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先の見えない時代にあって、自分の求める生活や価値を明確にしておくことは大切なことです。自分と環境との関係性を考え、欲望をほどよく制御するための心と体の癒しのメッセージです。


by 逍遥
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沖縄県中頭郡北中城村のアメリカンレストラン「ローズガーデン」に行ってきました。

ローズガーデンの名物はエッグベネディクトです。

エッグベネディクトは、ローズガーデン特製イングリッシュマフィンの上に、厚切りハムか、ローズガーデン特製のアメリカンソーセージがトッピングされます。

その上に、黄身は半熟、卵白はある程度固まった状態のポーチドエッグが乗せられて、さらにその上にオランダーズソースがかけられています。

上の写真です。

ポーチドエッグをつぶして、半熟の黄身とオランダーズソースと絡めて食べます。

ポーチドエッグは、ご存知のとおり、日本では落とし卵と呼ばれる料理です。

固めるために酢を入れた熱湯の中に、生卵の中身を落として加熱したものです。

ゆで卵に比べ、調理時間が短く、黄身が食べごろの半熟となるまで数十秒程度で済むのが特徴のようですね。


料理にはホットコーヒーかアイスティが付きまして、おかわりは自由です。


ぜひ沖縄旅行の際に立ち寄られて、アメリカンな気分に浸るというのいかがでしょうか。


厚切りハムのエッグベネディクト¥1300
ローズガーデン特製アメリカンソーセージ¥1390
アメリカンソーセージとハムのコンビ¥1350





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# by kokokara-message | 2022-12-17 21:09 | 沖縄
土地に対する忌避意識(全編)_a0126310_22141028.jpg

新明解国語辞典によればと、「忌避(きひ)」とは、嫌がって避けることとされています。

残念なことですが、土地に対する忌避意識という問題が取り上げられることがあります。

これは、大変難しい問題といえますが、土地そのものに対する忌避意識であるのか、それともそこに住んでいる人、またそこに住んでいた人に対する忌避意識であるのか判然としないところがあるように思われます。

つまり、土地に対する忌避意識とは、どうも明確な区分があって発生しているものではないように思われます。

あいまいな区分であるがゆえに忌避意識を発生させ、存続させることになっているといえるのかもしれません。

ただ、土地に対する忌避意識は、その土地にかかわったことが原因で発生している忌避という点では一致しているように思われます。

つまり、その土地に住んでいる人、新たに住んだ人、また住んでいた人などに対して忌避意識が発生していることからすると、その土地にかかわったことが原因で発生している側面が強いといえるのではないでしょうか。

では、なぜ、その土地に対して忌避意識が発生するのでしょうか。

そのアプローチとして、真逆のその土地に対する忌避意識が発生しない場合を考えてみることにします。

おそらく、その土地に対する社会的文脈が共有できていない人には、忌避意識は発生しないと思われます。

たとえば、外国から来た人や地縁血縁のない遠方からの来訪者などがそうです。

なぜなら、その土地にかかる忌避意識は目に見えて手で触れることができるようなものではなく、共同幻想のように実体が伴わないものであるからです。

したがって、共同幻想そのものが相対化できている人ならば、忌避意識は発生しないのかもしれませんね。

では、実体が伴わないにもかかわらず、どうしてその土地に対する忌避意識が存在しているのでしょうか。

これは一仮説ですが、共同体内部に実在する実体的な格差や差別を合理化する方法として、実体の伴わない共同幻想を共同体の内部で共有するという倒錯した方法がとられているのではないかと思われます。

つまり、共同幻想を共有できた人が共同体の仲間ということになり、共同幻想に同化されない人や知らない(関係がない)人は、共同体の仲間として看做されなことになるということです。

身近なところでは、学校や会社などで起きてるいじめ、つまりターゲットを探し出して一緒になっていじめなければ今度は自分がいじめられる、いじめられないためには見て見ぬふりをするという構図と似ていますね。

このことを一般化すると、土地への忌避意識は、共同性を立ち上げるために付与された「記号的意味」ということになり、おそらく土地への忌避意識は共同性を構築するために必要な「スケープゴート」として扱われているということになりそうです。

次に、土地への忌避意識について、土地取引という経済の側面からアプローチをしてみることにします。

資本主義経済では、「選択の自由」が保障されなければならないことはいうまでもありません。

そして、そのための情報収集についても、経済活動のひとつとして保障されなければならないことはいうまでもないことです。

しかしながら、経済学者のハイエクやフリードマンが仮定する「選択の自由」を実践できる自由な個人は、自立して合理的判断ができる個人ということになります。

つまり、他者や共同体(世間)の呪縛から解放されて、自由で合理的な判断ができる人ということになります。

「選択の自由」には、自分が必要とするものを自分で選択できる、つまり能動的に「選択する能力」を持った個人が存在することが前提になります。

従って、自分で選択できる自由が前提にあるにもかかわらず、自分以外にその自由を譲り渡し、選択そのものを他者や共同体(世間)に依存するような受動的な能力ではないということです。

