和を以って貴しと為す


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前回に引き続き、リンボウ(林望)先生の著書「新個人主義のすすめ」から引用をさせていただきます。

書評ではありませんのであしからず。

同書では、聖徳太子の十七条憲法の劈頭にある「以和為貴」が取り上げられています。

「以和為貴」は、ふつう「(和)わをもって(貴)たっとしとなす」と読んでいますが、古い写本に拠れば「(和)やわらかなるをもって(貴)たっとしとなす」と読むことがあるようです。

この場合の「和=わ」と「和=やわらか」は、言うまでもなく同じ意味で使用されています。

しかしながら、前者の「和=わ」と後者の「和=やわやか」に少なからず違和感を覚えたとしたら、それはおそらく前者の「和=わ」を「同=どう」と読み違えしていることからくる錯覚ではないでしょうか。

つまり、「和=わ」の意味は調和するということであって、和(なご)やかに、睦(むつ)みあって、諍(いさか)いをしないということになりますが、「同」はどちらかと言えば主体性がなく、付和雷同して誰かの意見に流されるということになります。

「和=わ」は、主体的に、しなやかに、やわらかに、なごやかに、むつみあって、いさかいのない調和した状態をつくりだすということになります。

論語には「君子は和して同ぜず」という言葉がありますが、これはまさに「和」と「同」の違いを言い表していると言えそうです。

但し、大変残念なことに、いつの頃からか日本人は、「和」と「同」を読み違えてしまったようです。

おそらく、この読み違えは日本人が「同じ」であることを前提に成り立っている世間で生きていることと関係があるように思われます。

ここで言う世間は、みんな「同じ」が通用するような狭い範囲の人間関係のことです。

では、世間の「同じ」は、果たして「平等」と同じ意味で使用されているのでしょうか。

人それぞれに身体的な差異があって、付属する有形無形の財産や人間関係に差異があるのは当然のことです。

しかしながら、身分制の封建社会では同じ百姓の間に大きな差異があったとしても、百姓は「同じ」身分であることを前提として来ました。

そして、百姓の中でも大きな割合を占めた農民は、田植えや稲刈をムラ総出の共同作業(結=ゆい)で行い、全体で成果を上げることをムラの掟としていました。

日本のムラ社会(世間)では、たとえ様々な立場の意見があったとしても、意見は自分が言うものではなく、みんなで決まった意見に従うということになっています。

かような百姓の稲作文化が数百年以上続いたためか、日本の世間では「同じ」ことをするが原則になってしまい、自分に合った仕事や生活をすることは悪と見做されることになりました。

日本の国の方針に「ワーク・ライフ・バランス」が掲げられていますが、残念なことに十分な成果は上がっていないように思われます。

これは自分に合った仕事や生活をする「ワーク・ライフ・バランス」が日本では個人主義と見做されて、横並びから突出する不届き者が出ないようみんなで牽制し合い監視し合う関係が続いてきたからだと思われます。

昨今監視社会が話題に上ることがありますが、日本の世間では牽制し監視するが習慣になっているため、内面の自由に対する警戒心は低くなっているように思われます。

おそらく日本には長い世間の歴史があるため、少しくらいの社会構造の変化ではその本質までは変わらず、「平等」ではない「同じ」への強い志向性が今も続いているのではないでしょうか。

ところで、お隣の国、中国の社会は個人主義的と言われることがあります。

また、中国は「個人」がある社会と言われることがあります。

確かに日本との対比では、中国は「同じ」であるよりも、むしろ差異(違い)を重要視する社会で、個人主義的と言われれば確かにそのように思われます。

しかしながら、中国人の個人主義は欧米の一神教を起源とする利他的な個人主義ではなく、それとは真逆な多神教的を起源とする利己的な個人主義ではないかと思われます。

例えば、中国人が平等を求めるのはあくまでルールの下の平等で、異姓不養(異姓からは養子をとらない)の原則に見られる宗族(家族)間の差異は明確にして、それ以外は不平等としてきました。

つまり、中国は「同じ=平等」が適用される宗族(世間)が多元的に存在する社会であって、地縁血縁のムラ社会(世間)が多元的に存在する日本とはとても似た社会構造にあると言えそうです。

このためか、中国人は個人主義的と言われながらも、相手を一個人として尊重する、宗族(家族)を超えた普遍性は持ち合わせてはいないように思われます。

また、中国にも一神教的な天の世界観である儒教はありますが、これはあくまで支配階層の思想(宗教)であって、一般大衆にとっての思想(宗教)は道教になります。

道教が老荘思想の「未分化同一」を志向していることからも分かるように、道教には一神教的に個人が分節されるという世界観はなく、多神教的な渾然一体の世界観になっています。

中国の一般大衆が「未分化同一」の世界観で生きているとしたら、日本の母系原理に基づいた「母子密着」の世界観とはとても近い関係にあるのではないでしょうか。

そして、日本の文化の中に道教の影響が強く見られることについては、中国哲学者の故福永光司氏が数十年以上前から指摘されてきたところでもあります。

ちなみに、先述した「君子は和して同ぜず」は儒教の言葉であって、道教の渾然一体の世界観ではないと言うことです。

中国社会は、欧米社会の数百年後の姿と言われることがあります。

おそらくこれは、中国が爛熟した古代都市文明のなれの果ての姿であって、一神教的な欧米社会の利他的な個人主義は、やがて文化が爛熟すると利己的な個人主義に変貌して行くのではないかと言った危惧ではないかと思われます。

しかしながら、中国の個人主義が前提としている個人は、一神教的な分節によって自律できている個人ではなく、「未分化同一」のコンプレックス状態の反動形成として生じた未熟で万能感の強い個人であることからすれば、中国社会は欧米社会の数百年後の姿ではなく、むしろ母子密着のコンプレックス状態に起源を持つ母系社会日本の近い将来の姿ではないかと大変危惧しているのですが、さていかがでしょうか。


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# by kokokara-message | 2017-06-17 11:43 | 読書 | Trackback | Comments(0)

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リンボウ(林望)先生の著書「新個人主義のすすめ」から、少し引用をさせていただきます。

書評ではありませんのであしからず。

リンボウ(林望)先生は、「世話を焼かない内助の功」が夫婦関係のひとつの有り様ではないかと提言されています。

つまり、個人主義的な夫婦関係では、妻は夫の世話を焼かない、夫は妻の生活に干渉しないことが不文律になるということです。

「個人主義」と言うと自分勝手と勘違いされてしまいそうですが、個人主義とは自分以外の他人を「一個独立の個人」として認める立場のことです。

これに対し利己主義は、他人に対して自分の考えを押し付けたり、その前提として自分の考えだけが尊いと思っている傲慢さや独善性を指します。

日本人が行っている横並びや同質性が同調圧力を意図するものなら、それは利己主義ということになってしまうのかもしれません。

したがって、一見同じように見える個人主義と利己主義は、ベクトルの方向が真逆になっているということです。

繰り返しになりますが、個人主義的な夫婦は自分の考えを相手に押し付ける上下関係ではなく、男女の違いと独立を認め合ったフラットな関係と言うことになります。

夫婦が「一個独立の個人」として認め合える関係であるからこそ、妻は夫の世話を焼かない、夫は妻の生活に干渉しないという不文律が成立するのではないでしょうか。

では、個人主義的な夫婦関係では、相手に何も求めてはいけないのでしょうか。

友情であるのなら、困っている場合に相談してみたりとか、無理を聞いてもらったりすることはあります。

べたべたした関係ではなく、むしろ距離が取れている方が、友情を維持する上では重要になってくるのかもしれません。

個人主義では自分ができることは自分でするが基本となりますが、嫌なことや困ったことはお互いが分担してするもまた大事な基本になると言うことです。

では、家庭における家事は、どのように分担すれば良いのでしょうか。

掃除や洗濯は比較的好きであっても、料理は嫌いという人はいると思われます。

また、その逆もしかりです。

では、家事を全て分担してしまうのが、個人主義的な夫婦関係ということになるのでしょうか。

個人主義とは、自分以外の他者を「一個独立の個人」として認め合う、つまりは他者の尊重や他者への「思いやり」がベースとなって成立するものでした。

この「思いやり」を欧米流の言い方に換えるとしたら、自分以外の他者への「無償の贈与」になるのかもしれません。

ただ、世知がない拝金主義の世の中では、金銭に換算できない「思いやり」や「無償の贈与」は歯牙にもかけられないのが現状と言えます。

では、個人主義的な夫婦関係では、「思いやり」や「無償の贈与」はどのようにして実践されるのでしょうか。

また、妻が負担している家事は、夫に対する「思いやり」や「無償の贈与」と考えて良いのでしょうか。

おそらく、日常の生活実感からすると、妻の家事負担は、夫の経済的な側面に対する妻の分担になるのではないかと思われます。

ただ、妻も夫と同じように働いているとしたら、妻の家事は過分な負担になってしまうのですが・・・。

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では後半です。

もう少しだけお付き合いください。

さて、個人主義的な夫婦関係では、男女の相違と個人の独立をお互いが認め合う(尊重し合う)ことが大前提になるということでした。

男女の相違としては、男性は20年以上一緒にいると恋愛感情はまずないと思われるのですが、女性は特に子供がいないような場合には、母として、子供としての夫に新たに恋愛感情を抱くということは考えられるようです。

このような男女の相違に気付かず、もし夫が浮気でもしようものなら・・・。

大変なことになってしまいます。

また、子供がいない(子供をあきらめたような)女性は、ペットを飼うかのように、夫を子供として錯覚することはあるようです。

子供である夫は自分の掌に乗っていなければならず、逆説的ですが、妻は夫(子供)の成長を必ずしも望むものではないと言うことです。

夫は、願わくば、そこそこかっこいい人で、家庭を犠牲にするような出世は望まず、しかし経済的には安定している方が良いということなのでしょうか。

その掌に乗って行くとしたら、夫の女性関係は禁物で、妻に頭が悪い(かっこ悪い)と思わせてはならないということになります。

かような男女の相違を踏まえれば、古式ゆかしい亭主関白よりも、夫が妻に頼る姉さん女房の方が、夫婦関係は上手く行くのかもしれません。

また、個人主義では、自分ができることは自分でするが基本になると言うことでした。

このため、妻に自分の(イエの)考えを押し付けたり、その前提として自分の(イエの)考えが尊いとも思わなかったし、現に実家に関することは妻にはタッチさせずにすべて自分で行ってきたたつもりです。

たぶん妻は、自分のことと私のことを考えれば良い環境にあったのではないでしょうか。

以上のことから想像を巡らせると、今でも妻が一緒に旅行に行ってくれていることや家事負担をしてくれていることの意味が、何となく分かってくる気がします。

今から15年くらい前になりますが、結婚10年目を経過した頃、私はふと「配偶者は妻ではなく母ではないか。」と思ったことがありました。

そして、今思えばこの発想は全く根拠を持たない妄想などではなく、日本特有の母系社会に根差した夫婦関係のひとつの着眼点であったのではないかと考えています。

欧米の父権社会に対して、日本は母系社会と言われることがあります。

欧米の父権社会では一神教的な分節によって「個人」が出現しますが、日本の母系社会では多神教的な包摂(束縛)から弾き出(排除)されて「個人」が析出されます。

要するに、父権社会と母系社会では「個人」の出現の仕方が真逆になっているということです。

このため、伝統的な日本社会で欧米型の個人主義を実践しようとすれば、夫婦関係での妻は一個人であると共に母の役割も同時に果たさなければならないことになります。

つまり、個人主義的な夫婦関係の妻は、夫の自律を促す良妻の役割と夫の自律を阻止する賢母の役割を同時に果たす二律背反した両義的な存在ということになります。

そして、この考えに従うとしたら、子供のいない家庭の夫は同時に子供であるため、妻からのダブルバインド状態に晒されることになってしまいます。

ただ、子供がいる家庭では、夫と子供を比べれば、妻の感情は夫の方ではなく必ず子供の方(子供であれば息子でも娘でも同じです。)へと向かうことになるようです。

このため、子どもがいる家庭では子供の世話を焼くのが妻の生きがいとなってしまい、夫に「世話を焼かない」はもはや「内助の功」ではなくなってしまいます。

つまり、個人主義的な夫婦関係の「世話を焼かない」は「思いやり」でしたが、この場合の「世話を焼かない」は夫への愛情(承認)不足ということになってしまいます。

そして、この状況を少し角度を変えて見れば、家庭という母系原理の包摂(束縛)から弾き出(排除)された夫が、やっと自由で孤独な「個人」として生まれ変わることが出来たというこになるのかもしれません。

但し、個人主義の大切な基本ルールは、自分ができることは自分でするというでした。

したがって、夫がいくら「個人」に生まれ変わることができたとしても、その内実として夫が依然独立できない我が儘状態な状態なままであるのなら、老後単身の寂しさを差し引いても、妻は別れるという選択をすることになってしまいます。

大変皮肉な話ですが、日本の夫婦関係の夫は、家庭という母系原理の包摂(束縛)から弾き出(疎外)されることでしか、自らの自律の可能性に気づくことができない構造的無知の状態に放置されていると言えそうです。

昨今少子化の影響で、個人主義的な夫婦関係の「世話を焼かない内助の功」が、ようやく半分くらい実践可能な状況になって来たように思われます。

つまり、個人主義の対極にある母系原理が緩み、個人主義的な「自分のことは自分でする(他人のことは他人がやる)」が一般化してくると、従来からの日本の夫婦の枠組みが大きく変化して行くことになるのではないでしょうか。

但し、懸念として少子化に対して社会からの桁外れの愛情が注がれることとなれば、日本の母系原理は緩むどころかさらに強化されることにもなってしまいます。

したがって、少子化をきっかけに芽吹き始めた日本の個人主義は包摂と排除のダブルバインドに耐えながら、軸足はあくまで「個人」の側に置いたままで、国家規模の集団(同化)主義的な母系原理に飲み込まれぬよう、流動化して行く日本社会をしっかりと見守って行くしかないと考えているのですが、さていかがでしょうか。

(終わり)

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# by kokokara-message | 2017-05-04 22:32 | 読書 | Trackback | Comments(0)

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春爛漫、桜の季節となりました。

「桜吹雪けば、情も舞う(赤色エレジーより)」は、今でも変わらない日本人の大事な心のひだではないでしょうか。

さて、今回は、ならまちシリーズの3回目で、「奈良ホテル」「ゆき亭」に引き続き「こおりとお茶のお店『ほうせき箱』」をご紹介します。

「ほうせき箱」は、近鉄奈良駅から東向商店街を抜けて「ならまち」へとつながる奈良もちいどのセンター街の「もちいどの夢CUBE」の中にあります。


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「もちいどの夢CUBE」は、新たに起業家を目指す人たちの創業の場として、奈良もちいどのセンター街が設置したものです。

石畳の路地を挟んだ約10軒のガラス張りの「夢CUBE」が、起業家の様々な夢を乗せて営業していました。

なかでも「ほうせき箱」は、一年中かき氷が食べられる行列のできる店として、内外から人気を集めているようです。

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今回は、琥珀パールミルク氷(750円)とアッサムミルクカスタード(850円)を注文しました。

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まずは、琥珀パールミルク氷です。

通常のミルク氷に、エスプーマと呼ばれる泡状のムースがトッピングされています。

かき氷のミルクシロップは濃厚ではないため、トッピングされたミルク味のエスプーマとカラメル味を混ぜて食べることになります。

ところで、今話題になっているエスプーマとは一体何なのでしょうか。

エスプーマ(ESPUMA)とは、スペインの料理店「エル・ブジ」の料理長フェラン・アドリアによって開発された料理。またはその調理法、調理器具のことを言う。

亜酸化窒素を使い、あらゆる食材をムースのような泡状にすることができる画期的な調理法として、注目を浴びている。 なお"espuma"とはスペイン語で「泡」を意味する。

専用の器具に材料を入れ密封し、亜酸化窒素ガスのボンベでガスを封入し、器具全体を振る。ノズルを操作すると、食材が泡状になって出てくる。

なお、日本では亜酸化窒素ではなく、二酸化炭素で代用するのが一般的である(亜酸化窒素が日本において食品添加物として認められたのは2006年4月であり、代用として使われていた二酸化炭素を使った器具が広まっているため)。だが近年になって亜酸化窒素を用いた器具も認可され、発売されている。

日本においては、「エル・ブジ」で働いていた日本人シェフ山田チカラが、様々なエスプーマ料理を考案し、各メディアに紹介し広く認知されるようになった。(ウィキペディアより引用)


要するに、パンケーキハウスやスターバックスなどでよく見かける、ミルクやクリームを泡状にしたトッピングのことですね。

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次に、アッサムミルクカスタードです。

かき氷に、しっかりとした紅茶味のアッサムシロップがかかっていて、かき氷の真ん中にはカスタードクリームが入っています。

また、ご覧のとおりミルクエスプーマとオレンジがトッピングされているため、多彩な味を楽しむことができます。


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あらゆる食材を泡状にできるエスプーマ(調理法)は、料理界のイノベーションであり、新たなトレンドになって行くものと思われます。(既にトレンドですね。)

見た目と食感が斬新で、食材を選ばず、かつ設備投資にそれほどお金がかからないとなれば、多種多様なエスプーマ料理が提供されるのは必定ではないでしょうか。

ただ、かき氷に限って言えば、見た目と食感の斬新さだけではなく、淡雪のようなきめ細かなかき氷と人工甘味でないナチュラルなシロップの組み合わせがあくまでも基本になると思われます。

したがって、淡白な食感と味覚のエスプーマミルクはこれで良いと思われるのですが、やはりミルク氷を謳うのであれば、ベースとなるシロップは淡白なミルク味ではなく、濃厚なミルク味であることが必要条件になるのではないかと考えています。

春うらら、桜咲く古都奈良へお越しの折には、ならまちのもちいどのセンター街の「夢CUBE」に立ち寄られて、「ほうせき箱」のエスプーマかき氷をご賞味されるのはいかがでしょうか。








住所:奈良市餅飯殿町12番地
℡:0742-93-4260
営業時間:10:00~19:00(かき氷は11:00~)
定休日:木曜日

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# by kokokara-message | 2017-04-01 11:52 | おいしいかき氷 | Trackback | Comments(0)

ゆき亭のオムライス

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「ならまち」にある、オムライスと洋食の店「ゆき亭」に行って来ました。

「ならまち」と呼ばれているこの一画は、奈良時代に飛鳥から移転した元興寺(元法興寺)の旧境内で、今も残る極楽坊(国宝)、禅室(国宝)、大塔跡や小塔跡などは、当時の伽藍配置を今に伝える貴重な痕跡と言えそうです。

また、行政地名として奈良町は存在しませんが、江戸末期から明治にかけての町屋が残る旧境内一帯が、今では「ならまち」と呼ばれています。

落ち着いた風情と懐かしさを漂わせる「ならまち」には、町屋を再利用した素敵なショップが数多くあり、奈良観光のホットスポットになっています。

そして、今回ご紹介する「ゆき亭」は、ふわとろのオムライスが名物となっています。

オムライスにはスープとサラダが付いていて、ソースはデミグラスか、ケチャップのいずれかです。(写真はデミグラスソースです。)

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オムライス以外にも下記の洋食メニューがありますが、オムライスセットを注文している人が圧倒的に多いように思います。

また、リーズナブルな値段で食後のコーヒが付けられるのは、とても有難いことですね。

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ところで、観光地での飲食店等の検索に、食べログなどのインターネット情報は欠かせないものになっています。

そして、検索の上位に位置づけられた情報には、数多くの観光客が集中することになってしまいます。

「ゆき亭」は、インターネット検索上位にあるため、日本人以外にも多くのアジア系外国人観光客が訪れていました。

おそらく、外国の人は、自国の人以上に、インターネット検索上位の情報にアクセス(横並び)する傾向が強いのではないでしょうか。

なぜなら、普通(インターネット以外)ならアクセスしない情報でも、インターネットを介すれば容易にアクセス(横並び)することができるからです。

インターネットに「情弱(じょうじゃく)」という言葉がありますが、では「情強(じょうきょう)」とはどのような人物を指すのでしょうか。

上記の例からすると、インターネットに詳しいがゆえに、検索上位の画一的な情報にアクセス(横並び)してしまう人になるのかもしれません。

つまり、インターネットは情報を拡散させるだけではなく、特定の情報にアクセスを集中(横並び)させることが得意と言えそうです。

また、日本人の意思決定方式として、相互参照と横並びを挙げることが出来ます。

日本人の相互参照と横並びは、各々が自由意思で選択した結果の横並びではなく、同調圧力の結果として「みんな」と横並びする意思決定方式と言えそうです。

このことからすると、インターネットで検索上位の画一的な情報を選択せざるを得ない状況と、同調圧力から横並びの画一的な情報を選択せざる得ない状況とは、とても似た構図にあるように思われます。

つまり、インターネットであっても相互参照であっても、自分以外の「みんな」か選んだものを自分自身で選び直す(シンクロする)意思決定システムということです。

自由意思のようであって決して自由意思ではありえない、少しシニカルな言い方をすれば、ケインズの美人投票のようなものでしょうか。

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もう少し、蛇足ながら。

グローバリゼーションの本質のひとつが情報化と言われたように、グローバリゼーションは、あらゆる情報の差異を見つけては均質化して行くものであると思われます。

また、同時に差異を見つけては情報を分類して行くものでもあると思われます。

例えば、異質と思われた情報であっても、概念化(言語化)が可能となれば、その情報はどこかの引き出しに分類されて、やがて社会に包摂されて行くことになります。

一方、同質と思われていた情報であっても、概念化(言語化)が困難となれば、規格外のレッテルを貼られて、やがて社会から排除されて行くことになります。

要するに、グローバリゼーションの情報化とは、情報の概念化(言語化)とカテゴリー化のことであって、様々な情報を鋳型の中にはめ込んで行く作業が「情報処理」と言うことになります。

そして、社会の至る所で「情報処理」が繰り返されて行くと、やがて社会は二極分化し、各極は細分化されて、グラデーショナルな社会が出現することになります。

まず、経済面では、資本主義における「情報処理」の要諦である「選択と集中」が繰り返されると、やがて富の偏在が生じ、社会の経済格差が拡大することになります。

文化面では、階層社会における「情報処理」の要諦である行動様式(規範)の差異が顕在化すると、隣人同士の話が通じず、コミュニケーションが困難になります。

つまり、グローバリゼーションは期待した自由でフラットな社会ではなく、それとは真逆の経済的、文化的に格差のある階層社会を実現させてしまったということになりそうです。

そして、かような近代(モダン)を超克し、自由でフラットな多文化共生社会の実現には、ポストモダンの左旋回が必要条件になってくると考えているのですが、さていかがでしょうか。

最後は気を取り直して、早春の奈良にお越しの折には、ぜひならまち「ゆき亭」に立ち寄られて、ふわとろオムライスを食されるというのはいかがでしょうか。

(おわり)

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住所:奈良市高御門町4-1
TEL:0742-26-0611


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# by kokokara-message | 2017-03-04 13:37 | 奈良 | Trackback | Comments(0)

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奈良ホテルは、明治42年(1909)創業の日本を代表する老舗のホテルのひとつです。

その土地と建物、調度品等はJR西日本が所有し、JR西日本と近鉄都ホテルが50%づつ出資した株式会社奈良ホテルが運営を担っています。

奈良ホテルの事実上のオーナーはJR西日本であることは、地元奈良でもあまり知られていないことかもしれません。

奈良ホテルの経営母体は、国営(鉄道院、鉄道省)、公営企業(国鉄)、民間企業(JR西日本)と移り変わって行きますが、初期の数年を除けば一貫して鉄道関連であり続けたということです。

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奈良ホテル(本館)の設計は、日本銀行本店や東京駅の石積み煉瓦造りで有名な辰野金吾博士です。

但し、奈良ホテル(本館)は、ご覧のような純和風二階建て木造建築となっています。

これは、先行して建てられた帝国奈良博物館(現在の奈良国立博物館)の評判が思いの外悪く、奈良では依然古式ゆかしい木造建築が好まれていたようです。

このため、奈良ホテル(本館)は、当時の最先端技術である石積み煉瓦造りではなく、純和風の二階建て木造りとして建築されました。

奈良ホテル(本館)は、辰野金吾博士設計の現存する貴重な木造建築のひとつと言えそうです。

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では、奈良ホテル(本館)の玄関を入ってみますと、正面にご覧のような大階段が見えてきます。

そして、この重厚な赤じゅうたんの大階段は、館内屈指の写真撮影スポットにもなっています。

ホテルの説明によれば、被写体は大階段下から7段目の向かって右側手すりに寄り掛かり、カメラは大階段向かって左側からローアングルで撮影するのがベストショットになるとのこと。

遠近法によって、被写体が実際よりも痩せて写るのが特徴とのことでした。

また、奈良ホテル館内には数多くの美術品&調度品が存在しています。

そして、そのいずれもが歴史的、文化的に高い価値を持ったものであるとのことです。

例えば、本館玄関の右側の壁(フロントの向かい側)に掛けられている上村松園画伯の「花嫁」(下の写真)は、なんと数億円の価値があるとのこと。

これ以外にも、大正から昭和にかけて鉄道省(当時)が特注した数多くの美術品&調度品が、何の惜し気もなく館内に飾られていました。

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また、100年以上の歴史を持つ奈良ホテルには、皇族を始めとする、数多くの貴賓や来賓が滞在しています。

大正11年(1922)にはアインシュタイン博士、昭和11年(1936)にはチャールズ・チャップリン、昭和12年(1937)にはヘレン・ケラー。

その後もジョー・ディマジオ、マーロン・ブランド、オードリ・ヘップバーンらが奈良ホテルに滞在しました。

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上記の写真は、本館1階ロビーの「桜の間」と呼ばれる部屋です。

それほど広くはありませんが、美術品&調度品の豪華さは、まさに奈良ホテルの伝統と格式を象徴してるかのようです。

即位後に滞在された天皇陛下と皇后陛下がこの部屋へお越しになられて、向かって左側一番奥のソファ(平成の大時計の向かい)に腰を掛けられたとのことです。

また、同じ「桜の間」には、アインシュタイン博士が実際に弾いたとされるピアノ(下記の写真)が当時のロケーションのままで保管されています。

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アインシュタイン博士のピアノは、終戦後GHQの接収から逃れるために、元あった奈良ホテルから旧国鉄大阪鉄道管理局舎へ一時的に移されることになります。

その後暫く、アインシュタイン博士のピアノは世の中から忘れ去られた存在になってしまうのですが、やがてJR西日本時代になると、アインシュタイン博士ゆかりのピアノであると再評価されることになります。


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そして、上の写真のマントルピースの形状とその位置関係から、ピアノは奈良ホテル本館1階ロビー「桜の間」にあったものであることが判明します。

百年の時空を超えて、アインシュタイン博士のピアノは、当時のロケーションのまま、時間が止まったままのマントルピースの隣りにそっと置かれていました。


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次に、奈良ホテルの客室をご紹介します。

下の写真は本館ではなく、新館の客室(スタンダード)の様子です。

新館は昭和59年開業ですが、ご覧のとおり、広々としていて、リニューアルされたのか、とても真新しい感じがします。

本館は大正初期に設置されたセントラルヒーティング(スチーム暖房)が今も稼働していますが、新館では通常の電気エアコンが稼働していました。

客室(スタンダード)の広さや快適性を優先するのなら、本館よりむしろ新館を選ばれた方が良いのかも知れませんね。

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ところで、新館の客室には、下の写真イミテーション(模型)のマントルピースが備え付けられています。(むろん暖房機能はありません。)

大正以来時間が止まったままの本館のマントルピースは、今では客室の重厚なインテリアとして往時をしのばせる役割を担っています。

このことからすると、おそらく新館に設置されたマントルピース(模型)は、本館のパロディになるのではないかと思われます。

「真実(神)は細部に宿る」とも言われますが、奈良ホテルのディテール(細部)に対するこだわりには、感服するものがあります。


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奈良ホテルはその創業地を決めるに当たって、奈良県や奈良市からは東大寺の南側の土地(奈良公園あたりでしょうか。)を打診されたようです。

しかしながら、打診されたその土地は平坦で見晴らしが良くなく、このため近隣で眺望が良いとされた当時飛鳥山と呼ばれていた現在地に決まったようです。

小高い丘に建てられた奈良ホテルは見晴らしが良く、本館1階のメインダイニングルーム「三笠」からは、ご覧のように、興福寺の五重の塔を見渡すことが出来ます。


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朝食は、本館1階のメインダイニングルーム「三笠」で、茶がゆ定食をいただきました。

朝食のメニューには、茶がゆ定食、和食、洋食の三種類があります。

ホテルの説明では、ホテルマン泣かせのメニューは「洋食」であるらしく、宿泊客はパンの種類、卵の焼き方、ジュースの種類をリクエストすることができます。

自分の好みにこだわる常連客には、「洋食」メニューが一番の人気であるようですね。

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奈良ホテルは、県内随一の格式ある高級ホテルとされています。

遠方の方ならともかく、その敷居の高さから、県下や近隣府県にお住まいで、奈良ホテルに宿泊された経験をお持ちの方はそれほど多くはないのではないでしょうか。

また、奈良ホテルの高級ダイニング「三笠」は知っていても、実際にそこでサービスを受けたという経験をお持ちの方はそれほど多くはないのではないでしょうか。

今回、奈良県「ふるさと割」を利用させていただくことで、奈良ホテルの宿泊体験させていただくことになりました。

そして、奈良ホテルの各論については、上述してきたとおりです。

最後に、奈良ホテルの総論ですが、なにより他のホテルに比べてホテルマンの数が多いように感じました。

それは、目に入るフロントや玄関付近の人口密度が高いため生じた錯覚であるのか、それとも奈良ホテルが、JR西日本ホテルズや近鉄都ホテルから、十分に距離が取れた唯一無二のホテルとして存立できているからなのか。

