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先の見えない時代にあって、自分の求める生活や価値を明確にしておくことは大切なことです。自分と環境との関係性を考え、欲望をほどよく制御するための心と体の癒しのメッセージです。


by 逍遥
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生き延びるための思想~シムクガマとチビチリガマ

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かつて沖縄を何年か続けて訪れるという機会がありました。

世界遺産や景勝地などをひととおり巡ったあと、社会科見学(フィールドワーク)のつもりで、戦争史跡を訪れたことがあります。

訪れたのは、沖縄では「ガマ」とよばれている二つの洞窟です。

ふたつのガマは、ともに沖縄本島中央部の西海岸にある読谷村という村落の中にありました。

そもそも沖縄本島は、さんご礁が隆起して出来た島であるため、水流によって侵食された鍾乳洞や洞窟がたいへん多く存在します。

訪れた二つのガマも、このようにして出来た洞窟のひとつであったということです。

自然の造形である二つのガマが、大きく命運を分けることになるのは、第二次世界大戦末期の沖縄戦のことです。

一方のガマでは、その中に避難した住人の多くが「集団自決」をするという悲劇に至りました。

一方のガマでは、その中に避難した住人全員が生存生還するという幸運に恵まれました。

極めて非対称的な結末となっています。

では、いったいどうしてこのような非対称な結果が生じることになったのでしょうか。

「集団自決」については、大江健三郎氏の「沖縄ノート」でも取り上げられています。

ただ、ここで取り上げるガマの「集団自決」は、「沖縄ノート」のものと少し文脈が異なっています。

つまり、「沖縄ノート」での慶良間諸島で起きた「集団自決」は、実際にアメリカ軍と日本軍が戦闘をする最中に、その戦闘に巻き込まれた住民の中で起きた悲劇とされています。

これに対し、私が訪れたガマで起きた「集団自決」は、日本軍がすでにその前線を沖縄本島の南部地区へと後退させたあとの空白地帯で起こった住民同士の悲劇といえます。

つまり、日本軍が読谷村地区からいなくなってしてしまった後に、取り残された住人の間で起きた「集団自決」ということになります。

アメリカ軍が沖縄本島への上陸作戦を開始したのは、この読谷村地区の沿岸部からでした。

そのとき、読谷村地区の住人が避難したのが、ガマといわれるこの洞窟であり、ガマの中には女性と子供、そして高齢者などの非戦闘員が潜んでいたとされています。

そして、「集団自決」が起きたガマの中にも多くの住人が避難していましたが、その中には元日本軍人として中国戦線に参戦した経験を持つ高齢者が含まれていたそうです。

その元軍人が語る戦場における経験は、たいへん残虐なものであり、悲劇なものであったようです。

このため、元軍人が語る戦場における情報は、アメリカ軍についての多くの風評や思い込みを含んだ凶暴凶悪のものになってしまったのかもしれません。

眼前に、アメリカ軍上陸という脅威にさらされ、閉ざされた小さなガマの空間の中で、真贋の分別もできないままネガティブな情報を聞かされれば、おそらく住民の危機管理能力が低下していくのはやむを得ないことではなかったでしょうか。

やがて、ガマの中はパニック状態に陥ります。

その結果としてのヒステリー状態と集団心理がもたらした悲劇は、自分たちが決して失くしてはならないものを失くすという負(ネガティブ)の連鎖反応でした。

そして、この負(ネガティブ)の連鎖反応が、住民同士の「集団自決」という悲劇をもたらすことになったわけです。

一方、幸運にも全員が生存生還することになったガマは、「集団自決」があったガマとは数キロも離れていない近隣地区に存在しています。

もちろん、こちらのガマの中にも非戦闘員である多くの住民が避難していました。

そして、アメリカ軍が近づくという情報が流れる中、このガマでも先と同様なパニック状態に陥り始めたとされています。

どちらのガマにしても、戦場における残虐性や悲劇性、そしてアメリカ軍に関する凶暴凶悪なイメージや風評を聞かされ、その真偽の分別もつかないとなれば、戦場の経験や知識のない非戦闘員が心理的に追い詰められていくのは自然なことであったと思われます。