少し話は変わりますが、国富論を著したアダムスミスの仮説では、市場経済は「神の見えざる手」によって動かされているとされています。

そして、「神の見えざる手」は、市場経済活動に参加した人たちの「共感意識」がセットされて機能するものとされています。

ここで言う「共感意識」は、他者への配慮(合理的配慮)ということになります。

つまり、他者への配慮(合理的配慮)がセットされた「神の見えざる手」が機能することによって、市場経済が適正に運営されるという考え方です。

また、上記のようなアダムスミスの古典的自由主義を評価する立場のひとつに新自由主義があります。

新自由主義では、「選択の自由」が実践できる理論的根拠がアダムスミスの「神の見えざる手」ということになります。

しかしながら、先にも指摘したとおり、アダムスミスの「神の見えざる手」には「共感意識」が組み込まれて機能するというものでした。

このため、「共感意識」を欠く経済行為は、たとえ「選択の自由」の美名の下に実践されたとしても、市場経済からは正当な経済行為として容認されるものではありません。

たとえば、世界中でみられる拝金主義やその結果の経済格差、また知る権利を標榜しながらプライバシーを侵害する情報収集などの卑劣な経済行為は、他者への配慮(合理的配慮)や「共感意識」を欠いた自由の放埓であり、欲望の暴走でしかありません。

「立場可換性」という倫理的な観点からは、自分が許容できないことは人に強要しないという立場を採用します。

つまり、お互いがお互いの自由を尊重し合うことでやっと自由のバランスがとれるという考え方になります。

言い方を変えれば、自由には必ず限界があるということです。

「共感意識」を欠いた経済行為は自由のバランスを一方的に破壊するだけではなく、自分自身の自由の足場さえも失ってしまう危険があるわけです。

岩井克人氏の「不均衡動学」によれば、新自由主義が提唱する市場原理をどんどん純化させていけば、やがて市場経済は一握りの勝者と大多数の敗者になってしまい、市場経済から自由そのものが無くなってしまうというパラドックスに陥るということです。

このように倫理感や節度を欠いた経済活動は、もはや市場経済から正当な経済行為として容認されないだけでなく、金融危機で見られたような市場経済そのものを崩壊させてしまう危険性を孕んだ経済行為といえるのではないでしょうか。

本題に戻ります。

土地への忌避意識とは、そもそも実体がなく共同幻想のようなものということでした。

また、その実体のない共同幻想には、倒錯した共同性を立ち上げるために必要な「記号的意味」が付与されている可能性があるということでした。

そして、経済合理性を無視した実体を伴わない土地取引は、どのような美名の下に行われたとしても、共同幻想の呪縛から解放された経済合理的な選択判断とはいえないものということでした。

もちろん、私たちが、ものごとを判断するときに自分が所属している共同体(国や地域社会など)から全く自由な立場でいるということは困難であろうと思われます。

従って、共同体から自立して合理的判断ができる個人という存在は、仮定の存在でフィクションになってしまうのかもしれません。

確かに、この考えは正論のように思われるところもあります。

しかしながら、この考えだけに従っていれば、共同体における他者の視線を無批判に内面化することになってしまい、共同幻想を実体化させる共犯関係になってしまいます。

以上から、あらためて土地への忌避意識について考察して見ると、土地に対する実体の伴わない共同幻想は、象徴的価値(ブランド)に似た現象といえるのではないでしょうか。

つまり、象徴的価値(ブランド)は、本来のモノが持っている以上の価値を指し示す「記号的意味」として認識されているからです。

これと同じように、土地に対する忌避意識は、土地の持つ属性やそこに住んでいる人たちの属性とは大きく異なった「記号的意味」を持つことになってしまっています。

土地に対する忌避意識は、資本主義経済のタームである「選択の自由」や「共感意識」では説明ができないような社会現象ということになります。

一方、社会学的な側面からは、共同体から原初(歴史上のある時点)に付与された両義的な価値のうち、ネガティブな側面だけが「記号」の持つ価値として残存したものと説明できるのかもしれません。

では、私たちは自分たちの共同体の持つ共同性を大切にしながらも、土地に対する忌避意識という共同幻想にとらわれないためには、どのようにすればよいのでしょうか。

まず、自分が所属している共同体を相対化することからはじめるしかないと思われます。

方法論としては、自分に今影響を与えている共同体のパラダイム(常識)を疑ってかかるということが、共同体を相対化する第一歩になるのではないでしょうか。

自分たちの共同体の持つ共同性を大切にはしても、自分たちの共同性を絶対化しない(気位を高く持たない)ということが相対化につながると思われます。

つまり、自分たちとは全く違った考え方や判断の仕方をする共同体が自分たちのすぐ外部に存在していることを知る必要があるということです。

このようにして、自分の外部の存在を知った人たちは、自分たちの共同体を再評価する客観性も持ち合わせることができるようになり、共同幻想の呪縛からも解放されて新たな視点を持つことができるようになると思われます。

私たちは、共同体には必ず外部があることを知り、そして共同体の内部を相対化する(絶対化しない)ことで、「世間のみんな」ではない、「共同体を構成する一個人」に生まれ変わることになると考えているのですが、さていかがでしょうか。

《おわり》
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# by kokokara-message | 2022-11-26 11:54 | 我流社会学


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トリクルダウンという言葉はご存知でしょうか。

大木からしたたり落ちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分としてまた成長していくという、大木と草花の相互依存関係をあらわした資本主義の経済理論(仮説)とされています。