答えは定かではありませんが、いずれにせよ、奈良ホテルは、建造物や美術品&調度品のみならず、働く人(ホテルマン)に古き良き時代の伝統と格式を感じることのできる、有形無形のアセット(資産)を保持した素晴らしいホテルであると思われます。

奈良ホテルはただ高級であるだけではなく、楽天やじゃらんの旅行サイトから申し込めば、比較的リーズナブルな料金で利用することもできます。

まだまだ春が待ち遠しい時節柄ですが、奈良ホテルの数多くの有形無形のアセット(資産)の中に、あなただけのスプリング(春のときめき)を見つけに行く旅を計画されるのはいかがでしょうか。

(おわり)

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# by kokokara-message | 2017-02-18 18:24 | 奈良 | Trackback | Comments(0)

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今から4年前の平成22年9月25日に、相愛学園本町学舎(大阪市中央区)において、中沢新一氏、内田樹氏、釈徹宗氏によるトークセッションが行われました。

テーマは「人文科学の挑戦」ということであり、前半では、人文学再考という観点から人文科学の現在とこれからの位置づけについての討論がなされました。

また、後半では、これからの日本人のあり方というテーマから始まり、大阪人や大阪という都市の特殊性にこそ日本人が生き残る鍵があるのではないかという討論がなされました。

このトークセッションの内容は、平成22年10月17日朝日新聞日曜版に掲載されましたが、ここでは知の巨人であるパネラーの先生方のトークを、少しだけ詳細に紹介させていただきます。

ただ、当日司会から録音ができないとの注意があったため、以下の内容はあくまで当日聞き取ったメモを頼りに再現したものとなっております。

従って、聞き漏らしや聞き違い、不理解も多々あると思われますが、とりあえずは知の巨人のトークセッションの雰囲気だけでも味わっていただければ幸いと思います。

どうぞお楽しみください。

***********************************

<トークセッション>

【釈徹宗】 
人文科学とは何なのでしょうか。

【中沢新一】 
人文科学とは搦め手であり、このことにより人文科学は自身の延命を図ろうとしているのではないでしょうか。

【釈徹宗】 
本来、人文科学とはつなげる学問であり、ヒューマニティ(人間)が要となってつなぐということになっていると思うのですが。

【中沢新一】 
大学の歴史は、神学部、そして自然科学、人文科学から始まることとなりますが、現在は、学問をつなげるものが法律や技術となってしまっているようです。

従って、人間(ヒューマニティ)とは何か、をベースにおいて考えるということが求められているように思われます。

結局、すべての営みをつないでいるのは人間(ヒューマニティ)ということになるのですから。

【釈徹宗】  
人文科学は、人間(ヒューマニティ)をベースにする学問であっていいということですね。

【中沢新一】 
しかしながら、今大学に求められているのは、人間(ヒューマニティ)をベースにするようなものではなくなりつつあるということです。

従って、この時期にあえて人文科学を前面に出すというやり方は、ドンキホーテともいえるのかもしれない。(笑)

【内田樹】 
私は、ミッション系の大学(当時)で教えていますが、ここ数十年間、大学は世俗化し、建学の精神である宗教色を薄めることに終始してきたように思われます。

つまり、建学の精神である宗教を前面に出せば、それ以外の者を排除することになります。

また、教育理論がはっきりすると、これもまた排除になってしまいます。

現在1200の大学がありますが、個々の大学は、唯一無二性を掲げて開学をしてきたはずです。

ただし、それを守ることと、現在のマーケットが要請していることとは、矛盾することになっているということ。

結局マーケットの要請を受け入れれば、どの大学も同じような大学にしかならない。

その結果として、スケールメリットによって、小さな大学は淘汰されてしまうことになるということです。

そもそも教育とは、教えたいことがあるから始まるものではないでしょうか。

大学という組織そのものの存続の問題は、その次になるはずです。

従って、学生からは選ばれないというリスクを引き受けてでも、教えたいことを大切にするということが重要になると想うのですが。

【中沢新一】 
多摩美術大学(当時)で教えていますが、多摩美術大学にはナルシシズムの学生と教授が多いので困ることがあります。(笑)

今の人文科学が虚学ではなく、生命を呼び込むためには、アート、芸術が必要と考えています。

芸術人類学という分野では、芸術やアートが経済やその他いろいろなものとつながっていくことになると思います。

【釈徹宗】  
人文科学は、つなげるよろこびであると思っています。

ものを考える手順やスタイルを習得することは、いろいろな面に汎用することができます。

そして、つながることの喜びを味合うためには、専門性とそれ以外のことを同時に行うことが必要ということであり、それらがやがてつながってくると思います。

大学というある時期に、ものとものをつなげるトレーニングが必要ではないでしょうか。

【内田樹】 
ネアンデルタールの脳の機能は、1対1対応であったらしいのですが、ホモサピエンスになると脳の容量を増やすことができなくなったために、同型性を見出し、組み合わせで対応するようになったらしい。

つまり、同型性を発見しつなげて考えるということで、今まで経験したことにない状況でも、なぜか正解が分かるようになってくるようになります。

初めての問題でも答えが分かるようになるのは、縦(1対1対応)ではなく、横(多対多対応)につながっていくということですね。

クロマニヨンである現在人は、このような考え方をしているようです。

また、本当に頭のいい人とは、思いがけないところに、同型性を見出すことが出来るような人ではないでしょうか。

小学校の教諭に課題図書として、マルクス「共産党宣言」、マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、レビィー・ストロース「悲しき熱帯」、福沢諭吉「福翁自伝」などの10冊を選定したことがあります。

まずは、選んでみてから、その中にどのような同型性があるのかを自分で見出すことになるのではないかと思います。

また、求められている人とは、頭がいい人ではなく、橋本治氏のような頭が丈夫な人ではないでしょうか。

頭が丈夫な人とは、普通の人では入らないようなことが入り、その中で二つのものをつなげてしまうような人のことではないでしょうか。

【釈徹宗】  
子どもに求めることは、頭がいいことではなく、頭が丈夫であることですね。

決まったもの、既存のものを購入しただけでは、頭は丈夫にはならない。

頭を丈夫にするには、手の内を明かさないで、自ら気づくことの喜びを与えることが必要ではないでしょうかね。

禅僧が出す典座(てんぞ)料理では、太い箸と低い食台で食べるうちに、自然と美しい作法が身につくようになるようです。

【中沢新一】 
その太い箸は、イニシェーション(通過儀礼)から始まったのでしょう。

イニシェーションとは、いじめの知恵のことであり、育てるためにいじめる知恵ともいえそうです。

仏教には、人を育てるための古い知恵が形を変えながら今も取り入れられています。

仏教は、もともと生活の中にあった日常的なものを経典の中に取り入れています。

これが、仏教の素晴らしいところです。

仏教はある意味、人文科学(ヒューマ二ティ)が一番モデルとするところではないでしょうか。

しかしながら、今では仏教学者は文献学者となってしまっているところがあり、仏教知らずの仏教学者という面もあるようです。

仏教との対比からすると、キリスト教では中世に魔女狩りが行われたことがあります。

魔女とは、人類の知恵(薬草の知恵など)を継承してきた人のことであって、キリスト教では生活の中にあったこのような人類の知恵を抹消しようとしたことになります。

【釈徹宗】  
仏教でも、禅の公案は、あえてダブルバインドをかけているようなところがありますね。

つまり、決まった答えがないということ。

多様性を認めるということは、結局自己決定をするしかないということになります。

しかしながら、自己決定をするということは大変辛いことでもあります。

【中沢新一】 
自分が大学のときには哲学をする人が多かった。

そして、儒教などの東洋哲学は、今のヨーロッパの学問体系とは全く違うものであることを知りました。

それは、先生の教える仕方が、全く違っていて、多様であったということから。

このため、ヨーロッパの教育は一面でしかないことが分かりました。

チベットでは、お経を反復し、リズムをとり、体をつかうという修行を行います。

そして、「心」を学ぶことになるのですが、そうすれば人生は平らに生きられるようになるといわれています。

また、チベットでは本は読まなくていいとされていましたが、これはギリシア学問体系とは全く違うものといえそうです。

人文科学(ヒューマニティ)では、「心」という普遍性から考えることをしないといけないと思います。

異種領域をつなげてしまうのは、比喩の力(カトレアのような女性など)であり、それは人間の力そのものでもあります。

チベットでは「心」はどこから来るのか、と問われたことがありましたが、うまく答えにはならなかった。

【内田樹】 
体を介して学ぶということは、時間をかけて学ぶということと同じであると思います。

時間を与えるということが重要なのでしょう。

時間モデルとは、母性モデルであり、「ちょっとまってね」ということになります。

これに対して、無時間モデルは、父性モデルであり、時間をかけることはしない。

つまり、即断即決のビジネスのターム(用語)ということになります。

人の成熟には長い時間を要することになります。

また、時間がたてば、文脈が変わり、意味が分かってくるということもあります。

ダブルバインド状態のような精神症状は、時間をかけるしかないといえそうです。

たとえば、死んだり、老衰したり、成熟したりするということもあるのですから。

タイム イズ タイム(時間は時間)であって、決してタイム イズ マネー(時間はお金)ではないということですね。

【釈徹宗】
確かに、時間をかければ人は変わるものですね。

大学の4年間が学びの場になるということですね。

仏教文化と音楽が同時に設置されている唯一の(相愛)大学では、仏教音楽も学ぶことが出来ます。

【中沢新一】 
仏教と量子力学は大変似ているところがあると思います。

物理の法則はひつつの原因にひとつの結果が対応する因果関係ですが、量子力学では原因も結果もひとつではないと考えるからです。

それらを並べたもの(多対多対応)をマトリックスと呼びますが、マトリックスとはサンスクリット語で、マトリー(子宮、慈悲)が語源となった言葉です。

従って、ある原因が変化すれば、結果も含めたマトリックス全体が変わってしまうことにもなります。

また、量子力学ではダブルバインド状態が発生することもあるのですが、量子力学をやっている学者はこのことが分かっていないような気がします。

(多対多対応という)マトリックスは、自然科学と人文科学をつなげることになるものといえるのではないでしょうか。

そして、それをつなげるのが、やはり人間の頭ということになるということですね。

【釈徹宗】  
異物は排除するのではなく、いろいろと抱え込むことも必要であると思います。

他者や異文化は確かに痛みを伴うものですが、いかに引き受けるか、そのスタイルが問題となるのではないでしょうか。

【中沢新一】 
マートリー(子宮)は、異物への抗体反応を解除していくということになります。

そして、異物とともに自分を変化させていくというのが「母」ということになりますね。

異物を攻撃しないで、取り入れていくということになりますね。

【釈徹宗】  
学問は自分を棚上げにすることが出来ますが、仏教は自分を棚上げにすることが出来ないものです。

不機嫌にすることで、場を支配しようとする人がいますが、そのような人は自分を棚上げにしてしまっているのではないでしょうか。

ところで、中沢先生も、内田先生もいつも機嫌がいいですね。

(前半終了)

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【釈徹宗】
さて、日本人論といいますか、日本人のあり方についてお伺いしたいのですが。

【内田樹】 
ガラパゴス化がいいのではないでしょうか。

つまり、日本の閉鎖性そのものが、日本のガラパゴス化ということですね。

21世紀の日本の国家戦略として、先端的なガラパゴス国家を目指すべきではないでしょうか。

超高齢化、超少子化、人口減少化、右肩下がりの経済成長が、現在の日本の抱える課題といえます。
   
日本人は、これらの課題にくずぐずしながらも、老いや病と伴に、機嫌よく、愉快に生きればいいのではないでしょうか。

明治の初めの頃の人口は、5000万人でした。

人口の減少は、日本が抱える多くの問題を解決することになるのではないでしょうか。

日本は、これから未知の条件に突入することになりますが、発想を切り替えて、創発的に、創造的に、適用していかなければならないということです。

いずれヨーロッパ先進国も少子高齢化が進み、人口減少になりますから、そのアドバンスを利用してガラパゴス先進国になればいいのではないでしょうか。

また、日本は近代化はしても、前近代を抹殺することはしてこなかった。

このため、日本人には普遍的ともいえる人間性が、今も生き残っているように思います。

日本人がガラパゴス化する(閉鎖性、グローバル化とは距離をとる)ことになれば、日本は唯一普遍的な人間性をもったヒトが生き残る場所となるのではないでしょうか。

【釈徹宗】
以前に聞いた話では、合理的な構造をした集合住宅(グループホーム)は、誰にとっても住みにくいものになってしまうということのようです。

つまり、合理性だけを追求するよりも、合理的ではない部分があった方がいいということではないでしょうか。

では、日本文化のありかたというのは、これからどうなっていくのでしょうか。

【中沢新一】 
日本文化は、とても繊細で、目に見えにくいところがあります。

従って、壊れていくことになったとしても、実際には分からないのではないでしょうか。

壊れてしまうことにこだわらないというのなら、日本文化は「なっちゃって」ということでもいいのではないでしょうか。

【釈徹宗】
日本人は、上機嫌で、ぐずぐずしながら、「なっちゃって」ということでいいということですね。

では、この大阪という都市に未来はあるのでしょうか。

【中沢新一】
私は、大阪アースダイバーをやっています。

縄文時代の大阪の陸地はというと、上町台地と南河内のあたりだけでした。

なつかしい風景はやがてなくなり、変化してしまうことになりますが、大阪はその地形を変えながらも、現在も古代にあった構造を残しているように思います。

平松大阪市長(当時)によれば、大阪は形状記憶合金のような都市ということです。

つまり、もはや原形はとどめていないが、その構造だけは残しているということです。

【内田樹】
私は、大阪の土地の力としては、謡曲「弱法師(よろぼし)」が思い浮かびます。


*「弱法師(よろぼし)は、俊徳丸伝説を下敷きにした現在能。四天王寺を舞台とする。観世元雅作。他の俊徳丸伝説より悲劇性が高く、俊徳丸は祈っても視力が回復せず、回復したような錯覚に陥るだけである。 題名は普通「よろぼおし」と読むが、謡曲の本文中では「よろぼし」と読む。(ウィキペディアより引用)


四天王寺西門から、お彼岸にながめる日想観(じっそうかん)がそうですね。


*日想観(にっそうかん、じっそうかん)とは「観無量寿経」に説かれる修法で、夕陽を見ながら極楽浄土を観想する16観の初観。「観無量寿経」には極楽浄土を観想する十六の行法が示されていますが、その一番目に示されているのがこの「日想観」です。この後、水想観、地想観、宝想観、宝池観等々が示されています。(一心寺ホームページ等より)      

また、謡曲の「高砂」には、兵庫の相生から大阪の住ノ江へと向かう中世の風景が描かれています。


*「高砂(たかさご)」 は能の作品の一つ。相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐ大変めでたい能である。「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり」(ウィキペディアより引用)

このように、大阪には、古代から海の上に引かれていた東西の方向の力を感じることができます。

これは、古代の大阪のコスモロジーなのでしょう。

【中沢新一】
古代の大阪には、太陽信仰があったといえます。

なかでも、高安山が一番重要とされていた場所らしい。

古代の大阪は海の世界であり、海人族は星と太陽を信仰していたようです。

また、住吉大社(大阪市住吉区)は、星と太陽を信仰しています。

大阪は、(天体を軸とする)抽象的な空間として創造された都市といえそうです。

従って、大阪は抽象的であるがゆえに、その地形が変わっても、原型としての構造は残しているということですね。

【釈徹宗】
話は変わりますが、大阪人は正解をいうよりも、むしろ流れを大切にするようなところがあるように思うのですが。

【中沢新一】 
大阪人には、都市の人を感じます。

つまり、むきだしの形ではやらないということ。

また、批判はあってもその場は壊さないということ。

【釈徹宗】  
つまり、上手に合わせるのが大阪人ということですね。

自分の主張を出すよりも、自分を括弧に入れながら、流れに合わせることができるのが大阪人ということですね。

【内田樹】 
東京人は、(緩衝帯のない)出会いがしらといえそうです。
   
東京での人間関係は、使い捨てが基本となっているように思われます。
   
東京は、巨大な都市になっていくほど、人を使い捨てにしていくようになったと思います。

メディアの世界が、その典型ではないでしょうか。

人がタレント並みに消耗品あつかいされるのは、ある意味開放性ということもできますが、それは代わりがいくらでもあることに他ならない。

従って、寄り添っていくためには、閉鎖性であることが必要になると思います。

つまり、ここが必要であって、この関係を大切にするということですね。

大阪人は限られた人間としか付き合えなかったから、その関係を大切にするしかなかったということですね。

これに対して、東京は開放性であるため、(機能面から)人間を選択することが可能であったということになります。

【中沢新一】 
東北の人は、自分たちのことを「東北人はうそつきだからな」といいますよね。

もちろん、そういっている自分も含めて、東北人のことを信用をしているのですが。

【内田樹】
東北の人といえば、少し前に、またぎの人と話をしたのですが、どうも我慢できないのがエコの人であるらしい。

つまり、人と自然との関係には、いい面と悪い面があるにもかかわらず、エコの人のように、いい面だけをいうのは、嘘つきということになるわけです。

【中沢新一】 
宮沢賢治には東北人の毒というものがありますが、その毒を取ってしまえば、エコの人になってしまいます。

エコの人は、あるところに理想を創ろうとしますが、その理想のためには、別のところで破壊があるのが当然となっているのではないでしょうか。

【内田樹】 
結局、人は相互関係の中で生きていくしかない、ということになるのではないでしょうか。

つまり、与えられた環境の中で生きるしかないという覚悟を持つということですね。

東京人は、世界は広くて、いくらでも代えがあるという発想を持っていますが、これが東京人のマナーになってしまっているといえそうです。

【中沢新一】 
嘘(うそ)と真(まこと)の表現方法には、正解はないといえます。

嘘(うそ)と真(まこと)を使いこなす大阪人の表現方法は、私は気に入っています。

大阪人のように弱いところまで見せていくことが、ガラパゴス化(閉鎖性、特殊性)にもつながることではないでしょうか。

日本人は、このような方向、つまり嘘(うそ)と真(まこと)の表現方法で生き残るしかないのかもしれません。

大阪は海で、大阪人は都市の人。

京都は陸で、京都はいけずな人でしょうか。(笑)

【釈徹宗】  
日本人の持つ消費者体質というものを、何とかしなければならないのではないでしょうか。

たとえば、学びを購入するということが、そもそも間違いではないでしょうか。

自分というものは、社会のシステムの中に組み込まれて生きているだけで、だましだましに、その役割を果たしていくだけではないでしょうか。

【内田樹】 
先日、コレクティブハウスで共同生活する学生が、「若い人は子育てで相互支援しているけれど、介護を受けるだけの高齢者には得心が行かない」といっていました。

どうようサービスをすれば何が返ってくるか、商取引のモデル(無時間モデル)で考えていたら、共同体になることはないと思います。

つまり、共同体には時系列というものがあり、受け取ることと出すことには、その相手が違ってくることになりますが、全体では同じことになります。

従って、共同体においては、時間を頭においておくことがとても大切になります。

共同体は、長期にわたって継続することによってその帳尻があってくるものだからです。

また、共生することは、受け入れても、おつりがくるような関係を必要としているのかもしれません。

教育、医療、宗教が共同体といえるものではないでしょうか。

共同体には、自分が理解できない人間、いわば痛みを受け入れるには世代を越えた長い時間の中でつながっているという物語を読み取れることが必要です。

【中沢新一】 
私は、祖々母や祖母からは、よく昔の話しを聞かされました。

江戸や明治という19世紀は、祖々母や祖母から自分の中に入ってきているように思います。

このことは、自分が19世紀を生きているということにもなります。

このことを、言葉にして次の世代に伝えていくことが求められると思います。

共同体には、時間軸にそった、物語が不可欠といえます。

ガラパゴスをめざすのだから、時間軸に沿って体験を伝達することに意識的に取り組みたいです。

【釈徹宗】  
これからの時代を機嫌よく生き抜くために、物語を共有するための、聞き取る能力や語る能力を人文科学によって育てたいと思います。

(トークセッションの終了)

【筆者・蛇足ながら】
ご一読いただきありがとうございました。

トークセッションの最後は、共同性の条件で締めくくられています。

共同体は、利得だけではなく、歴史や風土や文化などを共有する、つまり同じ物語が共有できている唯一無二の人の集まりということになり、なによりも、共同体は存続することが至上の目的とされています。

しかしながら、現代社会では、人が同時に複数の共同体に所属するということは、決して珍しい現象ではありません。

このため、個人が、共同体間の立する価値の葛藤の中に巻き込まれてしまうということにもなってしまいます。

このような危機には、あくまで自分を基軸としながらも、その重心は文脈に沿って小刻みに移動させながら、十分に時間をかけて問題解決を図っていくしかないのかもしれません。

共同体主義(コミュリタリアニズム)は、「ハーバード大学白熱教室」のサンデル教授が提唱する立場でもありますが、このトークセッションにおいても重要視されることになりました。

「共同体」や「共同性」は、古くて新しい、現代社会の知の最先端に位置する、たいへん重要な概念といえるのかもしれませんね。

(終わり)

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# by kokokara-message | 2017-01-15 11:22 | 中沢新一×内田樹×釈徹宗・鼎談 | Trackback | Comments(0)

天文館むじゃきの白熊


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これから立春過ぎまでが、一年で一番寒い季節となります。

寒風にもめげず、南国鹿児島の天文館むじゃき(本店)で白熊を食べてきました。

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天文館むじゃき(本店)は、鹿児島市内随一の繁華街天文館にあります。

また、天文館むじゃき(本店)は食堂ビルになっていて、どの店でも、白熊を食べることが出来ます。


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メニューはご覧のとおり。

レギュラーサイズ以外にも、ミニサイズがあります。(ミニサイズが通常のかき氷の大きさでしょうか。)


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こちらが白熊です。

濃厚な練乳味を期待していたのですが、残念ながら練乳はかかっておらず、全体がやや人工的なミルク味と言った印象です。


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上から見るとご覧のとおり。

さくらんぼや干し葡萄、ゼリーなどで白熊の顔が作られています。(果たして白熊に見えるでしょうか。)


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次は、ミルク金時です。

金時はたっぷり乗っていましたが、ベースのミルク味が同じであったのが、少し残念でした。


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2018年は、明治150年です。

近代化の黎明「鹿児島」で、名物白熊を食してみるというのはいかがでしょうか。

場所:鹿児島市千日町5-8
電話:099-222-6904
営業時間:11:00~22:00(日・祝・7~8月は10:00~22:00)


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# by kokokara-message | 2016-12-30 15:10 | おいしいかき氷 | Trackback | Comments(0)

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誰も自分を必要としていない。

偉そうなことばかり言って、行動が伴わない人など誰が必要としましょうか。


気力、体力、胆力・・どれもないのなら、なおさらのこと。


誰が自分を必要としましょうか。


それであるのなら、たとえ他人は自分を必要としなくとも、自分はかような自分を必要としているのでしょうか。


結論から言うと、とりあえず生きていくためには、どのような自分であっても自分が自分を必要とするとしか言えないと思われます。


つまり、消極的ではあっても、自分は自分を必要としているということは確実であると言えそうです。


では、自分は自分を必要としているのなら、果たして自分は自分(のもの)と言えるのでしょうか。


少々物騒ですが、あくまで思考実験として、ここで自殺について考えてみることにします。


自殺について考えるのは、自分が自分(のもの)であることを、はっきりとさせるためです。


言うまでもなく、自殺は、自分が自分(のもの)でなければ成就することができない作業と言えそうです。


また、自殺は、自分が自分(の脳を含む身体)を必要とすることなしには成就することができない作業でもあります。

一般には、自殺は自分は自分を必要としていないので、自分は自分(のもの)である必要もないと思われているようです。

しかしながら、対偶関係で考えてみると、自殺は自分が自分(のもの)であって、自分が自分を必要としている作業ということになります。


つまり、自殺は、生きていることと同じように、自分は自分(のもの)で、自分が自分を必要としているからということになるようです。

当たり前と言えば、当たり前のことですが。

さらにもう少し、あくまで思考実験として、自殺についての考察にお付き合い下さい。

ご注意いただく点は、たとえ思考実験であったとしても、自分が自殺について考えていることを決して他人に告げてはならないと言うことです。


これは、他人の困惑を避ける意図もあるのですが、そもそも他人に告げること自体が、他人が自分を必要としているかどうかを試すことになってしまうからです。

元々自分は誰にも必要とされていないという前提から始まった論理なので、誰かに告げる(試す)こと自体がすでに前提が破たんしたということになってしまいます。


つまり、まず「誰も自分を必要としていない」という前提(認識)があって、が、しかし、「自分は自分を必要としている」という認識も一方にはあり、さらにひょっとすると誰かが自分を必要としているかもしれないという答えの出ない迷い(カオス)こそが、自殺を考えている人の心理状態ではないでしょうか。


この迷い(カオス)の心理状態を自分自身で上手く整理できれば、極めてシンプルでプリミティブな結論である「誰も自分を必要としていないが、自分は自分を必要としている」に達することができることになります。

そして、「誰も自分を必要としていないが、自分は自分を必要としている」という結論は、別な角度から見てみると、「世の中(世間)で頼ることが出来るのは自分自身だけ」という身も蓋もない無縁社会の結論ということになります。

ただ、ここで注意しておきたいことは、そもそも世の中(世間)は、有縁(うえん)なものではなく、無縁なものでしななかったという驚愕の事実です。

また、世の中(世間)が無縁であるのは、今に始まった現象ではなく、太古の昔から、普遍的に、無縁(無常)であったという歴然たる真実です。

したがって、世の中(世間)が常ならざるもの、つまり無縁(無常)であるがゆえに、今を大切にする(一期一会)ことしかできないと言う結論にもなります。

つまり、先が見えず、すべてが万物流転してしまう世の中(世間)であるがゆえに、今を大切して生きる(一期一会)しかできないと言うことではないでしょうか。

ヒーリングでは、「Here&Now」という言葉がとても大切にされています。

茶の湯における「一期一会」もまた、万物流転する世の中(世間)の絶望的な断絶から、連続した時間へと引き戻してくれる極めて貴重なキーワードと言えそうです。

さて、ここでお話しは再び自殺を考えている人(自分)へと回帰していくのですが、そもそも自殺を考える前提となった「誰も自分を必要としていない」という認識が正しいかどうかは、おそらく確かめようのない答えであると思われます。


ただ、一つだけ確実なことは、すべてが万物流転する(無常である)がゆえに、あらかじめ決まった答えはなく、縁(人間関係)が変われば、唯一無二と思えた答え(認識)もまた移り変わって行くだけということになります。


つまり、最初の「誰も自分を必要としていない」という非日常的な認識から、やがて「誰かが自分を必要としているのでは?」という認識へと移り変わり、そして「自分は自分を必要としているように、誰かが自分を必要としているのでは・・」という極めて日常的で平穏な認識へと移り変わり、着地していくことになります。

しかしながら、たとえ思考実験ではあっても、究極の非日常である自分の死(自殺)について思考したということは、自分の無常(無縁)感を底辺まで深化させたということになると思われます。

その結果、これだけは疑えないと思われた絶望的な「誰も自分を必要としていない」という認識さえも、所詮常ならざる自分の認識のひとつでしかないと理解ができたなら、究極の非日常である自分の死(自殺)というネガティブ思考は最深部でようやく底を打って反転し、カオス状態以前の連続した日常(世間)の中へと還って行くことができるのではないでしょうか。


そして、無常感がかもたらした諦念だけではなく、諦念と表裏の関係にある「今在ること」(一期一会)の有難さが同時に理解できるようであれば、もはや何事にも執着せず、サクサクとなすべきことだけを熟す、後悔や憂いと十分な距離が取れた「今を生きる」のポジティブ思考へと切り替わって行くことができるのではないでしょうか。


少々荒療治かもしれませんが、かような自分の死(自殺)を介した思考実験によって、ネガティブな思考からポジティブな思考へと反転する、つまりは非日常(あの世)と日常(この世)を往還することによって、「今在ること」(一期一会)の有難さが生き生きと実感できたならば、それは自分自身が生まれ変わったということ、つまりは自分自身の死からの再生を自画自賛しても良いのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがでしょうか。


なお、本稿と同じテーマの記事が、大人のなり方~思い出がいっぱい/H2O(全編)にもありますので、こちらもご一読いただければ幸いです。

(終わり)

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# by kokokara-message | 2016-11-23 16:17 | 我流方法序説 | Trackback | Comments(0)

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唐突ですが、信じるとは、いったい何なのでしょうか。

自分を信じる、他者を信じる、共同体を信じる、宗教を信じる、国家を信じる・・・。

詰まる所、信じるとは、さまざまな「物語」を信じるということであって、言い方を変えるなら、自ら進んで「物語」の中で思考停止するということになるのではないでしょうか。

思考停止というと何かネガティブなイメージになりますが、思考停止は考えるためのステップ(足場)であって、考えるための「枠組み」を与えてくれるものになります。

つまり、ヒトにとってフリーハンドの自由ほど危険なものはなく、ヒトが安全に考え続けるためには、ある程度不自由な「枠組み」が必要になってくるということです。

おそらく、私たちが束縛と感じる自分自身や他者の限界、そして共同体、宗教、国家といった制度は、このような不自由な「枠組み」のひとつと言えます。

真逆のようになりますが、自由に生きるとは、不自由と共存することであって、いかに不自由と親和的な関係が構築できるかにかかっていると言えそうです。

誰もが例外なく、自由と不自由との共存という難題(アポリア)に耐えながら、生きていくしかないという運命にあるのではないでしょうか。

ところで、信じることが考えるための「枠組み」になるとしたら、それはしっかりとした「枠組み」でなければなりません。

なぜなら、安心安全に思考停止することができなくなってしまうからです。

つまり、信じた「物語」が嘘であったり、はったりであったとしたら、自由に考えるための「枠組み」を得るどころか、自らの生命や財産を危険にさらすことになってしまいます。

