中沢新一×内田樹×釈徹宗トークセッション(2)
2010年 09月 29日
トークセッションの最後は、共同性の条件で締めくくられています。
共同体は、利得だけではなく、歴史や風土や文化などを共有する、つまり同じ物語が共有できている唯一無二の人の集まりということになり、なによりも、共同体は存続することが至上の目的とされています。
しかしながら、現代社会では、人が同時に複数の共同体に所属するということは、決して珍しい現象ではありません。
このため、個人が、共同体間の立する価値の葛藤の中に巻き込まれてしまうということにもなってしまいます。
このような危機には、あくまで自分を基軸としながらも、その重心は文脈に沿って小刻みに移動させながら、十分に時間をかけて問題解決を図っていくしかないといえるのかもしれません。
共同体主義(コミュリタリアニズム)は、「ハーバード大学白熱教室」のサンデル教授が提唱する立場といえますが、このトークセッションにおいても重要視されることになりました。
「共同体」や「共同性」は、現代社会の知の最先端に位置する、たいへん重要な概念といえるのかもしれませんね。
では、トークセッションの後半をお楽しみください。
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【釈徹宗】
日本人論といいますか、日本人のあり方についてお伺いしたいのですが。
【内田樹】
ガラパゴス化がいいのではないでしょうか。
つまり、日本の閉鎖性そのものが、日本のガラパゴス化ということですね。
21世紀の日本の国家戦略として、先端的なガラパゴス国家を目指すべきではないでしょうか。
超高齢化、超少子化、人口減少化、右肩下がりの経済成長が、現在の日本の抱える課題といえます。
日本人は、これらの課題にくずぐずしながらも、老いや病と伴に、機嫌よく、愉快に生きればいいのではないでしょうか。
明治の初めの頃の人口は、5000万人でした。
人口の減少は、日本が抱える多くの問題を解決することになるのではないでしょうか。
日本は、これから未知の条件に突入することになりますが、発想を切り替えて、創発的に、創造的に、適用していかなければならないということです。
いずれヨーロッパ先進国も少子高齢化が進み、人口減少になりますから、そのアドバンスを利用してガラパゴス先進国になればいいのではないでしょうか。
また、日本は近代化はしても、前近代を抹殺することはしてこなかった。
このため、日本人には普遍的ともいえる人間性が、今も生き残っているように思います。
日本人がガラパゴス化する(閉鎖性、グローバル化とは距離をとる)ことになれば、日本は唯一普遍的な人間性をもったヒトが生き残る場所となるのではないでしょうか。
【釈徹宗】
以前に聞いた話では、合理的な構造をした集合住宅(グループホーム)は、誰にとっても住みにくいものになってしまうということのようです。
つまり、合理性だけを追求するよりも、合理的ではない部分があった方がいいということではないでしょうか。
では、日本文化のありかたというのは、これからどうなっていくのでしょうか。
【中沢新一】
日本文化は、とても繊細で、目に見えにくいところがあります。
従って、壊れていくことになったとしても、実際には分からないのではないでしょうか。
壊れてしまうことにこだわらないというのなら、日本文化は「なっちゃって」ということでもいいのではないでしょうか。
【釈徹宗】
日本人は、上機嫌で、ぐずぐずしながら、「なっちゃって」ということでいいということですね。
では、この大阪という都市に未来はあるのでしょうか。
【中沢新一】
私は、大阪アースダイバーをやっています。
縄文時代の大阪の陸地はというと、上町台地と南河内のあたりだけでした。
なつかしい風景はやがてなくなり、変化してしまうことになりますが、大阪はその地形を変えながらも、現在も古代にあった構造を残しているように思います。
平松(大阪)市長によれば、大阪は形状記憶合金のような都市ということです。
つまり、もはや原形はとどめていないが、その構造だけは残しているということです。
【内田樹】
私は、大阪の土地の力としては、謡曲「弱法師(よろぼし)」が思い浮かびます。
*「弱法師(よろぼし)は、俊徳丸伝説を下敷きにした現在能。四天王寺を舞台とする。観世元雅作。他の俊徳丸伝説より悲劇性が高く、俊徳丸は祈っても視力が回復せず、回復したような錯覚に陥るだけである。 題名は普通「よろぼおし」と読むが、謡曲の本文中では「よろぼし」と読む。(ウィキペディアより引用)
四天王寺西門から、お彼岸にながめる日想観(じっそうかん)がそうですね。
*日想観(にっそうかん、じっそうかん)とは「観無量寿経」に説かれる修法で、夕陽を見ながら極楽浄土を観想する16観の初観。「観無量寿経」には極楽浄土を観想する十六の行法が示されていますが、その一番目に示されているのがこの「日想観」です。この後、水想観、地想観、宝想観、宝池観等々が示されています。(一心寺ホームページ等より)
また、謡曲の「高砂」には、兵庫の相生から大阪の住ノ江へと向かう中世の風景が描かれています。
*「高砂(たかさご)」 は能の作品の一つ。相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐ大変めでたい能である。「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり」(ウィキペディアより引用)
このように、大阪には、古代から海の上に引かれていた東西の方向の力を感じることができます。
これは、古代の大阪のコスモロジーなのでしょう。
【中沢新一】
古代の大阪には、太陽信仰があったといえます。