上方落語には、大阪船場を舞台とした「百年目」という落語があります。

この「百年目」という落語の中で、トリクルダウンの経済理論が大阪船場の旦那と番頭の関係として、また番頭と丁稚の関係として描かれています。

そして、落語「百年目」の落ちは、人(労働者)と商売(経済)が元気であるためには、適度なトリクルダウン(露おろし)が必要ということになります。

ただ厳しい状況に耐えるだけでは、人も経済も活性化できない、したがって適度な余裕や遊びが必要ということになるわけです。

これが、トリクルダウンのエッセンスです。

また、大阪船場では、過剰な利益の収奪は卑怯な商法と見做され、節度ある利益の享受と社会貢献が持続的な商売の源泉になると信じられていました。

「損して得とる」ということになるでしょうか。

したがって、「百年目」の舞台大阪船場では、日常的に華しょくや浪費を不徳とする「世俗内禁欲」の習慣があったとされています。

これは、御堂(阿弥陀様)に囲まれた土地柄にも由来することですが、大阪船場の商法は宗教的バックボーンに基づいたものということになりそうです。

マックス・ウェバーが、資本主義の精神はプロテスタンティズムの倫理(世俗内禁欲)に由来すると指摘してたことと極めて類似性があると言えそうです。

江戸近世から明治近代にかけての大阪船場は、日本では珍しい資本主義の精神がいち早く花開いた町ということになるのではないでしょうか。

上記のとおり資本主義の精神に宗教的バックボーンが備わっているとすれば、一部の勝者だけを正義とする新自由主義的な弱肉強食の考え方はおそらく異端ということになるはずです。

しかしながら、いつの頃からか、資本主義の精神は自己利益だけを追求する競争原理と理解されてしまい、他者への寛容性だけではなく自己への配慮も欠いた経済活動が優先されるようになってしまいました。

マクロ経済的に見ると、合理性や効率性での自己利益の追求だけを図れば、一見社会全体の効用を最大化させるかのように思わますが、実際はそれとは真逆で自分で自分の足場を崩すという極めて不安定な経済状況を作り上げてしまうことになります。

例えば社会全体の資産の半分以上を上位数名だけで独占するような著しい経済格差、また労働者を代替可能な商品と見做ようなブラック企業の存在など・・。

とても不思議なことですが、確かに経験的にはそのようになっています。

この二律背反する経済現象を一般化すると、資本主義の合理性や効率性はその純度を上げれば上げるほど、つまり資本主義システムを徹底すればするほど、資本主義システムそのものが不安定になるという真逆な関係性にあると言うことです。

したがって、資本主義が長期的に安定して行くためには、合理性や効率性の純度を押し下げる適度な非合理性、例えば賃金の硬直性や雇用の非弾力性、また労働組合の存在が挙げられます。

これらのことを表した経済理論(仮説)としては、岩井克人氏の「不均衡動学」等の著書があります。

閑話休題。

ではもう少しだけ、経済のお話しにお付き合いください。

ドラッカーの有名な経済タームに「選択と集中」があります。

得意(優先順位の高い)分野を明確にして、得意とする(優先順位の高い)分野に経営資源(社会資源)を集中的に投下するという戦略のことです。

これからの日本は確実に人口が減少し、国内消費が低迷する、つまり日本の価値(人やお金)が縮小していく混迷の時代と言うことができそうです。

したがって、ドラッカーの「選択と集中」の理論からすると、自然に価値(人やお金)の拡大が見込めない時代であるからこそ、得意とする(優先順位の高い)分野に社会資源を集中的に投下することが求められるわけです。

つまり、日本が今後も経済的相対的優位に立って生き残っていくためには、あらゆる社会資源を政策的に「選択と集中」してくことが必要になってくるということです。

そして、さらにこれからの日本人と日本経済を元気にするためには、社会資源の「選択と集中」と同時進行に、トリクルダウン(露おろし)の実践が必要になってくると思われます。

トリクルダウンは、大木からしたたり落ちる露が地面の草花を育み、そしてその大木が地面に生えた草花を養分として成長していく大木と草花の相互依存関係で、結果として人(労働者)と商売(経済)をともに元気にさせるものでした。

そして、このトリクルダウンの経済理論(仮説)の要諦は、まずは大木を育て、その大木を基盤として裾野の草花に露がおろされるという先富論になっています。

では、トリクルダウン(露おろし)が先富論=「選択と集中」の帰結であるとしたら、トリクルダウンのためにどのような経済政策が考えられるのでしょうか。

例えば、企業の法人税(特に大企業)の適切な軽減化を図る一方で、個人の所得税や相続税に対する累進性の強化、また個人の社会保障への応能負担の強化、そして国全体の平準化を図る目的から地方交付税等による所得の再分配化機能の強化が挙げられると思われます。

そして、国際的な経済政策としては、「21世紀の資本論」のピケティ教授が提唱されているタックスヘブンをなくす「世界連携累進課税」が想定されることになるのではないでしょうか。

つまり、「選択と集中」の結実を原資とした所得の再分配機能、つまりトリクルダウン(露おろし)の実践が縮小していく国内の消費経済(内需)の低迷を回避させる手段であり、その結果として著しい経済格差の解消された、比較的公平と思えうことができるような日本社会が実現されることになるのかもしれません。

ただ残念なことなのですが、この半世紀の間に、日本人のマインドは、自律する方向から依存する傾向へと変質してしまったようにも思われます。

依存的な未成熟社会にあっては、おそらく資本主義の論理(とその背後にある寛容性)や所得の再分配(とその背後にある自律性)がその機能を十全に果たすことができない惧れがあると思われます。