したがって、かようなリスクから身を守り、安心安全に思考停止するためには、どの「物語」を信じるかをしっかりと考えておく必要があると言うことになります。

信じるためには、まずはしっかりと考えておくということになります。

これでは、先の「考えるためには信じなければならない」という命題に矛盾しますが、信じることと考えることのは入れ子状態であるため、まずはしっかりと考えることから始めなければならないということです。

それでは、信じるためには、しっかりと考えなければならないとしたら、いったい何をどのように考えれば良いのでしょうか。

自分について、他者について、共同体について、宗教について、国家について、・・・考えるということなのでしょうか。

少しだけ先回りして申し上げれば、「考えるための方法(作法)」について考えるということが、なによりも大事になってくると思われます。

そして、さらに先回りして申し上げれば、「考えるための方法(作法)」とは、自らの絶対化ではなく、自らの相対化がその要諦になると言うことです。

相対化と言うと分かり難いかもしれませんが、あらかじめ決まった答えには固執せずに、オープンマインドで外部に開かれた視点を保持するということでしょうか。

そのうえで、さらに真逆になってしまいますが、自らの相対化には、まずは自らの絶対化が必要になってくるということです。

ややこしい話になって済みません。

ただ、ここで言う自らの絶対化とは、自らを相対化するために必要な前提要件でしかありません。

つまり、自らの立ち位置を自らで決定する自らの絶対化は、自らを相対化するための戦略的な立ち位置でしかないということです。

したがって、たとえ自らを絶対化しても、絶対化した自分自身とは十分に距離をとって、自らを客体化する相対的な立ち位置が同時に求められているということです。

相対化とは、いったん絶対化した自分自身を括弧に入れて、自分自身を含めた関係性を俯瞰できるような醒めた視点の保持になるのかもしれませんね。

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では、たとえ戦略的かつ暫定的であったとしても、自らが選び取った立ち位置から見えてくる風景(現象)とは、一体どのようなものなのでしょうか。

おそらく、そこから見えてくる風景(現象)が、リアリティ(現実感)と呼ばれるものになると思われます。

リアリティ(現実感)とは、ヒトの眼や耳などの感覚器官から入力された情報が脳で認知されて出現する現象(意識)であると言い換えることができそうです。

現象学という学問領域では、現象(意識)、つまりリアリティ(現実感)を、確かなもの(確実性)としてではなく、確からしいもの(信憑性)として扱うことになります。

つまり、目の前の現象(意識)が実体そのものと一致しているかどうかは確かでないが、ありありとしている様からは「確からしい」と言うことになります。

少し分かりにくいかもしれませんが、普段私たちの目の前にある現象(意識)は実体そのものと一致しているとの確信のもとで暮らしているのが一般的と思われます。

しかしながら、現象学においては、目の前の現象(意識)と実体そのものが一致することの決定不可能性を採るる立場から、リアリティ(現実感)はあくまで確からしいもの(信憑性)と言うことになります。

例えば、目の前にある現象(意識)と実体そのものが一致していると決定できるのであれば、リアリティ(現実感)は必ず現実と一致することになり、誰もが同じ現実を共有することになります。

しかしながら、目の前の現象(意識)と実体そのものが一致していない可能性があるとすれば、リアリティ(現実感)はあくまで個人に限定された一現実でしかなく、現実はヒトの数だけ存在することになってしまいます。

少し見方を変えるなら、リアリティ(現実感)は脳が描いたひとつのイメージ(現象)ということですが、自分の脳(主観)という閉ざされた領域から出ることのできない限界を持ったイメージ(現象)になるということです。

そして、さらにリアリティ(現実感)が脳の中に現れたイメージ(現象)でしなかいという側面だけが強調されると、現象学は「独我論」と呼ばれることになります。

たとえば、人と話が通じないと感じる瞬間があったとしたら、それはお互いのリアリティ(現実感)が相違しているだけのことで、リアリティ(現実感)の相違として捉えれば、不思議な現象でもないということになります。

また、人と話をしていて話が通じると感じるという幸運な瞬間があったとしても、それはお互いのリアリティ(現実感)が一致したのではなく、たまたまお互いのリアリティ(現実感)の一部が重なり合っただけということかもしれません。

あるいは、話が通じていると感じているのは、相手が一方的に話を合わせてくれているだけのことかもしれません。

要するに、リアリティ(現実感)は個人の脳に現れたひとつのイメージ(現象)という立場に立てば、他者と話が通じないことの方が一般的であって、他者と話が通じる方が特殊ということになるのではないでしょうか。

現象学が「独我論」と呼ばれるのには、おそらくこのような観念上の思考実験をベースとして構築されている学問領域にあるためと思われます。

ただ、日常の生活実感としては、取りつく島もない人間関係の隔絶を目の前にしてただ呆然と立ち尽くすような悲劇に遭遇すると、多元的な現実に還元せざるを得ないという場面も多いのではないでしょうか。

つまり、誰もが同じ現実を生きているという楽観的な確信は持てず、各人が自分だけのパラレルワールド(独我論)の現実を生きているかもしれないという仮説です。

この仮説に依拠したとしても、人間関係の隔絶が解消されるはずはなく、少しくらい稚拙で拙速な問題解決が避けられる(留保する)効果は期待できるかもしれませんが。

ただ一方で、自分の中だけに閉ざされているはずのリアリティ(現実感)が、外部に開かれた客観性(普遍性)へと変化していくということが稀に存在します。

稀有な例ですが、自分だけのパーソナルな問題(主観)を突き詰めて行けば、ある時位相の異なった客観性(普遍性)へと繋がる瞬間があるということです。

但し、客観性(普遍性)はダイレクトにそれを目指して得られる境地ではなく、パーソナルな問題を経由することでしか到達することができない極めて稀な境地と言えそうです。

以上のことからすると、個別なリアリティ(現実感)が位相の異なる客観性(普遍性)へと繋がって行く可能性はあるとしても、概して個別なリアリティ(現実感)は自分以外のそれとは重なり合わない多元的なパラレルワールドの関係性にあるもので、本質的には孤独で孤立したものと言えそうです。

時には「おらが大将」も必要ですが、リアリティ(現実感)を支えているヒトの感覚や認知の個別性の限界を踏まえれば、今私たちが考えるべきことは、自らのリアリティ(現実感)を内部に向かって絶対化して行く「一元化=個別化」の方向ではなく、自分自身を疑ってかかる(懐疑する)、つまり外部に向かって自分を相対化して行く「多元化=多様化」の方向ではないかと思われます。

その結果として、自らが自らの軸足を半歩自分の外側にずらすことができれば、視界に入る風景(現象)も変化して、自分はどのような「物語」を信じ、いかにしてパーソナルな問題を普遍性(客観性)へと繋げていくかを、自らが自らの身体コンパスで指し示すことができるようになるのではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。

【追記】

最後までご一読いただきありがとうございました。

その上で、上記のことをすべて否定してしまうようで大変申し訳ございませんが、少しだけお付き合いください。

脳科学においては、生物学的なヒトの脳の個別性はそれほど大きなものではなく、程度の差異でしかないとされています。

養老孟司氏によれば、ヒトの脳が持つ特徴としては「両端を除いた真ん中あたり」がすべて普遍性と呼ばれることになるということです。

つまり、大半のヒトの脳の特徴は「同じ」あって、同じものを見て、同じように感じて、同じように判断しているということになるようです。

しかしながら、たとえ脳の特徴は「同じ」であっても、それぞれのヒトのリアリティ(現実感)が多元化したパラレルワールドになっているのは紛れもない事実です。

では、ヒトのリアリティ(現実感)が多元化したパラレルワールドになってしまっているその理由は何でしょうか。

おそらく、ヒトが帰属している集団の文化から受ける影響が強いのではないかと思われます。

文化とは、言うまでもなく先天的ではなくて、後天的に帰属する集団からもたらされた二次的な脳への刷り込みということになります。

しつけや習慣などがそれで、その結果習得した固有な行動様式が、リアリティ(現実感)の多元化をもたらす要因になっているということです。

ただし、本論考では、生物学的な要因であれ、文化的な要因であれ、自らを絶対化せずに、自らが自らの外に立つ相対化の実践を究極の目的としています。

大変勇気がいることですが、自らの文化(集団)は絶対化せず、自らの文化(集団)を疑い、自らの文化(集団)を否定する、自らの文化(集団)の相対化が(時に)必要になるということです。

さて、唐突な終わり方になりましたが、相対化とは、詰まる所、出世間(プチ出家)になるのではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。(笑)

(終わり)
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# by kokokara-message | 2016-10-30 09:17 | 我流方法序説 | Trackback | Comments(0)

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ヒトは、「知ること」によって成長すると言われています。

そして、これは教育における基本とも言われています。

「知ること」、つまり知識の習得が大切なのは当然ですが、それ以上に自分が「いかに知らないか」を知っておくことの方がより重要ではないでしょうか。
 
つまり、自分が「いかに知らないか」を知ることによって、ヒトは「知りたい」というモチベーションを賦活させることができるようになるということです。

「何でも知っている」という充足感は一見満ち足りた状態のように思われますが、少し見方を変えれば何もかも放棄した諦念の境地ということにもなります。

「いかに知らないか」を知っているということ、つまり無知と既知の位相差が自覚できていることが、ヒトの成長の原動力になっているということです。

また、ヒトが一生のうちで経験し習得できることは、ほんの一握りのことでしかありません。

この世界の大半は経験も習得もできないままに、ヒトはその人生を終えてしまうのが必定と言えそうです。

したがって、たとえどれだけのことを「知っていた」としても、それは大海の一滴でしかありません。

この事実に驚愕した先人たちは、自分の非力さにただ頭をたれながら、再び自己の思索へと戻って行ったものと思われます。

ヒトが成長して行くためには、「知るということ」について常に謙虚な姿勢でいることが求めらていると言えそうです。

昨今、このような謙虚さを欠いた、傲慢とも言える万能感に支配された自己愛型の主張に出くわすことが多々あります。

「すべて知ることができる(つながっている)」かのような幼児的万能感は、まるでインターネット社会におけるヒーローやヒロインを演じているかのようです。

もちろん、「知ること」、つまり知識の習得がいかに大切であるかは十分理解しているつもりです。

ただ、自分の既知がどれ程のものであったとしても、自分の無知を知っていることに比べれば、その総量は僅かなものでしかないということです。

ヒトが万能感に支配されずに生きて行くためには、「知っている」と思った瞬間、しばし立ち止まり、今一度考え直してみるという謙虚さが必要とされているようです。

なかには、全ての夢が適ってしまった(失われてしまった)ので、今はただ充足感(喪失感)に浸っていたいだけというヒトはいるかもしれません。

ヒトの脳と体には休息が必要です。

但し、いまだ夢が適っていない(失われていない)のであるなら、充足感(喪失感)に浸るのではなく、無知と既知の位相差(欠如感)を自覚し続けることが大事ではないでしょうか。

自分が「いかに知らないか」を知っているということ、つまり自身の欠如感の認識こそが、さらなる夢の実現に向けて自分を成長させる原動力になって行くと考えます。

では最後に。

「知っている」という充足感は余裕を想起させることから、ヒトから承認(評価)を得るためのポジティブな要因と思われがちですが、本当にそうなのでしょうか。

「知っている」という充足感は無知と既知をフラット状態にするため、位相差(欠如感)に起因する思索や行動化のモチベーションは起動せず、逆に思考停止や非行動化という停滞状況を引き起こすことになります。

何もしなくて良いことが許容されているのなら話は別ですが、一般にヒトが思考停止や非行動化に陥っている状態を積極的に承認(評価)するのは極めて稀なことではないでしょうか。

一方、「知らない」という欠如感は焦燥感と裏表の関係にあるため、どちらかと言えばヒトからの承認(評価)が得ることが難しいネガティブな要因と思われがちですが、本当にそうなのでしょうか。

繰り返しになりますが、自分が「いかに知らないか」を知っていることこそが、さらなる夢の実現に向けて自分を成長させるモチベーションの原動力ということでした。

つまり、「知らない」という欠如感こそが、無知と既知の位相差を埋めるための思索と行動化を促すため、その結果合目的的な成果が生じれば、ヒトからの承認(評価)は得やすくなるのが必定と考えるのですが、さていかがでしょうか。

そして、ヒトからの承認(評価)が得られるようになれば、やがてキャリアの扉は向こう側から自ずと開いてくる(力任せにこじ開けるものではない。)という理路については、またの機会にお話しをさせていただくことといたします。

(終わり)
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# by kokokara-message | 2016-09-24 23:50 | 夢とは何でしょうか? | Trackback | Comments(0)

トリックスター(全編)


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皆さんは、悪意や悪事の予感がしたという経験はないでしょうか。

それは、必ずしも自分自身に向けられたものとは限りません。

自分の周りの誰かに向けられたものなのか、そもそも誰に向けられたものなのか、はっきりとしないものかもしれません。

何かよくないことが起こるかもしれない予感や予期は、自分を取り巻く環境の変化、つまり、秩序が崩れてしまうことへの不安の表われといえるのではないでしょうか。

そして、それは今ある秩序を改変してしまおうとするいたずらもの、トリックスターの出現を予感しているのかもしれません。

では、トリックスターとは、一体何者なのでしょうか。

一時、六本木ヒルズの寵児であった頃のホリエモンが、経済界の人たちからはトリックスターと呼ばれていた時期がありました。

また、時代を先取りしたかのような言動を行っている一部の政治家などは、やがてトリックスターと呼ばれることになってしまうのかもしれません。

トリックスターとは、一般には子どもとされています。

これは、生物学的な意味における子どもということではなく、たとえ社会的地位を築いている場合でも、精神的にはまだ未成熟ということであれば、やはり子どもということになってしまうのではないでしょうか。

そして、精神的に未成熟な子どもであるトリックスターが示す行為行動の最大の特徴は、幼児的万能感と自己顕示欲ではないかと思われます。

例えが古くなりますが、往年のウルトラマンや仮面ライダーなどは、まさに子どものヒーローであって、幼児的万能感と自己顕示欲を現す象徴的存在であったと思われます。

但し、このような子どもにとってのヒーローの世界を、自分が生きている現実世界に適用したとしたら、さて、どのようになってしまうでしょうか。

おそらく、ヒーローの示す幼児的万能感と自己顕示欲が適用された現実世界は大きく乱れ、その中の人たちは大いに困惑することになってしまうのではないでしょうか。

このような混乱を起こさない人、つまりヒーローの世界と現実世界がきちんと峻別できている人が、大人と呼ばれる人と言うことです。

ところが、時として子どもが示す幼児的万能感と自己顕示欲が、子どもの個性や才能あるいは無類の勇気と勘違いされてしまうことがあります。

例えば、風変わりな芸能人や芸術家等の言動が、世間から賞賛されるという事例は決して珍しいことではありません。

ただ、短期的な評価は得られても、長期的に見てトリックスターが他者(社会)との繋がりを維持して行くことは極めて困難なことであると思われます。

つまり、今在る秩序をかく乱させ、他者(社会)との関係性を混乱させるトリックスターは、社会的にはネガティブな存在と看做されてしまうことになるからです。

トリックスターは、いたずらな子どもであるだけではなく、世間の鼻つまみものということになるのではないでしょうか。

ところで、今在る秩序をかく乱させ、他者(社会)との関係性を混乱させるトリックスターは、一方では閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる存在でもあります。

これはトリックスターの持つ大きな特徴であり能力になりますが、ただ、トリックスターが社会状況(家族状況)を改変させる存在であるためには、その前提として自分自身を守ってくれているセーフティネットの存在が必要になってきます。

繰り返しになりますが、トリックスターとは、精神的に未成熟な子どもということでした。

一般論として、子どもには親の庇護というセーフティネットの存在が欠かすことができません。

親の庇護というセーフティネットがあるからこそ、子どもはたった独りでもファンタジーの世界でヒーローを演じることもできるわけです。

そして、ネガティブな評価があった幼児的万能感や自己顕示欲も、親の庇護の基では個性豊かな冒険的な営為として見守られることになります。

一方、親の庇護(セーフティネット)を受けていない幼児的万能感や自己顕示欲は、世間と直に対峙するために社会不適応者の烙印を押されかねません。

つまり、子どもがファンタジーの世界を楽しむためには、親(あるいはそれに替わる者)の庇護というセーフティネットの存在が前提条件になってくるわけです。

そして、様々な悪意や悪事を仕出かした子ども自ら反省ができるのも、親(あるいはそれに替わる者)の庇護というセーフティネットがあるからではないでしょうか。

要するに、親の庇護(セーフティネット)を持つことができた子どもは、様々な冒険と反省を繰り返しながら、徐々に自分の世界を広げていくことができます。

一方、親の庇護(セーフティネット)を持つことが出来なかった子どもは、様々な悪意や悪事を繰り返すだけで、徐々に自分の世界を狭くしていくことになります。

上記からすると、トリックスターとは、後者の閉鎖的な狭い世界で生きてきた永遠の子ども(ピーターパン)ということになりそうです。

一般論として、人はセキュア・ベース(安全基地)を持つことで自分の世界を広げていくことができ、成熟した大人へと成長することになるのではないでしょうか。

ところで、最初に申し上げたとおり、トリックスターは、悪意や悪事を働くいたずらものということでした。

では、トリックスターの悪意や悪事に自覚はあるのでしょうか。

おそらく、トリックスターには、自らが悪意や悪事を働いているという自覚はないと思われます。

もともとトリックスターは、閉鎖的な狭い世界で未熟な経験を繰り返して来たため、善悪や正邪の道徳的規範が十分に身についていないところがあると思われます。

したがって、依拠できる規範はトリックスター自身の内面にはなく、外部にいる他者の行動規範に依存し振る舞う(まねる)しかないことになります。

このため、参照すべき外部にいる他者の行動規範次第では、トリックスターの採る行動は無自覚に善悪や正邪の道徳的規範を逸脱してしまうことになります。

おそらく、トリックスターは道徳的規範を侵犯する意思をもって逸脱するのではなく、他者依存や状況依存の結果として道徳的規範を逸脱することになりそうです。

トリックスターの行動様式(エトス)は、自律的かつ計画的なものではなく、むしろ他律的かつ衝動的なものということになるのかもしれません。

そして、トリックスターの行動様式(エトス)は日常生活の離婚や転職の原因になり、さらに自らの感情(自尊心)や打算(欲望)と一致さえすれば、容易に危険で理解不能な他者と同調してしまうことになります。

複雑化した現代社会では、既存の制度や習慣、文化だけに頼って、あらゆる局面を生き延びるということは困難になってきていると思われます。

したがって、人は様々な経験と反省を繰り返しながら、今を生き延びるための社会的スキルを身に着けていく必要があると思われます。

ただ、これまでに見てきたトリックスターは、閉鎖的な狭い世界で生きてきたために社会的スキルは身についておらず、危険からは無防備な状態に置かれています。

繰り返しになりますが、トリックスターは善悪や正邪の道徳的規範が曖昧で、その行動様式(エトス)は他律的かつ衝動的であるということでした。

それゆえトリックスターの非常識さ(非道徳)と無防備さ(他者依存)は成熟した大人たちを困惑させますが、よりタフな「欲望(コンプレックス)」を持ったトリックスターからすれば自らの「欲望(コンプレックス)」を満たすための格好のターゲット(獲物)に映ってしまうということです。

ラカンや河合隼雄氏の仮説では、「欲望(コンプレックス)」は「欲望(コンプレックス)」に「欲望(共鳴)する」という関係性が描かれています。

この仮説を踏まえれば、よりタフな悪意と悪事のトリックスターの「欲望(コンプレックス)」は、無防備で制御のきかない衝動的かつ他律的なトリックスターの「欲望(コンプレックス)」をいとも簡単に取り込み、搾取するということが容易に出来てしまうということです。

そして、子どもの世界で起きている「いじめ」と同じで、未成熟な大人たち(トリックスター)の間で起きている「生きにくさ(抑圧)の移譲」は、一度その中(世間)に入ってしまえば、二度と抜け出すことの出来ない蟻地獄のような構造(*引きずりおろし民主主義)になっているのではないでしょうか。

*怒りや脅威で多数派を形成し、自分より上に立つもの、能力がある者を引きずり降す愚民主主義。社会全体の偏差値は下がり続け、やがて上に立つものはいなくなる。

もし、あなたが身近で悪意や悪事を予感したとしたら、それはすぐ近くにトリックスターが潜んでいるのかもしれません。

もはや現代社会が既存の制度や習慣、文化だけで生き延びることが出来ないとなれば、様々な経験と反省から社会的スキルを身に着けて行くしかありません。

したがって、トリックスターの悪意や悪事には、ただ気づかないふりをするのではなく、自分自身はその悪意や悪事の連鎖関係(抑圧の移譲)には決して入らないという決意、そして搾取されそうになれば身に着けた社会的スキルでなりふり構わず自衛するという覚悟が、今を生き延びるための方法論になるのではないかと考えています。

それでは結論になりました。

「生きにくさ(抑圧)の移譲」には与せず、今を生き延びるための社会的スキルで自衛ができる人は、おそらく自分自身がトリックスターでないと自覚できている人ではないかと思われます。

自分自身がトリックスターでないということは、とても大事なことです。

しかしながら、トリックスターの悪意や悪事のある「欲望(コンプレックス)」から自分の身を守るには、自分自身がトリックスターでないと自覚するだけでは十分でないように思われます。

むしろ、これとは真逆に自分自身がトリックスターかもしれないという一回ひねりの視点を担保しつつ、もはや既存の制度や習慣、文化に頼る正規戦ではない、経験と反省から身につけた社会的スキルでもって攻守の両面からゲリラ戦を挑んでいくしかないように思われます。

一般論としても、自分は関係がないと割り切るのではなく、自分自身を勘定に入れた全体像(コンステレーション)の把握が重要であることは言うまでもありません。

つまり、自分自身が勘定に入っているからこそ、自分自身を含めた関係性の全体像(コンステレーション)が一望俯瞰できるようになるというわけです。

自分がトリックスターかもしれないという(自分を勘定に入れた)一回ひねりの視点を担保しておくことが、全体像(コンステレーション)を読むメタレベルからの視点確保につながり、その結果として誰もが陥ってしまう「構造的無知」から脱出するということも可能になるということではないでしょうか。

では、トリックスターとは一体誰のことなのでしょうか。

トリックスターとは、無意識で悪意や悪事を働くいたずらものである一方、この閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる異能を持った(両義的な)存在ということです。

誰もが無意識のうちに「構造的無知」の状態に陥ってしまう可能性がある以上、論理的には「個」の意識が弱く自我が脆弱で相互参照が得意な日本人であるのなら、自分自身がトリックスターである可能性だけを見落としてしまっている蓋然性は高いと言えそうです。

つまり、日本人の多くがトリックスターである可能性が高いとなれば、この閉塞した社会状況(家族状況)を改変させる異能を持ったポジティブな評価のトリックスターもまた、この典型的な日本人の中から出現してくる可能性が高いと考えるのは自然なことではないかと大いに期待しているのですが、さていかがでしょうか。

とは言いながらも、関わらないことに尽きますね。関われば例外なく底なしに苦労しますよ。(苦笑い)

(終わり)

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# by kokokara-message | 2016-08-17 22:35 | 我流心理学 | Trackback | Comments(0)

文二郎のパナマ帽(2)


文二郎の「パナマスペシャルソフト」です。

目の粗い鉤針編みの中折れ帽は、目の詰まったそれよりも通気性が高く、軽くて、トロピカルな印象を受けるのではないでしょうか。

オーストラリアの帽子メーカー・ヘレンカミンスキーはスリランカ産のラフィアを使用しますが、文二郎は通常のパナマ帽と同じ、エクアドル産のトキヤ草をします。

ただ、トキヤ草を使用した鉤針編みの中折れ帽は、ラフィアを使用したそれよりも少し重たくなるようです。

素敵なパナマ帽ですが、これが唯一の難点かも知れませんね。
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# by kokokara-message | 2016-08-04 08:19 | 大阪 | Trackback | Comments(0)

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以下は、今から8年程前に某大学で拝聴した、養老孟司氏講演会の講演記録(要旨)です。

養老孟司氏の講演やその著書は、えらそうであるとか、難解であるとか、本質とはかけ離れた曲解がなされていることが多いように思われます。

氏は、自らの言葉で、あたりまえのことを、あたりまえのこととして、平明にお話しされているだけです。

内容は普遍性の高いものであり、8年経過した今でも決して色あせることはなく、ますます輝きを増しています。

当時は気づかなかったことにあらためて気づかされるなど、内容はエキサイトで新鮮そのものです。

それでは、開演時間となりました。

最後までご一読いただきますようお願いいたします。

【開演】

ヒトへの出入力関係からすると、感覚は入力であり、運動が出力という関係になっています。

そして、その間に介在するものが脳であり、脳で意識が発生するということになります。

感覚の入力によって脳に意識が発生しますが、脳は意識が発生する0.5秒前からすでに作動を開始しています。

つまり、意識は脳が作動を開始したことによって発生する関係にあるということです。

脳の一番の特徴としては同じ(同一性)という認識ができることです。

脳の「同一性」という特徴により、いろいろなモノを同じモノとして認識できることが可能となります。

そして、脳の「同一性」の特徴により、いろいろなモノを同じモノとして認識できる機能を持った「言葉」の使用が可能となったわけです。

しかしながら、言葉が使用できることで、脳の他の能力が低下するという結果にもなってしまいます。

脳を動かすということは、観念という意識を発生させるだけではなく、身体を動かすこともまた当然脳を動かすことであります。
  
たとえば、絶対音感とは、音の高低がそれぞれ別の音として認識される能力のことです。

絶対音感と、先天的に動物に備わった機能と言えます。

人間の乳児にも絶対音感は備わっていますが、使用しないとその能力は衰えてしまうことになります。

一方、絶対音感に対して相対音感があります。

相対音感とは、音の高低に支配されずに同じ言葉を同じ言葉として認識できる能力のことです。

つまり、音の高低にかかわらず同じ言葉を同じ言葉として認識できる相対音感を得ることで、言語の使用が可能となったといえます。

このことを文化的・進歩的能力の獲得と思っているようですが、本来動物が保有しているはずの絶対音感が消滅した結果ということも出来ます。

このことからすると、現代人は差異(違い)の感覚能力が劣化し、ダメになってしまったということになります。

ところで、脳の特徴の同じという感覚は、差異(違い)をなくしてしまう非常に乱暴な感覚ではありますが、その結果としてヒトは同一性を前提とする言葉や貨幣を使用することが可能になったということはできます。

(【筆者】蛇足ながら、言葉は概念という同一性を使用し、貨幣は価値という同一性を使用して、いろいろなモノを同じモノと認識させる機能を持った媒体です。したがって、言葉や貨幣は交換(コミュニケーション)を促進させるものと言えます。)

考古学的には、新人類のホモサピエンスがはじめていろいろなモノを同じと認識する能力を取得し、言葉や貨幣の使用が可能になったと言われています。

一方、旧人類のネアンデルタールの脳には同じという能力は備わっていません。

ネアンデルタールの遺跡から出土する遺物はその目的が想像できるものばかりで、貨幣のように「象徴」を表すような遺物などは出土しておりません。

このことからネアンデルタールは、言葉や貨幣を使用できなかったと考えられています。

ホモサピエンスの脳は同じという能力を獲得することで貨幣や言葉が使用できるようになり、交換(コミュニケーション)が可能になったということがいえます。

そして、貨幣や言葉の同じにするという能力を進歩や便利と思っているようですが、この同じという能力を突き詰めてゆくと、論理的には宇宙を統括する唯一絶対神にまで行き着くことになります。

つまり、西洋社会が発見した一神教の世界観があるということです。

ところで、NHKの報道は、公正中立であると言われています。

しかし、NHKの報道の視点もひとつの視点でしかなく、他のある特定の個人の視点とは等価の関係にあり、決してNHKだけが公平・客観・中立ということはできません。

つまり、一人ひとりは「視覚的」には違うものを見ているはずなのに、言葉や情報にすると同じことを表すことになってしまうということです。

個性が大切といわれますが、個性とは遺伝子であり身体そのものであるということです。

ナンバーワンよりオンリーワンという表現がありますが、普通ナンバーワンといわれるようなヒトは稀にしか存在しませんが、オンリーワンとはモノや身体でいうとあたりまえのことであり、ただのモノやただのヒトという意味のことでしかありません。

感覚の世界では、モノやヒトはすべて違っていることが当たり前ですが、脳内の「同じ」という働きによって、概念という言葉の同一性や価値という貨幣の同一性を使用することが可能となります。

人それぞれ感覚がバラバラであるはずなのに、同じにできるという感覚こそが「共感」できるということであって、「ありがたさ」にもつながるということになります。

しかしながら、言葉は止まったものです。

これに対してヒトは変化します。

このことから、人と人が交わす約束とは、変わってしまう自分を止まった変わらない言葉に結びつける行為ということができます。

現代人は、言葉は使い捨てであって、自分のほうが変わらないと考えているようです。

噂話では、話し言葉の記憶に頼ることになるため、結局相手が自分程度に記憶力が悪いと思える(リスクヘッジできる)ことで成立している関係性といえるのではないでしょうか。

しかし、ヒトはひたすら変わっていきますが、言葉は止まったまま変わりません。

情報化社会での情報は変わらないことがその特徴であって、変わるのはあくまでヒトです。

情報が変化するのは、ヒトが情報に手を加えるから変わるだけであって、変わるのはあくまでヒトということになります。

本来、ヒトの感覚はバラバラです。

にもかかわらず、言語によるコミュニケーションで共感できるのは、バラバラな感覚が同じと思えるためで、これが安心感につながっていると思われます。

つまり、感覚が違っていることが当たり前なのに、そのことを忘れて「共感」したような感覚になることで、安心や安全を得ているということではないでしょうか。

現代人は、とても不安です。

したがって、安全や安心が欲しいと考えています。

また、現代人は自分の頭の中で考えていることの外側に出ることを知らないように思われます。

自分の外側の見えない世界に一歩踏み出すことを勇気と呼ぶのでしょうが、現代人にはそのような勇気が欠けている一面があるように思われます。

安全第一の世界の中にいると、本来一人ひとりがバラバラな感覚であるという基本的な原則を忘れてしまい、皆が同じ感覚であるはずという思い込みに陥ってしまうことになります。

