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四天王寺参詣道(3)
四天王寺参詣道は、現代では庚申街道と呼称され、ひっそりとその痕跡をとどめています。

そして、前回の記事では、近鉄阿部野駅の北側の都ホテルに設置された庚申口が庚申街道にあたるということでした。

今回は、その続きとなります。

近鉄阿倍野駅北側の庚申口からほぼまっすぐに地下街を南側へと抜けていくと、正面にマツモトキヨシが見えてきます。

そして、マツモトキヨシのすぐ左側には、地下街から地上へと向かう通路が見えてきます。

これが松崎口と呼ばれる出入り口であり、北側の庚申口と同様、庚申街道の一部を構成し、四天王寺南大門から続く参詣道の延長にあたります。

松崎口から地上に出ると小さな広場があって、そこには以下の内容の歴碑が設けられていました。


庚申街道歴碑

大阪府誌(明治三十六年刊)によれば、この道路には一貫した道路名はないが、明治三十一年頃に「庚申街道」の名称が成立するまでは、「葛井寺道」など様々な名称を持っていたといわれ庚申堂参りの道でもあった。

その代表的な経路は、起点を四天王寺南大門前から南へ庚申堂を過ぎ、現JR天王寺駅と近鉄阿部野橋駅を横断して終点の現平野区長吉川辺町で古市街道と合流して終わっていた。

現在「庚申街道」の名称が生きているのは、途中の桃ヶ池当たりまでのもので、それ以降は、区画整理事業、道路拡幅もあってときの移り変わりとともに「庚申街道」と称したという記憶をもつ人も少なくなってきたようである。

昭和五十二年、大阪都市計画事業近鉄南大阪線連続立体交差事業により、踏み切りでの交通事故や交通渋滞といった交通問題を解決することを目的として、新しく都市計画道路阿倍野松崎線が設けられ、踏み切り道は廃止された。

また、庚申街道は、東地下駅コンコース広場として生まれ変わり、南北連絡の地下道路として線路をまたぐ南と北の両地域を結ぶことになった。

一方、大阪市・近畿日本鉄道株式会社・庚申街道を守る会など関係者の間で地域将来の発展のための改良計画について協議が重ねられた。

その結果、緑豊かなサンクンガーデンの松崎口・阿部野橋駅東地下駅・庚申口が設けられ、JR・地下鉄との乗り換え・連絡が便利になり、この界隈も大きく変貌を見せた。

ここにこの地域の変貌を偲ぶ縁として、多大の努力を領けられた関係者共々歴碑として残すこととなった。

昭和六十三年十一月吉日


これによると、四天王寺南大門から続く参詣道が庚申街道と呼ばれるようになるのは、近代に入ってからのことのようです。

また、それ以前には「葛井寺道」とも呼ばれていたことがあったようです。

この道にまつわる呼称は時代とともに変遷していくものの、四天王寺南大門から南に向かうほぼ一直線の道は、おそらく古代からそのロケーションをほとんど変えていないのではないでしょうか。

また、歴碑文にあるとおり道の一部は建造物に組み込まれ、地上から地下へと変化したものの、参詣道の持つ本質については今も変わらずに脈々と受け継がれてきているのではないでしょうか。

今一度整理すると、四天王寺南大門から南へとまっすぐに延びた道が古代四天王寺の参詣道ということであり、この参詣道が庚申街道と呼び名を変えて現代にまで引き継がれているということです。

ご存知のように、四天王寺は1400年間、そのロケーションを一度も変えていません。

従って、庚申街道の一部をなす松崎口も、古代四天王寺を今に伝える痕跡のひとつということになります。

この他にも、上町台地の上には今も古代四天王寺に関連する多くの痕跡がそのロケーションを変えることなくひっそりと残されているのではないでしょうか。
上の案内地図は上が南側となり、本文説明とは反対になってしまうのですが、庚申口、松崎口、そして庚申街道の位置関係がよく分かるかと思われます。


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# by kokokara-message | 2012-05-27 21:54 | 我流古代史(四天王寺編) | Trackback | Comments(0)
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