従って、依存的で未成熟なままの社会では、誰もがフラストレーションを抱えながらも出口が見えない、いわゆる「終わりなき日常」を生きるしかないという筆者のリアリティは、勝手な思い過ごしであれば良いと思うのですが、さていかがでしょうか。

今後の日本政府の経済政策と日本人の経済動向をしっかりと見守って行きたいものです。(苦笑)


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# by kokokara-message | 2019-07-01 21:49 | 我流経済学
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「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」って聴いたことがあるでしょうか。

「Honolulu City Lights」とは、オアフ島在住のケオラ・ビーマーが作詞作曲したハワイアン・トラデショナルの名曲で、クリスマスの季節になると、ハワイのコヒーハウスやショッピングセンターなどでよく耳にします。

スローなテンポでゆったりとしたこの名曲は、日本では杉山清貴がカバーしており、ミニアルバム「Honolulu City Lights」が1997年にリリースされています。

初めてケオラ・ビーマーの「Honolulu City Lights」を聴いたとき、おそらく山側か、あるいは海側から見たホノルルの街の夜景を歌った曲ではないかと勝手に思っていました。

また、クリスチャン・リース・ラッセンの「ワイキキロマンス」という版画を知っている人であれば、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」という言葉の響きから、ワイキキのサンセットの光景を思い浮かべることになったとしても、決して不思議なことではないと思われます。

しかしながら、実際の「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」はラッセンの版画のようにロマンチックではなく、むしろ華やかで賑やかなイベント(催し)といえそうです。

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「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」とは、ハワイ州オアフ島ホノルル市庁舎周辺で12月初めから約1ヶ月点灯されるクリスマスイルミネーションのことです。

点灯式には盛大なパレードも行われ、サンクスギビングデーが終った後のクリスマスまでの1ヶ月間、ホノルルは「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」によって華麗にイルミネーションされることになります。

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そもそも、ハワイに暮らす人のクリスマスは、自宅で家族だけで迎える過ごし方が一般的であるらしく、自宅のクリスマスツリーのそばにそっとプレゼントを置いておくだけの実に質素で厳かな祝祭とされています。

一方、ホノルルの街を歩いていると、多くのコンドミニアムのラナイなどから煌びやかなに飾られたイルミネーションが道行く人たちを楽しませている光景に出くわすことがあります。

そして、ホノルル市庁舎周辺に飾り付けられた「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」もこれら街中のイルミネーションと同じように、ホノルルのクリスマスシーズンを代表する装飾として存在感を発揮しています。

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では、なぜクリスマスの装飾が、自宅では厳粛で質素となる一方、自宅の外部に向けてのイルミネーションは華美なまでに施されることになるのでしょうか。

ハワイ州は、言うまでもなくアメリカ合衆国五十番目の州で、英米系キリスト教(プロテスタント)文化圏に位置しています。

キリスト教が愛の宗教と言われるように、キリスト教では何よりも隣人愛の実践である「無償の贈与」が求められることになります。

その一方で、プロテスタンティズムの倫理によれば、「世俗内禁欲」の質素倹約が徳目とされることになります。(現在のアメリカ人が質素倹約をどの程度徳目と考えているかは定かではありませんが・・・。)

このことから、外面(隣人)への華やかさである「贈与」と内面(世俗内)への質素さである「禁欲」という非対称性な教えが同時に存在することになります。

しかし、これはアメリカ人の人格がふたつに分裂してしまっているからではありません。

プロテスタンティズムでは、「世俗内禁欲」が徳目とされて世俗の諸活動に携わることが禁止されているため、ただひたすら宗教活動としての経済活動(天職と隣人愛)を実践することになります。

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つまり、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やラナイを飾るイルミネーションの持つ意味は、道行く知らない人にも無償で装飾を楽しんでもらおうとする「贈与」の経済活動(隣人愛の実践)ということになります。

したがって、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やラナイを飾るイルミネーションは、キリスト教の教えに基づいた行動ということであり、宗教活動そのものということになります。

このことからすると、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」というイベント(催し)が、ホノルル市庁舎という「公共施設」で行われることに注目する必要があると思われます。

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つまり、アメリカ合衆国という国家は、政教分離の政治と宗教の距離が十分にとれていない、むしろ表裏一体の政教一致の国家ということになりそうです。

アメリカ合衆国という国家は、オバマ大統領の就任以降、WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の伝統が崩れる方向にあるように思われます。

しかしながら、アメリカ合衆国という国家が建国時に初期設定したプロテスタンティズムの倫理と精神は、アメリカ合衆国に危機が生じると必ず回帰されて、おそらくアメリカ合衆国の起源そのものになっていると思われます。

トランプ大統領やアメリカンファーストというトレンドもアメリカ合衆国の危機に対する揺り戻しのひとつかもしれません。

これは、約250年前のアメリカ合衆国の建国の精神が、今でも変わらず生き続けている証ということになるのではないでしょうか。

したがって、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」は、単に無償の贈与という宗教活動のみではなく、アメリカ建国の精神そのものを体現をしているものということになりそうです。

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「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」は、「アメリカン・スピリッツ」でもある無償の贈与(プレゼント)の実践ということでした。