このため、安全第一の中にいると、同じであることを求めるあまりに、少しでも差異があると不安がわいてくることになります。

もともと一人ひとり感覚に差異があるのは当たり前であって、差異に不安が伴うのは当たり前の状態であるといえます。

しかしながら、皆と感覚が同じでないと気がすまなくなり、このため差異に伴う不安をつぶさないと前にも進めなくなってしまい、さらなる否定的な(ネガティブな)感情をつぶさなくてはいられないという感覚の循環(思考の連鎖)に陥ってしまうことになります。

これが皆と同じでないと気がすまない(不安である)という感覚のようです。

これは、テレビの影響として考えられます。

テレビの映し出す映像はあくまでひとつの視点でしかないはずなのに、皆が同じ映像を観ることによって同じ視点が共有されて、感覚も同じであるという勘違いが生じてしまうことになります。

つまり、感覚は人それぞれバラバラであるはずなのに、皆一緒という認識がされてしまうということです。

教育を考える場合でも、現代人は皆一緒という感覚を持っているという認識を基点として出発する必要があるように思われます。

つまり、昔のように人やモノはバラバラであり多様なものであるという認識からはじめるのではなく、皆一緒という視点から教育をはじめないといけなくなってしまっている現実があるということです。

学校での徒競走で生徒が手をつないでゴールするということからは、何も生まれてこない、何もやっていないことと同じといえます。

また、機械(コンピュータ)を丈夫にすると、人間は壊れると言われています。

つまり、文明(コンピュータ)と人間は相互補完の関係にあるといえるのですが、このことから、まともなヒトの感覚では文明(コンピュータ)は発達することになってしまうため、逆に役に立たない人間を育てることにもなってしまうということです。

便利な生活をすることで、人間はやがて役に立たなくなり、壊れてしまうのではないかと考えることもできるということです。

しかしながら、一方では脳も社会もシステムとして機能していることからすれば、働かない部分にも何らかの意味があるというように考えることもできるということではないでしょうか。

(おわり)

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# by kokokara-message | 2016-07-24 09:07 | 養老孟司講演会 | Trackback | Comments(0)

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人口減少社会におけるグローバリズムとは、いったい何を意味するのでしょうか。

また、人口減少社会におけるナショナリズムとは、いったい何を意味するのでしょうか。

グローバリズムとは、英米を中心とした新自由主義の普遍化(標準化)をさすことはいうまでもありません。

そして、その内実は、資本主義と民主主義の徹底であり、真逆のようですが、近代国民国家システムの徹底ということになりそうです。

奇しくも1989年のベルリンの壁の崩壊と新自由主義の隆盛の時期は一致しています。

また、その前哨戦であったソ連ゴルバチョフのペレストロイカと米国レーガン・英国サッチャーのマネタリズムは、近代国民国家システムの行く末を予言していたと言えるのではないでしょうか。

ところで、今から150年以上前、近代国民国家というものが成立した当時、資本主義の生産手段は、土地、労働力、資本とされていました。

土地とは、人間の生産活動で創出することのできない水や空気などを含めた概念といえます。

そして、当時のこれらの生産手段は、一国民国家の中でのみ移動が可能とされていました。

しかしながら、資本主義の原理は、これらの生産手段から差異を創出することで駆動することになります。

このため、資本主義拡大のためには、一国民国家のみならず、植民地主義という軍事力を背景とした新たな差異の獲得に乗り出さなければならない時期もありました。

しかしながら、現在では、グローバリゼーション(国際化・情報化)の進展から、軍事力を背景とせずとも、いとも簡単に特定の生産手段が世界中を移動することが可能となっています。

ただ、現在においても、土地という生産手段は移動しないという前提に変わりはありません。

また、労働力は、労働者の短期の移動は可能であっても、国籍、文化、言語の障壁から、長期の移動は難しいとされています。

ご存知のように、長期の移動がもたらす「移民」問題の功罪については、枚挙にいとまがありません。

そして、先日の英国EU離脱の結果は、長期の移動がもたらした「移民」問題とダイレクトにつながっているのは言うまでもありません。

従って、各国の過去の経験則からしますと、実際にグローバルな展開が可能な生産手段は、資本(金融)とそれに伴う技術や情報に限られてくるということになります。

資本(金融)とは、端的に言えば貨幣(お金)のことであって、多彩な戦略によって、多様な世界展開が可能となります。

そして、概念上は人間の生産活動では創出できない鉱物資源も、金融商品として見るのなら、資本として世界展開することは可能です。

情報はと言うと、インターネットによって瞬時に移転し、グローバル化(標準化)が可能であることは言うまでもないことです。

また、技術は情報ほど即時性はないものの、数年単位で移転し、グローバル化(標準化)していくことになります。

蛇足ながら申し上げると、差異を求める資本主義の原理では、資本や技術、情報という生産手段の移転が可能となるのは、あくまでグローバル化した世界に未だ差異が存在しているからということになります。

つまり、各国や各地域間に社会経済的な格差が存在していることが前提になっています。

このため、それらの格差(差異)が消滅することになれば、論理的には世界中の資本主義の展開は終結となり、世界中がフラット化(標準化)してしまうことになります。

つまり、グローバリぜーション(国際化)の結末は、世界中のフラット化(標準化)ということになります。

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ところで、生産手段の中でも、土地と労働力は移転が難しいということでした。

また、移転可能とされている資本や技術、情報も、その差異(水位差)が数年間で平準化されてしまえば、資本主義の展開の原理となった差異性は期間限定のバブルの源泉でしかなかったことになります。

そして、これからの日本の社会は、有史以来増加し続けた人口が急激に減少する社会であるとされています。

また、これからの日本の社会には、高度経済成長を支えたような差異性をもった(低賃金)労働者が、自然発生的に生まれてくるとは考えられない状況にあるということです。

このため「移民」問題は日本の社会でも議論の俎上に上ることになりますが、労働者の長期の移動がもたらす功罪については先にも申し上げたところです。

したがって、労働者の長期の移動、つまり「移民」受け入れが難しいとしたら、今後の日本の資本主義のあり方は、どのような方向に進んでいけば良いのでしょうか。

おそらく、資本や技術、情報の差異を原理とした期間限定のバブルを生み出すグローバリズム(国際化)ではなく、それとは真逆の一国内のナショナリズムを基軸とした差異の平準化に向かう近代国民国家の資本主義システムが重要視されることになるのではないでしょうか。

ここで言うナショナリズムとは「愛国心」のことです。

ナショナリズムは、日本と言う国民国家を、社会経済的に平準化していく方向性にありものと思われます。

つまり、資本主義が差異性を前提としたシステムである以上、革新的なイノベーションでもない限り、今ある土地(国土)と将来の労働力人口(国民)は自明のものとなり、その中から差異性を創出していくしかないということになります。

少し言い方を替えるとすれば、将来に向い日本国内に存在している差異性をすべて平準化してしまうということが、今後の日本の資本主義の経済システムを駆動させる源泉になるということです。

少し分かりにくいかもしれません。

つまり、日本の経済成長(資本主義経済システム)を駆動させるためには、日本の社会に未だ残存してる差異性を掘り起こし、それらを源泉にするしかないということです。

具体的には、男女共同参画社会の推進や社会保障(社会保険や社会福祉)の普遍化を図ることで、新たな差異性を創出することが考えられるのではないでしょうか。

要するに、人口減少社会という新たな差異の創出が極めて難しい環境にあっても、今あるの差異性を平準化していくという方向性であるのなら、資本主義システムの原理にも合致して、中長期的に見て具体的かつ現実的な展開が見込まれるのではないかということです。

そして、この場合日本の社会の差異性を掘り起すことだけでは十分ではなく、国内においては所得・資産の再分配機能の賦活化、そして国際的にはタックス・ヘブン等への世界協調的な取り組みが同時進行して行くことが必須になると考えられます。

大変困難な政策ではありますが・・・。

ところで、ナショナリズム(愛国心)というと、第二次世界大戦中の日本の海外への覇権(植民地主義)を想起される方も多いのではないでしょうか。

しかしながら、海外への覇権主義という側面だけを捉えれば、それは区分としてはナショナリズムではなく、グローバリズムになると思われます。

また、ナショナリズム(愛国心)というと、国内におけるマジョリテイ(多数派)からのパターナリズム(上から目線)として受け取られてしまうかもしれません。

しかしながら、ナショナリズム(愛国心)とは、必ずしもマイノリティ(少数派)を日本人の境界から排外する狭隘な方向性を持ったものではないということです。

なぜなら、日本の近代史を振り返っても、原理として国民国家の幻想性ゆえに、日本人の境界線は揺れ動き、日本民族と日本の国土は拡大と収縮を繰り返してきた歴史があるからです。

従って、今ある日本人の境界(国民国家)はあくまで暫定的なものでしかなく、したがって将来も現状のまま同じ境界線(国民国家)であり続ける保障などないということになります。

むしろ、国民国家のマジョリテイ(多数派)が、国民国家のマイノリティ(少数派)を穏やかに社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)していくという方向性が求められるのではないでしょうか。

そして、一般論として生産手段である労働力のグローバル化は岐路に立たされており、これ以上の展開が難しいとなれば、それは日本から海外への展開以上に、日本への労働者の長期の移動、つまり「移民」の受け入れが困難という事態になってしまうからです。

日本の総人口(労働力人口)が減少していく中で、しかも「移民」の受け入れが困難で、なおかつ生産手段の労働力に基軸を置いた政策を採るとしたら、いったいどのような展望になるのでしょうか。

おそらく、金融資本主義が引き起こす幻想的な差異性を原理とするグローバリズムではなく、それとは真逆な国民国家を同化して平準化していくナショナリズム(愛国心)こそが、日本の中長期的なあるべき姿を構想する(再構築する)ための原動力になるのではないかと思われます。

日本人口の減少は避けがたい与件ですが、マジョリテイ(多数派)がマイノリティ(少数派)を内包し日本社会を平準化していく方向にあるのならば、ナショナリズム(愛国心)を基軸とした資本主義システムが社会的格差で混迷する日本という国民国家を、自己コントロールが可能な範囲にとどめ置くこともできるようになるのではないでしょうか。

したがって、今後の日本は幻想的な金融資本主義に依拠した不安定な「経済成長優先型社会」ではなく、むしろ低成長であっても平準化を目指すがゆえに労働力の差異性に基軸を置くことができる「定常性(恒常性)が維持できる社会(定常型社会)」を目指すことになると思われます。

少し無理やりな結論になってしまいました。

グローバリズムではなく、ナショナリズム(愛国心)こそが、平準化志向にある資本主義システムを駆動させることによって、その結果国民国家内の経済格差を比較的小さく、相対的に平等と言える「定常型社会」を実現する原理(思想)になるのではないかと勝手に思っているのですが、さていかがなものでしょうか。

【蛇足ながら、終わりに】

グローバリズムに対応する概念は、一般的にはローカリズムであると思われます。

しかしながら、暫定的ではあっても国民国家を既定のものとするのなら、歴史、民族、言語、文化等による細分化プログラムが組み込まれたローカリズムは、グローバリズム以上に国民国家の枠組みを根底から揺るがすものになる可能性があると思われます。

つまり、両端にグローバリズムとローカリズムがあって、その真ん中に当たり(中庸)にナショナリズムがあるのではないかということです。

したがって、両端のグローバリズムとローカリズムが国民国家を不安定にさせる思想とするのなら、ナショナリズムは国民国家を社会文化的に安定させる保守に当たる思想ではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

(おわり)

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# by kokokara-message | 2016-06-26 08:52 | 我流日本論 | Trackback | Comments(0)

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最近のことですが、「ミーハーですね。」と言われたことがありました。

おそらく、私の選択が結果的に多数派にあることが多いため、そのような指摘がなされたのかもしれません。

ウィキペディアによると、ミーハーの意味は、以下のようになっています。

ミーハーとは、昭和初期に生まれた俗語であり、テレビが普及し始めた1950年代後半、大宅壮一が唱えた「一億総白痴化」とほぼ時期を同じくして用いられた。

元々は低俗な趣味や流行に夢中になっている教養の低い者や、そのような人を軽蔑して言う蔑称で、特に若い女性のことを指していた。

現在では男性にも使われる言葉である。

最近の用法としては、「ある事象に対して(それがメディアなどで取り上げられ)世間一般で話題になってから飛びつく」という意味のものがほとんどである。


低俗な趣味や流行の意味するところは定かではありませんが、おそらくミーハーとは何かに熱しやすいタイプの人を指すのかもしれません。

また、ある事象に対して(それがメディアなどで取り上げられ)世間一般で話題になってから飛びつく、という意味では、おそらくミーハーは横並び意識が強く、同じでないと不安になる人かもしれません。

昨今の賞味期限の短い、一過性ともいえる情報が飛び交う社会情勢では、ミーハーのような後追い型の付和雷同は極めてリスクの高い選択になるのかもしれません。

いずれにせよ、ミーハーとは、表層的な横並び意識を基盤とした多数派形成を志向する人たちといえそうです。

そして、ミーハーは多数派にあるということが、他には替えがたい自信になっているということのようです。

おそらく、かようなミーハーは、大衆社会において代表的な行動様式(エトス)を採る人たちのことといえるのかも知れません。

一方、多数派志向の「ミーハー」に対して、「普遍性」という一般性を表す言葉があります。

養老孟司氏によれば、普遍性とは偏在する多様な感性や価値観の極端な部分を除いた真ん中あたり、ということになるようです。

つまり、マニアの感性や価値観のような特殊性、つまり極端な例外を除いた一般性の部分が普遍性になるということです。

例えば、誰もが美しいと感じるものを美しいと感じることや、文化や共同体の論理に囚われない、誰もが納得できる価値や判断が下せることを普遍性と呼ぶのではないでしょうか。

おそらく、普遍性とは、人間であるのなら誰もが納得できる範囲に収まるような「一般性」を指す言葉であると思われます。

このため、見方によれば、普遍性は、相互参照や横並び意識で多数派を志向するミーハーの人たちと重なり合う感性や価値観を所持しているということにもなります。

つまり、マニアのような特殊性を除けば、普遍性であっても、ミーハーであっても、結果として一般性を所持する人たちということでは同じということになります。

また、数の上ではおそらく、どちらにしても多数派を形成する人たちということになるのではないでしょうか。

ただし、先にも述べましたように、大衆社会におけるミーハーの感性や価値観は、あくまでも相互参照や横並び意識の結果として形成されたものということになります。

つまり、ミーハーがもともと多数派志向の人たちであって、その行動様式の相互参照や横並び意識を繰り返した結果地滑り的に多数派が形成されていくことになります。

一方、普遍性はというと、個人の自由で内発的な選択の結果として、同じような傾向を示す人たちが寄り集まることで一般性が形成されていくということになります。

つまり、普遍性は、もともと人間に内在している至極当たり前な感性や価値観を各々が自ら確認した結果、当然のようにして多数派が形成されていくことになるわけです。

結果としてどちらも多数派にあるという点では同じように見えますが、そのアプローチの方法は真逆になっているということには注意しておく必要はあると思われます。

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最近私が気になることは、仕事や家庭の中で、考えても考えなくとも、またやってもやらなくても結果は同じという、なんとなく虚無的と感じる場面に出くわすことが多々あります。

おそらく、これは結果だけが高く評価される現代社会の風潮にあって、多数派にあるという事実だけを持って容易に勝ち負けが決定してしまうことが原因になっているのではないでしょうか。

つまり、民主的な手続きの結果として多数派にさえあれば、ミーハーであろうと普遍性であろうと、そのアプローチの方法には関係なく、同じ(勝ち組)として扱われることになるということです。

もちろん、民主主義社会において、自分が多数派に属しているということはとても大事なことです。

しかしながら、月並みな言い方ですが、結果の勝ち負けではない、その形成過程(プロセス)に対する考察がより重要になってくるのではないかということです。

つまり、現代社会において民主主義が重用されるのは、その単純な多数決の意思決定システムが全体意思をあらわすためではなく、むしろ民主主義という意思決定システムの中に「人間の持つ普遍性」に対する信頼が組み込まれているためではないでしょうか。

社会学者の橋爪大三郎氏は、その著書で「民主主義は最高の意思決定システム」とおっしゃっています。

少なくとも近代以降の日本の意思決定システムは、相互参照や横並び意識による多数派形成だけを意図して制度設計されたものではないと思われます。

あくまでも、個人の自由で内発的な選択を前提として、多数決の意思決定システムが機能するものと考えられていたはずです。

もちろん、残念なことではありますが、理念と実態がかい離している現象に出くわすことは多々あります。

おそらく、大衆社会とは、個々の感性や価値観が多様化する一方で、それらの感性や価値観が画一化されて行くという、拡散と収縮(選択と集中でもかまいません。)が同時に起こるカオスの状態のことではないでしょうか。

では、私たちは、このような両義的で複雑怪奇な大衆社会をいかにして生き延びれば良いのでしょうか。

まず、グローバリズムのトレンドからすると、文化や共同体という特殊性の枠を超えた、もともと人間に内在している「普遍性」に依拠した判断や決定が行われることが求められているといえそうです。

これは大変難しいことですが、いかに文化や共同体のバイアスから自由な(解放された)判断や決定ができるか、つまりは自分や自分を取り巻く環境をいかに相対化できるかが、今を生き延びるための能力(スキル)になってくるといえそうです。

そして、少し戦略的な話になってしまいますが、やはり民主主義社会で生き延びるということは、いかなる場合であっても、社会の多数派から零れ落ちない立ち位置をキープしておく慎重さは必要とされるということです。

つまり、今を生き延びるための能力(スキル)には「世を忍ぶ仮の姿」も必要になってくるのではないでしょうか。

先にも述べたとおり、ミーハーと普遍性では多数派形成へアプローチの方法は、真逆になっているということでした。

しかしながら、あらためて大衆社会における多数派の重要性を考えれば、ミーハーと普遍性はともに今を生き延びるために必要とされる能力(スキル)であって、しかもそれぞれは必ずしも対立する概念として位置づけられてはいないということです。

普遍性は多数派が形成されるうえで根源となる重要な能力(スキル)ですが、それだけでは十分ではなく、ミーハーの付和雷同がバランス良く補完し合える関係となって初めて、決まった答えのない一過性で両義的な大衆社会を生き延びることができるのではないでしょうか。

では、最後に、ミーハーと普遍性の関係性を洞察した小津安二郎監督の言葉で終わります。

「どうでもいいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。」

(終わり)
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# by kokokara-message | 2016-05-30 21:38 | 我流日本論 | Trackback | Comments(0)

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ハワイには、ローカルタイムが流れているといわれることがあります。

急がず、ゆっくり、ゆったり生活することが、ハワイアンタイムの過ごし方とされているようです。

仕事の納期は、発注した側だけではなく、受注した側さえも、期日はあってないものと割り切っていると聞いたことがあります。

タイム・イズ・マネーが国是のアメリカ合衆国にあって、このようなローカルタイムが通用しているのは本当に不思議なくらいです。

楽園ハワイと呼ばれるのは、涼しげな木陰の風とハワイアンタイムが流れているからかも知れませんね。

ところで、アラモアナ地区近くのアラワイ・ヨット・ハーバーに、チャートハウスと呼ばれるライブハウスとレストランを兼ねた店があります。

チャートハウスは、夕方の早い時間からアルコール目当てのローカルや観光客が集まりいつもにぎわっています。

日本は、まだまだアルコールとタバコは自由に楽しめますが、ハワイでは厳しいルールが適用されているため、飲酒、喫煙が許される場所は限られています。

これはハワイ限定のルールというよりは、アメリカ合衆国全体のポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)と言えるものかもしれません。

つまり、アメリカ合衆国における禁酒・禁煙のルールは、建国の精神であるプロテスタンティズムの教義の「世俗内禁欲」に由来するものであるからです。

また、アメリカ合衆国は、自らの正義は自らが規定する社会であって、自分が正義であらねばならないことを常に強迫されている二項対立型の社会と言えます。

日本は善悪や正邪の区分が曖昧ですが、それとは全く異質な社会と言えそうです。

したがって、アメリカ合衆国でポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)に異議申し立てするということは、直ちに二項対立の邪悪に区分されることになります。

アメリカ合衆国の禁酒と禁煙のルールは、アメリカ人にとって正義であって、アメリカン・スピリッツの体現と言えるのかもしれません。

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では、まずハワイのタバコ事情ですが、レストランなどの店内はいうまでもなく、チェックインしたホテルの部屋の中でも禁煙とされています。

日本でも健康増進法の施行以来同じような状況になっていますが、日米の喫煙に関する法律の規制は、ここ15年間で一気に整備されたといえそうです。

そして、次にアルコールですが、禁酒の歴史は禁煙よりも古く、ハワイのビーチなどではアルコールの摂取が一切法律で禁止されています。

週末のローカルの楽しみにビーチや公園でのバーべキューパーティがありますが、ローカルがアルコールを摂取せずに盛り上がっている様は、花見酒文化のある日本人からすると不思議に思えることがあります。

また、レストランなどでは食前酒を飲む習慣はありますが、英国のバーやイタリアのバールのような飲酒を目的として営業している店は少ないようです。

ダウンタウンのライブハウスなどは数少ない飲酒目的の店といえそうですが、治安があまりよくないため、観光客が気軽に足を運べる場所ではありません。

このため、ワイキキやアラモアナ付近のライブハウスやスポーツバーなどが、観光客が比較的安全に飲酒を楽しめる店となっています。

アラモアナ近くのアラワイ・ヨット・ハーバーにあるチャートハウスも、安心して飲酒ができる店のひとつで、夕方の早い時間から夜遅くまでローカルや観光客でにぎわっています。

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ところで、ハワイでは、いまでも体型がヘビー級という人を多く見かけることがあります。

ただ、従来と比べれば健康志向は高まってきているようで、ダイエットによるダウンサイジングがハワイのトレンドになって来ているようです。

レストランでは、アメリカンサイズの超大盛り料理を得意げに出す店が多かったのですが、こちらも適量が主流になって来ているように思われます。

ワイキキ滞在中によく利用するL&Lドライブ・インでは、大きなチキンカツが二枚乗ったビックなプレートランチがレギュラーサイズと呼ばれています。

大盛りのライスにチキンカツが二枚乗ったビックサイズがレギュラーと呼ばれのは、まさに食文化の違いとしか言いようがありません。

ただ昨今では、ビックサイズのなレギュラーよりも、チキンカツ一枚だけが乗ったミニサイズを注文するローカルが増えていると聞きます。

これは一例にすぎませんが、ダイエットによるダウンサイジングは、ハワイの人に徐々に浸透してきていると言えるのかもしれません。

また、ダウンサイジングのトレンドとしては、ダイエットのよるもののほかエクササイズとしてのジョギングによるものがあります。

日本でも同じですが、ウオークマンを聴きながらファショナブルでカラフルなウエアを纏ったランナーが街中を走って行く風景に人気が集まっているように思われます。

ワイキキを朝早く散歩していると、ファショナブルでカラフルなウエアのランナーが街を駆け抜けて行く光景に出くわすことがあります。

朝日が昇るダイヤモンドヘッドを背にしてカピオラニ公園の中を走って行く様は、まさにハワイの絵になる風景のひとつではないでしょうか。

ハワイのダウンサイジングは、ダイエットとジョングの車の両輪によって駆動し始めていると言えそうです。

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ところで、ジョギングとは「走る」という行為行動のことを指します。

そして、ハワイでは、一定の条件が整っていないと、この「走る」という行為行動が周りのローカルから認知されない(不審がられる)暗黙のルールがあるようです。

その暗黙のルールとは、実に簡単なことですが、ジョギングをするときはジョギングウェアやジョギングシューズを身に着けて「走る」ということです。

実に当たり前なことですが、もし街の中をジョギングウェアではなく、スーツ姿の人が走っている光景を見かけたとしたら、何か事件でもあったのかと不審に思うのが自然な反応ではないでしょうか。

たとえスーツ姿ではなくとも、普段着のまま「走っている」人を見かけたとしたら、おそらく周囲の人は日常ではない非日常のことが起こったものと判断し、警戒感や緊張感が高まることになるのではないでしょうか。

そもそも人が「走る」という行為行動には、走る側の目的や意図とは一切関係なく、その光景を見かけた人の警戒心や緊張を高め、脳内アドレナリンを大量に分泌させる効果をがあるとされています。

ただ、このような人が街の中を「走る」という行為行動が、非日常として不審なものとされるのは、言うまでもなくハワイだけに限定されることではありません。

日本であっても、向こうからスーツ姿のサラリーマンが、全力疾走で、こちらに向かって走ってきたとしたら、一体何事が起こったのかと緊張感が高まるのは当然のことです。

したがって、ハワイに限らず、街中で「走る」という行為行動を正当化したいのであれば、走る側は自らが不審者(非日常)でないことを告知しなければならないことになります。

そして、告知のための道具(シグナル)が、ランナーが身に纏ったジョギングウェアとジョギングシューズということになります。

ジョギングウェアとジョギングシューズはファショナブルやカラフルでなくても構いませんが、「走る」という行為行動を非日常から日常へと反転させるシグナルになっているということです。

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繰り返しになりますが、日常の中で「走る」という行為行動が、非日常(不審)とされるのは、ハワイに限ったことではなく、他の国や地域でも同様ということでした。

ただ、ハワイが他の国々や地域と大きく違っているのは、「走る」という行為行動に限らず、急いだり(拙速性)、焦ったり(焦燥感)するしぐさや言動に対して、とてもネガティブな反応が返ってくるということです。

たとえば、ホテルのチャックアウトで時間に余裕がなく、こちらが急いでいるそぶりを少しでも見せれば、ホテルマンはすかさず焦燥感を察知して、落ち着けといわんばかりに、あえてゆったり、ゆっくりと「アロハ」と笑顔で答えることになります。

ハワイにあっては、相手を苛立たせたり、相手を急かせるようなしぐさや言動は、とてもネガティブな行為行動と見做されてしまうということになります

グローバリゼーションと資本主義が席捲する社会にあっては、タイム・イズ・マネーの合理主義と効率主義がしっかりと根付いたものになっています。

不思議なことに、ハワイではこれとは真逆な急がず、ゆっくり、ゆったりのハワイアンタイムが、タイム・イズ・マネーに対するカウンターカルチャかのように機能しています。

おそらく、多くのアメリカ人や日本人がハワイに憧れるのは、ハワイの気候風土のためだけではなく、ハワイアンタイムが流れる非合理かつ非効率な楽園風土に癒しを求めているからではないでしょうか。

先にも触れましたが、ハワイでは、今でも仕事の納期が事実上はっきりとしない商習慣(ローカルルール)が行われていると聞きます。

これは、ハワイの商慣習(ローカルルール)が、今でもハワイアンタイムを標準としているためであって、ハワイの人が怠惰で仕事をしないからではないと思われます。

そして、ハワイの人がハワイアンタイムを標準とするのは、おそらく急激な近代化(グローバル化と資本主義化)から自らの身を守る(自我を守る)ための防衛機制(反動形成)ではないかと思われます。

つまり、グローバル化と資本主義化から身を守る(自我を守る)ために抑圧した合理主義と効率主義が、それとは真逆な方向に出演したのが急がず、ゆっくり、ゆったりのハワイアンタイムではないかということです。

むろんハワイの人の自我だけが脆弱であったわけではなく、日本や他の国や地域の人も同様に、急激なグローバル化と資本主義化から自らの身(自我)を守らなければならない危機的な状況にあるのは同じことです。

一般論としては、現代社会では、グローバルスタンダードと横並びでないもの、突出したもの、劣ったものは、日常をかく乱するネガティブなものとして抑圧される傾向があるように思われます。

先ほどから言及している街の中を「走る」という行為行動も、一般には拙速性や焦燥感を煽る非日常で不審なしぐさや言動として区分されるため、平穏な日常や安定した自我をかく乱するネガティブなものとして抑圧(排除)の対象になってしまうということです。

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やっと、冒頭のヨット・ハーバーの話に戻ってくることができました。

私は、午後6時に、アラワイ・ヨット・ハーバーの正面にあるハワイプリンスホテルのロビーでガイドの方と待ち合わせをしていました。

待ち合わせまでに少し時間があることから、アラワイ・ヨット・ハーバーの埠頭まで足を伸ばして、夕暮れのヨット・ハーバーを写真に撮っていたところ、つい写真撮影に夢中になってしまい、気がつけば待ち合わせの午後6時少し前になっていました。

私は、少し焦り気味で待ち合わせ場所のハワイプリンスホテルまで走って帰ることにしました。

アラワイ・ヨット・ハーバーを小走りで横切っていくと、やがてチャートハウスというレストラン兼ライブハウスの前に出ます。

そして、チャートハウスの前をちょうど小走りで通過しようとしたときに、私に向かって「ビジネス?」と声をかけてくる男性がいました。

その男性の様子を伺うと、チャートハウスで夕刻の早い時間からアルコールを飲んでいたらしく、にやにやととてもご満悦な様子でした。

チャートハウスからは、すでにアルコールで盛り上がっている他の客の声も聞こえていました。

チャートハウスは、観光客だけではなくローカルにも人気があってて、日本の観光ガイドブックでもよく取り上げられています。

そして、レストランで利用されることも多いのですが、やはりチャートハウスのメインはアルコールと生演奏のライブではないでしょうか。

先にもふれたとおり、ハワイにおける禁煙に関する法律の整備が一気に進んだのは、ここ15年間程のことであったと思われます。

ハワイのホテルやレストランは全面禁煙となり、どうしてもタバコが吸いたければ、ホテルやレストランの外に置かれた灰皿(バケツ)で喫煙することになっています。

私が店の前を通り過ぎたときに声をかけてきた男性も、チャートハウスの外に置かれたた灰皿(バケツ)で、のんびりとタバコを吸っているところでした。

アルコールとタバコでご満悦した男性は、おせっかいにもその幸せを他の人にもおすそ分けしたくなったのか、少し焦り気味に駆けていく日本人観光客に向かって、笑いながら揶揄すかのように「ビジネス?」「ビジー?」と声をかけてきたのです。

