信任論/岩井克人(1)
2011年 07月 09日
資本主義は絶対に倫理性を必要とします。
法人を法人たらしめている信任の問題も、その倫理性と深くかかわっています。
貨幣とは何かといえば、貨幣として使われているもののことだという循環論法しか出こない。
商品を流通させるべく循環している貨幣を支えているものは、それが循環しているという事実だけです。
マルクスは「経済学批判」から「資本論」へといたる過程でそのことを見出しながら、結局金本位制のようなもっとも保守的、プラトン主義的な論の展開(価値形態論)をしてしまいました。
実際はそのようなことはなく、貨幣はいってみれば無根拠ということになります。
従って、恐慌があってもなお資本主義がつづくという問題も、そういうことになります。
そのうえ、貨幣が貨幣として使われるというその事実によって、今度はそういう貨幣の性格そのものが商品になるところまで指摘できます。
そして、貨幣が貨幣として使われるというその事実によって、通貨危機まで招いたヘッジファンドの暴威を予言し、グローバル経済を解説することもできます。
つまり、自己循環論法から実体が生まれてしまうということです。
そして、会社はモノであってヒトであり、ヒトであってモノであるとする法人論は、会社はヒトとモノの二階建てになっているという理論です。
会社が法人であるということは、同時にヒトでありモノであるということになり、必ず二階建ての構造になるということです。
従って、法的にはヒトであっても、実際にはモノである会社は代理人を必要とし、すなわち代表取締役への信任という問題が出てくることになります。
会社の買収を手がけている人にとっては、株主主議論批判つまり会社は必ずしも株主のものではないという議論は、そのまま私有財産制の否定を意味していることになります。
しかしながら、法人論は、すべて私有財産制のなかで成立している議論といえます。
つまり、株主が会社をモノとして所有し、その会社が今度はヒトとして資産を所有するということになります。
私有財産制とは、すべてのモノに対して所有するヒトを定めておくという制度のことです。
会社という仕組みは、法人がヒトでありモノであるという両義性を巧みに利用し、私有財産制の守備範囲を大きく広げたということになります。
なぜなら、会社財産の法的な所有者は、法人としての会社になるからです。
資本主義とは、商品は貨幣によって買われなければその価値を実現できないという形態により、その超歴史的な価値を表現している社会といえます。
その価値の形態がどういう形式的な構造をしているかを分析しようとするのが、マルクスの価値形態論です。
マルクスは労働価値の自明性をより根源的なかたちで示そうとして価値形態論を展開したのですが、その価値形態論をさらに進めると価値形態というものが自己循環してしまうことになってしまいました。
貨幣は、自己循環論法によって、労働という実体と切り離され、それ自身が実体となってしまったということです。
貨幣論では、貨幣とは労働という実体的な価値の表現形態などではなく、貨幣という形態が自己循環構造をとることにより、形態そのものが実体になってしまったことを明らかにしようとしました。
つまり、マルクスの論理を徹底させるとマルクスの論理そのものかが否定されることを示そうとしたわけです。
そして、会社論(法人論)でやろうとしたことは、私有財産制の問題があったからです。
資本主義経済のいちばん重要なのは、個人主義や自由主義ではなく、私有財産制といえます。
私有財産制度が、資本主義の基本といってもいい。
資本主義の基本が私有財産制にあることは、人間という概念そのものが所有という問題と切り離せないということになります。
私有という言葉がありますが、人間は所有することによって「私」になる。
つまり、自己意識を持つということ。
人格概念が示しているのは、人はまず自分の身体を所有するというところから始まる、ということです。
自己とは自己所有ということ、自分が自分を所有するということです。
自分が自分の奴隷になるということです。
自己決定が出来るということは自分を対象化できるということであり、対象化できるということは、自分をモノとして見ることができるということになります。
資本主義のなかに、モノでありヒトである法人が生まれてしまいました。
〇〇会社は、ほんらいヒトではなく組織です。
組織という抽象的なものです。
