ミーハーと普遍性
2012年 04月 22日
最近のことですが、私がミーハーではないかと言われたことがあります。
おそらく、私の選択が多数派にあることが多いため、そのように指摘されたのかもしれません。
ウィキペディアによると、ミーハーの意味は、以下のようになっています。
ミーハーとは、昭和初期に生まれた俗語であり、テレビが普及し始めた1950年代後半、大宅壮一が唱えた「一億総白痴化」とほぼ時期を同じくして用いられた。
元々は低俗な趣味や流行に夢中になっている教養の低い者や、そのような人を軽蔑して言う蔑称で、特に若い女性のことを指していた。
現在では男性にも使われる言葉である。
最近の用法としては、「ある事象に対して(それがメディアなどで取り上げられ)世間一般で話題になってから飛びつく」という意味でのものがほとんどである。
低俗な趣味や流行の意味するところは定かではありませんが、おそらくミーハーとは何かに熱しやすいタイプの人を指すのかもしれません。
また、ある事象に対して(それがメディアなどで取り上げられ)世間一般で話題になってから飛びつく、という意味では、おそらくミーハーは横並び意識が強く、同じでないと不安になる人かもしれません。
昨今の賞味期限の短い、一過性ともいえる情報が飛び交う社会情勢では、ミーハーの付和雷同は極めてリスクの高い選択になるかもしれませんね。
いずれにせよ、ミーハーとは、表層的な横並び意識を基盤とした多数派形成を志向する人たちといえそうです。
そして、ミーハーは多数派にあるといううことが、他には替えがたい自信になっているのかもしれません。
おそらく、かようなミーハーは、大衆社会における代表的な行動様式(エトス)を採る人たちといえそうです。
一方、多数派志向の「ミーハー」に対し、「普遍性」という一般性を表す言葉があります。
養老孟司氏によれば、普遍性とは偏在する多様な感性や価値の極端な部分を除いた真ん中あたり、ということになるようです。
つまり、マニアの感性や価値観のような特殊性、つまり極端な例外を除いた一般性の部分が普遍性になるということです。
例えば、誰もが美しいと感じるものを美しいと感じることや、文化や共同体の論理に囚われない、誰もが納得できる価値や判断が下せるようなことを普遍性と呼ぶのかもしれません。
おそらく、普遍性は、人間であるなら誰もが納得できる範囲に収まるような「一般性」のことを指すのではないでしょうか。
このため、普遍性は、多数派を志向するミーハーの人たちと重なり合う感性や価値観を所持しているということになります。
つまり、マニアのような特殊性を除けば、普遍性であっても、ミーハーであっても、一般性を所持する人たちということでは同じということになります。
また、数の上ではおそらく、どちらも多数派を形成する人たちということになるのではないでしょうか。
ただし、先にも述べましたように、大衆社会におけるミーハーの感性や価値観は、あくまでも相互参照や横並び意識の結果として形成されたものということになります。
つまり、ミーハーがもともと多数派志向の人たちであったように、その行動様式である相互参照や横並び意識を繰り返すことによって、地滑り的に多数派が拡大していくということになります。
一方、普遍性はというと、個人の自由で内発的な選択の結果、同じような傾向を示す人たちが集まり合うことにより一般性が形成されていくということになります。
つまり、普遍性は、もともと人間に内在している至極当たり前なことを自らが確認した結果、当然のように多数派が形成されていくというわけです。
どちらも多数派にあるという点では同じように見えますが、そのアプローチの方法は真逆になっていることには留意しなければなりません。
最近私が気になることは、仕事や家庭の中でも、考えても考えなくとも、またやってもやらなくても、結果は同じというような、なんだか虚無的に感じる場面に出くわすことが多くあるということです。
おそらく、これは結果だけが高く評価されることになるため、多数派にあるという事実だけで容易に勝ち負けを決定されてしまうということが原因ではないでしょうか。
つまり、民主的な手続きの結果として多数派にさえあれば、ミーハーであろうと普遍性であろうと、そのアプローチの方法には関係なく、同じよう(勝ち組)に扱われてしまうということです。
民主主義社会において、多数派に属することはとても重要なことです。
しかしながら、月並みな言い方ですが、結果の勝ち負けではない、形成過程(プロセス)に対する考察がより重要ではないかということです。
つまり、現代社会において民主主義が重用されるのは、その単純な多数決の意思決定システムが全体意思をあらわすためではなく、むしろ民主主義という意思決定システムの中に「人間の持つ普遍性」に対する信頼が組み込まれているからではないでしょうか。
社会学者の橋爪大三郎氏は、民主主義は最高の意思決定システムとされています。
少なくとも近代以降の日本の意思決定システムは、相互参照や横並び意識の多数派形成を意図して設計されたものではありません。
あくまでも、個人の自由で内発的な選択を前提として多数決の意思決定システムが機能するものと考えていたはずです。
もちろん、残念なことではありますが、現実と実態がかい離しているという現象も多々見られることといえそうです。
大衆社会とは、個々の感性や価値観が多様化する一方で、それらの感性や価値観が画一化されて行くという、拡散と収縮(選択と集中でもかまいません)が同時に起こるカオスの状態ということができます。
大衆社会に生きる私たちは、このようなカオス状態をいかに生き延びればいいのでしょうか。
まず、グローバリズムのトレンドからすると、文化や共同体という特殊性を超えた、もともと人間に内在している「普遍性」に依拠した判断や決定が行われることが求められているといえそうです。
これは大変難しいことですが、いかに文化や共同体のバイアスから自由な(解放された)判断や決定ができるか、つまりは自分自身をいかに相対化するかが、今を生き延びるためのスキルということになりそうです。
そして、少し戦略的な話になってしまいますが、やはり民主主義社会で生き延びるということは、いかなる場合であっても、社会の多数派からは零れ落ちないという立ち位置はキープしておくという慎重さは必要とされるかもしれません。
つまり、今を生き延びるためのスキルとして世を忍ぶ仮の姿も必要になるということではないでしょうか。
先にも述べたとおり、ミーハーと普遍性では多数派へアプローチする方法は、真逆になっているということでした。
しかしながら、あらためて大衆社会における多数派の立ち位置の重要性を考慮すれば、ミーハーと普遍性はともに今を生き延びるための重要なスキルということになり、それぞれが対立する概念という位置づけにはなっていないということです。
ミーハーであることと普遍性であることのスキルがバランスよく補完し合う関係になれば、両義的であり複雑怪奇ともいえる大衆社会を生き延びることができる活路も見出すことができるのではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。
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