茶の湯と倒錯文化(15)
2010年 06月 20日
つまり、いかに個性化の過程を歩んでいくのかということです。
都市の持つ特殊性とは、絶対化できるものではなく、相対化されてはじめてその位置関係が明らかになると思われます。
つまり、都市の持つ特殊性は、多元的な価値が並立するコンプレックス(葛藤)に抑圧されることで出現するものではなく、普遍性という外部に開かれた領域で個性化の過程を歩むことによって、やがて自我によるコントロール可能な統合(一般性)へと至るのではないでしょうか。
唯一無二という特殊性(オンリーワン)は、閉鎖された共同性の中をいくら探し回ったところで見つかるものではないと思われます。
むしろ、唯一無二という特殊性(オンリーワン)は、共同性の外部に開かれた普遍性の中に組み込まれたことで、客観的な評価が与えられ、相対的な位置づけも明確になるということではないでしょうか。
つまり、都市の持つ特殊性(オンリーワン)は、いくらその絶対性を自己言及したところで、外部からの評価や価値にはつながらないということになります。
個性化の過程とは、全体性の回復ということになるのかもしれません。
人間は、構造的無知の状態に置かれています。
このことを謙虚に受け止め、自分の世界観には必ず外部があることに留意する必要があります。
つまり、人間の既知は有限であって、未知という暗黒が外部に広がっているということです。
従って、自分には自明な世界観も、外から見れば倒錯した価値ということになるのかもしれません。
私たちは、自分を絶対化せず、常に相対化しながら、自分の中の特殊性に気づくということが求められているのかもしれません。
しかしながら、自分の中の特殊性である個性も、もろ手を挙げて歓迎できるようなポジティブな価値とは限らないということでもあります。
橋本治氏によると、個性(特殊性)とは一般(普遍性)からの破綻ということになります。
そして、個性(特殊性)とは、孤独と痛みが伴うものということでもあります。
おそらく、このような孤独や痛みは、個性(特殊性)が多元的な価値のコンプレックス(葛藤)の中に抑圧されてしまうときに生じるものだけではなく、コンプレックス(葛藤)から切除されるときにも生じるものといえるのではないでしょうか。
つまり、個性(特殊性)は、コンプレックス(葛藤)の中に抑圧されてしまうという過程と、そこから切除されて一般化するという過程を繰り返しているということになります。
もともと一般からの破綻である個性(特殊性)が、このような包摂と排除という過程を経ることによって、やがて自我によるコントロールが可能なまでに全体性が回復するということになれば、個性化の過程は終了することになると思われます。
過剰と過少が繰り返されることで、やがてバランス感覚が備わってくるというイメージでしょうか。
私たちは、自分や他者の中に個性(特殊性)を見つけたとしたら、安易にオンリーワンとして評価するだけではなく、孤独や痛みを伴った傷を癒すようして見守りながら、自他の緊張関係の中を手探りして納まるべき場所を見つけるしかないのではないでしょうか。
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