「ん・・!!」

むろん、ハワイには急がず、ゆっくり、ゆったりのローカルタイムが流れているため、焦ることや急ぐことは、ネガティブな行為に区分されることは、先ほどから繰り返し言及しているところです。

また、街中を走るという行為行動が、焦燥感や拙速性を想起させるため、ハワイではマナー違反なしぐさや言動とされるということも了解しているつもりです。

しかしながら、いくらローカルタイムがハワイのスタンダードであったとしても、コンテクスト(文脈)が分からない他人に向かって「ビジネス?」「ビジー?」と揶揄するのは、果たしてハワイにおける適切なコミュニケーションルールといえるのでしょうか。

「郷に入れば郷に従う」は承知しているつもりですが、このときばかりはさすがにこの場面へのローカルルールの適用に疑問を持ちました。

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「ビジー?」や「ビジネス?」という言葉には、「落ち着け」「ゆっくりしろ」という、ちょっとした戒めの意味が込められていると思われます。

また、「困ったやつだ」「迷惑なやつだ」という相手を少しバカにしたような揶揄と嘲笑の意味も、同時に含まれていると思われます。

チャートハウスを通り過ぎたとき、私はジョギングウェアもジョギングシューズも装着していたわけではなく、普段着のままカメラを首からぶら下げていました。

繰り返しになりますが、確かに暗黙のルールでは、普段着のままで街中を「走る」という行為行動は、焦燥感や拙速性を煽る非日常(不審な)しぐさや言動に区分されてしまい、平穏な日常をかく乱するネガティブなものとして抑圧(排除)の対象になってしまうことでした。

しかしながら、普段着のままチャートハウスの前を駆け抜けてはいるものの、そのコンテクスト(文脈)が判然としない日本人観光客に向かって、「ビジー?」「ビジネス?」と揶揄をする言葉をわざわざ投げかけるのは、果たしてハワイにおける適切なコミュニケーションルールと言えるのでしょうか。

ハワイのような多文化共生社会では、各人は各人のコンテクスト(文脈)に従って生きることが基本になることは言うまでもなく、他者に自分のコンテクスト(文脈)を押し付けないこと、つまり相手のコンテクスト(文脈)を尊重するという姿勢がハワイにおける共生のための基本的ルールになるということです。

したがって、夕方の早い時間から飲酒してタバコまで吸っているお気楽?なローカルに、「ビジー?」「ビジネス?」と揶揄されたうえで、コンテクスト(文脈)を無視したローカルルールを押し付けられるというのは、正直いかがなものなのでしょうか。

このときばかりは、ハワイフリークを自称する私でさえも、さすがに閉口、辟易してしまいました。

もちろん、この男性は、ハワイ州の法律を守り飲酒と喫煙を楽しんでいるわけですから、このことについて異議申し立てするつもりは毛頭ありません。

多文化共生社会ではメタルールの法令が最も重要になるのは言うまでもありませんが、それ以上に各人のコンテクスト(文脈)に踏み入らない、自分の文化を相手に押し付けないという寛容性が、コミュニケーションルールの基本になっているということです。

ただ、この男性がハワイアンタイムを誇りに思って、ローカル以外にもスローライフを提案したいのだとしたら、やはりこの場面は「ビジー?」や「ビジネス?」ではその意図は伝わらないように思われます。

アメリカ合衆国の一州であるハワイ州が、日本以上に格差社会であることを考慮すれば、ローカルが多用する「ビジー?」「ビジネス?」という反語表現は、シニカルでもあり、自虐的でもあり、諦観の悲哀さえも感じてしまいます。

日本人観光客に「ここはハワイだ。気楽にやれ。」というハワイアンタイムを自慢したいのなら、ここは「ビジー?」「ビジネス?」の揶揄や嘲笑ではなく、オープンマインドなあいさつの言葉「アロハ」が適切なのではないでしょうか。

ご存知のとおり「アロハ」はハワイのローカル言語ですが、コミュニケーションルールを起動させるあいさつの言葉として広く世界中で知られています。

「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」などは、すべて「アロハ」という言葉で伝えることができます。

現在の日本社会には、たとえ単一民族の神話(癒しのナショナリズム)に寄り掛かったとしても、なお解決不能な個人間の価値観の多様化がいたるところに存在しています。

日本の社会は、すでに文化や宗教の比較不能な価値の迷路に入り込んでしまったかのようで、多文化共生社会前夜にあるかのように思われます。

さて、皆様は、この多文化共生社会にあって、「アロハ」と「ビジネス?」のどちらの表現方法が、コミュニケーションルールを起動させる言葉としてよりふさわしいとお考えになるでしょうか。

Aloha? or Business?

《おわり》
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# by kokokara-message | 2016-04-23 10:00 | アロハ オア ビジネス? | Trackback | Comments(0)


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現代は、多くの人が不安を抱いて暮らしています。

経済的な問題だけではなく、いたるところで様々な社会不安が指摘されています。

先が見えない、読めないという不安が強くなっているのが原因ではないでしょうか。

先の見通しが悪いために、良い結果よりも悪い結果を多く考えなければならず、このことがさらなる不安を招くことになっているようです。

社会全体が心配性になっているとも言えますが、あながち心配性では済まされない現実が目の前に存在しているのまた事実です。

このような切迫した状況が、心配性にさらなるリアリティを与える結果になっているのかもしれません。

現代の不安の多くは、社会の急激なパラダイムシフト(支配的なものの見方の変化)がもたらしたものと思われますが、これに対処する方法が見当たらない焦燥感が、さらなる不安を招いていると言えそうです。

総じていえば、先が見えないため変化に対処するマニュアルが存在しない、したがって踏み出すにも決まった足場(答え)が存在しない不安や混乱ではないでしょうか。

ただ、不安は大きくても、自分のフレームワーク(世界観)の中に回収できる範囲のものであるなら、安心や納得は得られるかもしれません。

しかしながら、自分のフレームワーク(世界観)に回収ができない程度のものであれば、自分のフレームワーク(世界観)そのものが大きなダメージを受けることになります。

つまり、自分のフレームワーク(世界観)を大きく揺るがす違和感=ノイズ(雑音)が発生するということです。

現代社会には、かよう違和感=ノイズ(雑音)がいたるところに存在しているため、私たちのフレームワーク(世界観)はダメージの危機に直面していると言えます。

そして、違和感=ノイズ(雑音)が引き起こす不安とイライラは、穏やかな家庭や職場を怒りや罵倒の場に変えてしまうことになると言うことです。


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では次に、不安と創造性の関係性について、言葉とコミュニケーションの観点から考えてみることにします。

言葉は、脳の持つ機能である「同じ」をその特徴としていますが、コミュニケーションは、言葉の持つ「同じ」という機能を繰り返すことによって成立しています。

つまり、「同じ」ものとして概念化された言葉の意味の交換によって、お互いの話しが通じる(と臆断している)ということになります。

しかしながら、実際の実体社会は、言葉の意味が概念化(同じ)されるのとは正反対に、同じものが二つと存在しない多種多様な世界と言えます。

例えば同じように見えるコピーであっても、物理的にはすべては亜種ということになり、亜種がまたひとつ増えていくだけのことです。

そして、言葉の持つ意味もこれと同じことで、同じ概念の言葉であっても、その使用される場面や文脈によっては意味は多種多様なものになってしまいます。

例えば、「りんご」という概念(同一性)が、一般的な「リンゴ」の意味(言葉)で使用されているのか、個別な「りんご」の意味(言葉)で使用されているのかは前後の文脈から判断するしかありません。

言葉のオトや文字は同じであっても、その意味は多様であるということです。

したがって、あいさつで「おはよう」と発せられた場合でも、発せられた言葉と発した相手の表情やしぐさの間に微妙な意味のずれを感じたとしたら、どちらのメッセージを優先すれば良いのでしょうか。

とても気分が悪くなりますが、言葉の発するメッセージと相手の表情やしぐさが発するメッセージが異なっている場面に出くわすことがあります。

たとえば、母親が幼い子供に向かって「こちらへおいで」と呼びかけながら、一方で母親の表情が険しく子どもを拒否するものなら、子どもは素直に母親のもとへ行くことができるでしょうか。

ダブルバインドと呼ばれている事例がそうです。

言葉と表情で異なったメッセージが同時に発信されたとき、私たちは強い違和感や不快感を感じて、自分の思考(自我)を統合することさえ困難な状態に陥ってしまうということです。

さらにメッセージの不整合を相手に尋ねることがさらなる自分の混迷を深める結果となります。

言うまでもなく相手は正直に答えることはないので、言葉と表情の異なった相手に関われば関わるほど、ダブルバインドの呪縛から逃れられないことにもなってしまいます。


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言葉の特徴は、脳の持つ「同じ」という機能、つまり言葉の概念化(カテゴリー化)が特徴と言えますが、言葉の持つオトや文字が指し示しす概念(カテゴリー)の意味については、決して一義的ではなく、多義的であることについては先に触れたとおりです。

そして、コミュニケーションの目的は、この言葉の多義性(ずれ)を利用することで、自他のフレームワーク(世界観)の枠を広げていくことにありそうです。

あいさつの「おはよう」というメッセージは、一般的には親しさや敵意がないことを表現するために発せられることが多いと言えそうです。

そして、この「おはよう」というメッセージに個人的な意味が込められたとしたら、親しさや敵意がないこととは全く正反対の意味の発信が可能になってきます。

従って、発せられた言葉のオトは同じでも、それが個人的な意味で使用されたものか、それとも一般的な意味で使用されたものかは、言葉を発した相手の態度や表情から推察するしかありません。

ただ、そもそも相手との関係性が親和的(安定的)なものであれば、言葉の多義性(ずれ)はお互いのフレームワーク(世界観)を広げて行くことに役立ちます。

一方、相手との関係性が猜疑的(不安定)なものであれば、言葉の多義性(ずれ)は不信や曲解を招き、お互いのフレームワーク(世界観)を広げるどころか、自己防衛のために思考停止してしまいます。

つまり、言葉の持つ本当の意味は、言葉のオトや文字の持つ意味以上に、言葉を発した相手の態度や表情(文脈)から推察しなければ判定できず、このため言語外メッセージは言語メッセージより優先すべきメタメッセージになるということです。

そしてダブルバインドは、言語メッセージと言語外メッセージの優先順位が上手く整理できない、混乱した状態が原因となって引き起こされた、自己の統合を揺るがす危険な不安と言えそうです。

もし、あなたの周りに言語メッセージと言語外メッセージが一致しない人がいたとしたら、迷わずその人から距離を取ることを推奨します。

ダブルバインドの相手には決して近づかないことが、最善のコミュニケーションということになり、現代社会を生き延びるための自己防衛手段と言えるのかもしれません。


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では、相手との関係を安定的なものにさせるポジティブなコミュニケーションは、一体どのようなものを指すのでしょうか。

今までのことから判断すると、優先されるべきメタメッセージの言語外メタメッセージは、できるだけポジティブな方が望ましいと言えそうです。

そして、コミュニケーションで使用する言葉はできるだけ個人的な意味の使用は避けて、一般的な意味の範囲に収まる言葉の使用が望ましいと言えそうです。

交話(講和)的なコミュニケーションが図られる一例として、「おはよう」という挨拶に「おはよう」という挨拶を繰り返すだけのコミュニケーションがあります。

凡庸なようですが、同語反復する挨拶のコミュニケーションは、お互いが親密でオープンマインドな「場」を共有するためのスイッチになると思われます。

そして、挨拶の交換でオープンマインドな「場」が共有できたならば、言葉の意味に多少のズレがあっても、ネガティブな思考停止の方向には展開せず、むしろ創造的でポジティブな方向へと展開して行くことになります。

つまり、言語外のメタメッセージはポジティブなものであって、かつ多義性のない同語反復的な言葉の繰り返しが、不信や不安の少ない交話(講和)的なコミュニケーションを可能とさせるスイッチになっていると言うことです。

挨拶に始まって、話の途中でうなずくことや傾聴することは、交話的なコミュニケーションを起動させるスイッチになっていると言うことです。

そして、不信や不安の少ないオープンマインドな「場」では、言葉の持つ意味の幅(多義性)を利用したコミュニケーション・ゲームが可能となるということです。

茶の湯には「一期一会」という言葉があります。

「今が一生一度の出会いと考えて後悔のないようにもてなす」という意味で使用されていますが、茶の湯では、同語反復のあいさつとしぐさ、また抑制のきいた穏やかな表情などまさに交話(講和)的なコミュニケーションの基本ルール(一期一会)が実践されています。

茶の湯では、このような基本ルール(一期一会)を共有することで、言葉の意味のずれ(言葉の多義性)を創造的でポジティブな方向に展開させることが可能となり、そしって「場=関係性」の更新を図ることが可能になります。

茶の湯は、「場=関係性」の更新を目的とした極めて高度で知的な政治的コミュニケーションと言えるのかもしれません。

ところで、不安と創造性は、コインの表裏の関係にあると思われます。

つまり、フレームワーク(世界観)の揺れを引き起こす感情の揺れが「不安」であって、フレームワーク(世界観)のずれが引き起す論理の展開が「創造性」に当たると言うことです。

不安はヒトの知性を破壊してしまう危険性をはらんでいますが、創造性はヒトの持つ知性の枠のみならず位相まで変えてしまう可能性を持ったものと言えます。

そして、不安と創造性の大きな違いは、外部からのノイズ(雑音)を受動的にとらえて揺らぐのか、それとも能動的にとらえて自覚化に枠をずらす(気付く)かではないでしょうか。

現代のような先の見えない時代であるからこそ、ノイズ(雑音)にただ不安を感じているだけではなく、ノイズ(雑音)を創造性に変えるため、強くてしなやかな自我とそれを支えるための知性(論理)が必要になってくるのかもしれません。

確かに、フレームワーク(世界観)の揺らぎは不安定な状態をもたらすため、特定の場面で強い緊張感や恐怖感を強いられることになります。

したがって、フレームワーク(世界観)の揺らぎに耐えられる強くてしなやかな自我と知性(論理)は、先の見えない現代を生きる日本人に強く望まれることかもしれません。

そして、このような強くてしなやかな自我と知性(論理)を前提にして、やっと成立する得難い境地が、個人の自律ということではないでしょうか。

内田樹先生によれば、個人の自律とは、自分の髪を自分の手で掴み取り、中空に押し上げて宙吊りにするようなアクロバクシカルな行為であると比喩をされています。

これは、まさに個人の自律が、困難極まる得難い境地であるかことを表現したものであると言えそうです。

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現代社会では、今在る関係性(社会的文脈)が読めず、判断の基準も分からないまま、ゲームの中に放置されるという経験をお持ちの方も多いと思われます。

実践では、たとえルールが分からならなくても、その場のゲームの与件から判断して、最低限自分の身は自分で守らなければならないことは多々あります。

とてもストレスフルな状況ですが・・。

そして、個人の自律とは、このようなゲームのルールさえ分からない逆境にあっても、最後は自分で自分を支えることができる卓越した芸当のことを指すと思われます。

では、個人の自律で、自分で自分を支えることになる支点(視点)は、一体どこに求めれば良いのでしょうか。

おそらく、個人の自律のためには、「自己意識」と呼ばれる自分を相対化できる客観的な視点が必要になってくると思われます。

つまり、自己意識は、自分自身を相対化し(絶対化しない)、そして自分自身を俯瞰できるようなメタレベルからの視点ということです。

このような視点は、先の内田樹先生のお言葉をお借りすれば、自分自身の内面(外部ではありません)にあって、なおかつ自分自身を中空に押し上げて宙吊りにできるような「支点」ということになります。

我流の言い方では、カントの言う定言命題、つまり「~すべし」という自分内部からの言明(倫理観)が、しかも普遍性につながって行くという本末転倒した芸当が、ここで言う「自己意識」に近いものになるのではないかと思われます。

個人の自律には、かようなアクロバクシカルな荒唐無稽た芸当が必要とされることになるということです。

このため、自分自身を素直に信じる(自信)という過程では、自分には足場がない(自信に根拠がない)という不安定な状態に放置されることになります。

自己意識を信じて、自己を相対化することは、自分の世界観から外に向かって一歩進み出る、つまり固定化したフレームワークから外にダイビングすることであると思われます。

時には自己否定につながることおもあるかもしれない自己の相対化は、着地点の読めない極めてリスキーな試みであって、大きな戸惑いや不安を伴う試練です。

しかしながら、自己の相対化は、脳の機能である「同じ」という幻想の世界から、一歩外にある多種多様な実体世界に踏み出すことでもあります。

自己の相対化、つまり自己意識に支えられた自分自身の客観化(俯瞰)が、脳化した一元的な幻想世界から多元的な現実世界に踏み出すことではないでしょうか。

そして、自己の相対化は、おそらく自己のフレームワークの「揺れ」が引き起こす不安や恐怖ではなく、むしろ自己のフレームワークの「ずれ」から引き起こされる創造性の方ではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。

蛇足ながら申し上げれば、自己意識を信じて、自己を相対化するということは、自分よりも偉大なものに身をゆだねる思想をベースにしていると思われます。

したがって、一神教を信じる欧米人には可能な芸当ではあっても、多神教を信じる祖霊信仰の日本人には難しいことであるのかもしれませんね。

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ヒトとチンパンジーの遺伝子情報は、わずか2%ほどのの違いしかないと言われています。

このことからすれば、もともとの遺伝子情報だけでは、ヒトとチンパンジーの持っている能力(感覚)の違いを説明することはできないのかもしれません。

従って、ヒトであるホモサピエンスとチンパンジーの決定的な違いは、脳の持つ形式や構造として、言葉が使用できる新脳の存在ということになるようです。

新脳がもたらした言葉が、ヒトとその他の動物を大きく隔てることとなり、ヒトの新脳の持つ機能の大きな特徴が「同じ(同一性)」ということになります。

つまり、本来ヒトによって多種多様(バラバラ)な感覚を「同じ」に集約していく機能が、脳に備わった言葉の「同じ」という機能であり、この機能によってヒトは言葉でコミュニケーション(交換)を図ることが可能になったということになります。

そもそもヒトの持つ感覚は多種多様なものと言えますが、その多種多様なヒトの個性をもたらしたものは、ほんのわずかな遺伝子情報の違いとヒトを取り巻く環境要因から説明できることになるとされています。

自己の相対化とは、ヒトの持つ感覚の多様性に気付くことであるのかもしれません。

そして、ヒトの持つ感覚の多様性に気付くことが、ヒトの新脳に備わった機能の「同じ(同一性)」の概念世界から一歩踏み出すことかもしれません。

これは、一元的なものの見方から多元的なものの見方へと踏み出すことであって、ヒトの持つ感覚の多様性を尊重するという立場でもあります。

ヒトは、脳の機能である「同じ」という一元的な概念(幻想)世界から一歩踏み出して、多元的な感覚(現実)世界に触れることが、今世界で起きている様々な信念対立を超えて行くきっかけになってくれるかもしれません。

言うまでもなく、信念対立とは、一元的な概念(幻想)同士の対立であり、脳の持つ「同じ」という機能に呪縛されているがゆえの対立と言えそうです。

自分が脳の機能の「同じ」に囚われていると、ほんの少し気づくだけでも、多種多様な他者の存在に気づき、尊重することができるようになるのかもしれません。

繰り返しになりますが、コミュニケーション(交換)は、言葉の持つ「同じ(同一性)」という機能を前提として成立しているものでした。

そして、信念対立(話しが通じない)の問題も、またこれと同じように言葉の持つ意味の「同じ(同一性)」が前提になっているということです。

したがって、信念対立の問題を超えて行くには、コミュニケーション(交換)では言葉の意味を絶対化(一元化)せず、相対化(多元化)することが、通じない話を通じるようにさせる、つまり分かり合える部分にコミットするということになるのではないかと考えるのですが、さていかがでしょうか。

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「不安と創造性」を、最後までご一読いただきありがとうございました。

それでは、本稿の結論(のようなもの)とさせていただきます。

不安は、差異(隔絶)から生じるものと言えそうです。

つまり、自分の感覚と外部の感覚に差異(隔絶)があれば、そこに不安(不安定)が生じるのは当然のことです。

また創造性も、差異(隔絶)から生じるものと言えそうです。

自分の感覚と外部の感覚に差異(隔絶)があって、その水位差(隔絶)を埋め合わせる営為が創造性ではないでしょうか。

そして、水位差(隔絶)を埋め合わせる創造性には、ヒトそれぞれの感覚の違い(差異)を受け入れる(尊重する)柔軟性が必要とされると思われます。

つまり、ヒトの感覚がバラバラであることを認識したうえで、共感(シンクロ)できる部分にコミットして行くことになります。

ただ、ヒトは決まった答えがない、みんなと同じでない、一元的な答えがない、つまり感覚や意味の多様性(グレーゾーン)に不安を覚えるのもまた事実です。

脳の特徴である同一性(同じ)の機能からすると、当然の帰結かもしれません。

しかしながら、決まった答えがないと動けないということであれば、それはロッククライミングで4点支持登法を試みているようなものではないでしょうか。

つまり、動かない4点支持登法は確かに安定はしていますが、その最大の難点は時間が経過すると力が尽きてやがて滑落してしまうということです。

したがって、自分を支えてくれる確かな足場(決まった答え)はなくとも、勇気を奮って目の前に広がる多様性(グレーゾーン)に暫定的なマーキング(答え)を試みることはできるかもしれません。

ただ、勇気を奮って試みたマーキング(答え)であっても、時間が経過して社会的文脈が変われば、自分を支えてくれる足場(答え)ではなくなってしまいます。

自分の足場(答え)は常に更新されて行くものであり、あらかじめ決まった答えがないのが答えと言えそうです。

しかしながら、かような不条理に耐えながらも、日々淡々と足場づくりを繰り返していると、ふとひらめいた直感(アイデア)が自分の枠を超えて人類全体の叡智(普遍性)につながることがあります。

おそらく、一般性からの破綻でしかなかった自分の個性(特殊性)が、人類全体の叡智である普遍性につながった瞬間ではないでしょうか。

普遍性は、国や民族、宗教の枠組みを超えた感覚ですが、同時にヒトの脳という生物学的な限界を持った感覚でもあります。

つまり、ヒト(の脳)であれば、誰もが同じように感じる感覚を普遍性と呼ぶことになると思われます。

養老孟司氏によれば、両端を切った真ん中あたりということになるようです。

したがって、普遍性をベースにできたことで、自他の差異(隔絶)で不安定であった個性(特殊性)は、一般化し安定化して行くことになります。

繰り返しになりますが、自分の感覚と外部の感覚に差異(隔絶)の水位差(隔絶)を埋め合わせる営為を、創造性と呼ぶことになると思われます。

最後になりましたが、不安と創造性はコインの表裏の関係にあると言えます。

このため、物理的にコインの表だけを取り出せないように、ネガティブな不安だけを取り除いてポジティブな創造性だけを取り出すことは出来ないことになります。

したがって、隣り合わせのネガティブな不安とはうまく折り合いをつけながら、目の前に広がる多様性(グレーゾーン)の海にダイビングして行くポジティブなファーストペンギンの勇気こそが、今を生き延びるために必要な創造性ではないかと考えているのですが、さていかがでしょうか。

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# by kokokara-message | 2016-03-15 22:11 | 我流脳科学(不安と創造性) | Trackback | Comments(0)


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1 はじめに~現代思想における男女区分

生物学的な男女の区分は、自然がそうであるように、決定する染色体や遺伝子がおおむね双極的に偏在するなだらかな二つの曲線を描くようになっているといえそうです。

つまり、生物学的な男女という区分は、クリアカットな形で二極に分離されていないということになります。

では、生物学的な男女の区分が、なだらかな双極に偏在しているにもかかわらず、なぜ男女という二項だけに集約されてしまうことになるのでしょうか。

ヒトの脳の特徴のひとつに同一性を求める機能があります。

また、社会文化的な概念としての男女の区分、つまりジェンダーは私たち以前から存在しています。

そして、ヒトの脳の特徴である同一性を求める働きは、言語の持つ同一性(概念)によって具体化されることになります。

つまり、男女が生物学的には自然でなだらかな双極に偏在するいずれかであっても、脳の同一性の働きによって、ヒトは既存の社会文化的な男女という二極の概念(言語)に分類されることになるということです。

少し分かりにくいので、言語の説明を少し補足することにします。

言語は、社会的文化的な構築物の代表的存在とされています。

言語が構築物とされるのは、言語がオトや文字の記号の部分と、その記号が指し示す意味の部分から成り立っているからです。

つまり、言語は、記号の部分と意味の部分から構成されているということになります。

たとえば、イヌという言語があります。

イヌという記号(オトや文字)が、イヌという意味を指し示していることはいうまでもありません。

この場合、イヌという記号が個々のイヌを指すこともありますが、イヌ全体、つまりイヌという動物の種類を指すということが一般的ではないでしょうか。

つまり、イヌという記号(オトや文字)が、イヌという概念(同一性)を指し示しているということになるわけです。

また、イヌという記号(オトや文字)を聞けば、誰の脳裏にも、全身に毛が生えた4本足の愛らしい小動物がイメージされることになるのではないでしょうか。

これは、あらかじめ私たちが、イヌという概念に共通する構造や形式を知っているからということになります。

なぜなら、チンとゴールデン・リトリバーでは違った大きさや形態をしていますが、そのどちらも同じイヌ類として分類するということになるのではないでしょうか。

これは、同じ概念の中に分類されるイヌであっても、誰もが同じイヌのイメージを持っているとは限らないということになります。

つまり、イヌのイメージは多種多様といえるのですが、イヌという共通の構造や形式を持っている動物が、同じ概念(同一性)に分類されるということになります。

あらためて、イヌという言語が成立するまでの過程を整理します。

まず、社会の中にやがてイヌと呼ばれる共通の構造や形式を持った動物群が存在しているとします。

これらの動物群を同じ枠の中に入れる(カテゴリー化する)ことで、はじめて概念(同一性)が成立することになります。

そして、その概念(同一性)に対し、社会から恣意的な記号を振付けられた構築物が、イヌという言語になります。

記号が恣意的であるのは、アメリカ社会でイヌがdogと呼ばれるように、イヌという記号そのものには必然性がないからということです。

少しややこしいですね。

ただし確実にいえることは、もしその社会にイヌに相当するような動物群が存在しないというのであれば、おそらくイヌに相当するような概念や言語も存在しないということなるのではないでしょうか。

あらためて、ジェンダーに話しを戻します。

ジェンダーとは、その社会の支配的な概念(同一性)によって分類された、社会文化的な男女の区分のことです。

そして、ジェンダーという男女の区分は、私たち以前から存在していたものということになります。

このため、ジェンダーが社会的構築物であるにもかかわらず、私たち以前から存在していたために、ジェンダーを自然と同じような自明なものとして受け取ってしまうことになります。

従って、生物学的にはなだらかな偏在の中の男女という区分であるにもかかわらず、社会文化的な構築物であるジェンダーが、ヒトを男女という二極の概念(言語)に分類しているかのように見えてしまうわけです。

おそらく、ジェンダー(男女の区分)は、その社会で共有されている同型性、つまり共通の構造や形式を持っている人間群を、男女という概念(言語)に分類することで成立することになるのではないでしょうか。

このことを、先のとおり言語の成立過程から見ていくことにします。

まず、社会の中にやがて男女と呼ばれる社会文化的な同型性(構造や形式)を持った人間群が存在しています。

これらの人間群を同じ枠の中に入れる(カテゴリー化する)ことで、はじめて男女に相当する概念(同一性)が成立することになります。

そして、その概念(同一性)に対し、社会から恣意的な記号を振付けられた構築物が、男女という言語になります。

このときに重要なことは、ジェンダーとは社会的文化的な区分であるゆえに、男女の概念の分節点は時代や社会環境の要請によって大きく変動することになってしまうということです。

例えば、日本の戦前社会と現代社会では、男女の持つ行動様式(構造と形式)は大きく異なっており、それぞれの時代背景を考慮すれば納得がいくことになるのかもしれません。

また、日本の社会とイスラム教圏の社会では、おそらく男女の行動様式(構造と形式)は大きく相違しており、それぞれの宗教的背景を考慮すれば当然の帰結といえるのかもしれません。

つまり、時代や社会環境が変化することで、社会が要請する男女の行動様式(構造や形式)もまた変化することになり、この結果として男女という概念(同一性)の分節点が移動することになるわけです。

このことは、ジェンダーという男女の区分が、私たちを取り巻く時代や社会環境の要請によって生成されてくる社会的構築物であることを証明しているといえるのではないでしょうか。

ところで、セクシュアリティとは自認を意味します。

自認とは、広い意味では自己決定になると思われます。

では、社会文化的な男女の区分のジェンダーとセクシュアリティ(自認)との関係性は、どのようになっているのでしょうか。

ジェンダーは、時代や社会環境の要請によって生成されてくる社会文化的な男女の区分ということでした。

従って、ジェンダーとは、個人が制御できるようなレベルのものではなく、むしろ自然と同じように制御不可能な領域にあるものとして、ひとまずは受け入れるしかない存在といえるのかもしれません。

構造主義では、社会構造はやがて変わっていくものの、ある一定期間は不変なものとみなすことにより、その社会に存在する構造や法則を観察しながら、そこから引き出される仮説をもとに社会構造の制御を試みるという立場をとります。

