高安山に登る
2012年 06月 16日
今回から、数回にわたって、「高安散策」を掲載します。
高安山は、標高488メートルの比較的低い山で、俗に鉢伏山とも呼ばれています。
高安山は、大阪府八尾市と奈良県生駒郡平群町の県境に位置し、登山の容易さゆえ峠越えの越境ルートとして古代から利用されてきた模様です。
現在でも、峠越えのルートは、北側から、十三峠越え、おと越え、立石峠越え、おお道越え、信貴越え、恩智越えと、多くの古代の道が現存しています。
また、飛鳥時代には、天智天皇が白村江の戦いで唐の大軍に敗れたことから、その防衛の拠点として高安山山頂に高安城(たかやすのき)を築いたことが日本書紀に記されています。
そして、戦国時代になると、松永弾正久秀が、大和支配の拠点として信貴山山頂(現在の朝護孫子寺)に信貴山城を築き、その北西に近接する高安山山頂には出城を築きました。
以上のように、高安山は、大和と河内、さらに西方向の摂津を結ぶ交通の要衝であり、また地政学的には、大和、河内を支配するための重要な軍事拠点であったといえるのではないでしょうか。
現在の高安山は、気象レーダー以外に目印となるものはなく、生駒連山の中に埋もれてしまっているかのようにも見えます。
今回の試みは、高安山を複眼的に検証し、そこに埋もれてしまっている意味や価値を掘り起こすということです。
(私自身は)高安山には十数年前に登ったきりであるため、今回はまずは高安山に登ることから始めてみることにしました。
今回の高安山へのアプローチは、大阪府八尾市から近鉄西信貴ケーブルを利用して登ることにしました。
近鉄西信貴ケーブルを利用するため、高安山登山の起点は近鉄信貴山口駅になります。
近鉄西信貴ケーブルは、ご覧のようなケーブルカーです。
ケーブルカーのダイヤは、2時間に3本しかないため、30分間待ってからいよいよ出発となります。
出発から10分ほどで、終点(山上)の高安山駅に到着しました。
そして、終点(山上)の高安山駅すぐそばには、大阪平野を一望する展望台が設置されています。
ハイキング道に入ると見晴らしが悪くなるため、この展望台から眺望されることをお勧めします。
写真でちょうど正面に見えている小さな黒い影が、JR久宝寺駅前のツインタワービルです。
高安山からすると、ちょうど真西の方向(大阪湾)を見ていることになりそうです。
高安山駅のすぐわきにあるハイキング道の入り口から、高安山登山を開始します。
ハイキング道をしばらく登っていくと、先ほど高安の里から仰ぎ見ていた、球形の天井を持つ白色の建造物が見えてきます。
高安山のランドマークともいえる建造物ですが、これは、1968年に建てられた気象庁、大阪管区気象台の高安山気象レーダーです。
さらにハイキング道を歩いていると、電柱にご覧のような「すぐ山頂」と殴り書きされた表示が見えてきました。
この表示に従い、電柱の背後から数十メートルほど登ると、今回の目的である高安山山頂488メートルに到着しました。
高安山山頂は、思いのほか樹木がうっそうとしていたため、残念ながら周りの景色を見渡すことは出来ません。
やむなく、高安山山頂ではご覧のような測量基準となる三角点の標識を確認することにとどまりました。
高安山山頂からの帰路は、尾根沿いの信貴生駒スカイラインを少し北に移動した立石峠からハイキング道に入り、麓の服部川まで下山することにしました。
このハイキング道は、古くから立石峠越えとも呼ばれている峠越えの越境ルートのひとつです。
立石峠から少し下ると、ご覧のような江戸時代に建立されたという「峠の地蔵尊」がありました。
さらに下っていくと、やがて視界が広がり、再び山上で見たJR久宝寺駅前のツインタワービルが正面(真西)に見えていきました。
これで、今回の「高安山に登る」は、終了となります。
現在の高安山は、高安山気象レーダー以外には特に目立ったものはなく、一見すると何の変哲もない、どこにでもある山の頂のひとつとして見えてしまいそうです。
しかしながら、高安山は、古代から地政学的な要衝に位置づけられていたこと以外にも、生駒山や信貴山という霊山と同様、信仰の山とされてきたという側面もあったようです。
また、高安山の麓や山麓に現在も残っている多くの古墳群は、おそらく古代にこの地域を支配した氏族が残した痕跡と考えるのが自然ではないでしょうか。
さて、今回の高安山登山は、山上から西方向(大阪平野)を一望するということがメインになってしまったような気がします。
果たして、この先「高安散策」の旅は、どこにたどり着くということになるのでしょうか。
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