ただ、無償の贈与(プレゼント)という行為は、アメリカ合衆国を代表とするキリスト教文化圏の国家だけで実践されている特殊な習慣ではありません。

日本でも、茶の湯に見られるような「もてなしの心」というホスピタリティが存在し、また日常でも土産や中元、歳暮などのプレゼントを贈る習慣や文化が存在しています。

さらに、無償の贈与(プレゼント)について、文化人類学者のレヴィ=ストロースは人間の類的本質が「贈与」であると指摘しています。

つまり、レヴィ=ストロースの言うところの「贈与」は、まず自分から差し出すこと(無償の贈与)によってしか、自分が欲するものを手に入れることは出来ない、という因果関係に人間の類的本質があるということです。

このことからすると、市場経済の等価交換は、静的で閉じた関係ということになります。(貨幣を介していても、等価交換はそのたびに完結します。)

これに対して、「贈与」は動的で外に開かれた関係(過剰や過小であったりと等価ではありません)ということになり、そのアンバランスがコミュニケーション(交換)を促進させ、経済活動を活発にさせることになります。

「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やラナイを飾るイルミネーションは、宗教活動であってアメリカの精神ということでしたが、文化人類学的の観点からは、人間の類的本質であるコミュニケーション(交換)を促進させるための「贈与」(プレゼント)として一般化(普遍化)できるのかもしれません。

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ところで、あわただしい年の瀬を過ごしている私たちが、夜の街角でクリスマスイルミネーションを眼にしたとき、ほんのつかの間でも気持ちが安らぐという経験をしたことはないでしょうか。

日本は、言うまでもなくクリスマスを祝祭する習慣を持ったキリスト教文化圏の国ではありません。

また、欧米人のような強い自我に基づいた個人主義と、それに起因する頑強な思想や強固な論理を持ち合わせているわけでもありません。

どちらかといえば、柔らかで移ろいやすい感情の上に築かれているのが、日本人の文化ではないでしょうか。

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頑強な思想や強固な論理からではなく、柔らかで移ろいやすい感情の上に安らぎを覚えるのだとしたら、それは日本人が「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やクリスマスイルミネーションを、「和み」や「もてなしの心」という日本人の感覚で咀嚼し、理解し、受け入れているためではないでしょうか。

つまり、宗教活動としての厳粛性や、一般化された「贈与」という思想性ではなく、ことの是非は別にして、クリスマスイルミネーションを日本固有の文化の中で再編集することによって、日本人は「安らぎ」「安らがされる」という感覚を得ているのではないでしょうか。

そして、これはとても大切なことですが、「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」やクリスマスイルミネーションだけに限らず、あらゆる社会的な現象にその意味と価値を与えているのは、一義的には自分自身(個人の自由)になるということです。

つまり、あらゆる社会的な現象には、個人や個人が所属する文化の数だけ、多種で多様な文脈や解釈が存在することになるということになるわけです。

従って、社会的な現象の持つ意味や価値も多種多様ということになり、それらもやがては移ろい変化していく刹那的なものの見方は、おそらく日本人独自の感性に根差した特殊的なものではなく、むしろ誰もが受け入れざるを得ない(それでいていつも見落としている)「万物流転」という普遍的真理ではないかと思われます。

さて、もうすぐクリスマスです。

東西文化と宗教の垣根を越えた「Honolulu City Lights(ホノルル・シティライツ)」や日本の街角で見るクリスマスイルミネーションは、皆様にとってどのような意味と解釈になるのでしょうか。


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# by kokokara-message | 2018-11-11 23:04 | ホノルル・シティ・ライツ

他者と秘密(全編)

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人の能力にそれぞれ差があるということは、必然といえそうです。

従って、人によってできることと、できないことがあることもまた当然のことです。

誰もが、平等にできるということにはならないということです。

これは生まれ持った能力が平等でないということだけではなく、生きている偶然が平等ではないということも含まれています。

つまり、自分の置かれている社会的文脈によって、同じような能力があったとしてもその結果に差異が生じてしまうことはあるということです。

確かに、結果の平等はひとつの美しい仮定(物語)ではありますが、現実問題としては大変難しいことではないでしょうか。

また、どこまでを平等と考えるかについても大変難しい問題で、おそらく最後は事実認定の問題になるといえそうです。

言い方を変えれば、政治の問題かもしれません。

従って、国や地域と言った自分が置かれている共同体によっては、平等(事実認定)が大きく異なってくることになります。

これは、平等を支えるポリテカルコレクト(政治的正しさ)が、国や地域によって、その様々であるからです。

さらに、これに時間軸が加われば、今ある正しさとこれから10年後の正しさが異なってくるのは当然のことです。

社会経済を取り巻く環境が10年前と現在、そして10年後で目まぐるしく変化していることを考えれば、正しさの内容が変遷して行くことも当然のことではないでしょうか。

そもそも人や社会が多様であることと、それらが日々変化していくことは必然です。

このように自分を取り巻く与件が違っていれば、たとえ入力が同じものでも、出力(答え)は違ってきます。

つまり、「あらかじめ決まった答えはない」と言う言葉は、このような事体を指してのことではないでしょうか。

したがって、古代ギリシアの時代であっても、現代社会であっても、おそらく万物流転は誰もが否定することのできない真実です。

そして、万物流転するがゆえに、あらかじめ決まった答えがないということであれば、あれこれ思案したところで、結果がままならないのは必定です。

私は、時々「できることしかできない」という言い回しをすることがあります。

この言葉は、自分の限界をあらかじめ規定した消極的な言葉として聴き取られることがあるようです。

しかしながら、この言葉は、必ずしも決定論的な諦観の言葉ではなく、むしろ未知の自分、未来の自分という時間軸を含んだ曖昧さを示した言葉と考えています。

つまり、既知の自分ではない、今の自分を超えた未知の自分の到来、つまり「他者」の訪れがあることを、確信はないにせよ、期待しする言葉ではないかと思われます。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、自分が知らない自分に合ってみたいという欲望は、最後の最後には偶然の「他者」の訪れに依拠せざる得ない、関係性の不思議に帰結するのかもしれません。