従って、ジェンダーという男女の区分についても、期間限定、地域限定の条件付はあっても、ひとまずは普遍(不変)なものとみなし、その社会での支配的な男女の区分を踏まえながら、男女のいずれかを自己決定(自認)するということになります。

このことを一般化すれば、自らのアイデンティティは、たとえそれが暫定的なものであっても、現在の社会のフレームワーク(枠組み)に存在する概念(言語)からしか、自己決定(自己選択)ができないという限界があることになります。

つまり、私たちは、社会に存在しない概念(言語)を使用して、お互いのコミュニケーションを図ることは出来ないということです。

そして、このような自己決定の限界を十分に理解しても、自らのアイデンティティ(あるいはジェンダー)に揺らぎを感じるとすれば、それは、おそらく既存の概念(言語)の揺らぎ、つまり社会構造そのものの流動化が原因になっているのかもしれません。

たとえば、概念(言語)が同じものであったとしても、その意味の幅があまりにもずれてしまっている(揺れが大きい)のであれば、おそらく話が通じないことにもなってしまいます。

先ほども記述したように、ヒトの目に映る社会構造は、一定期間は自然と同じで不変なもの(自明なもの)として認識されるということになります。

そして、やがて自然が流転していくように、社会構造も時間の経過とともに変化していくということになります。

現代社会で見られるグローバル化や情報化という大きな潮流は、社会構造を急速なテンポで改変し、言語や概念の流動化をもたらすという原因になっていると思われます。

その結果、個人のアイデンティティや社会制度の枠組みも大きく揺らぐことになり、個人や社会に関わるグレーゾーンや曖昧さが拡大するという結果になっているのではないでしょうか。

現代思想から見たジェンダー(その本質はアイデンティティですね。)は、まさに足場のないポストモダンな状況にあるといえそうです。

しかしながら、いつの時代においても、自らのアイデンティティは、自らが決定するしかないという変わらない真実があります。

つまり、自分を支えるのもは自分の外部にあるのではなく、最後は「自分は自分」という足場の定まらない自己言及よってしか自分を支えることができないという限界です。

寄りかかるすべがない状況は、確かに私たちを不安にさせることになります。

しかしながら、かようなポストモダンな足場の定まらない状況を嘆いているだけではなく、アイデンティティ(ジェンダー)は自らで自己決定(自認)するしかないと覚悟を決めるしかないのかもしれません。(孤独でとても辛い選択になりますが。)

現代社会の個人のアイデンティティ(ジェンダー)は、大きな揺れが起こっています。

アイデンティティ(ジェンダー)が揺れるということは、またその揺り戻しがあるということも必然の成り行きといえます。

現代社会の男女の区分(ジェンダー)は、現代の社会構造の中に組み込まれた社会制度ということができます。

このため、男女の区分が流動化したとしても、今在る男女の区分を前提としながら、現在の社会制度が機能しているのもまた現実ではないでしょうか。

右肩下がりの人口減少社会という社会経済構造を考慮すると、今後とも単線形の発展的史観が展開する予測は、あまりにも短絡的な楽観主義といえそうです。

従って、今の自分の立場(アイデンティティ)が、たとえ不安定で、暫定的なものでしかないとしても、今ある自分の立場と役割を足場とすることでしか、将来に生き延びるチャンスさえも得られないことになってしまうのではないでしょうか。

自分の足場は自分で確保し、そして男女を等価なものとする見方が保持できているのなら、ジェンダーは単に観念論ではなく、現実論として具体的な政策へとつながっていくと考えているのですが、さていかがでしょうか。
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2 男女平等という立場について

ジェンダーという男女の区分は、概念(言語)の差異という関係性にあることから、時代や環境の要請によっては、その分節点が移動するということになります。

つまり、男女という区分が相対化されることによって、ジェンダー(アイデンティティ)が不確実なものになってしまうということです。

このことは、男女の区分(あるいは自分は誰であるか)が確定的なものであり、自明と考えている人にとっては、大変な驚きとなってしまうことかもしれません。

まさに、ジェンダーの揺れは、アイデンティティの揺れということになります。

ジェンダー(アイデンティティ)の揺れは、まさに流動化する現代社会を象徴するひとつの現象といえるのではないでしょうか。

ところで、男女のいずれかの性がもう一方の性を、合理的な理由もなく劣位におく非対称性が形成されることは、言うまでもなく望しいことではありません。

そして、日本国憲法においては、男女の平等について規定がなされています。

ただ、この憲法に規定された男女の概念(言語)の平等性や等価性を論理的に展開していくと、やがてひとつ上位のレベルにある、ヒトという概念にたどりつくことになるのではないでしょうか。

つまり、男女という概念(言語)は、それぞれひとつの同一性(カテゴリー)の中にあるものですが、脳のさらなる同一性を求める働きによれば、ひとつ上位のレベルのヒトという概念(言語)に集約されていくことになるのではないかということです。

むろん、男女という概念(言語)が、社会文化的な区分であり、具体的に機能する社会制度であることはいうまでもありません。

しかしながら、男女が平等であり等価とされるそれぞれの権利が、さらに上位のヒトという概念(言語)に同一化されていくことになれば、それは「人権」という普遍的概念に至るということになります。

社会には目に見える制度(法令など)と目に見えない制度(道徳など)が存在し、それらが個人を拘束しています。

いずれの社会制度においても、個人の「人権」が尊重されなければならないことはいうまでもありません。

つまり、社会における二項に分節された男女という概念(言語)が持つ権利には、その前提として必ず「人権」という普遍的概念が想定されているということです。

従って、ヒト(個人)とは、まず「人権」という普遍的概念が賦与された存在ということになり、このようなヒト(個人)が社会文化的な男女の区分のいずれかを自己決定(自認)できるということが、なによりもジェンダーのあり方として望まれることであるのかもしれません。

大変残念なことですが、ヒト(個人)は自分の置かれた社会的に文脈によって、誰もが強者(勝者)になれるわけではありません。

従って、たとえ弱者であっても弱者のまま尊重される社会が、誰もが暮らし安いと感じる社会のあり方ではないでしょうか。

ところで、今から15年以上前になりますが、男女共同参画基本法という法律が施行されました。

この法律の理念では、男女の性差は前置されているものの、社会経済的な男女の区分の必要性については十分に規定はされていないように思われます。

そもそも、資本主義の論理では、経済活動で利潤が発生するためには、何らかの差異が存在する必要があります。

つまり、資本主義社会では、男女という区分(ジェンダー)よりも、むしろ、生産者、消費者という、より多く経済活動に寄与できる差異を持ったヒトの存在が前提にされてきた歴史があるということです。

従って、過去も、現在も、そして、これからも、日本経済が経済成長を続けるためには、国際関係も含んだ社会経済構造の中における差異の存在が必要になります。

そして、国内だけを考えた場合では、経済成長のために必要な具体的な差異とは、生産活動に寄与できる安価な労働力ということであり、また消費活動に寄与できる差異に敏感な購買意欲旺盛な消費者ということになります。

従って、このような資本主義の論理からすると、男女雇用機会均等法に始まったここ30年間の男女の経済活動への共同参画は、当初思い描いていた男女平等の実現という到達点(ゴール)とは大きく異なった政策になってしまっているのではないかということです。

つまり、目標とした男女共同参画社会の政策意図は、資本主義の論理の帰結である経済成長戦略への寄与ということになり、減少していく労働力人口とマイナスの経済成長を支えるために必要な安価な労働力(差異)を創出するために設営された舞台装置(経済政策)であったという見方もできるのかもしれません。
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3 個人の抽象化と男女の区分

従来より一部の領域では、社会制度から男女の区分を失くしてしまう(相対化してしまう)という試みが行われているように思われます。

つまり、個人の名簿や申請書などのアイデンティティの欄から、男女についての項目を削除してしまうということです。

このことが、ほんとうに社会が目指す方向といえるのかどうか、よく考える必要があるのかもしれません。

ジェンダーとは、社会文化的な男女の区分のことでした。

また、男女という概念、つまり男女という言語(言葉)のことでもありました。

そして、ジェンダーは、時代や環境の要請によってその分節点が変わることから、男女の区分が移動するということにもなってしまうということでした。

つまり、ジェンダーとは絶対的なものではなく、比較的長いスパンで眺めてみれば、相対的で不確かなものということになります。

このためか、ジェンダーが実体のない幻想(思い込み)であるかのように捉えられてしまうこともあるようです。

むろん、ジェンダーがほんとうに実体のない関係性(幻想)であるならば、社会制度から男女という概念(言語)を失くしてしまうことに合理性があるといえるのかもしれません。

しかしながら、ジェンダーは実体のない関係妄想ではなく、実体のある個人が構成する社会文化的な構築物ということになるはずです。

つまり、実体のある個人の属性が社会文化的な構築物の男女という区分であり、その男女という分類(カテゴリー)から社会構造が形成されている現実があるということです。

また、構造主義では、構造はやがて時間の経過とともに変化することになりますが、ある一定期間は自然と同じように自明なものとして考えることになります。

つまり、既存する社会文化的な構造である男女の区分(ジェンダー)も、ある一定期間は自然と同じように自明なものとして扱われるということになります。

従って、確固として自明な社会文化的な構造をなくすということは、ヒトが自明とする社会構造を恣意的にコントロールするということにもなってしまい、果たして、このようなことが本当に可能といえるのか。

ひよっとすれば、自らの足場を自らの意思で崩していること(自爆行為)になっているのではないでしょうか。

また、社会文化的な構造から男女の区分をなくすということは、今ある日常的な日本語の語彙を使用せずに、自らの立場や役割を守らなければならない事態を招くことにもなってしまいます。

つまり、自らの立場や役割を守るためには相手の立場や役割を守るしかなく、このようにお互の相互承認ができるためには、少なくとも今ある公共空間(疑似空間ではありません。)で共有されている概念(言語)を使用するしか方法がないということです。

従って、自らの立場や役割を崩すことになるコミュニケーションをいくら繰り返しても、おそらく相互承認に至ることはなく、やがて個人が保持している社会的な立場や役割さえも、他者からの承認不足により、次第に曖昧で不確かなものになってしまうこと(自爆行為)になるのではないでしょうか。

このことは、具体の個人が希薄化していくいくことでもあると思われます。

そして、これと相関するように、個人の抽象化が進んでいくことになるのではないでしょうか。

つまり、個人の抽象化とは、もはや男性や女性の属性の削除だけにとどまるものではなく、名前や住所などの重要なアイデンティティさえもなくしてしまうということです。

そして、個人の抽象化が行き着く先は、おそらく個人の数値化(ID化・マイナンバー)ではないでしょうか。

むろん、個人の数値化(ID化・マイナンバー)は、個人の重要な唯一無二性を消去してしまうものでもあります。

つまり、「あなたでなければならない」ではなく、「誰であってもかまわない」に変わってしまうということです。

アイデンティティ(ジェンダー)の相対化は、ヒト(個人)から唯一無二性を収奪してしまい、ヒト(個人)をモノという代替可能性に変容させることになるということです。

従って、ジェンダー(アイデンティティ)は、相対的で曖昧で不確かな抽象的概念(言語)であってはならず、、たとえ期間限定ではあっても、あくまでも社会文化的な具体的な社会制度(区分)として機能することが望まれると思われます。

むろん、ジェンダー(アイデンティティ)が社会制度(カテゴリー)である以上、その制度の男女のいずれを選択するかは、あくまで個人の問題(自由)となります。

つまり、個人が自然に抱いている感覚と自分が置かれた社会的文脈から判断して、自らのジェンダー(アイデンティティ)を適切に選択できなければ、自らの抽象化(アイデンティティの希薄化)を防ぐことはできず、その結果唯一無二性と引き換えに代替可能性(経済的存在)を促進させることになってしまうと考えるのですが、さていかがでしょうか。
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4 感覚としての男女の区分

また、一方では、ジェンダーを相対化するのではなく、男女の区分を認めたうえで、男女を等価とみなす立場があります。

おそらく、これは、男女のメタレベルにあたるヒトという視点から俯瞰した区分(分類)ではないでしょうか。

このような視点(立場)からは、男女の平等性や等価性については言及されることがありますが、本来的にヒトが保有する男女の固有な感覚までは言及されないということが一般的です。

つまり、個別なヒトの感覚の世界よりも、「人権」という抽象的(観念的)世界が中心になった視点(立場)ということになるのかもしれません。

そもそも「人権」が普遍的概念とされるのも、このような曖昧で不確定な要素を含んでいるからということになるのではないでしょうか。

なぜなら、「人権」はどれ一つとっても一様なものは存在せず、現実的には所属している国や地域の事情によって多様な形で実現されるという限界があるからです。

しかしながら、たとえ個々の「人権」が多様なものであっても、そこに共通する形式や法則が見出せば、同じ概念(言語)として分類されることについては、言語学の例で見てきたとおりです。

つまり、「人権」は個々具体的な事象でありながら、同時に普遍的で抽象的な概念でもあるということになりそうです。

ところで、ヒト(個人)の持つ感覚は、人間という一定の枠内(限界)に規定されることになりますが、その中においては多様な感覚として出現することになります。

たとえば、男女の感覚の差異と自己決定(自認)の関係を見てみることにします。

私たちがジェンダー(アイデンティティ)を自己決定する際、その選択に迷うということはあるのでしょうか。

おそらく、ヒト(個人)が自然に感じているジェンダー(アイデンティティ)の感覚とそれを補完する社会的文脈から受け取る感覚が一致していれば、ジェンダー(アイデンティティ)の選択に迷うことはまずないと思われます。

つまり、ヒト(個人)は、自分の感覚と社会から受け取る感覚が親和的な関係なものとして感じているようであれば、安定してジェンダー(アイデンティティ)を自己決定することができるということになります。

このことからすると、ジェンダー(アイデンティティ)に起こっている障害とは、個人の感覚である自己認識と社会的文脈からもたらされる受動的感覚の差異(不一致)が原因となって生じている問題になるのではないでしょうか。

まず、第一義的には、ジェンダーやアイデンティティが個人の自己認識の問題であるということはいうまでもありません。

そして、その自己認識を支えることになるのが、個人を取り巻く社会的文脈ということになります。

従って、個人の自己認識の感覚が曖昧なままである(自己決定が出来ない)としたら、個人の自己認識を支えている社会的文脈(社会における立ち位置)も曖昧なままとなってしまうのは必定です。

もし、自分にとって自明であるはずの社会制度が曖昧に見えているとしたら、それは自己決定が出来ていない、つまり自己決定を回避したいという欲求の表れになっているのではないでしょうか。

つまり、社会制度から自己決定の対象であるジェンダー(アイデンティティ)をなくすということが、そもそも自己決定という自己責任からの回避という欲求の表れのではないでしょうか。

確かに、ジェンダー(アイデンティティ)がなければ、自己決定という強迫に悩むということもないのかもしれません。

しかしながら、このことが、ほんとうにジェンダーやアイデンティティが抱えている問題を解決することになるのでしょうか。

生物学的な男女の区分とは、自然がそうであるように、決定する染色体や遺伝子がおおむね双極的に偏在するなだらかな二つの曲線を描くようになっているということでした。

そして、ジェンダー(アイデンティティ)について生じている障害とは、おそらく生物学的な双極でなだらかに偏在する二つの曲線のどの位置に自分がいるか、ということが悩みの中核になっているのではないということです。

むしろ、先にも指摘したとおり、個人の自然な自己認識の感覚と社会的文脈から受け取ることになる感覚との差異(不一致)が、個人の悩みの中核ではないかということです。

個人の感覚の自己認識は、人間という一定の限界はあるにしても、実に多様性な形で出現することになります。

たとえば、最近のオタク文化などを見ていると、個人の感覚の多様性はさらに顕著なものになっているといえるのかもしれません。

個人の感覚の多様化は、現代社会の成熟度(多様性)と相関しながら、進展しているかのように思われます。

つまり、社会の価値が多様化すれば、価値そのものの絶対性は小さくなるのは必然であり、その結果価値の相対化が進んでいくことになります。

たとえば、今の自分が社会の多数派(メジァー)や強者の側にあるものと仮定するとします。

しかしながら、社会の価値が相対化していくと、自分の立ち位置(価値)も次第にズレていくことになり、価値の絶対性が担保されないということが明白になるのではないでしょうか。

つまり、いつどこで自分が社会の少数派(マジョリティ)や弱者の側に回ることになるのか分からないという危険と隣り合わせにあるということになります。

おそらく、このようなポストモダン状況においては、勝ち負けという二項対立の相対的優位だけを目指していてもその到達点はあくまで暫定的なものでしかないということです。

従って、立場可換性からすると、たとえ自分が少数派や弱者の側に回ることになったとしても、自分の価値が社会の中でそのまま尊重される仕組み作りが目指されることになるのではないでしょうか。

少し話が逸れてしまいした。

個人を取り巻く社会的環境が多様化し複雑化すると、個人の立ち位置が相対化し曖昧になり、その結果自己決定がうまく出来ないという事態が発生するということでした。

つまり、ジェンダー(アイデンティティ)から生じている障害とは、このような自己決定がうまく出来ないことが原因となった問題ということができるのではないでしょうか。

では、どうして自己決定がうまく出来ない事態が発生することになってしまうのでしょうか。

一般論としては、個人の自我が未成熟な状態にあるということ、また自我がコンプレックス状態におかれていることなどが自我の制御不能状態を発生させている原因と考えられると思われます。

つまり、個人の自己決定がうまく出来ないことと、個人の自我がコントロールできない状態には、ある程度有意な関係性が見られるのではないかということです。

おそらく、自我が自己制御できる状態に置かれているのであれば、ジェンダーやアイデンティティについても迷うことなく自己決定(自認)できることになるのではないでしょうか。

つまり、自己決定(自認)ができているということは、自分の立場や役割が分かっているということになると思われます。

自分の立場や役割が分かっているのであれば、あとは自分を取り巻いている社会的文脈との間に生じる差異(不一致)をいかに埋め合わせて、整合を図るかという具体的問題となります。

そして、社会的文脈から判断されるジェンダーやアイデンティティは、その外形(行為行動)から臆断されるということが一般的であるといえそうです。

反対からいえば、社会的文脈から臆断されることになった外形(行為行動)こそが、自分のジェンダーやアイデンティティを表現しているということになるといえそうです。

これらを整理すると、ジェンダーやアイデンティティは、第一義的には自らの感覚の問題(自認)ということになります。

しかしながら、社会的な立ち位置(価値)の問題では、自らの感覚に相応しい社会的文脈をいかに自己決定しているかということが、より重要な問題になってくるということです。

先ほども指摘したように、社会制度から男女の区分(ジェンダー)をなくすという試みが一部の領域は行われているように思われます。

もちろん、社会的文脈から判断し、不必要と思われる男女の区分(ジェンダー)までを、あえて使用する必要がないことはいうまでもありません。

しかしながら、繰り返しになりますが、自己決定の対象からあらゆるジェンダー(アイデンティティ)をなくしてしまうということは、ジェンダー(アイデンティティ)に生じている障害を根本的に解決することにはつながらず、むしろ自己決定という自己責任の回避をするだけに終わってしまうのではないかということです。

私たちが自己決定をする場合には、既存の社会にあるジェンダーやアイデンティティという概念(言語)からしか選択をすることができない限界で生きていることについては、先に指摘したとおりです。

従って、もし既存の社会にある概念(言語)から自己決定をしない(ジェンダーやアイデンティティを相対化してしまう)のであれば、それは自分が所属している社会の枠組みの限界を外れていく(越えていく)ことを意味するのではないでしょうか。

おそらく、既存の社会の核組みから外れるということは、個人のアイデンティティを強化するのとは真逆に、社会の中の自分というアイデンティティを、ますます曖昧なものにさせていくだけではないでしょうか。

ほんとうに解決すべき問題は、見たくない対象を見えないように隠蔽するのではなく、むしろ自己決定ができない自分自身のコンプレックス状態を自覚することにあると思うのですが、さていかがでしょうか。
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5 社会制度としての男女の区分

本論考ではジェンダー(男女の区分)を社会制度として扱ってきましたが、本当に男女の区分は社会制度として機能しているのでしょうか。

まず、多くの宗教行事などでは、その儀式における振る舞いや衣装などに差異を設けることで、ジェンダー(男女の区分)を宗教上の制度の中に位置づけているということができそうです。

おそらく、伝統的といわれる社会や共同体では、ジェンダー(男女の区分)を正面から否定する事例は見当たらず、たとえあったとしてもそれは極めてレアなケースということになるのかもしれません。

また、社会制度としてのジェンダーは、本人の自己認識は踏まえつつも、最終的には本人以外の他者、つまり社会によって受け入れられた男女の区分ということになりそうです。

つまり、社会制度としてのジェンダーは、本人以外の他者、つまり社会によって認知された社会文化的な意味を持った行動様式(外観)から判断されるということになります。

このため、本人が自認するジェンダーの感覚(内面)と社会文化的なジェンダーである行動様式(外観)が一致しない場合には、自己と他者の感覚の間に摩擦が生じ、本人にとってはとても生きにくい状態が出現するということになります。

たとえば、本人が自分のジェンダーが女性と自認していたとしても、その外観がその社会の男性の行動様式とされていれば、おそらく自他に摩擦が生じるということになります。

従って、このようなケースには、本人の自然な感覚である内面に、社会文化的な行動様式である外観を一致させるということが、その生きにくさを解消させることになるのかもしれません。

ところで、社会制度としてのジェンダー(男女の区分)は、もちろん私たちが生まれる以前から存在していた社会文化的な制度ということになります。

そして、私たち以前から存在しているジェンダーには、それぞれ男女の伝統的な行動様式(外観)が対応するということになっています。

従って、個人がその社会で自然に感じている行動様式(外観)も伝統を踏まえたものということになり、伝統的な行動様式(外観)を採用することが、ジェンダー(概念)を生成することになっているということです。

これは、言語学の例でも示したとおり、イヌという文字やオト(つまり外観)が、イヌという動物の意味(概念)を指し示している関係性と同型にあるといえそうです。

つまり、言語が記号と意味の部分から構成されていたように、ジェンダーもその行動様式の部分(外観)とその行動様式が指し示す意味の部分(概念)から構成されているということになります。

そして、言語では、記号の部分(文字やオト)と意味の部分(概念)には論理的な関係性は見られないということでした。

つまり、記号がイヌではなくDOGであったとしても、人なつこい小動物(犬)の概念を指し示すことには変わらないといえるからです。

従って、人なつこい小動物を、なぜイヌと呼ぶかについての論理的な根拠はなく、おそらくある社会でこの人なつこい小動物をイヌと呼んでいるからとしかいいようがないということになります。

そして、さらにこれを聞いたヒトがまたイヌと呼ぶことになり、さらに、別のヒトも・・・というような、言語ゲームということになります。

ジェンダーについても同じことがいえそうです。

つまり、ある社会で男性のジェンダーとされている行動様式(外観)を採用しているヒトが、男性と呼ばれているということになり、さらにこれを見たヒトが同じ行動様式を採用すればやはり男性と呼ばれるようになり、さらに、別のヒトも・・・という、これもまた言語ゲームということになるのではないでしょうか。

従って、ジェンダーが生成されるという理由は、ジェンダーに分類されている行動様式を採用しているからという以上には根拠は見当たらず、まさに「自己循環論法」がジェンダー(あるいは言語)を支えているということになるのではないでしょうか。

しかしながら、ジェンダーという社会制度を前提としても、男女を構成している個人の感覚が多種多様ということはいうまでもありません。

従って、個人の自然な感覚が、社会文化的なジェンダー(男女の区分)の中に、そのまま過不足なく、きちんと納まるということないということになるのかもしれません。

たとえば、ジェンダーという二項対立ではなく、アイデンティティのような「自分は誰か」というやや抽象的な問いを立ててみるのはいかがでしょうか。

おそらく、「自分は誰か」という問いに対し、自分の抱く自然な感覚が、過不足なくきちんと納まりきる言語(概念)を使いこなせるような人は、まずいないと思われます。

つまり、自分が使用している言語(概念)は、いつも自分の感覚より過剰であるか、過少であるかのどちらかに偏ってしまっているのが現状といえそうです。

要するに、言語(概念)は社会的構築物(社会制度)の代表といえますが、自分の感覚を表現する手段としては十分なものとはいえず、あくまで暫定的な足がかりを示すものでしかないということになります。

また、社会制度は所与のものでもあり、同時に時間と共に改変されていくものでもあります。

現代社会で見られるような二大政党制民主主義では、少数派(マイノリティ)と多数派(マジョリティ)という関係性が必ず出現することになります。

そして、政治的には、相対的多数(マジョリティ)の側にある社会制度が実現されることになりますが、これは必ずしも正統性(オーソリティ)の根拠ということにはならず、あくまでも多数決の論理からの帰結でしかないということです。

従って、ひとたび相対的少数(マイノリティ)の側に回ることになれば、ひとたび実現された社会制度といえども、再び改変されていくということになってしまいます。

このことから、社会制度には自明性がなく、相対的でしかないと言及されることもあるようです。

もちろん、社会制度が将来に亘って自明であり続けることなどはありえず、今ある社会制度も暫定的でしかないことからすると、相対的という言い方にも一理があるといえるのかもしれません。

しかしながら、今ある社会制度の相対性を批判しているだけでは、個人の暫定的な足場となっている社会制度の土台を崩壊させてしむことにもなりかねません。

また、個人の固有の感覚や文化といえども、これを支えているのは個人が所属している社会制度を土台としたものであることはいうまでもありません。

従って、社会制度を相対化してしまうということは、自分の足場を社会制度の枠外に押し出してしまうということになり、そもそも自分の足場の曖昧さが悩みの中核になっていたにもかかわらず、このことを思索できる自分の足場さえ失ってしまうということになってしまいます。

社会制度は相対化する方向ではなく、むしろ今ある社会制度の中でいかに自分の感覚や文化を自己実現させているかを考えることが、より現実的な問題解決になるといえるのかもしれません。

しかしながら、それでも今ある社会制度を相対化するということなら、それに変わるべき具体的な対案を提示することが、社会を混乱させない最低限のルール(責任)であると考えるのですが、さていかがでしょうか。

繰り返しになりますが、個人の感覚や文化は多種多様なものということができます。

従って、今ある既存の多数派だけが優遇される社会の実現が望まれるのではなく、少数派が少数派のままでも承認される社会制度が構築された「共生社会」が求められるのではないでしょうか。
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6 一般意思と一般感覚について

ルソーの「社会契約論」には、一般意思という言葉があります。

一般意思とは、個別意思の総和(全体意思)ではなく、各人が自分個人の利害関係を越えて全体にとってはこうするのが正しいと判断するための普遍的基準とされています。

つまり、一般意思は普遍的概念ということになるのですが、法の制定には、このような一般意思が反映されているといわれています。

但し、法=一般意思ということならば、法の制定が全体にとって正しいと判断できる普遍的基準を常に実現していなければならないということになります。

しかしながら、民主主義のシステムでは、多数決の論理から相対的多数の意思が法の制定に反映されることとなるように、法の制定に必ずしも一般意思(普遍的基準)が反映しているかどうかは疑わしいということになってしまいます。

従って、ルソーのいう一般意思は実在するものではなく、法の制定を支えるための虚構(フィクション)としてみる方が適当であるのかもしれません。

ところで、ジェンダーの相対化を推し進めるあまりに、特定の個人の感覚(唯一無二)だけを強調するということが見られることがあります。

つまり、個人の感覚(唯一無二)を強調するがゆえに、特定の個人以外の大多数(マジョリティ)の多種多様な感覚や考え方が、いわゆる人権という概念の中に集約され、一般感覚として抽象化されるということになってしまうことがあるようです。

そして、さらに特定個人の感覚(特殊性)と人権の普遍的感覚(一般性)との関係が、等価なものであるという公平性の感覚がら言及がなされることがあります。

むろん、人権は、多種多様な感覚が集約された普遍的概念であることはいうまでもありません。

また、個人レベルの問題であれば、それぞれの個人の持つ感覚や考え方が、等価な関係にあることはいうまでもないことです。

つまり、人権という概念を考えるうえでは、ヒトの持つ個別な感覚を等価なものとして看做す視点と、個人の利害関係を越えた全体としてあるべき普遍的基準(一般感覚)としてみる視点の二つが必要になってくるのではないでしょうか。

社会契約論では、ルソーのいう一般意思は普遍的基準であって、個別意思の総和(全体意思)ではないということでした。

人権の感覚(一般感覚)についても、やはり普遍的基準ではあっても、実際の個人の多種多様な感覚を合計した平均値にはならないということです。

つまり、ルソーの一般意思や人権の一般感覚は、計測可能な計数値ではなく、いわゆる概念(言語)ということになるということです。

従って、人権の一般感覚が概念(言語)であるならば、そこには共通する法則や形式が見られるということにもなり、カテゴリー化(分類化)できることにもなります。

そして、この時に使用される分類の基準が、先ほどから指摘している普遍的基準になるのではないかということです。

しかしながら、人権における普遍的基準とは、いったい何なのでしょうか。

普遍的基準には、何らかの共通する法則や形式があるといえるのでしょうか。

自由とは、そもそも個人の自由のことであり、身体的、精神的自由ということになります。

また、人権についても、あくまで個人の人権が尊重されることが基本となるはずです。

おそらく、これらの個人の自由や人権という固有な感覚が、ヒトの持つ感覚の普遍性という一定の範囲内に含まれるということになるのではないでしょうか。

つまり、個人の自由や人権という感覚が極端なものにならない限り、一般感覚という概念の中にカテゴリー化されることになるということです。

養老孟司氏の表現を借りるとすれば、普遍性(普遍的基準)とは、「ヒトに備わった感覚から両端の極端を除いた真ん中あたり」ということになるのでしょうか。

人権における一般感覚とは、元来ヒトに備わっている感覚の一定の幅内ということになるのかもしれません。

従って、一般感覚とは実在として見るのではなく、ヒトの感覚を支えている普遍的基準の仮説(モデル)、つまり虚構(フィクション)としてみるのが適当といえるのではないでしょうか。

