトリックスターからすれば自らの「欲望(コンプレックス)」を満たすための格好のターゲット(獲物)に映ってしまうということです。

ラカンや河合隼雄氏の仮説では、「欲望(コンプレックス)」は「欲望(コンプレックス)」に「欲望(共鳴)する」という関係性が描かれています。

この仮説を踏まえれば、よりタフな悪意と悪事のトリックスターの「欲望(コンプレックス)」は、無防備で制御のきかない衝動的かつ他律的なトリックスターの「欲望(コンプレックス)」をいとも簡単に取り込み、搾取するということが容易に出来てしまうということです。

そして、子どもの世界で起きている「いじめ」と同じで、未成熟な大人たち(トリックスター)の間で起きている「生きにくさ(抑圧)の移譲」は、一度その中(世間)に入ってしまえば、二度と抜け出すことの出来ない蟻地獄のような構造(*引きずりおろし民主主義)になっているのではないでしょうか。

*怒りや脅威で多数派を形成し、自分より上に立つもの、能力がある者を引きずり降す愚民主主義。社会全体の偏差値は下がり続け、やがて上に立つものはいなくなる。

もし、あなたが身近で悪意や悪事を予感したとしたら、それはすぐ近くにトリックスターが潜んでいるのかもしれません。

もはや現代社会が既存の制度や習慣、文化だけで生き延びることが出来ないとなれば、様々な経験と反省から社会的スキルを身に着けて行くしかありません。

したがって、トリックスターの悪意や悪事には、ただ気づかないふりをするのではなく、自分自身はその悪意や悪事の連鎖関係(抑圧の移譲)には決して入らないという決意、そして搾取されそうになれば身に着けた社会的スキルでなりふり構わず自衛するという覚悟が、今を生き延びるための方法論になるのではないかと考えています。

それでは結論になりました。

「生きにくさ(抑圧)の移譲」には与せず、今を生き延びるための社会的スキルで自衛ができる人は、おそらく自分自身がトリックスターでないと自覚できている人ではないかと思われます。

自分自身がトリックスターでないということは、とても大事なことです。

しかしながら、トリックスターの悪意や悪事のある「欲望(コンプレックス)」から自分の身を守るには、自分自身がトリックスターでないと自覚するだけでは十分でないように思われます。

むしろ、これとは真逆に自分自身がトリックスターかもしれないという一回ひねりの視点を担保しつつ、もはや既存の制度や習慣、文化に頼る正規戦ではない、経験と反省から身につけた社会的スキルでもって攻守の両面からゲリラ戦を挑んでいくしかないように思われます。

一般論としても、自分は関係がないと割り切るのではなく、自分自身を勘定に入れた全体像(コンステレーション)の把握が重要であることは言うまでもありません。

つまり、自分自身が勘定に入っているからこそ、自分自身を含めた関係性の全体像(コンステレーション)が一望俯瞰できるようになるというわけです。

自分がトリックスターかもしれないという(自分を勘定に入れた)一回ひねりの視点を担保しておくことが、全体像(コンステレーション)を読むメタレベルからの視点確保につながり、その結果として誰もが陥ってしまう「構造的無知」から脱出するということも可能になるということではないでしょうか。

では、トリックスターとは一体誰のことなのでしょうか。

トリックスターとは、無意識で悪意や悪事を働くいたずらものである一方、この閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる異能を持った(両義的な)存在ということです。

誰もが無意識のうちに「構造的無知」の状態に陥ってしまう可能性がある以上、論理的には「個」の意識が弱く自我が脆弱で相互参照が得意な日本人であるのなら、自分だけがトリックスターでないという信憑性は極めて低いことになるのではないでしょうか。

つまり、日本人の多くがトリックスターである可能性が高いとなれば、この閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる異能を持ったポジティブな評価のトリックスターもまた、この典型的な日本人の中から出現してくる可能性が高いと考えるのは自然なことではないかと大いに期待しているのですが、さていかがでしょうか。

とは言いながらも、関わらないことに尽きますね。関われば例外なく底なしに苦労しますよ。(苦笑い)

(終わり)

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by kokokara-message | 2016-08-17 22:35 | 我流心理学 | Trackback | Comments(0)