法律のうえでしかヒトではない会社が、実際に社会の中でヒトとして活動をするためには、それをヒトとして動かす人間が絶対に必要になります。
文楽の人形と人形遣いの関係がよくあらわしているように、法人としての会社と代表取締役つまり経営者との関係は、資本主義における基本的な関係である契約関係には還元できないということになります。
法人論では、そこに信任というかたちで倫理性を導入したわけです。
ということは、資本主義の枠組みの中心に倫理を入れたということになります。
自己利益を追求するシステムであるはずの資本主義と、およそ相容れないように思われる倫理性が、資本主義の中心に鎮座することになったということです。
重要なことは、外部から倫理性を導入することになるのではないということです。
よくある人間は倫理的な存在であらねばならないというたぐいの議論ではなく、自己利益追求だけで成立しているはずのシステムが、内部で必然的に倫理性を必要とすることになるということです。
ところで、財団とは、寄付されたお金、たとえば銀行口座を法律上はヒトとして扱うということになります。
財団とは財産に付随する組織のことですが、端的にいえばお金の集まりをヒトとして扱うということです。
会社は社団といって、基本的にはヒトの集まりのことですが、財団の方は、ただのお金の集まりをヒトとして扱うということです。
たとえば、財団法人の財産が盗まれたら、訴える場合は財団法人の名前で訴えます。
また、財団法人の財産を買うときは、財団法人の名前で買います。
だから、これはお金がヒトとして振舞うということになるのです。
このようにおカネをヒトとして振る舞わせ、モノを所有させることによって、資本主義経済は、交換と契約の範囲を拡大さることがでました。
法人という概念は、ローマ法にもありました。
イギリスやオランダの東インド会社はいちおう法律的にも法人になるけど、それは王様の特許というかたちの特例にすぎませんでした。
そして、ある一定の条件を満たせばどんな人間でも会社を設立できるというかたちにして、会社を法人として認めたのがアングロサクソンになります。
資本主義社会というのは、基本的にはモノを持ったヒトとモノを持ったヒトとの間の交換、いや契約関係といえます。
契約というのはお互いに得になるから契約を結ぶわけであり、そのプラスアルファが社会にとってもプラスアルファになって社会が拡大発展することになります。
契約関係は、資本主義におけるもっとも基本的な社会的関係といえます。
契約のネットワークをそれまでには考えられなかったほど大きく広げたのが、法人を中心とした資本主義ということになります。
本来お金の集まりでしかない財団が、ヒトとして美術品等の財産を管理し、ヒトとして契約を結んだり、ヒトとして訴えられたりすることを、ただのお金の集まりの代わりにやってあげるのが財団の理事であり、会社の経営者と同じ存在なわけです。
その財団と理事、会社と経営者の関係は必然的に信任関係になります。
これは、一方が他方を一方的に信頼することによってしか成立しない関係性ということになります。
この関係が成立するためには、信頼を受けた側は、自己利益を押さえて行動しなければなりません。
つまり、倫理性を絶対に要請することになってしまいます。
資本主義のまさに中核に信任関係、倫理が登場するわけです。
信任というのは、英語でフィデューシャリー(Fiduciary)ですが、その一番重要な部分を占めるのがトラストであり、法律的には信託と訳されます。
普通の銀行(バンク)にお金を預けるときは、ただお金を預けているだけで、お金の所有権はこちらにあります。
信託銀行(トラストバンク)に信託としてお金を預けるとはどういうことかというと、お金の所有権そのものが信託銀行に移ってしまうことになります。
お金の所有権すら向こうに預けてしまったということになります。
信託銀行はお金の所有権までもらって、それを自分のものとして運用するわけです。
ただ、所有権が移転してしまうことによる不利益の発生を防ぐために法的な規制があります。
信託という方法は、イギリスが考え出したものです。
信託銀行にお金を預けた場合の所有権は二重になるということです。
法制上の所有権は信託銀行が持っていますが、ほんらいの所有権はお金を預けた人にあるということであり、信託法としていろんな規制がつくことになるわけです。
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