では、なぜ一方のガマでは「集団自決」という悲劇に至り、一方のガマでは全員が生存生還するという幸運に恵まれることになったのでしょうか。

この非対称的な結果には、ひとつだけ大きな違いがありました。

その違いとは、全員が生存生還したガマの中には、ハワイに移民した経験を持つ住民が避難していたということです。

当時の時代背景からすると、アメリカという敵国から帰国したというだけで、非国民のレッテルを貼られ、日本人の共同性の枠から排除されることもあったのかもしれません。

しかしながら、実際にハワイで暮らした、つまり共同性の枠外にあったゆえの住民の経験が、眼前にアメリカ軍が上陸するという危機において大変役立つことになったわけです。

そのひとつは、ハワイ帰りの住民が、戦場におけるアメリカ軍は規範(ルール)に基づいた行動を採る蓋然性の高い近代的組織であるという認識があったことです。

そして、もうひとつはハワイ在住の経験で身についた英語能力が、身近に迫り来るアメリカ軍と直接コミュニケーションを採るための貴重な手段(ツール)になったということです。

ハワイ帰りの住民が、ガマの中がパニック状態になる直前に採った行動は、自らがガマを出でて、迫りくるアメリカ軍と直接交渉をするということでした。

つまり、アメリカ軍に対し、「ガマの中には日本軍は隠れておらず、非戦闘員の一般住民だけが避難している」という情報を、直接英語で伝達するということです。

一般論としても、問題解決をする上で、風評ではない実際の経験に基づいた知識と情報が、有効で適切な判断をもたらすことは容易に理解できることではないでしょうか。

また、言語が他者との意思疎通を図るための、基本的なコミュニケーションの手段(ツール)であることはいうまでもありません。

このように、日常ではあたり前とされている判断や行為が、生死を分ける危機の局面においても、また同じように機能することになったということです。

その結果、ハワイ帰りの住民がいたガマでは、いったんはアメリカ軍捕虜となりながらも、結果として全員が生存生還できる幸運に恵まれることになったわけです。

しかしながら、同じ時間、同じ状況で、しかも数キロしか離れていない近隣にありながら、もう一方のガマでは児童を中心に多くの死者が出るという悲劇に至りました。

「集団自決」のあったこのガマ(「チビチリガマ」と呼ばれています。)は、今でも近くから見学はできますが、遺族への配慮からガマの中に立ち入ることはできません。

また、このチビチリガマは広い農道に面し交通の便が良いため、トイレや駐車場の整備がなされて、県内外から多くの見学者が訪れる沖縄戦跡のひとつになっています。

一方全員が生存生還できたガマ(「シムクガマ」と呼ばれています。)はというと、今では地元の人もあまり訪れることがなく、県外からの見学者はとても稀有な存在であるようです。

私が、初めてシムクガマを訪れたときは、まず読谷村内にある「道の駅」でガマの所在を尋ねることから始めました。

しかしながら、残念なことに「道の駅」にはシムクガマを訪れたという経験を持つ方はいなく、伝聞程度の知識を持っておられるだけでした。

このため、「道の駅」でいただいた読谷村全体の地図を頼りに、シムクガマが所在するとされる近隣まで向かうことにしました。

地図に記された集落のはずれまでやって来ると、幸運にもゲートボールを終えたばかりと思われる高齢男性に出会うことができました。

そして、この高齢男性にシムクガマの所在について尋ねたところ、迷うことのない極めて明確な答えが返ってきました。

地元では、今でもしっかりとシムクガマの存在は伝聞されていたようです。

その高齢男性は、目の前に広がる鬱蒼とした亜熱帯ジャングルを指差し、私が進むべき方向を示してくれました。

そして、亜熱帯ジャングルの中に延びた道を進んでいくと、やがて穏やかな小川の流れが目の中に飛び込んできました。

その小川の流れは大きなガマ(洞窟)の中へと続いていました。

鬱蒼とした亜熱帯ジャングルの中にぽっかりと空いたシムクガマの入り口は、陽光がこぼれおちる、とても明るく澄んだ場所という印象でした。

シムクガマの中はとても広く、奥までずっと空間が続いているかのようです。

資料によれば一度に千人ほどが、このシムクガマの中に避難することができたということです。

そして、このシムクガマの入り口付近には、全員生存生還への岐路を切り開いたハワイ帰りの住民を顕彰する碑(下の写真)が、ひっそりと地元の人たちによって建立されていました。