現実の民主主義制度では、一般意思という普遍的基準の仮説(モデル)を想定しないまでも、個人の自由や平等の具体的基準については、法の制定という民主主義の手続きにより実現されるということになっています。

もし、法の制定による普遍的基準や具体的基準がいまだない状態にあったとしても、お互いの個人レベルの感覚や考え方が等価な関係にあると尊重することは十分に可能であると思われます。

しかしながら、特定の個人の感覚(特殊性)とヒトに備わった一般感覚(普遍性)、つまり「具体」と「抽象(モデル)」が等価な関係にあると看做すという公平性の感覚には、論理的な飛躍があると思われるのですが、さていかがでしょうか。
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7 アイデンティティの曖昧さと「立場可換性」

話は変わりますが、人権を考えるためのアプローチのひとつとして、「立場可換性」という方法があります。

「立場可換性」は、あくまでもひとつの思考実験装置ということになりますが、自分が耐えることができないことは、他者に対して強いることはしないという端的な態度のことを指します。

「立場可換性」から公平性を考えた場合、自分の人権を守るためには、まずヒトの人権を守ることが求められ、自分が倫理的に扱われるためには、ヒトに対して倫理的に振舞うことが要求されるということになります。

ところで、ヒトが持つ多種多様な感覚は、言語の機能で人権という概念に集約化されて、同一化されるということになるということでした。

このような集約化や同一化の機能は、最初の節でも示したように脳の特徴である「同じ」を求める働きに負うところがあります。

そして、人権という言語によって集約化、同一化されるということは、人それぞれが持つ感覚の多様性が隠蔽されてしまうという側面も持っていることになります。

従って、ヒトの感覚の多種性が確保されるためには、誰もが常に自分の感覚に立ち返り、自分の感覚を確認するという作業が必要になってくるのではないでしょうか。

つまり、「立場可換性」という方法では、自分の感覚に立ち返り、自分の感覚を確認することが大切にされるということになります。

そして、この「立場可換性」では、自分が耐えられないことは他者に強いることはしないという、自分の感覚の底辺あたりを知る手がかりを得ることができます。

このため、「立場可換性」は、個人の固有な感覚を尊重する場合(具体)でも、またヒトが元来保持している普遍的感覚に想像をめぐらす場合(抽象)でも、自分の感覚を知るための重要な役割を果たすということになります。

ところで、先に見てきたようにジェンダーが曖昧なままにある事象は、個々具体的に分析してみると、おそらくアイデンティティが自己決定できないという個人の感覚に行き着くことになるのではないでしょうか。

むろん、ジェンダーやアイデンティティが自己決定できないという感覚も、ヒトが抱くことになる多種多様な感覚のひとつであることはいうまでもありません。

しかしながら、自分が所属する社会や共同体における行動様式(外観)は、その社会や共同体を構成しているジェンダー(男女の区分)と深く結びつく形で理解されていることが一般的といえます。

これは、「ジェンダーなしにはヒトや社会を語ることができない」といわれる所以でもあります。

従って、ジェンダーやアイデンティティが自己決定できないということは、社会における自分の立場や役割、つまりその社会の行動様式(外観)が極めて不確定なものになっているということになります。

つまり、自分自身の輪郭(外観)が曖昧になれば、社会や他者のみならず、自分自身の感覚からも疎外されてしまうということになってしまいます。

このような自分自身の足場のなさは、孤独感を深めるだけではなく、自在感さえも失わせてしまうことになるのではないでしょうか。

従って、まずは自らの社会的な立場や役割、つまりその行動様式(外観)を明確にすることが、社会における自らの立ち位置や社会的文脈を確実なものにすることになるのではないでしょうか。

では、どうして、ジェンダーやアイデンティティが自己決定できないという感覚が生じてしまうことになるのでしょうか。

おそらく、自己決定は、それをするヒトの自我のあり方(自己コントロール)と有意な関係にあると考えられます。

つまり、個人の自律度や成熟度、そしてこれを支えている社会環境が自我を育成することになり、これが自らのジェンダーやアイデンティティを支えるという関係になっているのではないでしょうか。

反対から見れば、自分を取り巻く社会的文脈が「自分が何者か」を明確にしてくれていれば、自我は安定し、ジェンダーやアイデンティティも自然な形で自己決定できるということになります。

従って、自己決定ができないということは、おそらく自分の自然な感覚を支えている自我が不安定な状態(脆弱)にあるためということになりそうです。

このため、自我を核とした社会環境、つまり自らの世界観がいまだ構成されておらず、従って自分の正体も分からないという状態に置かれてしまっているということです。

当然、自分の正体が分からなければ、自分自身を支えることもできず、さらに自分を取り巻く環境からのサポートを得ることもできないということになってしまいます。

そして、なにより「自分が何者か」が分からなければ、自分の自然な感覚に気づくということもなく、自覚的に振る舞うこともできないということになってしまいます。

このため、自分の感覚に立ち返り、自分の感覚を確認することはできず、「立場可換性」の目的である自ら感覚の底辺あたりを知ることもできないということになってしまうのではないでしょうか。

もし、自分の感覚が安定しない状態(未分化な母子密着の原初的状態)にあるというのなら、まずは自己コントロールができる自我の安定、つまり自己意識を育むことが先決になりそうです。

少し言い方を変えれば、「自分が何者か」を安定して言い当てるということが、自己意識を保持するということではないでしょうか。

現代の日本社会で問題になっている、いじめや虐待の事象も、おそらく「立場可換性」という思考実験装置が十全に機能しないことが原因となっているのかもしれません。

つまり、自分の感覚の底辺あたりが確認できないまま、放埓ともいえる自由の名の下に、拝金主義の自己利益追求だけがまかり通る社会背景になってしまっているのではないでしょうか。

また、「自分はいいが、ヒトはだめ」というドラえもんのジャイアンのような未成熟な感覚は、幼児的万能感や根拠のない楽観主義の幻想を抱かせることになってしまいます。

但し、右肩下がりの経済社会規模が縮小する悪天の時代にあっては、幼児的万能感や根拠のない楽観主義は誰からも共感が得られない妄想として扱われてしまうことになってしまうかもしれません。

なぜなら、経済社会規模が縮小する悪天候の社会では、ヒトの志向は内向きにならざるを得ず、いかに今あるネットワーク(世間)からいかに排除されないかが、生き延びるための行動原理になってしまうからです。

ただ、内向き志向とはいっても、単に癒合や横並び意識を奨励することではありません。

むしろ、癒合や横並び意識によっていったん失われた外部の世界(外部権力)を、再び今あるネットワーク(世間)の中に呼び戻し、今の自分の足場を崩さないためのバランス感覚を取り戻すことでもあります。

いかに排除されないかは、いかにヒトを排除しないかということでもあるということです。

自分が倫理的に扱われたいのであれば、ヒトに対して倫理的に振舞うことが要求されるということになります。

従って、内向き志向のネガティブな時代にあっては、「自分が何をされたくないのか」を知っていることが、今を生き延びるために必要な最低限の覚悟であるのかもしれません。

繰り返しになりますが、福島の原発事故で考えたことは、もはや日本人に求められているものは、晴天型の楽天的思考ではなく、悪天候型の思慮深い慎重な思考ではないかということです。

そして、このような思慮深さや慎みの感覚は元来日本人に内在していたはずの思考の方法であって、今一度このような感覚を呼び戻すという時期が到来しているのかもしれません。

かような方向へ思考を切り替えることが、今の日本人に求められている喫緊の課題と考えるのですが、誰もこのことに気づいていないか、気づいていたとしても知らないふりをしているのか(おそらく後者ですね。)、さてどうなっていくのでしょうか。
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8 コミュニケーションの限界と価値相対化

多種多様なヒトの感覚が尊重され、ジェンダーとして自認した社会的文化的な男女の区分が尊重される社会。

そして、自らが自認したジェンダー(社会的文化的な男女の区分)が平等で等価なものとして扱われる社会。

たとえ、今の社会文化的な制度や規範の枠組みという限界があったとしても、個人の能力が最大限に発揮されることになり、正当な評価がなされる社会。

かような社会が求められるということはいうまでもありません。

そして、このことは、これまでの節でも幾度となく繰り返してきたところでもあります。

また、以下の言語(概念)の同一性の機能についても、また繰り返してきたところでもあります。

そして、言語の持つ同一性の機能について十分に踏まえつつも、その言語を構成している意味の多様性、つまりそこに差異が存在していることには、常に自覚的であらねばならないということでした。

これは、コミュニケ-ションが言語の同一性を前提としながらも、現実には多種多様な意味を含んだ多義的な言語を交換しなければならないという背理にあるからということになります。

このため、コミュニケーションが成立しているためには、言語の多義性、つまり実際にある意味の差異を差異として感じない感覚の曖昧さ(グレーゾーン)も必要になってくるということです。

少し違う角度から見れば、ヒトの持つ多種多様な感覚つまり自然というものは、そもそも言語によっては十分に表現できない対象という限界を持っていることになるのではないでしょうか。

では、言語だけでコミュニケーションができないとしたら、どうすればいいのでしょうか。

おそらく、言語で表現できないことは、一般に表情やしぐさなどの言語外言語で表現をせざるを得ないということになるのではないでしょうか。

つまり、コミュニケーションは、言語とそれを補完する表情やしぐさなどという言語外言語によって成り立っているということになりそうです。

そして、コミュニケーションとは、かような言語の持つ限界を理解したうえでも、やはり言語という社会的構築物を使用するしかない代替不可能な限界に置かれているということになります。

そもそも、コミュニケ-ションとは、お互いの感覚に差異があるということ(水位差)を原因として起動することになるということができそうです。

そして、その差異(水位差)を埋め合わせるということが、コミュニケーションの目的になるのではないでしょうか。

先にも触れたとおり、ジェンダー(男女の区分)が言語という分節により構成される概念でしかないことを理由に、ジェンダーそのものを相対化してしまうという試みが行なわれているということでした。

むろん、ジェンダーをラディカル(根源的)に掘り下げることにより、社会的制度の実在の虚構性や無意味性を暴露するという効果はあるのかもしれません。

つまり、社会的制度のフレーム(枠組み)に揺れを起こすくらいはできるのかもしれません。

但し、相対化により揺らされたフレーム(枠組み)が着地点の見えないまま混乱を招いているだけであれば、元来ジェンダーにおいて着目すべき個人の多種多様な感覚を隠蔽するということにもなってしまいます。

つまり、個人の多種多様な感覚に目を向けなくても良いという、本末転倒の事態が発生してしまうということになってしまいます。

もし、感覚の差異に目を向けず制度そのものを相対化するということになれば、コミュニケーションを起動させる回路である水位差(差異の感覚)を閉ざしてしまうということになるのではないでしょうか。

従って、差異を前提とする言語の交換行為とジェンダーの相対化により言語の枠組みを崩してしまう行為は、もともとコミュニケ-ション・レベルが異なった行為ということになりそうです。

つまり、もともとかみ合っていないコミュニケ-ションを、それとは気づかないまま、決して見つからない着地点を一生懸命探すというコミュニケーションを繰り返していることになるのではないでしょうか。

まさに、着地点が見出せないままのコミュニケ-ション(交信)が行なわれているといえるのかもしれません。

水位差をいかに埋め合わすかということが、コミュニケ-ションにおける暫定的な目標値になるということでした。

このことからは、水が入っているコップの存在の空虚さや無意味さを嘆く一方で、コップの中の水位差を埋める議論ができないということは、コミュニケ-ションにおける論理的一致を目指すものではなく、むしろ感情レベルの癒合(癒し)を目指すことにはなっているのではないでしょうか。

はからずとも、感情レベルの癒合(癒し)を目指しているとしたら、それは仲の良い友達とのおしゃべり(無駄口)ということになります。

従って、もともとかみ合うはずのないコミュニケ-ションは、論理的にはいくら時間をかけても決して成立することはなく、つまり原理として話が通じないコミュニケ-ションは存在するということになります。

「話せばわかるなんて大うそ」ということになりますね。

かのようなコミュニケ-ションに出会ったとしたら、その本質の無益性をいち早く洞察し、決して近づかない、つまり距離をとっておくということが、せめてもの棲み分けの共存共生という方法と考えているのですが、さていかがでしょうか。
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9 ジェンダーという言語について

ジェンダー、あるいはジェンダーフリーという言語があります。

これらの言語が、社会の中で果たしてどの程度まで一義的に理解されているといえるのでしょうか。

学術言語は、詩的言語のように多義的であってはならず、厳密な一義性が求められるということになります。

また、学術用語だけではなく、法律用語などについても曖昧さは許されず、厳密な一義性が求められるということになります。

つまり、学術用語や法律用語などの専門領域では、言語の一義性が保障されているということが、コミュニケーションを維持するための前提になっているといえそうです。

そして、このような言語の一義性が保障されている領域が、学問や文化という同じ社会的文脈を共有している共同体の内部ということになるのではないでしょうか。

たとえば、学術用語においては、学会などの社団が言語の一義性を担保している共同体といえるのかもしれません。

また、法律用語では、その法律という制度が適用される地域社会が、言語の一義性を担保する共同体といえるのかもしれません。

つまり、共同体内部における言語の一義性が保障されていなければ、言語の意味を共有(共通理解)することができず、コミュニケーション(交換)に支障を来たすことになってしまうからです。

従って、言語の一義性とは、共同体内部のような限定された環境でのみ成立する特殊なケースといえるのかもしれません。

ところで、ジェンダーやジェンダーフリーという言語が専門用語ではなく、日常生活の中の一般用語として使用される機会も増えてきているように思われます。

では、このジェンダーやジェンダーフリーという言語が、一般社会の中でほんとうに一義的に理解されているといえるのでしょうか。

私たちの世界が、言語によって概念(同一性)に分節することについては、これまでにも記述してきたとおりです。

そして、このような言語(概念)の同一性の機能が、言語学や記号論などの専門性の高い学問の基礎知識を前提としていることについては記述してきたとおりです。

さらに、このような言語を基礎付ける言語学や記号論は、構造主義やポストモダンという現代思想のパラダイム(世界観)を背景にして成立しているということができます。

つまり、ジェンダーという言語は、実際に使用されているよりも、その背景には取り扱いに苦慮するような難解な学問の領域が潜んでいるということになります。

では、かように難解なジェンダーという言語を一般教養として習得し、なおかつその背景にある現代思想を社会の中で適用できるヒトが、果たしてどのくらい社会に存在しているといえるのでしょうか。

おそらく、学術的には一義的とされるジェンダーも、学会を離れた一般社会においてはその一義性が崩れ、多義的で曖昧な言語として使用されているのではないでしょうか。

つまり、一般社会の中では、ジェンダーという言語は意味の幅の少ない一義的な言語というよりも、意味の幅が大きい、誤解を招くおそれのある、曖昧な言語として使用されているといえるのではないでしょうか。

また、ジェンダーが国際社会で使用されている国際言語であるという理由から、世界中のどこにあっても同じ意味で使用されることになる普遍的言語として理解されているのかもしれません。

むろん、普遍的言語とは、国境や民族の枠を超えて使用されている普遍性の高い言語(概念)ということになります。

そして、他に普遍的言語とされているものには、平和や人権、正義などの言語(概念)が挙げられます。

ただ、普遍性を持つとされる言語であっても、実際には地域の文脈を帯びたローカル言語として使用されているというのが一般的といえるのではないでしょうか。

つまり、普遍的言語であっても、その地域や国家の持つ特殊性の影響は避けられず、すべてを捨象することはできないのではないかということです。

これにもかかわらず、ジェンダーの一般化を進めていくということであれば、ジェンダーの意味は具体性を欠くことになり、実体の伴わない曖昧で抽象的な言語になってしまうのかもしれません。

従って、現代社会でジェンダーが普遍的言語として理解されているとしたら、もはやコミュニケーションのためのツール(道具)としてではなく、ジェンダーという価値の共同性の象徴(シンボル)として利用されているということになっているのではないでしょうか。

最後になりました。

最初にも記述したように、脳の持つ「同じ」を求める機能が、ヒトによる言語(概念)の使用を可能にさせているということでした。

これは、ヒトの言語の持つ同一性の機能が、多種多様なヒトの感覚や理解をカテゴリー化(分節化)し、概念化するということになります、

そして、カテゴリー化(分節化)された概念は、それぞれ差異(違い)を伴うことになりますが、この差異を交換するということがコミュニケーションということになります。

もっとも、情報化社会においては、言語の素朴(ナイーブ)な同一性(概念化)だけに充足しているということも可能といえますが、それだけでいれは、元来存在しているはずのヒトの感覚や理解の多様性を見落としたまま、差異(ノイズ)を視界の外に追いやってしまうことになってしまいます。

ヒトは、自分の感覚や理解のみならず、他者の感覚や理解に対しても常に自覚的であることが求められています。

ヒトは、皆違った存在であるという当たり前の事実に、いつでも立ち返ることができる客観性と柔軟性が必要といえるのではないでしょうか。

ヒトは、皆「同じ」ではありません。

ヒトが「同じ」とされるのは、あくまで情報化したヒト、つまり言語や概念の中のヒトだけということになります。

また、ヒトは違った存在としてあるとしても、この事実に気づくためには、ヒトの脳の機能である言語を媒介とし、その同一性(言語)をいったん迂回しなければ、感覚の持つ差異に辿り着くことができないという限界があるようです。

つまり、言語という同一性(情報)を経由することによらなければ、自他の感覚の差異(身体)に気づくことはできず、自分を知ることも、他者を知ることもできないということになってしまいます。

言語は、同一性がその特徴とされており、て情報(脳)は変化しないことが基本となります。

一方、感覚は多様な差異が特徴とされており、自然(身体)は変化することが基本となります。

そして、ヒトの脳と身体が相補的な関係から成り立っているように、人間関係でも脳と身体の関係性、つまり言語とヒトの感覚は相補的な関係になり、いかにこのバランスを適正なものに維持するかが重要なポイントになってくるといえそうです。

先の見えない手探り状態の現代社会を生き延びるためには、言語(情報)と感覚(身体)のいずれか一方だけに偏ることのない、どちらかといえば感覚(身体)を基軸とし、身体が情報がコントロールできるようなバランスが望まれるところではないでしょうか。

あらためて申し上げますが、ヒトは皆「同じ」ではないということです。

ヒトの同一性の物語(情報)を信じて生きるよりも、ヒトは皆「バラバラ」であるというリアルな現実(自然)を受け止めて生きる方が、きっと一望俯瞰できる客観的な視点が確保でき、節度のある生き方が可能となると考えるのですが、さていかがでしょうか。
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10 おわりに~「一億総活躍社会」とは何であるのか

「ジェンダーについて」をご一読いただきましてありがとうございました。

この論考は、今から約10年前に記述したものを、5年前に大幅に加筆修正し、今般(全編)として再掲させていただきました。

加筆修正の内容は、気づいたことを中心に書き加えたものあり、論旨そのものは当時(10年前)とほとんど変わっておりません。

ここ数年で、社会におけるジェンダーにまつわる言説は大きく変わってしまいました。

ジェンダーやジェンダーフリーという言語が使用される機会が少なくなったように思われます。

では、男女の区分を超えてきた(ジェンダーフリー)個人とは、いったいどのような存在なのでしょうか。

おそらく、男女の区分を超えてきた(ジェンダーフリー)個人とは、多種多様な個別の実在ではなく、抽象化された労働力として重要視される経済的存在ではないでしょうか。

そして、言うまでもなく、その延長上には「一億総活躍社会」があるということになります。

振り返れば構造改革以降、日本を巡る社会経済情勢は、大きく様変わりしてしまったように思われます。

ひょっとすると、日本の社会は、これまでに積み上げてきたのもの全てを失ってしまう危機に瀕しているのかもしれません。

まさに未曾有の混迷の時代に突入したといえそうです。

日本という国が、現在どこにあり、これからどこに向っていくのか。

今はじっくりと立ち止まり、日本の社会や経済の構造を観察しながら、しっかりと日本の未来を考える時なのかもしれません。

ところで、本論考のテーマである日本におけるジェンダーは、2001年の男女共同参画社会基本法の施行により実現された、という見方が採られることがあります。

そして、このことの意味するところは、日本におけるジェンダーは経済問題を中心として理解されてきたということになります。

つまり、日本では女性の経済的な自立が、女性の社会的な地位の向上につながり、女性の経済問題(経済的自立)こそがジェンダーの本質と強く信じられていたということになります。

このような見方は、伝統的な日本の近代主義である、経済成長戦略と重なるところが大いにあるといえるのかもしれません。

つまり、高度経済成長期の日本人の多くが、貧しさという経済問題が解決さえできれば、将来の夢や希望が適うものと信じていたことと似た構図にあるといえそうです。

また、1980年代半ば以降の男女雇用機会均等世代の出現と狂乱バブル経済の時期がたまたま重なったことが、ジェンダー=経済問題という図式を多くの日本人に強く刷り込むことになったのかもしれません。

ヒトの自立や成熟は、自らの欲望をコントロールすることによってしか手に入れることが出来ない得がたい到達点にもかかわらず、経済的自由さえ獲得出来れば容易に社会的自立が達成できるものと信じられることになってしまったということです。

そもそも、資本主義とは、なんらかの差異からもたらされる成果(利潤)を、さらなる差異の創出手段である投資に充てることによる経済成長をミッションとする差異の循環システムということができます。

そして、現在における日本の社会経済構造やその仕組みのほとんどは、このような経済成長というミッションの達成のために構築されたものということができるのかもしれません。

たとえば、エネルギー資源などのインフラ整備は、第一義的には国民生活の秩序の確保が目的とされますが、この実現にはエネルギー資源を活用した経済成長の達成が至上命令とされることになります。

そして、1980年代のバブル経済が始まる前の日本経済は、既存のインフラなどの社会経済構造からもたらされる差異(格差)によって、比較的容易に経済成長が達成できた稀有な時代ということができそうです。

そして、1980年代末になると、日本は近代の産業資本主義の循環システムが終焉し、その後にはポスト産業資本主義社会が到来することになります。

ポスト産業資本主義社会とは、差異(格差)のないフラット化した社会で、実体経済から差異の創出が大変難しい社会経済構造にあることが特徴といえそうです。

そして、狂乱のバブル経済は、このような差異(格差)のないフラット化したポスト産業資本主義社会において発生した経済現象ということができます。

バブル経済は、フラット化した社会においては実体のあるモノではなく、ヒトの欲望(幻想)という実体の伴わない差異を利用することで、従来からの経済成長を達成しようとすることになります。

つまり、バブル経済の本質は、モノそのものではなく、モノに係る欲望(幻想)であったのなら、バブル経済はポスト産業資本主義社会だけ限った現象ではなく、ヒトの欲望が存在するところならどこにおいても、バブル経済は発生するということになります。

バブル経済の原理は差異の循環という通常の資本主義原理と同じですが、その差異が実体のある労働力や資源などのモノなどでなく、ヒトの欲望(幻想)という実体のない差異を対象としていることが特徴といえます。

このように欲望には際限がなく、過剰に差異を欲望することが人間の本性であるのなら、資本主義とは極めて人間の本性に近い原理で出来ているといえるのかもしれません。

少し話がそれてしまいました。

1980年代末に日本がポスト産業資本主義社会に入ったと言われて以降、新しいビジネスモデルの構築など、他の先進国と同様の成熟社会にふさわしい新たな差異の創出手段はあったのかもしれません。

しかしながら、日本がポスト産業資本主義社会の経済成長戦略として選んだものは、ヒトの欲望を対象とした金融経済という幻想性をその根拠とする麻薬のようなものであったということになります。

むろん、金融経済に対する欲望はその常習性と熱狂性という点ではギャンブルと似たところがあり、やがて経済的な破綻を迎えるまでの間に、一時的な経済の拡張を見ることがあります。

つまり、根拠のない欲望の連鎖が欲望の対象を幻燈のように拡大視させていただけであり、その欲望の連鎖が途切れることになれば、幻燈の経済も一気に消えてなくなってしまうことになります。

そして、バブル経済の崩壊が日本人に残したものは、おそらく資本主義の持つ幻想性と不確実性への深いトラウマであって、またヒトの抱く欲望への根深い不信感ではなかったのでしょうか。

ヒトの抱く欲望への不信感を内面化させた日本人は、一部の人たちを除けば、もはやフラット化した社会の中に新たな価値の創造という不確実性(偶有性)にアタッチメントする余裕はなく、目先の近代の遺産である既存の社会経済構造を温存をしたまま、その中に埋もれている差異(価値)を掘り起こすという確実性の方向に岐路を見出すしかなかったように思われます。

つまり、先祖がえりともいえるような、近代のパラダイムの徹底(一億総火の玉、一億総活躍社会)ということになります。

そして、このときに掘り起こすべき差異とされた対象が、埋もれたままで未活用な労働力、そして埋蔵されたままで未活用な資産であったということになります。

もはや水の出なくなった既存の井戸をさらに掘り下げることで水を確保するということは、近代のパラダイムの徹底という合理化ではなかったのでしょうか。

このように、バブル経済がもたらしたヒトの抱く欲望への不信感と近代のパラダイムへの根強い執着を日本人に残したまま、2001年に男女共同参画社会基本法が施行されることになりました。

これまでの文脈から判断すれば、2001年に施行された男女共同参画社会基本法が目指したものとは、おそらく埋もれている労働力を経済活動に参画させることであり、また新たに供給された労働力の差異から経済成長を達成しようとする戦略ということではなかったのでしょうか。

経済学的には、新たな生産者の増加が新たな消費者を生み出すという好循環は確かに存在し、またライフスタイルの多様化による消費単位の個人化が消費全体を拡大させることになるのかもしれません。

つまり、既存の近代の社会経済構造を温存したままであっても、そこに廉価な労働力が投入されることになれば、資本主義の原理である差異の循環システムが駆動し、その結果消費を中心とした経済成長が達成できるというシナリオは書けるのかもしれません。

また、2001年に男女共同参画社会基本法が施行された当時は、社会学的なジェンダー=経済問題という図式が未だ根強く残っていた時代であったのではないでしょうか。

つまり、既存の近代の社会経済構造の中でも、女性がその社会構造の中に組み込まれるというだけで、女性の経済問題が解決し、女性の経済的自立が適うと信じられていたということになります。

ただ、このような既存の社会経済構造を前提とする近代のパラダイムは、高度経済成長期のような日本経済が拡大する右肩上がりの時代であるのなら、誰もが差異の循環システムから潤沢な利潤(差異)を享受することができたのかもしれません。

しかしながら、バブル経済崩壊後の日本経済には、もはや差異を創出できるような社会経済構造は残されておらず、資本主義の原理である差異の循環システムも駆動できないまま、経済は右肩下がりの方向となっていくことになります。

従って、男女共同参画社会基本法の施行そのものは、日本の右肩上がりの経済成長を目指す国家戦略であったとしても、経済学的にはもはや国内における差異は飽和状態にあって、さらに経済のグローバル化により差異(成果)の在りかが、国内から国外へと移転してしまっていたということがあります。

国際的な日本経済の地位が後退するのは、1980年代末に東西冷戦構造が崩れた後のこととされています。

つまり、日本は、東西冷戦下にあっては、英米を中心とした反共産主義の経済のブロック陣営の中にあったものの、冷戦構造が崩れれば、もはや日本は英米ブロック陣営の一員である必要性はなくなってしまいます。

つまり、東西冷戦下では、英米ブロック陣営による経済的な庇護にあった日本が、冷戦の終了とともに、英米ブロック陣営から離れて、アジアの一国家として独り立ちを求められることになったわけです。

バブル経済の崩壊という時期と東西冷戦後の日本経済の国際的優位の後退の時期が、奇しくも重なってしまったことが、日本経済の低迷の原因を見えにくくさせてしまったのかもしれません。

つまり、グローバル化する世界経済は、東西冷戦構造崩壊以後、資本主義の論理(差異の循環システム)をさらに徹底させていくことになったわけです。

いわゆる、これがグローバリゼーションといわれるものです。

その結果、日本経済の国際的地位の優位性のみならず、労働生産性の比較優位についても国外の労働力市場に奪われてしまった日本の労働力市場は、必然的に賃金の引き下げが行なわれることになります。

これが、国内の労働力市場における賃金のデフレスパイラルの始まりです。

そして、賃金のデフレスパイラルは、当然消費の低迷を引き起こすことになり、日本経済全体がデフレスパイラルにつながっていくということになります。

2001年、日本経済がデフレスパイラルに陥っているにもかかわらず、男女共同参画社会の実現を目指した女性労働者という低廉な労働力の市場へ参入は、さらに国内の賃金水準を引き下げることになってしまったのかもしれません。

少し話は変わりますが、最近日本のガラパゴス化について言及されるということがあります。

日本のガラパゴス化とは、日本がグローバル化という世界標準とは一線を画し、日本の特殊性を前面に出してながら日本独自の路線を、しかも先駆的に試みていくということのようです。

これは、日本のガラパゴス化は、グローバリゼーションと一線を画し、日本が生き残るひとつの道とされています。

そして、日本のガラパゴス化と一緒に語られることが、江戸時代の社会構造が人口も変わらず、経済成長もしない定常社会であったということであり、このことが理想の社会像として引き合いに出されることになります。

江戸時代の定常社会は、ご存知のように鎖国という特殊な環境を前提にして成立した、極めて異例な社会経済システムであったということになります。

もし、ポスト産業資本主義社会にある成熟した今の日本社会が、文化的な領域のガラパゴス化を進めていくのであれば、日本の独自性を再認識できるチャンスであるといえるのかもしれません。

しかしながら、ガラパゴス化を経済問題で考えるのなら、おそらくポスト産業資本主義にある成熟社会は付加価値の高い差異の創出し続けない限りは、差異(成果)を享受できる立場(側)に立つことが出来ないのではないでしょうか。