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人は他者との関係性によっては、いくらでも変わる要素を持っているといえます。

初めて会う人であるにもかかわらず、相手のことが分かった、と思った瞬間はないでしょうか。

人は、ある程度、自分の鋳型に相手をはめて理解しようとする傾向があると思われます。

しかしながら、相手のことが分かったと思った瞬間に、相手のイメージが固定化されてしまうのもまた事実です。

他者との関係性では、このようなイメージの積み上げと修正が絶えず繰り返されて、やがて定型化していくのが一般的な経過ではないでしょうか。

しかしながら、自己満足や自己充足から(上から目線で)他者を分かったつもりになっていると、自分の鋳型(イメージ)をそのまま他者に押し付けてしまう(定型化する)ことにもなってしまいます。

そして、このようなイメージの押し付けが問題になるのは、自分が何も相手を分かっていないのに、分かっていないことが視界から消え去ってしまうことです。

つまり、上から目線で自信満々な無知、いわゆる「構造的無知」と呼ばれる状態です。

自己満足や自己充足の状態にあると、内向化し思考停止した状態に陥り、自分に外部があることにさえ気づかなくなってしまうということです。

何事においても「自分は分からない」と留保しておくことが、自分の思考に外部を持たせ、不用意に鋳型にはめることなく、修正する余地を残すのではないでしょうか。

ところで、自己とは一体何なのでしょうか。

カール・ユングによると、自己とは主客の間(関係性)に構築されるものということになるようです。

主体の思考が未確定(留保)の状態にあって、このため客体のイメージも未確定(留保)のままなら、当然その間に構築される自己も未確定(留保)な状態ということになります。

自己が未確定な状態(留保)ということは、いまだ定型化していないということであり、さらに変化し更新されていく可能性があるということになります。

未確定(留保)であることは、決してネガティブな意味だけではありません。

未確定(留保)であるがゆえに、未来への可能性をも含んでいるということにもなります。

このような自己のあり方、つまり自己が変化し、更新されていく状態を「成長」と呼ぶのであれば、おそらく「成長」には際限がないということになります。

そして、オープンマインドとは、他者のイメージを定型化しないことになると思います。

このため、自他の間に構築される「自己」は流動的なものとなり、「自己」の在り様を指し示す「自己実現」もまたあらかじめ決まった答えがないことになります。

このことからすると、「自己実現」とは執着して奪取できるものではなく、むしろオープンマインドであるがゆえに、自ずと導かれる帰結ではないかと思われます。

「牛にひかれて善光寺」という言葉がありますが、自己実現のための道程を現したメタファー(隠喩)といえるのかもしれません。


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また、自分の思考を外部に開放しておくということは、偶然も含めた外部との新たな関係性の到来を「待つ」ことになります。

自己の成長、つまりは自己実現を果たすためには、「待つ」ことはとても重要なステップになると思われます。

但し、偶然の関係性の到来だけを「待つ」だけでは、十分ではありません。

自分が設定した方向に、自己(関係性の構築)を誘導していくことも、また重要ではないでしょうか。

つまり、偶然だけに頼るのではなく、あらかじめ目標に向かって自己コントロールすることが、他者や環境との親和的な関係性をより効率的に構築できるというわけです。

自己は主客の関係性の間に構築されるものであるため、自己コントロールは、自分だけで完結できるものではありません。

そして、偶然の流れに身を任せていれは良いというだけのものでもないということです。

では、自己コントロールとは、何を対象とすれば良いのでしょうか。

「自我(私)」の存在を仮定すれば、「自我」がコントロールができる範囲は、おそらく自分の身体や心のあり方の一部ということになりそうです。

ここでいう「自我」とは、意識化されている「私」程度の意味でお考えください。

そして、自分の身体や心であっても、自分でコントロールができる部分は、ほんの一部でしかないということです。

さらに、外部の他者や環境との関係性は、自分の身体や心のあり方を通してでしか影響を及ぼことができない、間接的な関係ということになります。

したがって、外部の存在である他者や環境を、「自我(私)」が直接コントロールするということはあり得ないことになります。

つまり、「自我(私)」が、自己コントロールできる範囲は、自分の身体や自分の心のあり方の一部であって、外部の理解不能な他者や不可思議な環境は、原則自己コントロール不能と諦めるしかありません。

このため、外部の他者や環境との関係性の構築は、経験則によるのか、偶然に左右されるか、あるいは出たとこ勝負なのか、いずれにせよ決まった答えは用意されていないことになります。

また、「自我(私)」が、他者や環境に対して及ぼす影響の未確定性だけではなく、「自我(私)」が他者や環境から受ける影響も、また同様に計測不可能、あらかじめ決まった答えがないということになります。