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これで私の二つのガマを巡るフィールドワークは終りとなります。

このふたつの非対称な結果を生んだガマの存在は、いったい私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。

このような結果の非対称性は、おそらく現代社会においても見られることであるのかもしれません。

このような非対称性は、おそらく時代や空間を超えた普遍的な人間の在り方に対する問題提起であるのかもしれません。

つまり、人間に対する洞察ということです。

まず一つ目は、いつ、いかなる状況にあっても、自分を疑うことができること、つまり自分の外部に視座を設定できる自己意識の存在が必要になるということです。

おそらく、このような自己意識の視点が、風評や思い込みという共同幻想の呪縛から自分自身を開放してくれるものであり、結果として自分だけではなく他者の命も大切できることになるのかもしれません。

そして、風評や思い込みのような危うさで臆断しない態度こそが、危うさの中でも確かな情報だけを取捨選択できる洞察力を養うものであると考えます。

そして二つ目は、自分には何の情報もなく、何が正しいかも判断できない状況にあったとしても、結果として正しい判断を下さなければならない事態に遭遇することがあるということです。

つまり、自分の意図とは関係なく、突然敵であるのか見方であるのか、右であるのか左であるのか、その究極として生であるのか死であるのかという二項対立の図式に放置されてしまうことがあるということです。

そして、この二項対立の選択があまりにも突然で、その同調圧力(プレッシャー)が強いとなると、自分が二項対立の図式に陥っていることにさえ気づかなくなってしまうことがあるのかもしれません。

集団心理や大衆心理からの同調圧力がそうではないでしょうか。

しかしながら、どのような同調圧力(プレッシャー)を受けたとしても、おそらくほんとうに必要な判断は、切迫して二項対立のいずれかを選択することではないように思われます。

むしろ、二項対立を超えたところに一旦自らの判断を留保する(不必要に動かない)こと、つまり自分自身を宙吊りするような視座の保持が、おそらく結果的として自他を生かす道につながるのではないかということです。

つまり、切迫した目先の風景だけではない、もっと射程の長い時間感覚(時間性)と、奥行きのある空間認識(空間性)の視点が必要とされるということです。

そして、このような時間性(今は答えが出ない)と空間性(この場所では答えが出ない)を担保するのが、先にも示した「自己意識」という視点ではないかと考えます。

少し言い方を替えるなら、自分と他者がともに生き延びるためには、どのような抑圧的状況にあったとしても、自らは決して抑圧する側の「似姿」だけは採ってはならないということです。

つまり、抑圧する側とは距離を採って、たとえ今自分が抑圧されている側にあったとしても、さらなる弱者に対する抑圧者になってはならないということです。

負(ネガティブ)の連鎖である「抑圧の移譲」を断ち切ることが、結果として自他がともに生き延びる、正(ポジティブ)の連鎖(循環構造)を駆動させることになると考えます。

言うまでもなく、人は、いつでも、どこでも、強者であり続けるということはできません。

したがって、自分や他者がたとえ弱者の立場になったとしても、ありのまま生き延びることができることが、「近代」と言う時代に用意された人間の普遍的な在り方ではないかと考えます。

これは、私たちが今を生き延びるために決して忘れてはならない、いかなる論理をも超越した「生き延びるための思想」ではないかと考えているのですが、さて皆様はいかがお考えになるでしょうか。

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by kokokara-message | 2015-04-01 21:49 | 我流社会学