つまり、グローバリゼーションの資本主義の原理では、潤沢な利益(差異)を享受できるのは、あくまでも差異の供給を受ける側であって、差異を供給する側ではないということになります。

従って、江戸時代のような定常社会は、経済的には外部からの差異を必要としない自己完結型の社会といえますが、外部との比較優位では、あきらかに差異を供給する(搾取される)側に回らざるを得ない状況にあったということになります。

このことは、幕末の日本(定常社会)が欧米諸国から植民地のターゲットとされたように、差異を前提としないような定常社会が、独立独歩でグローバル化した世界を生き延びることは大変難しいことといえそうです。

現在の日本社会は、経済成長が右肩下がりする人口減少社会であり、日本の経済は生産力のみならず、消費力も自然減する、先の定常社会よりもさらにやっかいな、経済規模の縮小社会という問題に直面しているといえます。

日本が経済規模の縮小という極めて困難な社会環境にありながら、女性の経済的な自立こそがジェンダーの本質であると今も強く信じているとしたら、それは日本社会の前代未聞の事態に、相変わらず近代の遺産であるパラダイムを引きずったまま、これまでの夢や希望を抱き続けるという勘違い(錯誤)ではないでしょうか。

おそらく日本の経済規模が縮小することの意味は、女性のみならず、すべての労働者がひとしく差異(成果)を享受できなくなってしまうということであり、少しだけの差異(成果)を享受しながら、割の合わないより多くの差異(成果)を供出しなければならない(まるで崩壊寸前の国民〇金のようですね。)ということを意味しているのではないでしょうか。

つまり、日本人が既存の社会経済構造を前提とした近代のパラダイムを維持している限り、どのように転んでも、経済規模が縮小するということの意味は、ネガティブなものでしかないということになります。

もし、これからの日本社会のために何かをしたい、また自分の将来のために何をしたいと考えているのなら、今あるパラダイム(社会経済システム)に組み込まれてしまうのではなく、むしろその枠(パラダイム)から少し離れた位置で、別なアプローチ方法を考えてみるということが必要になってくるのではないでしょうか。

今日本の社会で起こっているパラダイム・シフトには、自らで気づくしかないということになります。

今後とも、上記のような経済のグローバル化と日本を取り巻く社会経済状況の悪化は続いていくと思われます。

日本人として、小さくなっていく国を少し離れて静かに見つめながら、「いま自分たちはどこにいるのか」を考えてみることが、私たちにできる喫緊の問題といえるのではないでしょうか。

ご一読ありがとうございました。

(終わり)

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# by kokokara-message | 2016-02-10 17:30 | 我流社会学 | Trackback | Comments(0)


新年あけましておめでとうございます。2016年も昨年同様に、どうぞよろしくお願いいたします。



1980年代後半のバブル期にヒットした、徳永英明の「輝きながら...」という曲があります。

きらめく時間が 僕たちの 
何時だって 記念日だった
Happy birthday そして Merry Christmas
戯いでた あの日
徳永英明「輝きながら・・・」より


今思えば、バブルの頃は、なんとお気楽で、にぎやかな時代であったことかと、懐かしくも、苦々しく思い出すことがあります。

おそらく、当時はまだ、坂の上に浮かぶ雲が陽の光をあびて輝いているものと、ほんとうに信じることのできた最後の時代と言えるのかも知れません。

現在の日本という国は、経済的にはもうすでにピークを過ぎてしまった老年期の国であると思われます。

おそらく日本という国は、再びきらめくような輝きを取り戻すことはおそらくできないのではないでしょうか。

このようなリアルな事実にも関わらず、日本人は「輝きながら...」の歌詞にあるような、昔のままの未熟であることを望んでいるようにさえ思われる時があります。

体力的に壮年期を過ぎてしまった日本人は、輝きながら大人(成熟)へのドアを開けるというリアリティのなさは、もはや許されることではないのかもしれません。

残酷なようですが、日本という国には、もうきらめくような明日などないと分かったうえでも、自分の未来(成熟)に向かって一歩ずつ着実に踏み出すことができる人が望まれているといえそうです。

現在の日本と日本人を取り巻く社会経済構造が、どのようなものになっているのか。

そして、日本人は、このような社会経済構造の中にあって、いかにして自分の未来(成熟)へと向かうことになるのか。

たいへん難しい問題ではありますが、日本人がいま考えなければならない喫緊の問題ではないでしょうか。
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現代社会は、とても複雑化しています。

いろいろな価値観が錯綜しているため、自分の足場を守ろうとすることが、かえって自分の足場を崩してしまうことにもなりかねません。

このような理不尽ともいえるような時代環境は、おそらくこれからも続くことになるのではないでしょうか。

まさに、先が見えない時代が到来したということになりそうです。

そして、このような社会状況は、私(あなた)だけに襲い掛かっている悲劇ではないということです。

おそらく、世の中(世界中)の誰もが、このような先の見えない状況に投げ出されているといえるかもしれません。

経済状況だけが不透明であるということではありません。

人間関係そのものが希薄になっているように思われます。

ただ、経済の不透明感や人間関係の希薄さに、社会の閉塞感の原因を求めるということは、あまりにも短絡的すぎるように思われます。

むしろ、経済の不透明感や人間関係の希薄さに至らざるを得ない価値の対立や錯綜があるがために、自信を持って経済関係や人間関係を構築することができなくなってしまっているのではないでしょうか。

社会事象として、経済関係が不透明であるということ、人間関係が希薄であるということは、すでに私たちの与件になっているといえそうです。

従って、私たちがこのような現代社会を生き延びるためには、これらの与件をまずは受け入れるということが必要になるのかもしれません。

つまり、経済の不透明感や人間関係の希薄さを嘆いたり、必要以上におびえたりするのではなく、これらの社会事象に自覚的である姿勢が求められるということです。

社会事象のあらゆるものは、白黒はっきりと区別できるようなものではありません。

どちらかと言えば、不透明で曖昧なグレーゾーンにあることが一般的なものの見方ということになります。

このため、たとえ戦略的ではあっても、決まった答えはなく、決まった見方はないという世界観(諦観)を持つことが、社会事象を客観視することができるメタレベルからの視点を与えてくれることになるのではないでしょうか。
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経済関係が不透明であるということは、もはや私たちを取り巻く与件になっているということでした。

では、経済関係の何が不透明であって、それはどういう理由からいえることなのでしょうか。

経済活動そのものは実体を伴うことになりますが、岩井克人氏の「貨幣論」によれば、実体経済の交換手段の貨幣は幻想でしかありません。

貨幣の価値とは、他者が、さらにその先の他者が、貨幣を受け取ってくれるという信憑性からもたらされた価値でしかないということです。

少し言い方を替えるなら、貨幣が貨幣として流通しているがゆえに、貨幣としての価値があるということです。

要するに、貨幣が幻想というのは、貨幣の価値には論理的な根拠となる底辺がなく、自己循環論法によって支えられた価値であるからということになります。

つまり、貨幣そのものは紙切れや、金属片という本来価値のないものに過ぎないが、自己循環論法によって成り立っている幻想的価値ということになります。

従って、もしハイパーインフレーションのような貨幣の持つ幻想性が消失してしまう事態が発生すれば、貨幣の持つ価値は、もとの木阿弥の紙切れや金属片に戻ってしまうということになります。

では、モノである実体こそが、ほんとうの価値なのかという問題が次に発生します。

経済活動に伴う人や土地や建物などは、まぎれもなく実体ということができます。

しかしながら、それらの価値も、市場原理主義という俎上に乗った瞬間に、貨幣という「ものさし」によって評価されることとなり、価値は幻想化することになります。

市場原理主義では、どのようなモノであっても例外なく、相対主義の対象になってしまうということです。

これは、金や原油などの稀少鉱物資源が、マーケットで投機対象となり、その価値が乱高下している現象からも理解できることではないでしょうか。

つまり、実体としてのモノの価値は、どれだけ貴重なものであっても絶対的価値とはなり得ず、すべてが相対的価値という文脈依存的な幻想性を帯びてしまうことになるわけです。
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もちろん、実体である土地や建物には、アダムスミスのいう使用価値(土地を耕作して果実を獲る)はあるということになります。

また、実体が人ということであれば、人の労働に拠った成果物だからこそ価値があるという、人間中心主義の物語(労働価値説)ということにもつながります。

しかしながら、これらの価値は「特定の与件」や「イデオロギーの枠組み」の中において安定していることに過ぎず、その枠組みが違えば当然その価値も変化することになります。

たとえば、同じボートであっても、池遊びに使用するボートと沈没しかかっているタイタニックで使用するボートでは、明らかに同じボートでも使用価値が異なってきます。

また、労働によって生み出す価値こそが本当の価値であると信じられている共同体(枠組み)の中では、労働価値説が極めて安定して成立しているように見えても、その内実は賃金と原材料の差異によってもたらされた剰余価値にすぎないということになります。

さらに、内部のみならず外部経済との関係性において労働価値説が成立しているようにみえたとすれば、それは外部経済との価格の比較優位(低い賃金、補助金、寄付金等)のうえに築かれた剰余価値にすぎないということになります。

つまり、労働価値説をいくら絶対化したしたとしても、必ずそこには差異(剰余価値)が生じて相対的価値となってしまうということです。

使用価値や労働価値は普遍的な原理に築かれた価値であるかのように思われていますが、実際は相対主義による差異から価値が創造されているだけに過ぎず、この原理についてはアダムスミスの時代からずっと変わっていないということができます。

ただ、このことを理解したうえでも、使用価値や労働価値を絶対的なものと見なしたいという欲望があれば、それはイデオロギー(社会思想)ということになってしまうのではないのでしょうか。

もともと、マルクス経済学では、政治問題である理想や幻想というイデオロギー(社会思想)が、経済問題を下部構造としたうえに構築される上部構造ということになるようです。

もちろん、このような上部構造にあたるイデオロギー(社会思想)が間違っているという議論をしているわけではありません。

現実的に経済要件の基礎となる市場主義(価値相対主義)を受け入れたうえで、労働価値説の理想化や幻想化を図る(物語を信じたい)ということであるのなら、物語を共有しない人との間に信念対立の問題が生じることはないと思われます。

つまり、理想化や幻想化というイデオロギー(社会思想)をいったん相対化したうえで(絶対化しないで)、あえて理想と幻想の共同体の構築を目指すということであるのなら、価値多元主義の立場からは尊重されるべきひとつの立場ということになります。
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近代以降の日本の社会で、アダムスミスの労働価値説が成立しているように見えたのは、日本の都市部と農村部の地域格差(差異)という相対関係がその前提になっていたからということになりそうです。

つまり、都市部の後背地として農村部があり、都市部には農村部から低賃金の労働力人口や安価に生産された食糧品等が供給されることになります。

一方、都市部は、農村部から供給される低賃金の労働力人口の需要の場であり、また流入する安価な食糧品等の消費の場になっているということができます。

日本の経済成長を支えた剰余価値の累計は、このような都市部と農村部の差異からもたらされた価値ということになります。

従って、90年代以降日本の経済成長が終焉を向かえた一番の原因は、このような農村部という剰余価値の供給地が日本から消滅してしまったということになります。

つまり、日本全体が都市化(均一化)してしまったということになるのではないでしょうか。

現在経済成長を続ける中国やインドでは、かつての日本の高度成長期と同じような現象が繰り返されているということができます。

つまり、国内に広大な後背人口と広大な消費者を抱える中国やインドでは、都市部と農村部にある地域格差(差異)が大いなる剰余価値を生み出す可能性を持った社会構造といえます。

また、情報通信の発展はめざましく、70年代当時の日本と現在の中国やインドでは比較ができないほどの変化の速さがあります。

情報通信の発展と都市化のスピードに相関関係があるとすれば、おそらく10年もしないうちに、世界唯一を競うほどの強大な経済力を持った二つの経済大国が、アジア経済圏の中に誕生することになるのではないでしょうか。

そして、このような中国やインドも都市化するスピードが速いほどに、経済成長が下り坂に向かう時期も早くなるといえるのではないでしょうか。

つまり、現在のヨーロッパ諸国や日本がそうであるように、経済成長を支える国内の差異が消滅してしまうことは、高度経済成長から低経済成長の国家へと社会構造が様変わりしているということになります。

このような世界経済のダイナミズムは、いずれも価値相対主義に基づく差異から引き起こされた現象ということができそうです。

つまり、世界経済の剰余価値の創造を演出しているのは価値相対主義に基づいた差異であって、アダムスミスが国富論で論じた労働価値説という主体論ではないということです。

貨幣とは、自己循環論法(循環参照ですね)によって成り立っている幻想的な価値のことでした。

また、実体としてのモノの持つ価値は、市場原理主義の俎上で貨幣という「ものさし」によって相対評価される幻想的な価値のことでした。

つまり、貨幣のみならず、実体としてのモノについても、絶対的な価値ではありえないということです。

要するに、価値とは絶対的価値ではなく、あくまで相対的価値ということになります。

そして、価値は差異によってもたらされるものであり、実体のない幻想そのものということになりそうです。
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また、人間関係の代表的なものとしては、イエ(共同性)があります。

イエ(共同性)とは、人や土地や建物の実体だけを指す言葉でないことはいうまでもありません。

イエ(共同性)とは、むしろフレーム(枠組み)のことであって、関係性ということになります。

つまり、イエ(共同性)は人間関係だけではなく、土地や建物などの実体との関係性ということでもあります。

イエ(共同性)が、フレーム(枠組み)ということであるのなら、その中の実体が常に同じであらねばならない必然性はありません。

つまり、イエ(共同性)というフレーム(枠組み)が存続していれば、実体の中身は変化してもかまわないということになります。

たとえば、世代交替によって構成員はどんどんと変わっていきますが、イエ(共同性)のフレーム(枠組み)はそのまま存続することになります。

ただし、イエは一番小さな社会(共同性)とされているように、具体的な実体が二つ以上あって、関係性が保たれることが前提とされるものでもあります。

しかしながら、核家族化、さらには個人化が進展していく中で、実際にはイエというフレーム(枠組み)だけが残り、その中身(実体)がなくなってしまうという事態も発生します。

たとえば、事実上の地縁や血縁などの関係性がなくなってしまい、全くの個人(単身)になってしまったような場合です。

このような場合でも、いまだそこにイエ(共同性)があると信じている人がいれば、イエ(共同性)は存続していることになります。

イエ(共同性)は、観念的(バーチャルリアリティ)に一人歩きすることもできるということです。

つまり、個人(単身)が構成員としての関係性を維持することができなくなっても、いまだイエ(共同性)を体現しているという認識さえあれば、社会的には個人(単身)がイエ(共同性)を代表しているものとみなすことになるということです。

イエ(共同性)は、人や土地や建物という実体との具体的な関係性を喪失してしまっても、幻想の中で生き続けることができるものということではないでしょうか。

このような抽象化が可能になるのは、現代社会におけるイエ(共同性)は、制度として存続するものになっているからといえそうです。

以上のことからすると、イエ制度からみた現代社会における関係性は、必ずしも具体的な実体を前提とはしない、幻想であっても十分可能ということになります。

関係性が幻想ということであれば、目の前の現実(リアリティ)が、具体性を欠いた曖昧なものであっても構わないということになってしまうのかもしれません。

従って、目の前で起こっている現象(クオリア)が、果たして本物なのか、幻想にすぎないのか、このことを明確に区別できる根拠さえも失ってしまうことになります。

関係性とは、幻想(抽象)であって、必ずしも実体(具体)を必要とはしない。

かように割り切ることが、現実(リアリティ)の虚構性をクールに流していくことであり、迷わない生き方につながると考えるのですが、さていかがでしょうか。
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現代社会は、自分だけの夢を見ているという人であふれているように思われます。

日本人が未熟であるということと、自分だけの夢を見て満足していることとは、無関係ではないと思われます。

また、イエ(共同性)の細分化(個人化)と、経済活動における消費単位の細分化(個人化)とは、同時に起こった現象であるということができそうです。

つまり、イエ(共同性)が細分化されていくということは、社会の構成単位が細分化されて個人化していくことでもあるからです。

このことを市場原理主義から説明すると、共同性が細分化されることによって、個人という消費単位が増加していくということになります。

そして、消費単位の増加は、消費(需要)を押し上げることになり、その結果供給が促されて経済全体のパイは拡大するということになります。

要するに、共同性の解体による消費単位の増加(個人化)は、右肩上がりの経済成長主義の方向性と利害が一致していたということになります。

また、資本主義経済は、相対主義の支配する世界であるため、実体と乖離した幻想が支配する世界でもあるということです。

つまり、実体に備わっている価値は絶対的なものではなく、あくまで相対的に決定される価値に過ぎないということです。

当たり前のことですが、価値や評価というものは、必ずしも実体そのものを表現しているわけではありません。(株価と実体経済の関係を見れば一目瞭然です。)

このため、資本主義を通して見る社会のリアリティは、市場原理の効率化や合理化が進めば進むほど、不透明感と幻想性が増加するということになってしまいます。

つまり、資本主義の市場原理を進めていくと、確かに経済効率や経済成長はもたらされることになりますが、その一方で社会は不安定化することとなり、実体がつかめない不安や焦燥感が高まるということになります。

資本主義の本質とは、効率化や合理化というような経済の純度を高めて行くほど、資本主義そのものが不安定化するというパラドックスにあることです。

自分の足場を守ろうとすることが、かえって自分の足場を崩してしまうというパラドクシカルな危うい経験をした人も少なくはないと思われます。

おそらく、このようなパラドックスは経済関係だけに限定されたことではなく、人間関係やその他あらゆる社会事象においても、同様にあてはまることであるのかもしれません。

もはや、私たちを支えてくれる絶対的な足場はどこにもなく、相対主義における価値と評価は、私たちに底の知れない混沌(カオス)をもたらすことになってしまいます。

「あらかじめ決まった答えがない」とは、このような不安と孤独の中を生きることであるのかもしれません。

従って、自分の夢(物語)だけを信じながら自足しているようでは、「あらかじめ決まった答えがない」グレーな世界を生き延びることさえ難しい状況になってしまいます。

では、一体私たちはどのようにして生き延びれば良いのでしょうか。

おそらく、私たちは、この底の見えない不安と孤独という混沌(カオス)の状況をいったん受け入れるしかないと思われます。

そして、不安と孤独の絶望の底から、絶対的な足場などはどこにもないと諦めるしかないと思われます。

諦める(諦観)という立ち位置が、効率性と不安定性のパラドクシカルな危うい状況を絶妙のバランスで生き延びるという透徹した視点(支点)を与えてくれるのではないでしょうか。
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資本主義の論理でもある価値の相対主義と価値の幻想性からすると、あらゆる社会事象はグレーゾーンのどこかに帰結することになります。

そして、グレーゾーンのどこに帰結するかは、あらかじめ決まった答えがあるわけではなく、結局自分で決めるしかないということになります。

また、自分で決めるとしたとしても、その立ち位置は暫定的なものでしかなく、バランスをとるために社会的文脈から一度定めた軸足をずらすことも必要になってきます。

つまり、社会的文脈とのバランスを維持するためには、それまでの経験や勘という暗黙知に頼りながら、軸足の位置を探ることも必要になってくるということです。

確かに経験や勘がもたらす直観(暗黙知)は、曖昧なものということのなるのかもしれません。

しかしながら、このような曖昧さに依拠しながらも、結果としてバランスが採れているとしたら、それはどこかで普遍性とつながった視点(直観)といえるのかもしれません。

そして、おそらくこのような普遍性につながった視点(直観)こそが自己意識と呼ばれるものではないかと考えます。

自己意識とは、時間性と空間性を伴った四次元の視点であり、自分自身を一望俯瞰する客観的な視点ということになります。

あらゆる社会現象はグレーゾーンのいずれかに位置するということでした。

このような社会現象の持つ曖昧さを嘆いているだけではなく、時代の要請として曖昧さを引き受けながら、自分自身の足場をどこに築くのかを決定しなければならないということです。

自分の足場を築くということは、自分がいかに生き延びるかということでもあり、その選んだ場所によっては、自分を取り巻く環境は大きく変わってくることになります。

おそらく、実際には、現実の中で自分の足場を作っては壊わし、壊わしては作るという作業を繰り返しながら、やがて自分の足場を固めていくことになると思われます。

やがて、作った足場(支点)が自分自身を支えるものであるという直観があったとすれば、その足場(視点)が自己意識と呼ばれるものであるのかもしれません。

自己意識とは、自分自身の生き方に普遍性や倫理性を支えてくれる、メタレベルからの(一望俯瞰する)視点ということになりそうです。

そして、自分が直観した(信じた)足場であるのなら、たとえ不透明で幻想的な現代社会に困惑をしながらも、自分自身で大事に守っていくことができるはずです。

本編のはじめでは、現在の日本人には、もはや輝きながら大人(成熟)へのドアを開けるというリアリティのなさは許容できなくなってしまっており、厳しい社会経済情勢の中での一日も早い成熟が求められるという考察をしました。

さらに、現在の日本人には、もはや輝くような明日が待っていないと分かっていても、なお一歩ずつ自分の未来へと踏み出していく淡々とした日常性の積み重ね(宮台真司氏によれば、終わりなき日常になるのでしょうか。)が重要となってくるということでした。

そして、大人になる(成熟する)ということは、自己コントロールできる自己意識の確保が目標とされるということになります。

ただ、このような不透明で幻想的な現代社会に困惑をしながらも、なお自分自身を俯瞰できる視座の確保を目指して、淡々と日常を積み重ねることのできる行動様式こそが、そもそも成熟の領域に至った「心性」になるのではないのでしょうか。

おそらく、自己意識(普遍性)の確保へのプログラム とは、自己コントロール(前頭葉による感情と欲望の制御)をその方法論に組み込んだ「大人の流儀」のことではないかと思われます。

つまり、自己意識(普遍性)の確保へのプロセスこそが大人であるための条件ということになり、従ってそもそも成熟とは大人であろうとする者に許された円環関係のプログラムの実践ではないかと考えていますが、さていかがでしょうか。

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# by kokokara-message | 2016-01-01 17:10 | 我流ポップス論(80') | Trackback | Comments(0)

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「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」って聴いたことがあるでしょうか。

「Honolulu City Lights」とは、オアフ島在住のケオラ・ビーマーが作詞作曲したハワイアン・トラデショナルの名曲で、クリスマスの季節になると、ハワイのコヒーハウスやショッピングセンターなどでよく耳にします。

スローなテンポでゆったりとしたこの名曲は、日本では杉山清貴がカバーしており、ミニアルバム「Honolulu City Lights」が1997年にリリースされています。

初めてケオラ・ビーマーの「Honolulu City Lights」を聴いたとき、おそらく山側か、あるいは海側から見たホノルルの街の夜景を歌った曲ではないかと勝手に思っていました。

また、クリスチャン・リース・ラッセンの「ワイキキロマンス」という版画を知っている人であれば、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」という言葉の響きから、ワイキキのサンセットの光景を思い浮かべることになったとしても、決して不思議なことではないと思われます。

しかしながら、実際の「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」はラッセンの版画のようにロマンチックなものでなく、むしろ華やかで賑やかなイベント(催し)といえそうです。
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「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」とは、ハワイ州オアフ島ホノルル市庁舎周辺で12月初めから約1ヶ月点灯されるクリスマスイルミネーションのことです。

点灯式には盛大なパレードも行われ、サンクスギビングデーが終った後クリスマスまでの約1ヶ月間、ホノルルは「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」によって華麗にイルミネーションされることになります。
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そもそも、ハワイに暮らす人のクリスマスは、家族だけで自宅で迎えるという過ごし方が一般的であるらしく、自宅にあるクリスマスツリーの根元にひっそりとプレゼントが置かれているという、実に質素で厳かな祝祭とされています。

一方、ホノルルの街を歩いていると、多くのコンドミニアムのラナイなどには、煌びやかに飾られたイルミネーションが道行く人たちを楽しませているという光景に出くわすことになります。

そして、ホノルル市庁舎周辺に飾り付けられた「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」もこれら街中のイルミネーションと同じように、ホノルルのクリスマスシーズンを装飾するものとして位置づけられています。
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ではなぜ、クリスマスの装飾が自宅の内部では厳粛で質素となる一方、外部に向けてのイルミネーションは華美なまでに施すことになるのでしょうか。

ハワイ州は、いうまでもなくアメリカ合衆国五十番目の州であって、英米系キリスト教文化圏(プロテスタント)の中に属しています。

キリスト教が愛の宗教と言われるように、キリスト教では隣人愛の実践としての「無償の贈与」が求められることになります。

その一方で、プロテスタンティズムの倫理によると、「世俗内禁欲」として、質素倹約が徳目とされることになります。(現在のアメリカ人が質素倹約をどの程度徳目と考えているかは定かではありません。)

このことから、外面への華やかさの「贈与」と内面の質素さの「禁欲」という非対称性な教えが同時に存在することになります。

しかし、これはアメリカ人の人格がふたつに分裂してしまっているからではありません。

プロテスタンティズムにおいては、「世俗内禁欲」として、世俗の諸活動に携わることが禁止されているため、ただひたすら宗教活動としての経済活動(天職と隣人愛)が実践されることになります。
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つまり、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やラナイを飾るイルミネーションの持つ意味は、道行く知らない人にも無償で装飾を楽しんでもらおうとする「贈与」の経済活動(隣人愛の実践)ということになります。

したがって、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やラナイを飾るイルミネーションは、キリスト教の教えに基づいた行動ということになり、宗教活動そのものということになります。

このことからすると、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」のようなイベント(催し)が、ホノルル市庁舎という「公の場」で実施されていることには注目をする必要があると思われます。
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つまり、アメリカ合衆国という国家は、政治と宗教が十分に分離されていない、むしろ政教一致の国家ということになるのではないでしょうか。

アメリカ合衆国という国家は、オバマ大統領の就任によって、WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の伝統が崩れる方向にあるように思われます。

しかしながら、アメリカ合衆国という国家が建国時に初期設定したプロテスタンティズムの倫理と精神は、アメリカ合衆国に危機が生じると必ず回帰されてくるように、おそらくアメリカ合衆国の起源そのものになっていると思われます。

これは、約250年前のアメリカ合衆国の建国の精神が、今でも変わらず生き続けている証ということになるのかもしれません。

したがって、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」は、無償の贈与という宗教活動だけではなく、アメリカ建国の精神そのもののの体現ということになります。
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「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」は、「アメリカン・スピリッツ」でもある無償の贈与(プレゼント)の実践ということでした。

ただ、無償の贈与(プレゼント)という行為は、アメリカ合衆国を代表とするキリスト教文化圏の国家だけで実践されている特殊な習慣ではありません。

日本でも、茶の湯に見られるような「もてなしの心」というホスピタリティが存在し、また日常でも土産や中元、歳暮などのプレゼントを贈る習慣や文化が存在しています。

さらに、無償の贈与(プレゼント)について、文化人類学者のレヴィ=ストロースは人間の類的本質が「贈与」であると指摘しています。

つまり、レヴィ=ストロースの言うところの「贈与」は、まず自分から差し出すこと(無償の贈与)によってしか、自分が欲するものを手に入れることは出来ない、という因果関係に人間の類的本質があるということです。

このことからすると、市場経済の等価交換は、静的で閉じた関係ということになります。(貨幣を介していても、等価交換はそのたびに完結します。)

これに対して、「贈与」は動的で外に開かれた関係(過剰や過小であったりと等価ではありません)ということになり、そのアンバランスがコミュニケーション(交換)を促進させ、経済活動を活発にさせることになります。

「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やラナイを飾るイルミネーションは、宗教活動であってアメリカの精神ということでしたが、文化人類学的の観点からは、人間の類的本質であるコミュニケーション(交換)を促進させるための「贈与」(プレゼント)として一般化(普遍化)できるのかもしれません。
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ところで、あわただしい年の瀬を過ごしている私たちが、夜の街角でクリスマスイルミネーションを眼にしたとき、ほんのつかの間でも気持ちが安らぐという経験をしたことはないでしょうか。

日本は、言うまでもなくクリスマスを祝祭する習慣のキリスト教文化圏の国ではありません。

また、欧米人のように強い自我に基づいた個人主義と、それに起因する頑強な思想や強固な論理を持ち合わせているわけでもありません。

どちらかといえば、柔らかで移ろいやすい感情の上に築かれているのが日本の文化ではないでしょうか。
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頑強な思想や強固な論理からではなく、柔らかで移ろいやすい感情の上に安らぎを覚えるのだとしたら、それは日本人が「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やクリスマスイルミネーションを、「和み」や「もてなしの心」という日本人の感覚で咀嚼し、理解し、受け入れているためではないでしょうか。

つまり、宗教活動としての厳粛性や、一般化された「贈与」という思想性ではなく、ことの是非は別にして、クリスマスイルミネーションを日本固有の文化の中で再編集することによって、日本人は「安らぎ」「安らがされる」という感覚を得ているのではないでしょうか。

そして、これはとても大切なことですが、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やクリスマスイルミネーションだけに限らず、あらゆる社会的な現象にその意味と価値を与えているのは、一義的には自分自身(個人の自由)になるということです。

つまり、あらゆる社会的な現象には、個人や個人が所属する文化の数だけ、多種で多様な文脈や解釈が存在することになるというわけです。
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従って、社会的な現象の持つ意味や価値も多種多様ということになり、それらもやがては移ろい変化していくという刹那的なものの見方は、おそらく日本人独自の感性に根差した特殊性ではなく、むしろ誰もが受け入れざるを得ない(それでいていつも見落としている)「万物流転」という普遍的真理ではないかと思われます。

さて、もうすぐクリスマスです。

東西文化と宗教の垣根を越えた「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」と街角のクリスマスイルミネーションは、皆様にとってどのような意味と解釈になるのでしょうか。
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# by kokokara-message | 2015-12-03 22:30 | ホノルル・シティ・ライツ | Trackback | Comments(0)