自己は主客の関係性に構築されるもので、主客の間の関係性には、今までにも見てきたような未確定性と偶然性が含まれることになります。

自己コントロールの最終的な目的が自己実現であるのなら、自己実現とは偶有性に左右された主客の間のグレーゾーンに位置する暫定的な立ち位置になりそうです。

かように自己実現が遂行的であるとしたら、後になってあれが「自己実現であったのかもしれない」気づいたものが、ほんとうの自己実現の姿であるのかもしれません。


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人の思考のフレームワークは、他者の思考のフレームワークに触れることによって更新されていくものということができます。

また、「自我(私)」は、自己コントロールできない自分の中の他者である無意識に耳をから向けることによって、バランスがとれた自己へと更新されていくことになるい思われます。

ただ、自分の中の他者である無意識からの働きかけが余りも強いと、「自我(私)」が自己コントロール不能状態に陥ってしまい、自分の中の他者である無意識に支配されてしまうことになります。

コンプレックス状態(葛藤)が続き、無意識という他者に「自我(私)」が乗っ取られた状態になると、身体的、精神的に様々な症状が現れることになってしまいます。

なかでも、やっかいな症状のひとつが、自分の秘密がすべて他者に知られてしまっているのではないか、という恐怖を抱くことです。

つまり、無意識という他者に支配されてしまうと、抑圧や反動形成などの症状が出現するだけではなく、自分の秘密が保てなくなってしまう、つまり自分の秘密が他者に漏洩してしているのではないかという不安を抱くことになってしまうということです。

つまり、定義上秘密とは知るべき者だけが知っている情報であり、それ以外の他者が知っているはずのない情報であるからです。

もし、自分の秘密が漏洩していると感じることがあるとすれば、それは本来自分と他者との間に存在している境界が、なくなってしまっていると感じているためではないでしょうか。

つまり、秘密が人に漏洩してしまうことの意味は、自分と他者の区分が曖昧になり、自他の境界がなくなってしまっているのではにかということです。

もともと自分と他者の境界には、排他的な意味においての、自分の身体という唯一無二の物理的な区分が存在しているはずです。

また、自分の意識においても、その意識を発生させる自分の脳の固有性、つまり唯一無二の自他を分ける物理的な区分が存在していることになります。

かような明白な区分があるにもかかわらず、自分と他者の境界が曖昧になっている感覚が発生するということがあるということです。

おそらく、このような自他の感覚の曖昧さが、自他の境界を越えて秘密が漏れてしまっている恐怖につながってくるのではないかと思われます。

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自分と他者の境界が曖昧となってしまっているという感覚は、おそらく「自我(私)」が弱体化し始めていている兆しかもしれません。

つまり、「自我(私)」が自分の中の他者である無意識からの攻撃を受けて、疲弊しきった状態になっているということです。

このように「自我(私)」が弱体化すると、実在する他者に、自分の秘密が漏洩しているという感覚が生じてその恐怖にさらされることになります。

「自我(私)」の弱体化とは、自己コントロールをする「自我(私)」の弱体化ということであり、つまり「私」の希薄化ということになります。

従って、「私」の希薄化は、すなわちアイデンティティ(自己同一性)の脆弱性ということでもあり、その結果自他の区分が不明瞭になっていくということです。

自他の区分が不明瞭になると、聞こえてくる他者の囁きが、自分の中の無意識からのものか、外部に実在する他者のものであるかさえ、分別できなくなってしまいます。

これらの症状(現象)は、自他の区分の曖昧性を自然とする(日本の)文化圏に特徴的な関係性に由来するものであるのかもしれません。

したがって、秘密の漏えいの恐怖とは真逆の他者への共感意識についても、つまり愛情や親密さを安易に感じることができるということ特徴です。

「阿吽の呼吸」と呼ばれる言葉がありますが、これには特段の根拠がないにもかかわらず、同調できていると信じることが自然な文化ということになります。

要するに、他者を同質なものと感じる共感意識と、他者から侵害されていると感じる恐怖は、一見真逆のように見えますが、ともに秘匿している情報が他者に対して開かれているという点では共通の感覚ということができそうです。

つまり、安心安全と感じる共感と危機に瀕していると感じる違和感は隣り合わせの感覚で、コインの表裏の関係にあるといえそうです。

また、自分の無意識が自己コントロールできないことからすると、無意識は外部の他者と同様な存在ということになります。

従って、他者である無意識から攻撃を受けることは、自分の中から湧き出てくるカオス(混沌)との暗闘を繰り返しすことでもあります。

そして、無意識(自分の中の他者)からの攻撃にさらされていると、やがて「自我(私)」の合理的な判断や行動は奪取されてしまいます。

つまり、実際の自分が置かれている文脈では、到底説明がつかないような文脈の世界(幻聴や幻想)に投げ込まれてしまうことになってしまうわけです。

これが、「自我(私)」の自己コントロールを失った状態、無意識からの働きかけである幻聴や幻覚という感覚に支配されてしまった状態ではないでしょうか。

ところで、自分の秘密には、他者と同質な共感感覚の側面と、秘密が漏洩してしまっているという恐怖の側面が隣り合わせで存在するということでした。

また、自分の中の他者である無意識からの攻撃が強くなると、自分自身の自在感を失ってしまうことになるということでした。

自分自身の自在感がなくなった状態とは、自己コントロールが十分できていない状態です。

このような状態に陥ると、自分自身は周りの環境や他者に影響を及ぼす主体ではなくなり、逆に環境や他者から操作される客体になってしまいます。

確かに、自他の同質化によって癒合した関係性の中では、他者から共感や安心感がもたらされるというメリットはあります。

しかしながら、「自我(私)」が弱体化し、他者から操作される客体になってしまうと、もはや他者は共感や安心感を与えてくれる存在ではなく、自分の秘密を聞き出し、自分の言動や行動を操作する存在になってしまいます。