なかでも、高安山が一番重要とされていた場所らしい。
古代の大阪は海の世界であり、海人族は星と太陽を信仰していたようです。
また、住吉大社(大阪市住吉区)は、星と太陽を信仰しています。
大阪は、(天体を軸とする)抽象的な空間として創造された都市といえそうです。
従って、大阪は抽象的であるがゆえに、その地形が変わっても、原型としての構造は残しているということですね。
【釈徹宗】
話は変わりますが、大阪人は正解をいうよりも、むしろ流れを大切にするようなところがあるように思うのですが。
【中沢新一】
大阪人には、都市の人を感じます。
つまり、むきだしの形ではやらないということ。
また、批判はあってもその場は壊さないということ。
【釈徹宗】
つまり、上手に合わせるのが大阪人ということですね。
自分の主張を出すよりも、自分を括弧に入れながら、流れに合わせることができるのが大阪人ということですね。
【内田樹】
東京人は、(緩衝帯のない)出会いがしらといえそうです。
東京での人間関係は、使い捨てが基本となっているように思われます。
東京は、巨大な都市になっていくほど、人を使い捨てにしていくようになったと思います。
メディアの世界が、その典型ではないでしょうか。
人がタレント並みに消耗品あつかいされるのは、ある意味開放性ということもできますが、それは代わりがいくらでもあることに他ならない。
従って、寄り添っていくためには、閉鎖性であることが必要になると思います。
つまり、ここが必要であって、この関係を大切にするということですね。
大阪人は限られた人間としか付き合えなかったから、その関係を大切にするしかなかったということですね。
これに対して、東京は開放性であるため、(機能面から)人間を選択することが可能であったということになります。
【中沢新一】
東北の人は、自分たちのことを「東北人はうそつきだからな」といいますよね。
もちろん、そういっている自分も含めて、東北人のことを信用をしているのですが。
【内田樹】
東北の人といえば、少し前に、またぎの人と話をしたのですが、どうも我慢できないのがエコの人であるらしい。
つまり、人と自然との関係には、いい面と悪い面があるにもかかわらず、エコの人のように、いい面だけをいうのは、嘘つきということになるわけです。
【中沢新一】
宮沢賢治には東北人の毒というものがありますが、その毒を取ってしまえば、エコの人になってしまいます。
エコの人は、あるところに理想を創ろうとしますが、その理想のためには、別のところで破壊があるのが当然となっているのではないでしょうか。
【内田樹】
結局、人は相互関係の中で生きていくしかない、ということになるのではないでしょうか。
つまり、与えられた環境の中で生きるしかないという覚悟を持つということですね。
東京人は、世界は広くて、いくらでも代えがあるという発想を持っていますが、これが東京人のマナーになってしまっているといえそうです。
【中沢新一】
嘘(うそ)と真(まこと)の表現方法には、正解はないといえます。
嘘(うそ)と真(まこと)を使いこなす大阪人の表現方法は、私は気に入っています。
大阪人のように弱いところまで見せていくことが、ガラパゴス化(閉鎖性、特殊性)にもつながることではないでしょうか。
日本人は、このような方向、つまり嘘(うそ)と真(まこと)の表現方法で生き残るしかないのかもしれません。
大阪は海で、大阪人は都市の人。
京都は陸で、京都はいけずな人でしょうか。(笑)
【釈徹宗】
日本人の持つ消費者体質というものを、何とかしなければならないのではないでしょうか。
たとえば、学びを購入するということが、そもそも間違いではないでしょうか。
自分というものは、社会のシステムの中に組み込まれて生きているだけで、だましだましに、その役割を果たしていくだけではないでしょうか。
【内田樹】
先日、コレクティブハウスで共同生活する学生が、「若い人は子育てで相互支援しているけれど、介護を受けるだけの高齢者には得心が行かない」といっていました。
どうようサービスをすれば何が返ってくるか、商取引のモデ(無時間モデル)で考えていたら、共同体になることはないと思います。
つまり、共同体には時系列というものがあり、受け取ることと出すことには、その相手が違ってくることになりますが、全体では同じことになります。
従って、共同体においては、時間を頭においておくことがとても大切になります。
共同体は、長期にわたって継続することによってその帳尻があってくるものだからです。
また、共生することは、受け入れても、おつりがくるような関係を必要としているのかもしれません。
教育、医療、宗教が共同体といえるものではないでしょうか。
共同体には、自分が理解できない人間、いわば痛みを受け入れるには世代を越えた長い時間の中でつながっているという物語を読み取れることが必要です。
【中沢新一】
私は、祖々母や祖母からは、よく昔の話しを聞かされました。
江戸や明治という19世紀は、祖々母や祖母から自分の中に入ってきているように思います。
このことは、自分が19世紀を生きているということにもなります。
このことを、言葉にして次の世代に伝えていくことが求められると思います。
共同体には、時間軸にそった、物語が不可欠といえます。
ガラパゴスをめざすのだから、時間軸に沿って体験を伝達することに意識的に取り組みたいです。
【釈徹宗】
これからの時代を機嫌よく生き抜くために、物語を共有するための、聞き取る能力や語る能力を人文科学によって育てたいと思います。
(トークセッションの終了)
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