茶の湯と倒錯文化(10)
2010年 02月 21日
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侘びや寂は、完全なものにはない、むしろ手垢のついた少しいびつなものにこそ価値があるとする美意識といえます。
このような美意識と似たものとしては、ドレスダウンのような、わざとドレスコードを破って着崩すという文化があります。
最近のバンクーバーオリンピックで、物議をかもしたドレスダウンの問題は、同様な美意識といえるのかもしれません。
しかしながら、現在の茶道においては、侘びや寂が既定のものになってしまっていることから、なぜこのような迂回的な表現がなされるようになったかという理路までは理解されていないようです。
従って、現在の茶道には、観念や様式としての侘びや寂は残っていても、その意味や起源についての考察は、十分になされているとはいえないのではないでしょうか。
現在の茶道が、従来からの伝統の様式と作法を受け継いで来たことは間違いないことですが、その本質までは受け継いでいるといえないように思われます。
現在にまで至る茶道の流れは、千利休のあとに再興された京千家の千少庵や千宋旦の流れを受け継ぐものといえます。
門外漢であるため詳細な言及はできませんが、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家などは、千利休以来の伝統の様式と作法を「型」によって受け継ぎながら、その差異は小さいものにとどまっているようです。
そして、茶道の美意識が、もともと倒錯的価値に起源を持つ可能性があることまでは考察されておらず、従って反逆性や政治性も茶道の本質ではなくなってしまっているように思われます。
しかしながら、侘び茶の発祥の地である堺や京都には、いまだ侘びや寂を生み出すことになる倒錯文化を受け継ぐような土壌が伝統として残っているところがあるように思われます。
もちろん、劣っていることが素晴らしいとか、弱いものが強いとされるような倒錯文化に見られる現象は、堺や京都だけに限って見られることではなく、他の日本の都市でも同様な現象はあるのかもしれません。
堺や京都では中世以前から都市文化が成立していたことから考えれば、都市化と倒錯文化との間には相関関係があるのかもしれません。
現代のように都市化が進んだ社会状況では、誰もがコンプレックス(複合的心理)を抑圧しなければならない構造の中に投げ込まれているということになり、いずれの都市にあっても倒錯文化が生まれる土壌にあるということであるのかもしれません。
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