他者とは、もはや自分に安心感を与えてくれると同質な他者ではなく、自分を侵害する異質な他者に変わってしまうということです。

このような状態に陥れば、自分の秘密が他者から覗かれている恐怖感は、ますます高じることになってしまうのではないでしょうか。

日本人は、相対的に見て「自我(私)」は脆弱性、希薄性が特徴であるように思われます。

これは、個人のパーソナリティの問題というよりは、むしろ日本の文化に由来する関係性の問題(プライバシーの感覚)から説明できることではないでしょうか。

このため、自分の秘密の漏洩の恐怖感は、日本人であるなら、誰にでも起こりうる症状(現象)であり、必ずしも病的とまではいえないものかもしれませんね。

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では、自己の内部に異質な他者を持たない状態とはどういうことでしょうか。

自分の中の異質な他者とは、無意識のことであると説明をしてきました。

従って、自分の内部に異質な他者、つまり無意識を持たない状態とは、自分自身がすべて自分自身の意識下におかれている状態ということになります。

このような理想の状態は、実際に起こりえるのではないでしょうか。

つまり、自己の仮説(モデル)によれば、自己全体から「自我(私)=(意識)」を除去したものが無意識ということになります。

従って、すべてが意識化されている状態とは、自己=「自我(私)=(意識)」ということになり、自分のこと、あるいは自他の関係性も含めたすべてが分かっているという、とても傲慢な状態ということになります。

そして、このような状態にあると、自己の内部にもはや異質(差異)な他者は存在せず、すべてが自己同一性(アイデンティティ)の中に回収されることになるため、十全に安全や安心感を満喫することができそうです。

おそらく「自足」とは、このような状態を指すのではないでしょうか。

しかしながら、自足状態の揺らぎのない自信などは現実にはありえず、現実逃避の無根拠な過信から自己同一性(同質性)が図られている幻想的な状態と言えそうです。

そして、このような自足状態に陥ってしまうと、人はいとも簡単に、自己判断、自己判決、自己決定を下してしまうことになってしまいます。

つまり、自己判断、自己判決、自己決定は、未成熟な子供に見られる特徴的な行動様式で、独善性な幼児的万能感(ウルトラマンになったような気分でしょうか)からもたらされる自足状態です。

一見、自己判断、自己判決、自己決定を行っていないように見えるケースもありますが、これは裏を返せば母子密着の支配者に一体化する自己判断、自己判決、自己決定に過ぎません。

従って、自己の内部に他者(無意識)を持たない者とは、自足状態にあって幼児的万能感を持った未熟な者ということになり、その振る舞いは、節度ある自由の枠を超えた、放埓(ほうらつ)にもなってしまうということです。

節度ある自由の枠を超えた放埓(ほうらつ)を可能にするものは、同質(同じ)という感覚やそれを支える相対的多数の側にある安心感や共感と思われます。

そして、同質であることや相対的多数の側で安心や共感を維持するための特徴的な行動様式が、横並びや相互参照になります。

同質であることや相対的多数の側にあれば安心感や共感は湯浴なりますが、外部にある危機感を喪失させてしまうことにもなってしまいます。

このような自他の渾然一体の状態が、癒合(アモルフォス)と呼ばれるものであると思われます。

そして、このような癒合(アモルフォス)状態に入ってしまうと、その中での多数派形成が生き残るための唯一の生存戦略となってしまい、さらなる横並びと相互参照を繰り返して同質性を深化させていくことになります。

しかしながら、癒合(アモルフォス)状態にあることの本質は、依存と束縛の両義的な関係ということになると思われます。

つまり、癒合(アモルフォス)状態とは、主客が明確にならない牽制の緊張状態であって、依存と束縛からさらに内向化せざるを得なくなった癒合(アモルフォス)状態は、細分化されてやがて外部を消滅させてしまうことにもなります。

癒合(アモルフォス)状態はやがて依存と束縛から内向化とし、やがてダブルバインド(板ばさみ)状態から内ゲバを繰り返す再分化状態に置かれることになるのではないでしょうか。

そして、再分化されていく癒合(アモルフォス)状態は、ますます外部を構造的に可視化できない「構造的無知」の状態に陥って行くことになると思われます。

最後になりましたが、他者と秘密、つまり他人との距離やプラーバシー感覚の欠如は外部を持つことに慣れていない、同じ(多数派であること)を自然とする日本人に特徴的な感覚ではないかと思われます。

したがって、日本人の他者と秘密に係る悩みが尽きないのは、個人の人間関係の問題というよりは、むしろ日本人のパーソナリティに刷り込まれた文化に起因する行動様式(エトス)の問題ではないかと勝手に考えているのですが、さていかがでしょうか。

(終わり)

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# by kokokara-message | 2018-02-11 17:37 | 我流心理学